第26話 犯人《前》⑪



 ずるっと鼻を啜る木戸の背が、萎れた花のように丸まっていく。


「…教頭先生、もしかして康さんからお金を騙し取ったのは、このお店に行く為…なんて事はないですよね?」


 松井が躊躇いがちに声をかける。数秒黙り込んだ木戸は、はぁと大きく溜め息を吐くと静かに口を開いた。


「その通りだよ…お店に行くお金が無くなってきて困ってた時に、あいつが学校の周りをうろついてるのを思い出して…あの間抜けそうな顔なら、簡単に騙せそうだなって思ったから、声をかけたんだ…」


 覇気のない声で呟く木戸。その言葉に、凜々花の頬がピクリと動いた。


「は…?何ですか、それ…」


 呆然と話を聞く瀬波を押しのけて、凜々花は大股で木戸に迫る。


「そんな理由で康はお金を取られて…っ、そんな理由でっ…!私達はこんなに苦しんだんですか!?」


 床を見つめる木戸を見下ろすように、凜々花が声を絞り出して叫ぶ。爪先から頭の先までを駆け巡る怒りが、「辛い」と言いながら心臓や喉の奥を切り刻んでいく。

 信じられない。

 この件が起きてから、どれだけ悩んで悩んで悩みぬいて、眠れぬ夜を過ごしたことか。退学覚悟で腹を括った自分は何だったのか。自分を救いたいと思ってくれた、康の身を切るような優しさと覚悟は何だったのか。

 拳を握っても握っても、握りつぶせない。溢れ出る悲しみがべたりと心に張り付いて、どんどん憎しみを生み出していく。

 

「…本当に…申し訳なかった…。もらったお金は返す。…責任を取って、退職も…する」


 がくりと木戸が項垂れる。名残惜しさを醸し出す後頭部を見た瞬間、凜々花の中で何かがブチッと音を立てた。


「てんめぇえええ!」

「!?う、うわぁああ!」


 落ちた両肩を鷲掴みにし、強引に持ち上げる。無理矢理立たせられた木戸は、目を白黒させながらよろける。凜々花に押されるまま壁に激突し、ドン!と背中を打った木戸は、自分を睨み付ける鋭い瞳に、「ヒッ!」と声を上げた。


「テメェのクソみてぇな私利私欲の為に人を騙すたぁ良い根性しとんのぉ、コルアァ!」

「だっ…だだっ、だってみゆきママだけなんだもん…っ!『辛かったね。頑張ったね』って慰めてくれるの、みゆきママだけなん…」

「そんなもん知るかこのクソカスがぁ!」

「ひぃいい!すっ、すみませんっ!」


 グッと襟を締めあげて鼻先を寄せる凜々花に、木戸は震えながら顔を背ける。

 怯えるその姿が余計癇に障る。自分のケツもちゃんと拭けないような奴に、自分達は翻弄されていたのか。

 腹が立つ。人を弄んだこいつも。疑う事もせずに弄ばれた自分達も。腹が立って仕方がない。

 指の骨をボキボキと鳴らし始めた凜々花に、周りがやばいと焦り出す。


「さっ、笹野さん…手を出すのはダメだよ」


 瀬波が宥めるようにそっと声をかけるが、怒りに満ちた凜々花の耳には届かない。


「…テメェはぜってぇ許さねぇ」


 そうドスの利いた声で言うと、左手でグッと木戸の胸元を押さえつける。そして右手を握りなおすと、凜々花は木戸めがけて拳を振り上げた。


「ダメよ!笹野さん!」


 凜々花はさっき、木戸を投げ飛ばしている。ここでまた暴力を振るってしまったら、流石にそれなりの処分をしなければならなくなってしまう。慌てた松井が止めようとするが、間に合わない。

 あと少しで木戸の頬に拳が触れる。

 その勢いを止めたのは、凜々花に抱き着いたゆめだった。


「ダメだよ組長!組長が一生懸命鍛えてきた力は、こんな最低な奴に使っちゃいけないんだよ!」


 ドン!と横から突進し、凜々花の体を木戸から引き剥がす。驚いた凜々花は、もたつく足で踏ん張りながら、ゆめを抱き留めた。


「ゆめ…」


 涙目で必死にくっついているゆめ。もう話すことさえないかもしれないと思っていたゆめが、必死に自分の暴走を止めている。

 完全に動きを止めて目を丸くする凜々花。衝突を避けられたことにホッとし、大人達は一斉にはぁ、と大きく溜め息を吐いた。

 

「うっ…うぅっ…」


 涙も鼻水も垂れ流す木戸が、壁伝いにずるずると座り込む。

 「律子ぉ…律子ぉ…」と壊れたラジオのように繰り返す木戸を、方泉はジッと見つめる。

 大切な人が居なくなり、虚無感に満ちた男の姿。憐れだな、と思った。そして、まるで高校時代の自分を見ているようだ、とも思った。


「方泉様、警察の方が来たようです」

「!」


 バタバタと廊下から慌ただしい音が聞こえる。「こっちです!」と急かす警備員の声と、若い女性らしき人が頷く声。二人分の足音が部屋の前で止まると、スパーン!と勢い良く扉が開いた。


「こらぁーっ!学校に侵入した不審者がいるのはここかぁ~っ!?」


 そう叫んだ女性警官は、ぷん!と真っ白な頬を膨らませる。

 ズレた活動帽を正面に直し、警棒を片手に仁王立ちする。一生懸命おかっぱを左右に揺らし、大きな瞳でキョロキョロと室内を見渡す姿を見た瞬間、田原はハッと両手で口を塞いだ。


「かっ、かわい~…座敷童みたぁい…」


 若くて全く威厳がなく頼りなさそうなのに、使命感に燃えるその姿。愛らしい顔立ちも相まって、田原の庇護欲をキュンキュン刺激する。


「あっ、校長先生!生徒から保健室に不審者が向かっていったと聞いたのですが…」


 続けて現れた警備員が、松井に気付き声をかける。


「えっ。あっ、あぁ…警備員さん、ごめんなさい…実は不審者じゃなくて、生徒のご家族の方だったの」


 「今、ちょっと訳があって寝てるけど…」と、グーグー気持ち良さそうに寝ている康を掌で示す。


「そうだったんですか!…じゃあ、事件性はないって事ですか…?」

「えぇ、そうね…折角警察の方まで呼んでくださったのに、申し訳ありません」


 木戸の件は大問題だが、どうするかは凜々花と康がしっかり話し合ってから決めるべきだ。

 深く頭を下げる松井に、女性警察官はピッと背を伸ばす。


「いえ!問題がないなら何よりです!それでは失礼…って、あれっ、方泉さんと匠真さん?」


 笑顔で皆を見渡した警官が、壁際に居る二人を見て目を丸くする。


綾音あやねさん、こんにちは」

「…ご無沙汰しております」

「こんにちは!…お二人が居るという事は、お仕事ですか?」


 ニコッと明るい笑みを浮かべる警官――綾音に、田原はぱちっと目を瞬かせる。


「お仕事?…何か変だなとは思ってたけど…もしかして千葉君、大学生じゃないの?清掃員さんも、教頭先生の机勝手に漁ってたみたいだし…」


 「何者なの?」とドキドキしながら尋ねる田原。皆の視線がパッと方泉に集まった。

 方泉は居心地悪そうに微笑むと


「…僕達は、探偵です。今回調査を依頼されてこの学校にやってきました」


 と言って、小さく頭を下げた。


「探偵~っ!?すごぉーい!」

「へぇ!漫画みたいだなぁ」

「探偵だって!すごいね、組長!」

「うん、びっくりした」


 各々が興奮して騒ぐ中、目を見開いた尾沢が放心状態で立ち尽くす。


「……千葉君が、探偵…」


 繰り返すように呟いた声が、寂しそうにぽとりと落ちる。

 千葉君が探偵。という事は、大学生じゃない?授業を見学しに来たわけじゃない…?

 じゃあ、学校のパンフレットを見て、自分の言葉に感銘を受けたと言ってくれた千葉君は?尊敬の眼差しで自分の話を聞いてくれていた千葉君は?職員室で落ち込む自分を励ましてくれた千葉君は?全部、演技だったのか?

 全部…全部。

 嬉しい言葉も優しい態度も。

 嘘だったのか――そう気付いた瞬間、尾沢の視界がゆらっと滲みだした。


「そっか…そりゃそうか…」


 やる気と情熱は人一倍あるけれど、空回りすることが多い自分だ。そんな自分を尊敬してくれる人なんて、いる訳がない。

 当たり前のことだろ。と言い聞かせるも、とてつもない虚無感が心を抉り、ぽっかりと大きな穴を開ける。

 だって、初めてだったから。

 方泉が言ってくれた言葉も。誰かにキラキラした瞳を向けられるのも、初めてだったから。嬉しくて嬉しくて嬉しくて。期待に応えてあげなきゃ!ってワクワクして、めちゃくちゃメラメラした。


「尾沢先生…」


 一つ、また一つと涙を溢していく尾沢に気付き、眉を下げた方泉が近付く。心配そうな瞳と目が合い、慌てた尾沢は後ろを向き、泣き顔を隠した。小刻みに揺れる大きな背中を見て、綾音がこっそり方泉に話しかける。


「えっと…この方もあっちに座ってる方もめちゃくちゃ泣いてますけど…大丈夫ですか?」


 狼狽えながら指す人差し指の先には、ただ涙を垂れ流し、廃人のように座り込んでいる木戸がいる。

 「もしかして、ヤバい事件ですか?」と恐る恐る尋ねる綾音に、方泉は首を振る。


「いえ、警察の方に手伝っていただくような事件では…。…伊出警部と富田警部補によろしくお伝えください」

「…そうですか…分かりました!」


 ふわりと微笑んだ方泉に、綾音は深く追求せずニコッと笑う。


「では、失礼しますね!」


 そう言って姿勢良く敬礼すると、仏頂面の匠真にもペコッと頭を下げ、警備員と共に部屋を後にした。

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