第10話

「にゃ?美奈子ちゃん?」


 購買に通じる廊下の角で美奈子が飛び上がった。

「な、何?」

 振り返った美奈子の声は裏返っている。

「どうしたの?って」

 未亜の目は、美奈子が大事そうに抱える包みを見逃さなかった。

「にゃぁ。村上先輩とお弁当タイムってワケだぁ」

「なっ!?」

 美奈子の顔が一瞬で赤く染まった。

「ち、違うのよ!?」

 美奈子は裏返った声で未亜に言った。

「こ、これはそんなんじゃなくて、えっと、先輩がお腹空いてるんじゃないかなって、それでお弁当、差し入れしてあげようかなって、別に先輩と一緒に食べたいとかそんなんじゃないの!そう!あくまで差し入れよ差し入れ!いい?ヘンな誤解しないでよね!?

 …(中略)…卵焼きは自信があるし、他のオカズもお母さんに手伝ってもらったから大丈夫だけど、別に先輩に食べてもらいたいからとか…(中略)…私、別にそんなんじゃないし、ただ、先輩の役に立ちたいっていうか、…(中略)…ああっ!私、何言っているの?なんでこんな所で未亜にあっちゃうのかしら。誤解されるのはイヤだからはっきり言っておこうと思って、いい?念押しておくけど、これはあくまで先輩の役に立とうという、その一心で……あっ……クラってきた」

「息継ぎ無し、肺活量だけでそこまでまくし立てたら当然じゃん」

 未亜の前で美奈子がへたり込んでいた。

「さすがアナウンサー目指しているだけあって、肺活量もスゴイねぇ」

 美奈子が大切に抱えるのはお弁当箱。

 美奈子にとって世界で一番大切な男の子にあげるためのお弁当。

 美奈子が一生懸命作ったお弁当。

 未亜にとって、世界で一番、おいしい「だろう・かもしれない」お弁当。

 ……中学一年生の作ったお弁当に期待するのもどうだろう。

 そう思った未亜だが、やっぱり心配だ。

「味見したの?」

「お母さんは大丈夫だって」

「そう。じゃ―――村上先輩!」

「ちょっ!?」

 未亜の大声に美奈子は青くなった。

 廊下の向こう、購買から出てきた村上が顔を向ける。

「お昼、一緒に食べよぉよ!」

「ああ。いいよ?」

 その返事に、未亜はポンッと美奈子の背中を押して、

「先輩、後で行くから、美奈子ちゃんと一緒に先に食べてて?屋上なんていいかもよ?」

「ああ。天気いいしね」

「うん……美奈子ちゃんがお弁当用意してくれてるんだ」

「へえ?」

 ガチガチになっている美奈子の手の中にある包みを見た村上が、

「それ、未亜ちゃんの分だよね」

「そっ」

 美奈子が慌てた口調で言いかけた言葉を、

「ううん。違う」

 未亜は言った。

「お弁当作りに挑戦したんだって、だから、先輩、味見お願いね?」

「へぇ?」

 村上は興味津々で言った。

「それは是非、ご相伴に預かりたいね」

「じゃ、そういうことで、私も購買でパン買うって」

 未亜は村上の手にある包みをもぎとった。

「ここにあったか。先輩、ゴチ」

「ははっ……お弁当代として納めておいてよ」

 未亜は笑ってその場を離れた。

 ちらと振り返ると、村上の横をロボットのように歩く美奈子の姿が見えた。

(頑張れ。美奈子ちゃん)

 未亜は心の中で声援を送った。

 

 

「にゃ?」

 その日の放課後。

 戦果を確認すべく美奈子のクラスに立ち寄った未亜は、美奈子の話に唖然となった。

「つまりぃ」

 美奈子の机の上にあるのは、お弁当の包み。

 それを前うなだれる美奈子の目は真っ赤に腫れ上がっている。

「お弁当は完璧だったのに」

「……ぐすっ」

「お箸忘れて、食べられなかったんだぁ」

「ヒック……う、うううっ」

 美奈子の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

「ああっ!泣かないで!」

「だけど……だけどぉ……」

「先輩、怒らなかったでしょう?」

「う、うん……ただ微笑んで、残念だねって」

「さすが先輩。優しいねぇ」

 未亜はバックから割り箸を取り出して、お弁当箱の包みを開けた。

 卵焼きやウィンナー。コロッケのお弁当。

 ちょっと盛りつけが崩れているが、中学生の女の子が初めてつくったお弁当にしては、

 良くできている。

 そういうべきだろうと、未亜は思った。

「もったいないからもらうね?」

「未亜?」

「へへっ。いつでもお裾分け食べられるようにって、割り箸は常備してるんだよ?」

「……あんたに一緒にいてもらえばよかった」

「あっ。そうだねぇ」

「……どうして私、こうツメが甘いんだろ」

 美奈子はそういって机の上に潰れてしまう。

「それが美奈子ちゃんらしい所だよ」

 未亜はお弁当を頬張りながら言った。

「うん。おいしい」

「……ありがと」

「へへっ。これ食べられなかったんだから、先輩の方が災難だ」

「ふふっ」

 美奈子の顔に笑顔が戻る。

 それだけで未亜は満足だ。

「へへっ」

 未亜は食べた。

 お弁当二人分。

 パンとおやつでふくれたお腹が破裂しなかったのが不思議なくらい、未亜は食べた。


 中学一年のある日の出来事。

 遠い過去のこと。


 その過去が今、過去の方から近づいてきている。




 水瀬邸に戻った未亜は、縁側に座って考える。




 先輩がこの街に帰ってきた。

 美奈子ちゃんにとって良い事では決して、ない。

 むしろ美奈子ちゃんには知って欲しくない。

 関わって欲しくすらない。

 でも、


 いずれ知れる。


 未亜は確信を持って言える。


 美奈子ちゃんは、絶対に村上先輩の存在を知る。

 なにより、美奈子に村上先輩の所在を聞かれ、


 知らない。

 何も知らないし、1年前に別れてからは音沙汰もない。


 そう、言い続けられる自信はない。


 ウソはいけない。


 人は言う。


 だけど、未亜は知っている。


 必要なウソもあることを。


 大切な美奈子を護るために必要なウソ。


 でも、このウソを、つき続けられる自信は、未亜にはない。


 このままなら、美奈子の性格からして、間違いなく事件に首を突っ込むだろう。


 いや、もう突っ込んでいる。


 そして、巻き込まれていく―――。


 美奈子は事件という名の川を流れる木の葉のようなもの。


 その先の渦を避けることは出来ないのだ。



 それでも―――



 村上を失った時の美奈子の姿を思い出し、未亜は慄然とした。


 明るく誰とでも親しく接するあの美奈子が、


 痛々しいまでにやつれ、


 成績順位は1ケタ以上落ち、


 推薦枠までとっていた有名進学校の進学を断念せざるを得なくなった。


 あの頃の美奈子を思い出さずにはいられない。


 そう。


 村上が、美奈子の人生を狂わせた。


 そして1年が過ぎ、美奈子はようやくそこから立ち直れた。


 その矢先に、その悲劇が再び襲ってきたのだ。

 

 再び、村上と接触した美奈子がどうなるか。

 考えたくない。

 なら、自分はどうするべきだ?

 どうすればいい?

 このまま放っておけばいいのか?

 それとも、こっちから接触を妨害する手段をとるべきか?

 未亜は自問を繰り返す。


「未亜ちゃん?」

 突然の声に、未亜は驚いて振り返る。

「どうしたの?」

 村上がお盆を持って立っていた。

「う、ううん?何でもない!」

「そう?お茶、もらったからどうぞ?」

「あ、ありがとう」

 どうにも自然になれない自分に苛立ちながら、未亜はお盆から茶碗を受け取った。

 「……それにしても」

 春の陽気を全身に浴びながら、村上がぼやいた。

「とんでもない春休みになっちゃったね」

「本当だよ」

「ごめんなさい」

 未亜の横で弱々しくうなだれる村上の態度が、ウソだと、未亜にはわかる。

 その上っ面な態度が、余計未亜の神経に触れた。

「僕達のせいで」

「にゃあ。いいんだよぉ」

 未亜は手をピラピラさせながら言った。

「先輩達だって、大変なんだから」

「ははっ―――ありがとう」

「……」

 未亜は茶を飲む手を止めて村上を見た。

 その目に憎悪の炎があがっているのを、村上は気づかない。

 村上はただ、庭の景色に視線を向ける。

「本当なら、美奈子ちゃんにも会いたいんだけどね」

「―――美奈子ちゃんは海外旅行中」

「ああ……そうだったんだ」

 腰をあげた村上に未亜が、

「村上先輩、かなめちゃんと一緒にドコ行くの?」

「わからない?」

「へ?」

「内緒―――かな?」

 イタズラっぽく笑う村上。

 かつての親しい先輩の笑顔。

 それが、未亜には辛い。



 考えてみれば、



 未亜はじっと村上の後ろ姿を見つめながら思う。

 全ての元凶は何?

 この人?

 違う。


 この人だけじゃない。


 霧島那由他


 あの子も―――ううん。


 あの子こそが元凶の中の元凶なんだ。


 那由他と村上が出会ったのが全ての始まり。

 二人が恋に落ち、

 人を殺し、


 そして美奈子の前から村上は姿を消した。


 美奈子の人生を狂わせて―――


 それが、全ての始まり。


 ギュッ。


 未亜は自分が湯飲みをきつく握っていることに気づかない。


 どうやって、霧島那由他を……そして、村上をこの町から排除しようか。


 そう、考えている自分に、

 未亜は何も気づいていない。

 未亜の心の奥底で燃え上がる那由他達に対する憎悪の炎に、未亜自身が気づいていない。




 葉月市内にコトハ坂と呼ばれる坂がある。

 かつてこの地に流された貴人が最後に歌を詠んだことから名付けられたとも言われる由緒ある坂。

 なだらかな坂道は広い車道に歩道が整備され、その両脇には瀟洒な家々が軒を連ねる。

 いわゆる高級住宅街。

 そこを歩いているのはかなめと村上だ。

 村上は帽子を目深く被り、サングラスで顔を隠している。

 二人は無言で歩き、そしてある家の前で足を止めた。

「ここか?」

「そうです」

 かなめはその家を見た。

 明治時代を彷彿とさせる年代物の洋館は、煉瓦造りの手の込んだかなり立派な作りだ。

 かなめの給料ではとても手が出せない物件だが、伸び放題に伸びた雑草が、この家に住民がいないことを告げている。

「霧島邸です」

「人手には渡っていないようだな」

「唯一の遺産相続人である那由他が行方不明で、処分できないのでしょう」

「ふむ……」

 かなめは建物を一瞥した後、周囲を見回して言った。

「鍵は、あるのか?」

 村上は無言でポケットから鍵を取り出した。

「よし。入るぞ」


 キィッ


 鉄の門が1年ぶりの客を出迎えるかのように鳴った。



 一方、

「失礼いたしました」

 村上の表札を掲げる家を辞したのは、美奈子と葉子だ。

 近くを通りかかった折、村上の母から呼び止められた美奈子が、お茶を御馳走になっていたのだ。


 当然、村上自身の姿はない。


 無理もないし、当然だと美奈子は思う。


 彼は殺人事件の重要参考人として全国に指名手配されている身だ。

 そう簡単に自分を知る者の前に姿を現すことなんて出来るはずはない。

 それでも。


 美奈子は葉子と手を繋ぎながら思う。

 村上先輩は絶対、この町に戻ってくる。

 でなければおかしい。

 それが、美奈子の判断だ。

 理由はわからない。

 だが、美奈子の頭脳は、美奈子に告げていた。


 いずれ、村上先輩は、この街に戻ってくる。

 そして、そろそろその頃だと。


「お姉ちゃん?」

 そんな美奈子に、葉子が不思議そうな顔で言った。

「どこ行くの?」

「うーん。どうしようかなぁ」

 葉子の散歩と称して外出した美奈子は、とぼけたフリをして歩く。しかし、目的地は決まっているのだ。



「さすがに空気が死んでいるな」

 よどんだ室内の空気に顔をしかめるかなめの前を村上が歩く。

 ジャケットの胸ポケットに隠した拳銃を掴んだままだ。

「で?頼まれたとおり、連れてきたのだが―――君はここに何の用が?」

「霧島さんの書斎を探します」

「何を?」

「人身売買の記録です」

「それは警察が」

「警察が手にしたものが全てでしょうか?」

「?」

「相手が本当に人間かすら、僕はもう、自信がないんです」

「人間では、ない?」

「だってそうでしょう?」

 村上はかなめに振り返って言った。

「何度殺しても復活する人間……そんな存在を、人間が作り上げられると思いますか?」

「つまり、君はその人智を越えた存在が何者か、それを調べにここに忍び込んだというわけか」

「そうです」

 村上は口の端を引きつらせて言った。

「そしてあなたはその監視役―――ここです」

 玄関ホールから廊下を通った突き当たりの部屋。

 そこが霧島の書斎。

 一年前、霧島を殺した現場。

 警察の封印はすでに外されている。

「待て」

 ドアノブに手をかけようとした村上を止めたのはかなめだ。

「私がやろう」

 かなめは、はめたグローブの感触を確かめると、ドアノブを回した。

 カチャ。

 鍵がかかっていない。

「……罠も、ないようだな」

「事件が終わった部屋に罠を仕掛ける人がいますか?」

 呆れ顔の村上がかなめをすり抜けて書斎に入る。

「何があるかわからないぞ?」

「大丈夫ですよ」

 村上は机の引き出しを漁りながら言った。

「もう一年ですよ?」

「だといいが」

 かなめは部屋の中を見回した。

 カーテンが下がっているので薄暗い室内は、アンティーク調の設えがなされ、壁には南国の仮面などのワケのわからない装飾品が飾られている。

「結構、悪趣味な装飾だな」

「ははっ……霧島さんは元々民俗学者でしたからね」

「ほう?」

「大学を定年退職した方でしたよ……黒魔術の研究では大家で、著書は全部読みました」

「それほどの身で、何故、孫を売り飛ばそうなど」

「それを知りたいんですよ」

 引き出しが期待できないと判断した村上は、チェストに目をつけ、近づいていく。

 色の違う大理石で作られた市松模様の床を歩く村上の足音だけが奇妙に高く響く。


 コツコツコツ……カンッ……コツコツコツ


 その音を聞き逃さなかったのは、かなめだ。

「待て」

「はい?」

 かなめは床に手をやって、村上の歩いた場所を数カ所叩く。

 コン

 コン

 カンッ

 一カ所だけ、音が違う。

「ここだ」

「えっ?」

 大理石の表面を撫でると、そこだけ、ほんの少しだけ切れ目のようなものがあった。

「村上君、ナイフか何かないか?」

 村上は机の引き出しからペーパーナイフを探しだし、かなめに渡した。

 ペーパーナイフを突き刺し、かなめは言った。

「注意しろ。何があるか、わからないぞ?」

 かなめのその警告に、村上は緊張した顔で頷く。

 ガリッ

 堅い音の後で大理石の石が少しだけ動いた。

「隠し扉だな」

「よく見つけましたね」

「この程度は常識だ」

 かなめはそう言って、蓋の役目を果たしていた大理石を持ち上げた。

 30センチ四方の穴。

 どうやら、貴重品を隠す保管庫らしい。

 中には証券類が束ねて保管されていた。

「外れか?」

「いえ」

 村上が証券類を取り除いて言った。

 かなめは一瞬、村上を殴りそうになった。

 村上の行動は軽率すぎる。

 もし、証券類に細工でもされていたらどうするつもりだ?

 村上が部下なら間違いなく、かなめは村上を叩きのめしていたろう。

 それをやらないのは、村上がかなめの部下ではないこと。

 それだけだ。

 何より、村上が焦っていることはかなめの目には明らかなことだった。

 かなめは、ここに村上を連れてきたことを後悔しだしていた。

「証券類の下……これです」

 とっさに村上の手を掴んだかなめだが、村上はそれをはねのけるようにして書類を掴んだ。

 むき出しの書類。

 それはかなめの知らない言語で書かれていた。

 言語に達者な村上は、それを読んだだけで興奮気味に叫んだ。

「これ、那由他の正式な人身売買契約書です!」

「何?」

「ほら、ここに契約者の名前が!」

 村上は、そのまま穴から書類を引き出してしまう。


 書類が穴から出た途端、


 プッ


「バカッ!」

 かなめは村上の襟首を掴んでとっさに穴の側から跳び、防御魔法を全開にした。



 時間を少し前後する。


 かなめ達が霧島邸に忍び込んでから少し後のことだ。


 霧島邸は、久々のお客二組目を迎えていた。


「わーっ。オバケ屋敷だぁ」

 興味津々という顔で霧島邸を見つめる葉子と、

「これ」

 それを咎める美奈子だ。

 妹の不謹慎な言葉に、美奈子は言った。

「人様のお家に、そんなこと言っちゃダメ」

「はぁい!」

 と、葉子は元気いっぱいに返事した。

「とはいえ」

 美奈子はため息をつく。

 葉子ではないが、確かにこれはお化け屋敷だ。

 なんだか、他の家とは周囲の空気まで違って見える。

 殺人事件のあった洋館とは、そういうものかもしれないが。


 ここに村上先輩がいる。

 そんな確信を美奈子は持っていない。

 もしかしたら、ここに戻ってくるかもしれない。

 その程度の考えしかもっていない。


 今、村上先輩がどこにいるか?


 それはわからない。


 ただ、私は村上先輩に会いたくないだけ。


 ……会いたくない?


 本当に?


 ……わかんない。


 なら、会ってどうするの?


 村上先輩は、自分ではなく、霧島那由他をとったんだぞ?

 そんな人と会って、どうするというの?

 ……それこそ、わかんない。


 美奈子は、ただぼんやりと古ぼけた洋館を眺める。


 ホラー映画のワンシーンのようだ。


 キィッ

 そんな金属音ですら、怖く感じる。

 村上先輩はここにはいない。

 というか、私がここにいたくない。

 美奈子はそう思って葉子に声をかけた。

「葉子、帰るわよ?」

 返事がない。

 というか、葉子がいない。

「よ、葉子?」

 辺りを見回すと、いつの間に開いたんだろう。屋敷の玄関に入り込む葉子の姿があった。

「ちょっ、よ、葉子ったら!」

 美奈子は、なけなしの勇気を総動員して、屋敷の中へと忍び込んでいった。

「よ、葉子?」

 そっとのぞき込んだのは玄関ホール。

 葉子はそこにいた。

「もうっ」

 その手を掴むと、美奈子は外に葉子を引っ張り出した。

「こらっ!」

 葉子は何故自分が怒られているのかわからないという顔で美奈子を見る。

「だめでしょう?余所様のお家に勝手に入っちゃ!」

「でもぉ」

「いい?」

 美奈子にとって葉子は大切な妹。

 その妹が他人の家に入り込んだことは、決して看過すべきことではない。

 美奈子は葉子の前にしゃがむと、視線を葉子にまっすぐあわせて言った。

「そんなことしたら、ごめんなさいじゃすまないのよ?幼稚園いけなくなって、好きなモノなんて、何も食べられなくなるのよ?」

「いなり寿司も?」

「ずっと、ずぅっと、食べられない」

「ううっ……」

 葉子は、何とか自分がしたことがわかったらしい。

 困った。という顔でうなだれてしまう。

「もうしないって、約束出来る?」

 葉子は無言で頷く。

「よしっ」

 美奈子は嬉しそうに葉子の頭を撫で、立ち上がった。

 

 その瞬間―――


 パッ。

 

 世界が白くなり、そして美奈子は意識を失った。




 その瞬間、

 霧島邸は一瞬にして炎に包まれた。

 書類に仕掛けがしてあって、あの穴から取り出された時点で建物全体が吹き飛ぶ仕掛けだったのは、結果としては明らかだ。

 庭に逃れたかなめの前で、炎に包まれた霧島邸の二階部分が轟音を立てて崩れ落ちる。

「ったく、このバカが!」

 自分の足下で伸びている村上に、かなめは毒づいた。

「あんな所に隠してるんだ!罠位、当然だろうが!」

 周囲を見る。

 霧島邸に隣接する建物はほとんどが半壊している。

 爆風による被害であることは明白。

 死傷者の数は、考えたくない。


 ウーウーウー


 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。


 まずい。

 ここで自分の姿を目撃されるわけにはいかない。

 村上の手に焼けこげた紙片を見つけたかなめは、それを自分のポケットにねじ込むと、村上を背負って逃げにかかり、

「お姉ちゃん!」

 子供の泣き声に足を止められた。

 門の外。

 かなめは一跳躍で庭から門の外へと出た。

 昼間は人通りが少ないことが幸いした。

 ここにいれば、偶然、この場に居合わせたという言い訳が立つ。

 全く、世の中、何が幸いするかわかったものじゃない。

 だが、そんなに甘くないのも世の中だ。

 かなめは呆然として目の前の光景を見つめた。

 爆風で塀はほとんど吹き飛ばされ、様々な残骸が道路に散らばり、道路に駐車している車が横転している。

 その中で何かに取りすがって泣きじゃくるのは、小さな女の子。

 どうやら、連れが爆発に巻き込まれたらしい。

 その連れを、かなめは知っていた。


 1年A組、桜井美奈子。


 小さい女の子は、恐らく桜井の妹だろう。

 教え子が自分達の失態の犠牲になったのか?

 かなめの背中を冷たい汗が走る。


「お姉ちゃん!」

 葉子は小さな手で必死に美奈子を揺り動かしていた。

「起きて!起きてよぉ!」

 ゆさゆさ。

 まるで永遠に眠り続けるかのように、美奈子は揺さぶられるまま。

 まるで反応しない。

「お姉ちゃん!」

 葉子は泣きじゃくりながら美奈子を揺さぶる。

 葉子に出来ることは、それだけだ。

 その葉子の前に立ったのは、かなめだ。

「桜井!」

 かなめは真っ青になって美奈子の脈をとり、

「よし―――生きている」


 サイレンの音がさっきよりかなり近くなっていた。



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