第1章

2008/03/23 17:30


 「親父、なんでアイツなんだ。俺がアイツなんかに劣ってるっていうのか?」


 声を荒らげているのは瀬川智博(34)。

 日本を代表する瀬川グループの社長である瀬川俊蔵(60)の長男である。


 「…これは決定事項だ。変更はない。」


 瀬川俊蔵は息子に対して静かに応答した。


 瀬川俊蔵はこの日、初めて智博家族に次期当主を通達した。

 この場には智博の妻の祐子(29)と長男の悠(4)もいた。


 「俺はアイツより結果を出してる。親父がいくらアイツを贔屓したって、俺の方が優れていることに変わりはないんだ。アイツに劣っているなんてありえない。」


 智博の云う"アイツ"は、次期当主に指名された次男の瀬川義博(32)である。


 「…お前には上に立つ資質がない。それだけだ。」


 「俺より劣った奴が俺より上の立場だと?ふざけているのかっ!ハッ!親父のアイツ贔屓もここまでくると狂気だな。いつもいつも、勉強する俺よりも遊んでばかりのアイツばかりに手をかけて。なにが資質だ!」


 智博の中で、"俊蔵が義博を贔屓しているから当主に選ばれた"ということがただ一つの真実なのである。


 後ろで親子喧嘩を見守る祐子は俊蔵を睨みつけ、悠は冷ややかな目でそれを見ていた。


 それからもしばらく禅問答は続き、夕食の時間になったことで切り上げられた。



同日 20:30


 悠はノックをしてから、俊蔵が悠とのためだけにつくった部屋に立ち入った。


 「失礼します。悠です。」


 年齢不相応な丁寧な対応も身に染み込んでいる。


 「…座れ。」


 俊蔵に言われて、座布団に座った。

 その部屋は畳が敷かれていて、中央にある大きな机以外には本が詰め込まれた棚しかない。


 「智博に私を説得してこいとでも言われたか?」


 俊蔵が悠に問いかけると、隠しても無駄だと諦めたように悠は頷いた。


 「…私が孫のことならばなんでも聞くとでも思っておるのか、全く…。」


 俊蔵が心底呆れたようにため息をついた。


 しかしながら、俊蔵が孫を溺愛していることは周知のことである。

 俊蔵が毎日いるわけでもない悠の部屋を用意していること、その部屋に何人なんぴとの立ち入りを許していないこと、などから、親に隠して悠の我儘をすべて聞き入れて甘やかしている、という噂が流れたのである。


 「悠、お前は次期当主の件をどう思った?」


 俊蔵は悠に問うた。


 「…妥当、だと思います。」


 「理由は?」


 「父は、人の上に立つよりも誰かの下で働く方が生きる人です。対して、叔父はいくらでも人に仕事を任せられる人、こちらの方が上に立つ人間には向いています。」


 到底4歳に問うような質問ではないが、当たり前のように悠は返答した。


 「私も同じ意見だった。だから義博を当主においた。智博はなんでも自分でやってしまう、人に任せられない人間だからな。」


 そして、2人は事実だが全てでもない理由を述べた。


 「…なぜ父にそう言わなかったのですか。」


 悠は不満そうな顔で言った。

 ちゃんと説明すれば喧嘩せずに済んだのに、と顔が語っていた。


 「言っただろう?智博には上に立つ資質がないと。」


 俊蔵は言うが、そういうことじゃないと悠の顔が不満を雄弁に語っていた。


 「…そもそも、懇切丁寧に説明したところで受け入れんし、人に言われて受け入れられるようならとっくに気づいている。」


 悠は大人顔負けの思考能力を有しているが、まだ経験という部分で劣る。

 さらには、大人顔負けの思考能力が理解を妨げることすらあった。


 (他人が理解できないことが理解できないか…。)


 「…話を変えるが、お前はどうだ、悠。当主になりたいか?」


 悠は首を横に振った。


 「ハッハッハ!そうか。」


 俊蔵は愉快に笑った。


 俊蔵は悠もまた当主に向かない人間だと思っていた。



 「んで?本題はなんだ?」


 その言葉に顔を顰めて悠は言った。


 「…パーティーは決行するんですね。」


 「だったらなんだ?」


 「…脅迫状。」


 悠のその言葉に声もなく驚いた。


 「そのことはお前には言ってないはずだが?」


 「叔父が持っていました。」


 悠は当然のようにそういった。

 悠の思考能力は当然ながら、観察力も飛び抜けて高い。


 「アイツは…。で?」


 「特に対策を取らないというのはあり得ないと思います。」


 機密が全く保持できていないことにため息をつきながらも、悠の言葉に耳を傾けた。


 「…嫌な予感でもするというのか?」


 悠は首肯した。


 悠のこういう勘は大体当たる。

 これまでも、そういう場面は幾度と遭遇した。

 悠が助言したという事実を知るものは俊蔵の他にいないが、俊蔵はこの勘を大切にしていた。

 だからこそ、悠専用の部屋にはたくさんの本があり、悠にたくさんの情報を与え、存在が露見しないように立ち入りを禁止した。本棚に絵本も漫画も小説もない。ただ、たくさんのビジネス書と記録書だ。


 「…何か知っているのではないですか?」


 悠の鋭い切り込みに冷や汗が流れた。


 「まさか、な。だが、悠がそう言うなら…。」


 そう言って、一つの棚からある書類を取り出した。


 「とある会社と取引したときにもらった紹介状なんだが…。知る人ぞ知る有能な警護社だそうだ。これを知っては他の警備会社に任せられないと言っていたのを覚えている。特別に、と貰ったものだ。使わないと思っていたのだが。」


 その書類に書かれていたのは『要人警護社』という警備会社の名前と連絡先である。



同日 20:45


 要人警護社内の掃除をしていた伊藤尚之(34)は電話を取った。


 「はい、要人警護社、事務員の伊藤と申します。」


 伊藤はすぐにパソコンのデータフォルダを開いてデータを作成する準備をした。


 「私は瀬川俊蔵という。依頼があって連絡した。」


 「…瀬川さまですね。どのようなご依頼でしょうか。」


 瞬間に瀬川グループの当主だと理解した伊藤は社内データベースから独自の情報を開いた。


------------------------------------------------------

name: 瀬川俊蔵

age: 60

address: xxx県xx市xx...

phone: xxx-xxxx-xxxx

note: 瀬川グループ当主

(中略)

瀬川グループ春のパーティーで次期当主を発表予定。

次期当主には次男の義博が指名される予定。

妻: 瀬川とよ子

長男: 瀬川智博

次男: 瀬川義博

長女: 豊川えみ子

------------------------------------------------------------

 

 家族の名前にはリンクが貼り付けてあり、そこからそれぞれのページに飛ぶことができる仕組みである。

 未だ紙が主流の社会の中、すでにDXが済んでいるため、データの管理が迅速なのである。


 (…相続問題、継承者問題による警護でしょうか。)


 伊藤はそれらを見ながら、依頼にあたりをつけていく。


 「"桜花ホテル"で行われるパーティーの警護だ。招待客も多く、すでに警備員も雇っているが、不足の事態に備えて依頼したい。」


 伊藤はそれらを新しい依頼として電子カルテのようなものに打ち込んだ。


 「承知いたしました。"桜花ホテル"で行われるパーティーの間、瀬川俊蔵さまの身辺を不足の事態に備えて警護する、ということでよろしいでしょうか。」


 「違う。パーティーが滞りなく行われるように警護を頼みたい。」


 伊藤は少しばかり驚いた。

 警護対象が人ではないケースは珍しい。


 「承知いたしました。パーティーがつつがなく行われるように不足の事態に備える、ということでよろしいでしょうか。」


 電話越しに頷く声が聞こえた。


 伊藤はその後、事務的なことを確認していった。


 顔合わせなしとのことだったため、当日に打ち合わせも行うこと、そのために何時に向かえばいいのか、報酬の支払い方、服装などだ。


 「最後になりますが、担当者の名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。」


 伊藤はそう尋ねた。

 そうすると俊蔵はしばらく考え込んでいるのか少し間があってからこう答えた。


 「…担当者は瀬川悠だ。色々あるだろうが、見た目で判断せずくれぐれも丁寧に対応して欲しい。」


 伊藤はすぐに了承の意を述べたが、彼の思考は"瀬川悠"という人物へと移っていた。


 瀬川俊蔵の長男には『瀬川悠』という4歳の息子がいる。

 彼のいう瀬川悠が同姓同名の別人でないとするのであれば、担当者は4歳の子供ということになる。


 (…見た目で判断せず、とはそういうことなのでしょうか。)


 伊藤は表面上は電話対応を終わらせるように会話しつつも、頭の中は彼のことで一杯だった。


 「はい。依頼料の振り込みが確認された時点で正式に依頼をお受けいたします。なるべく接触を断つとのことですので、正式に依頼を受託したことを改めてこちらからご連絡させていただくことはありませんが、確認次第、準備の方を始めさせていただきます。それでは、当日は何卒、よろしくお願いいたします。」


 電話を切ってから、伊藤は瀬川悠のページを眺めた。


 『要人警護社』は世間でいう超能力や異能力、人外の力を扱うものが集う少数精鋭の警備会社である。

 事務員の伊藤は所謂、一般人。彼らのように特別な才能など持っていないが、そういった者たちに近しい稀有な人間である。


 (4歳で大人の思考、ありえないなんてことはあり得ません。しかし、あったこともない見知らずの我々に預けるとは…。)


 『要人警護社』はそのような理由から"異常者"に対してとても柔軟であるが、それらは裏の話で、普段から依頼をしている人たちすら、完全に知っているわけではない。


 伊藤は疑問だった。

 なぜ博打のようなことをしたのか。

 なにをもって自分たちに彼を会わせるのか。

 

 「私が考えても仕方ない。」


 伊藤は切り替えて必要な事務手続きを済ませていった。

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