第34話 探偵①



― 6. 探偵 ―



 調査から2週間後。

 仙台駅からほど近い雑居ビルの2階で、ぽこぽことお湯を沸かす音が聞こえていた。軽く弾ける泡の音は、次第にグツグツとぶつかり合う音へ変わっていく。

 そろそろ火を消そう。

 小さな簡易キッチンが置かれた二畳の給湯室で、男は回していたコーヒーミルのハンドルを止める。ゴツゴツした逞しい指がコンロのつまみを回す。火が消えたことを確認し、温めたお湯を細口のポットに移し終えると、男――斎賀匠真さいがたくまは再びハンドルを回し始めた。


 先日は不気味な清掃員だと言われた、匠真。

 しかし、勿論あれは変装した姿。


 普段は皺のない黒のスーツを着て、鳥の巣のようなくせっ毛をオールバックに固めている。目鼻立ちがはっきりとしたエスニックな顔は、ドキッとするような力強さ――否、威圧感があり、方泉とは別の意味で直視ができない。

 今日もパリッとしたジャケットとベストを纏う匠真は、二人分のコーヒーを慣れた手つきで用意していく。匠真の朝の日課だ。

 ドリッパーにフィルターをセットし、挽いたコーヒー豆を入れ、平らにならす。ポットを傾け、豆を湿らせる程度に湯を注ぐ。ジワッと色が濃くなっていくフィルター。30秒待ち、再びお湯を注いでいけば、焙煎された香ばしい豆の香りがふわりと事務所中に広がっていく。


 毛並みの良いベージュの絨毯。

 壁にかけられた有名な絵画。

 ヴィンテージインテリアで統一されたオフィス家具。


 探偵事務所にしては些かおしゃれな応接間兼執務室で、香りを吸い込んだ方泉の鼻がピクリと動いた。

 ゆったりとしたチェアに腰をかけ、新聞を読む方泉。真剣な表情で文字を追う方泉は、調査の時とは違い、体型にピッタリ合ったネイビーのスーツを着ている。秘密道具の眼鏡も今はかけていない。

 記事を読み終えた方泉は、新聞を折り畳み、木製デスクの隅に置く。

 目の前には、地方紙、全国紙、経済紙、外国紙…と、色んな種類の新聞が並べられている。いつも匠真が用意してくれる物だ。方泉は右端を手に取ると、バサッと揺らしながら開いた。

 大きな見出しに目を向ける方泉の手元に、匠真がコトッとカップを置く。


「本日は10時から浮気調査のご依頼のお客様、13時から素行調査のご依頼のお客様がいらっしゃいます」


 トレイを脇に抱え、背筋を伸ばした匠真がスケジュールを告げる。


「うん、分かった。ありがとう」


 新聞から目線を上げ、方泉がニコッと微笑む。これも、いつものやり取りだ。

 匠真も僅かに微笑むと、ピンポーンと来客のベルが鳴った。

 現在、8時半。

 はて、営業時間前の来客の予定などあっただろうか。全ての予定は頭に入っている筈なのに…うっかり忘れてしまったのだろうか。

 ポーカーフェイスの裏で焦る匠真。その横を、方泉が足早に歩いていく。インターフォンの通話ボタンを押し、ロックを解除する。再度通話ボタンを押して画面を消す方泉に、匠真は硬い表情で話しかけた。


「申し訳ありません、方泉様…来客の予定を把握しておらず…」

「あぁ!ごめん、昨日僕に直接連絡が来たんだ。…依頼と関係ないから、報告するの忘れてた」


 ハッとした方泉は、両手を合わせて謝る。

 その瞬間、匠真の眉間が僅かに寄った。


 “近葉方泉ちかばほずみとはどういう人間ですか?”


 と、もし他人に尋ねたら。

 包み込むような微笑みがトレードマークの、親しみやすい人物だと答える人が大半だろう。

 

 しかし、実際の方泉は違う。

 寄り添ってくれるような優しさを持つ反面、他人との間に分厚い透明の壁を作るのだ。

 一見簡単に近づけそうなのに、いつまで経っても近づけない。無理矢理手を伸ばそうものなら、スッと躱されてしまう。


 「僕は相手の気持ちを考えすぎちゃうから、気を遣いすぎて疲れたり、物事を客観視できなくなるのを防ぐ為に、他人と深く関わらないようにしているんだ」


 と、以前方泉は言っていた。

 それだけが壁を作る原因ではないと思うが、現に方泉のスマートフォンに登録されている連絡先の数は一桁だし、すべて仕事の関係者だ。


 仲良くなれたと思っても、プライベートには一切踏み込ませない。

 そんな方泉が、依頼とは関係ない人を仕事場に招き入れるなんて。

 

 ありえない。

 自分が知らない間に一体誰と、何が…と、考えこむ匠真を、方泉は不思議そうに見つめる。

 ピンポーンと呼び鈴が鳴り、方泉はパタパタとドアに向かっていく。走って揺れる髪先を視線で追いながら、匠真はゴクリと唾を呑んだ。

 ドアの向こうに、誰がいるのだろう。

 平常心の維持には自信があるのに。久々に激しく脈打つ鼓動のせいで、心臓が痛い。

 ガチャリとドアを開けた方泉は


「おはようございます」


 と言って微笑む。その柔らかな笑みを受けた相手も、


「おはようございます。昨日は急に連絡してしまい、すみませんでした」


 と言って、ニコッと微笑んだ。

 方泉に導かれて入ってきたのは、顔が隠れるほど大きな花束を抱えた男性。

 真っ白なカジュアルシャツにベージュのパンツ、紺のエプロンとボディバッグを身に着けて、よろけないよう気を付けながら、方泉の後ろを歩いている。

 「ビシッとしたスーツ姿、かっこいいですね」と言う男性に、方泉は恥ずかしそうに謙遜する。二人の会話に耳を澄ませていた匠真は、「ん?」と顔を顰めた。


 …この声、聞いた事がある。

 春のように暖かくて、穏やかな声。


 どこで聞いたのだろう。ついこの間聞いた気が…と思い出そうとする匠真の前に、二人がやってくる。男性はガサッと花束を抱えなおす。と同時に露わになった顔を見て、匠真は目を見張った。


「……瀬波様」

「お久しぶりです、匠真さん」


 驚いている匠真に気付き、瀬波がベビーフェイスを幼く崩す。


「方泉さん、お渡ししても良いですか?」

「はい、大丈夫です!」


 腕を広げる方泉に、ずっしりと重みのある花束を優しく渡す。


「これ、本当に瀬浪さんが一人で束ねたんですか?」

「はい。沢山練習して、やっと両親から一人で任せてもらえるようになりました。…方泉さんに練習の成果を見てもらいたかったんですが…どうでしょう?」


 緊張した面持ちの瀬波が、方泉の表情を窺い見る。

 白いバラやラナンキュラス、黄色いカーネーションにオレンジのガーベラ等、大きくて可愛らしく主張する花に混ざって、かすみ草や青々と伸びた葉っぱ、面白く波打つ茎たちが束となり、方泉の腕に抱かれている。

 スン…と花の香りを嗅いだ方泉は、嬉しそうに目を細める。


「見てると元気になる、とっても素敵な花束です!…本当にいただいてしまって良いんですか?」

「はい!ぜひ飾ってください」

「やった~。ありがとうございます!早速飾ってきますね」


 声を弾ませた方泉は軽い足取りで給湯室へ向かう。その後ろ姿を、瀬波も嬉しそうに見送る。

 親し気な雰囲気の二人に戸惑いながら、匠真は口を開いた。


「…瀬波様…学校はどうされたのですか?今は、勤務時間ではないのですか…?」


 何故方泉と親しいのかも気になるが。今日は火曜日。とっくに学校に居なければならない時間なのに、何故ここに居るのだろう。しかも、花束まで持って。

 動揺を隠しつつ尋ねる匠真に、瀬波は「ああ!」と手を叩く。


「僕、学校辞めたんです」

「!?」


 そうあっけらかんと話す瀬波に、滅多に動かない匠真の表情筋がギョッと動く。丸くなり慣れていない目が、瞬きを忘れ見開かれている。

 調査に行ってから、まだ2週間しか経っていない。

 なのに、どうして?そもそも、そんなに急に辞められるのか?

 まん丸の瞳で凝視する匠真。瀬波はニコリと笑うと、自分の胸元に手を当て話し出した。


「僕は元々、産休に入る先生の代わりに採用されたんです。その先生が先日休暇を終えて復帰されたので、僕は任用期間が終了になりまして…他の学校の採用試験を受けることも考えたのですが、ずっとやりたかった実家の花屋を継ぐことにしたんです」

「あの調査の日、保健室で色んな人達が自分の気持ちをさらけ出して泣いてたでしょう?その姿を見て、自分の心に正直に生きようと思ったんだってっ」

「…そうでしたか」


 大きな花瓶を大切そうに運びながら、ふふふ、と笑う方泉に頷く。同時に、二人が何度か連絡を取り合っていることを悟り、心の中にもやが広がる。

 調査で知り合った人と仲良くなるなんて、今まで一度もなかったのに。

 何か心境の変化でもあったのだろうか。

 黙ったまま考え込む匠真。その凛とした立ち姿を見て、瀬波は首を傾げる。


「学校でお会いした時も思いましたけど…匠真さんって、方泉さんと一緒に居る時はピン!と背を伸ばして立っていらっしゃいますよね。上司と部下というよりは、お仕えしてる感じというか…もしかして、方泉さんの執事ですか?」


 なんて、漫画みたいなことある訳ないか。と思いつつも、瀬波はジッと匠真を見つめる。

 押しても全くブレそうにない、真っすぐな姿勢。無駄のない動き。そして、方泉にのみ従順なところ。

 品のある事務所の雰囲気も相まって、まるで貴族に仕える執事のようだと瀬波は思う。

 あ、あのキャラクターに似てるかも…と目を光らせる瀬波の何気ない言葉に、匠真の目もキラリと輝く。


「はい、私は方泉様の…」

「そんな事あるわけないじゃないですか!匠真は助手です」


 興奮気味に喋る匠真を遮って、方泉がケロッとした顔で否定する。

 うぐっ!と口を噤んだ匠真に目もくれず、方泉は瀬波をソファーへ促す。


「今コーヒーを入れるから待っていてくださいね」


 そう言って再び給湯室へ向かう方泉。その後ろを、悶々とした表情の匠真が追いかける。

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