第二章

第20話 えぷろん


 なにかがひどく損なわれたような気分。

 いい一日、いや二日間だったのに、最後にがついてしまった。


「……」


 晩御飯で使っていたお皿をキッチンのシンクで洗いながら、わたしは嫌でも浮かんできてしまう先程の光景を反芻していた。


 時間が遅い、なんてことは姉に言われるまでもなくわかっていた。

 ていうかわざとそうしていた。なんとか話を繋いで引き延ばして、あ、もうこんな時間じゃん、こんな時間に帰るなんて危ないから泊まっていきなよ――っていう会話まで想定していたというのに。


 それなのに、


「……なにが、子供みたいに、だ」


 思い出すだけでいまいましい。見下ろしてくるあの表情。

 あんまりムカついてお皿を割ってしまいそうなので、手を止めて目を閉じて、深呼吸をする。


 吸いこむのに四秒――吐きだすのに八秒――

 それを三セット。


 昔、この家にいた家政婦の七美ななみさんに教えてもらったおまじない。こうすると大抵の怒りは落ち着けることができる。


「……ふう」


 落ち着いたので、最後に残っていたお茶碗とお箸を洗う。

 普段はこんなもの使わないので、わざわざ戸棚の奥から引っ張り出してきたやつ。夜野ちゃんはこれでご飯を食べてたよなあ、と思い出すと、洗うのが何となく勿体無い気がして最後まで残ってしまった。


 なにが勿体無いのかはよくわからない。


「……」


 食器を洗い終えてリビングに戻る。

 背もたれに花の装飾が施された木製の椅子。こんなの趣味が悪くて全然好きになれなかったけど、さっきまで彼女がそこに座っていたと思うと、そんな装飾も悪くないような気もしてくるから不思議だ。

 試しにわたしも座ってみると、微かな温度がそこに残っているような気がした。

 

「……」


 まあ、何はともあれ進展はあったのだ。

 それもわたしが期待していた以上の進展が。それは素直に喜ぶべきだろう。

 食事に誘って、家に来てご飯まで作ってもらう――思わぬ急展開だ。勇気をもって話しかけた甲斐があったというものだろう(ちょっと疑われたりしたけど)。

 目の前の机には、さっきまで彼女がつけていたエプロンが綺麗に畳まれて置かれている。ピンクの花のワンポイントが入った、焦げ茶色のエプロン――わたしはそれを手に取った。試しに顔に近づけて匂いをかいでみると、残念ながら新品同然のリネン生地の香りしかしなかった。


「……」


 これを買ってきたのはいつのことだったかな。

 たしか小学三年生のときだったと思う。

 まだまだ純粋な子供だったわたしは、母の日のプレゼントとしてこのエプロンを買ってきたのだ。

 今思えば、まったく迂闊なことだった。


 エプロンを見た母は顔をしかめて、


 ――笑美子、いいこと?人に贈り物をするときは、相手のことをちゃんと考えなくちゃ。


 なんて言ったものだ。


 ――これはあなたがつけなさい。エプロンが似合う人になりたいなら、あなたがそうなりなさい。生き方を押し付けたりしちゃダメよ。


 母は最後にそう残して、自分の部屋に行ってしまった。


「……」


 そっちは興味のない話をわたしにしてくるくせに――と子供ながらにその背中に向かって思ったのを覚えている。


 それ以来、こんなエプロンはとっとと棄ててやろう、と何度かゴミ箱の前に立ったりしたのだけど、どうしてもそうできなくて。結局引き出しのなかにしまっておいたのだ。


 それがまさか、今になって買ってよかったと思うとはね。



 

 





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