第9話 2年B組⑤


 パッと清掃員へ目を向ける生徒達。その瞬間、緩んでいた皆の顔に緊張感が走った。

 こちらを見て、ぬぼっと立つ長身の男。男は薄汚れた作業着を身に纏い、鳥の巣のようなボサボサ頭をしている。無造作に伸びた前髪と、顔の半分を覆うマスク。その隙間からギョロッと動く目はホラー映画に出てきそうな程不気味だ。

 こんな怖い清掃員の人居たっけ…と、凝視するゆめに、男はじろりと視線を向ける。


「!!」


 バチッと目が合ったゆめは、恐怖で大きく肩を揺らす。目を逸らしたくても逸らせない、攻撃的なギラついた瞳が、ゆめの体を硬直させる。

 えっ、何でずっとこっちを見てるんだろう。うるさすぎたのかな…。

 ゴクリと唾を呑んだゆめは、ドギマギしながらも口を開く。


「う、うるさくしてすみませんでした…」


 とりあえず謝ろう。このまま見つめ合うのは怖すぎる。

 恐る恐る頭を下げるゆめを、男は瞬きもせずにじっと見つめる。そして、何やらブツブツと呟くと、目線を落とし、再び掃除をし始めた。

 異様な緊張から解放された生徒達は、大きく息を吐きながら、ホッと胸を撫で下ろす。


「…今の人怖かったね」

「うるさいからってさぁ、あんな目で見る?」

「なんか言ってなかった?」

「ね!『静かにしろ』とかかなぁ…」


 ひそひそと小声で囁きながら、足早に生物室へ入る生徒達。その後ろで、方泉は男の背中を見つめていた。

 一つの塵も逃さないよう丁寧に箒を動かす姿は、明るい日差しとは真反対の不気味さがある。


「千葉先生~、一緒に座りませんかぁ?」


 立ち止まっていた方泉の袖が、愛美の細長い指でツンツンと引っ張られる。

 返事を待たず半ば強引に誘導された方泉は、入り口を潜ると教室を見渡した。

 窓を覆う暗幕。棚に並んだ実験器具。簡易洗い場。上下に動く黒板。前後に3つずつ設置された、六人掛けの大きなテーブル。

 こんな部屋に入るなんていつぶりだろう。懐かしすぎて、遥か昔のように思える。


「あーっ、愛美、勝手に千葉先生と座ろうとしてるでしょ!」

「わ、バレちゃったぁ」


 こっそり自分のテーブルへ連れて行こうとしていた愛美に気付き、杏子が目を丸くして指を差す。


「えー、ずるーい!」

「うちのグループだって一緒に座りたい!」

「うちらも~!」


 杏子の告発を耳にした生徒達は、火が付いたように文句を言い始める。牙をむき出しにしてじりじりと詰め寄る友人達に、愛美は「やばっ」と呟く。


「あぁ~…じゃあさ、じゃんけんで決めよ!ね!」


 身の危険を感じて慌てて提案すると、ぴりついた空気がシーンと静まり、お祭り騒ぎのような歓声が上がる。


「良かったね。みんなに殺されなくて」

「ほんとだよ~。みんなの目がガチすぎて怖かったよぉ」


 笑う沙羅に頷きながら、ふぅ…と気の抜けた息を吐く。

 教室の後ろの狭い空間に、あっという間に生徒達が群がっていく。そしてその中心に、各テーブルの代表者達がさらに小さな円を作った。


「ええか?勝っても負けても恨みっこなしやで」

「ええで」

「勿論やで」


 真剣な空気が漂う中、首を回したり、両手をプラプラさせたり、両手をクロスさせて捻り、掌の間にできた隙間を覗きこんだりと、各々が集中力を高めていく。


「よし、いくよ」


 みんなの気合が最高潮に高まり、「最初はグー!!」と拳が振り下ろされた時。教室のドアが音を立てて開いた。


「おっ、みんなでジャンケンしてるの?」


 「仲良しだね~」と言いながら入ってきたのは、生物教師であり2年A組担任の瀬波勇士せなみゆうしだ。


「先生、おはよ~!」

「おはよう」

「今、千葉先生がどこの席に座るかジャンケンで決めてるんです~!」

「そっか。じゃあ絶対に勝たないといけないね」


 「頑張ってね」と声をかけると、生徒達は「は~い!」と可愛らしく返事をする。

 すかさず真剣な表情に戻った彼女達を、ふふふと笑いながら見守る瀬波。その品の良い笑みを見て、成る程、確かにみんなが騒ぐ訳だと、方泉は納得する。横に流した長めの前髪とぱっちりとした瞳が際立つベビーフェイス。白衣を纏っていても分かるスタイルの良さと静かな佇まいからは、洗練された雰囲気が醸し出されている。


「瀬波先生」


 授業の準備を進める瀬波の元へ、方泉は駆け足で寄っていく。そして姿勢良く止まると、深々と頭を下げた。


「急に見学をお願いする事になってしまい、すみません。今日はよろしくお願いします」


 ふわりとパーマを揺らし、顔を上げる。目が合った瀬波は、柔和な笑みを浮かべると小さく頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくね。僕の授業が為になるかはわからないけど」


 頬を掻きながら恥ずかしそうに目線を落とす瀬波。方泉は両手を広げると、ぶんぶんと頭を振った。


「見学させていただくだけで、とっても有り難いです!それに、B組の子達が先生の授業は分かりやすいと言っていました。しっかり授業を見学して、学ばせていただきます」

「えっ!B組の子、そんな事言ってたの?プレッシャーを感じるなぁ」


 きょとんとした大きな瞳が、照れ笑いに合わせ細くなる。方泉も瀬波に合わせて微笑むと、背後から「瀬波先生」と弾んだ声がやってくる。


「先生、昨日発売された“松極”の最新話読んだ?」


 そう言って目をキラキラと輝かせる人物に、方泉はほんの少し眉を動かす。満面の笑みでやってきた少女。それは、さっきまでクールに友達をあしらっていた凜々花だ。


「うん、見たよ。今月も松野さんかっこよかったね~」

「ビシッと決まってたよね!街のチンピラを全員ノして、満身創痍の中のあのセリフ…」

「“俺を誰やと思っとるんや…浜ヶ崎組の最強ベビーシッターやぞ~!”だよね」

「!」


 凜々花が発するよりも早く口を開いた方泉に、二人は驚いて目を見開く。


「千葉先生、“松極”知ってるの!?」


 嬉しそうに声を上げた凜々花が、好奇心いっぱいの瞳を方泉に向ける。方泉はニコッと笑うと、「僕も好きなんです」と言って眼鏡のブリッジを押し上げる。


「“松野さん、極道ベビーシッターになる”だよね。青年誌だからかなぁ…読んでる人少ないのが勿体ないくらい、面白いよね」


 ひょんなことから、国内屈指のヤクザ“浜ヶ崎組”の、組長の子供のベビーシッターになってしまった一般人松野が、次々と巻き起こるトラブルに困惑しつつも、組の為に戦い、大切な物を見つけていくハートフルコメディ。それが“松極”。


「うんうん。みんな“極道漫画”っていうだけで読むの躊躇うけど、ギャグも感動するところも沢山あるから、最高なんだよね!」


 腕を組み、“松極”の名シーンをひたすら語り続ける凜々花は、先程「塩対応」と呼ばれていた人物とは思えない程、生き生きとした表情をしている。


「…驚いたな。僕の周りであの漫画を読んでる人、笹野さんしかいないのに…。もしかして千葉君、漫画好き?」


 手で口元を隠し、ちらりと千葉を伺い見る瀬波。その目は凜々花同様“興味津々”と書かれている。ニコッと笑みを深くした方泉は、「はい」と大きく頷いた。


「青年誌も少年誌も、少女漫画も…面白い物はどんなジャンルでも読みます」

「うわーっ。あーっ、そっかぁ…何でも読むんだねぇ」


 嬉しそうに、だけどもどかしそうに体を揺らす瀬波に、凜々花は悪戯っ子のような笑みを浮かべる。


「先生残念だったね、千葉先生が今日しか居なくて」


 「瀬波先生、超漫画オタクだもんね」と言うと、瀬波は恥ずかしそうに頭を掻く。


「…そうだね。漫画が好きな人は沢山いるけど、ジャンル問わず読む人はあんまり居ないから…。うん、残念だなぁ…」

「ねぇねぇ、何の話してるの~?」


 相槌を打つ凜々花の背中に、じゃんけん大会に飽きたゆめがずっしりとのしかかる。

 数分前に凜々花と揉めた事はすっかり忘れたらしい。重そうに眉を寄せる凜々花を気にせず、ゆめは天真爛漫な瞳で大人達を見つめる。


「昨日発売された漫画の話だよ」

「漫画?…あ~っ、もしかして“松極”ですか?ゆめ、“松極”は苦手なんだよなぁ」


 「暴力反対」と口をへの字にするゆめに、凜々花はムッと顔を顰める。


「“松極”はただの暴力じゃなくて、正義の鉄槌みたいな感じなの!ね、瀬波先生?」


 顰め面のまま同意を求めると、瀬波は笑いながら頷く。


「“どんなに小さな悪でも、悪は絶対に許さない”っていう信念と強さがあるよね。“松極”を読んでると、自分も怯まずに色んな事に立ち向かわなきゃいけないなって思わされるよ」


 漫画の一コマを思い出したのか、噛み締めるように唸る瀬波。しかし、「ん?」と首を傾げると、じっとゆめを見つめる。


「そう言えば先月、“松極”のイベントに二人で行ったって言ってなかったっけ?工藤さんも好きだから行ったんじゃないの?」


 いつだっただろう。「昨日、組長とイベントに行ったの~!」と、ゆめが嬉しそうにはしゃいでいたのは。あれ以来、ゆめの口から“松極”の言葉を聞かなかったので、凜々花程熱狂的なファンではないのだろうなと思っていたけれど。

 好きじゃないなら何でイベントに?と尋ねる瀬波に、ゆめはツインテールを左右に揺らす。


「あっ、あれはたまたまなの!ゆめは全然好きじゃないけど、組長が行きたいって言うからついて行ってあげたんです!」

「…ゆめが勝手についてきたの間違いでしょ」


 誇らしげに胸を張るゆめに、凜々花はふいっとそっぽを向く。棘のある声がチクリと刺さり、にこやかだったゆめの唇はツンと尖った。


「なんでそんな嫌そうに言うのっ?休みの日に偶然会うなんて運命じゃん!そりゃ一緒に遊ぼうってなるじゃん!」

「ゆめが来てもつまらないイベントに行くから、また今度遊ぼうって言ったのに、『それでも良い』って言ってついてきたのゆめじゃん!」


 「私から誘ってない!」ときっぱり言うと、人懐っこい瞳が悲しみの色に染まっていく。不穏な空気に慌てた瀬波が仲を取り持とうとするが、眉をハの字にしたゆめは、半泣きで凜々花の肩を叩き始める。


「そうだけどさ…そうだけどさ!そんな冷たい言い方しなくてもいいじゃん!組長塩対応すぎる!めんごくない!」

「別にめんごくなくていい!」

「あ~、二人とも喧嘩しないの!」


 二人の顔を交互に見ながら、困ったように慰める瀬波。完全に背を向けてしまった二人にどうしたものかと悩んでいると、「やった――!!」という歓声が教室に響いた。


「千葉先生はうちのテーブルだ~!」


 イェーイ!とハイタッチする数人と、その周りで項垂れる生徒達。まだじゃんけんをやっていたのか…と思い、瀬波はハッとする。慌てて壁にかかった時計を見る。二限目が始まる時刻は9時55分。しかし今の時刻は10時4分だ。


「ごめん!もうチャイム鳴ってたんだね。気付かなかった!」


 凜々花とゆめの肩をぽんと叩き、みんなにも席に座るよう促す。スタスタと歩いていく凜々花と入れ替わるようにやってきたのは、上機嫌でスキップをする愛美。


「あれぇ?なんか組長怒ってる?…って、え?ゆめ、泣いてるの?」


 凜々花が険しい顔をしている…と思えば、ゆめは下唇を噛み締めたまま床を睨み付けている。


「どうした~?組長と何かあった?」


 俯く頭をよしよしと撫でると、水膜で揺れる瞳がくしゃりと歪む。


「あれ、ゆめどうしたの?組長にフラれちゃった?」

「え、また?」

「ゆめの組長への愛は重いからなぁ」

「ゆめちゃん、よちよち」


 方泉を迎えに来た生徒達が、静かにしゃくりを上げる友人に気付き、あやすように背中を撫でる。


「…千葉君、ごめんね。巻き込んじゃって」


 申し訳なさそうに眉を下げた瀬波が、両手を合わせて方泉に謝る。


「いえ、僕は全然」

「千葉先生、こっちのテーブルに来てくださ~い!」


 早く早く、と手招く愛美に頷いた方泉は、瀬波に頭を下げると席へ向かった。

 仲間に優しく手を引かれ、席へ座るゆめ。その斜め前のテーブルで、険しい顔のまま教科書を見つめる凜々花。その二人を気にしながら、授業を始める瀬波。

 三人のぎこちない空気は消えないまま、二限目は静かに進んでいった。

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