第6話 2年B組②


 ずーんと重たい空気が、職員室の一角を支配している。

 おぼつかない手つきで一限目の準備をする尾沢は、先程の自分の態度を思い出し、大きな溜め息を吐いた。

 今まで生徒達に注意をすることはあっても、怒鳴ったことは一度も無かった。なのに、ちょっと痛いところを突かれただけで、感情任せの怒りをぶつけてしまった。それも、二回り以上年下の子供に。

 はぁ…。

 一限目、俺の授業だけど…みんな、俺に会いたくないよな…。すっごく驚いた顔をしてたし、出席確認の返事も聞いた事ないくらい小さかったもんなぁ…。と、ぶつぶつ言いながら肩を落とす尾沢。すっかり縮こまってしまった背中に、心配して付いてきた方泉が優しく声をかける。


「先生、誰にだって言われたくない事はあります。それがとても気にしている事なら、尚更」

「千葉君…」


 泣きそうな顔で振り向く尾沢に、方泉は柔らかく微笑む。


「だから、怒ってしまった事をそんなに責める必要はないと思います」

「でも…すごく大きい声で怒鳴っちゃったし、みんなに嫌われたと…」

「大丈夫ですよ!僕、あんなに仲の良い先生と生徒を見たことがないですもん。それに、僕、心理学の勉強もしているので分かるんです。みんなの仕草や表情に『尾沢先生が大好き』って書いてあるのが」

 

 なので、絶対に大丈夫です!と、尾沢の手を握り頷く方泉。じんわりと伝わってくる温かさに、尾沢は目を潤ませた。

 ああ、千葉君の後ろから後光が差しているように見える。しかも、可憐な花びらまで舞っている気がする。大の大人が…しかも、お手本にならなきゃいけない筈の自分が慰められるだなんて、なんて情けないんだろう…。でも、ありがたい。千葉君の寄り添うような優しさが、冷えた骨の髄まで染みて、ありがたい。


「…ありがとな、千葉君。千葉君のおかげで、少し自信が湧いてきたよ…!」

 

 尾沢はズルッと鼻水を啜ると、方泉の手をぎゅっと握り返した。そして、ティッシュで勢い良く鼻をかむと、吹っ切るようにニカッと笑った。

 

「俺、しょうもない理由で怒鳴っちゃった事、ちゃんとみんなに謝るわ!んで、これまで以上に最高の授業をするよ!」


 グッと力強く拳を握ると、方泉も真似をして拳を作る。


「その意気です、先生!尊敬する先生の授業、楽しみにしてます!」


 ありったけの尊敬の念を込めた眼差しで見つめる。すると、尾沢は目尻の皺を嬉しそうに下げ、豪快に腕捲りをした。


「よ~し!俺が持ってる“全先生力”を千葉君に伝授するからな!」

「ありがとうございます!」


 キラキラと瞳を輝かせる方泉にグッと親指を立てると、尾沢はリズミカルに教材を揃え始めた。

 元気を取り戻した尾沢に、方泉はホッと胸を撫で下ろす。

 調査ができる時間は限られている。関係のない問題に躓いている場合ではない。

 ふぅ、と小さく息を吐くと、尾沢がパンッと手を叩いた。

 

「よし、準備完了!」


 指示棒を教科書の上に乗せた尾沢は、沢山の教材を抱えて歩き始める。その隣に並びながら、方泉は尾沢の腕の中に目を落とした。


「先生はいつも、こんなに沢山の資料を準備しているんですか?」


 日本史の教科書と大判の資料、そして尾沢お手製のプリント。その量は、一度手を滑らせたら拾っている間に休憩時間が終わりそうな程、山盛りだ。自分が学生の時は、たまに小テストがあるくらいで、教科書しか持ってこない先生が多かった気がするけれど。これを毎時間持ち歩いていたら大変だな…と案ずるが、尾沢は事も無げに頷く。


「お~、そうそう。うちは進学校だろ?だから大学受験する奴が殆どなんだけど、国数英は必死で勉強しても、日本史までしっかりやろうとする奴は少ないんだよな。うちは部活にもめちゃくちゃ力を入れてるから、やろうとしても時間が足りなかったりしてな」


 と、語る尾沢に、方泉はふむふむと頷く。


「だから授業の初めに、前回教えた範囲の中から受験に出てきそうな問題を作って、毎回小テストをしてんの。そうすれば、必然的に復習する機会ができるし、何より!そのテストを全部集めれば、高校の日本史全部のポイントを抑えた最強の受験対策問題集ができるってわけよ」

「わっ、それは凄いですね!」


 大きな目をまん丸くした方泉に、尾沢がドヤ顔でピースする。


「毎回作るのは大変そうですね…」


 と呟くと、陽気な唇がむにゅっと前に突き出た。「う~ん」と斜め上を見上げ、尾沢は首を傾ける。


「一回小テストのベースを作っちゃえばどうって事…あー…でも、毎年試験の出題傾向は変わるから、それを参考にして、問題を微調整しなきゃいけないのは大変かな」

「そんなに手間が…尾沢先生は、生徒の事を本当に大切に考えているんですね」


 “教師の仕事”は学校内だけでなく、校外での研修や発表もあるから毎日大変なのだと、探偵事務所に来た松井はボヤいていた。どこからそのバイタリティが出てくるのだろうと感心していると、尾沢は当然のように笑顔を作る。


「そりゃあ、夢を持ってこの学校に来てる奴が多いからな~。ほら、『夢にときめけ!』って言うだろ~?俺達教師が、ときめけるようにサポートしてやらないとな!」


 ニッと覗いた歯が、青春のようにキラリと輝く。純粋で真っすぐな尾沢の情熱に、方泉は感嘆の息を漏らした。

 教師という仕事を全力で全うしている尾沢を素敵だなと思いつつ、あれ、どこかで聞いたセリフだなと思いつつ。他愛もない話をし、やがて教室の前に着いた二人は足を止めた。

 ふぅ~…と深呼吸をする尾沢の顔に、緊張が走る。

 さっきの失態を、ちゃんと生徒達に謝ろう。

 ドキンドキンと脈打つ指先をドアノブにかけ、チャイムが鳴るのを待つ。チラッと後ろを振り返ると、真剣な顔で頷いてくれる方泉。目力で「ありがとな」と伝えた尾沢は、廊下にチャイムが響くと同時に、勢い良く扉を開けた。

 ずんずんと大きな歩幅で進み、教卓に教材を置く。大きく息を吸い、頭を下げようとした、その時。一人の生徒が声を上げた。


「先生」


 振り絞ったようなか弱い声に驚き、尾沢は動きを止める。口をもごもごと動かす少女は、「あの…」と言うと、周りの数人に目配せをした。


「…さっきは、先生に失礼な事を言ってごめんなさい」

「…先生の事、笑ってごめんなさい」


 頭を下げる子に続いて、あちこちから「ごめんなさい」と声が上がる。


「先生があんなに怒ってるところ初めて見たから、地雷踏んじゃったんだなって思って…」

「お前達…」


 いつものうるさい程賑やかな姿から一変、顔を曇らせる子供達に、尾沢の胸がキュッと苦しくなる。自分の器が小さいせいで、大切な生徒達に、こんなに悲しそうな顔をさせてしまった。


「…先生の方こそ、おっきい声出して怒ってごめんな。悪かった!」


 バンッと教卓に両手を付き、頭を下げる。いつになく真剣な尾沢の姿に、生徒達は心を打たれる。も、束の間。感動ムードになりつつあった雰囲気が一気に崩れ、クスクスと笑い声が聞こえ始める。


「ちょっ…わっ、笑わないでよ…!」

「いや、だって…頭…ふふっ」

「んふっ、いや、そうなんだけど、反省してるの伝わらないじゃん…」


 必死に笑いを堪える生徒達に不思議そうな顔をして、ハッとする。みんなの視線が、頭のてっぺんに向かっている。もしかして…いや、もしかしなくても。見られてしまったのか。

この頭上の荒れ地を。


「あっ、ちょっ、あぁ~っ」


 慌てて両手で頭を押さえた尾沢に、生徒達はお腹を抱えて笑い出した。


「やだも~!みんなでちゃんと謝りたかったのにー」

「幸司のせいじゃん!」

「んだ!幸司のせいだよ!」

「なんで“先生”からまた“幸司”に戻るんだよ!」


 「お前ら~!」と言いつつも、生徒を見つめる尾沢の顔は嬉しそうだ。

 今まで自分が頭頂部つむじハゲであることにコンプレックスしかなかったが、こんなに生徒達が笑ってくれるなら、ハゲも案外悪くない。


「はいはい、もう笑うのは終わり!授業始めるぞ~!」


 ひとしきり大笑いした生徒達に、大きく手を叩き、始まりを告げる。


「あっ、千葉先生の為にパイプ椅子借りてきました~」

「おっ!気が利くな~!サンキュー!」


 後ろの席の子が大きく手を上げると、尾沢は口笛を吹きながら指鉄砲を向ける。


「何それださっ」

「いや、カッコいいだろ!俺のイケメンさが際立つだろ~?」

「うーん…?メスのロバにはモテそうだよね」

「誰がロバ界の貴公子じゃい!」

「そこまで言ってないし」

「あはは。ロバに似てるの認めるんだ」


 わいわいと楽し気な空気が戻った教室に、尾沢はホッと安堵する。笑いながら佇んでいる方泉を横目で見て、こっそり親指を立てる。小さく頷いた方泉に満面の笑みで頷き返すと、尾沢はパイプ椅子へ座るよう促した。

 椅子に座る途中で「借りてきてくれてありがとう」と、手を上げた子に微笑むと、小さな歓声が沸き起こる。興奮してお互いを叩き合う生徒達を遮るように、尾沢が「号令~!」と言うと、漸くざわつきが収まった。


「起立!注目、礼!」


 弾んだ声が教室に響き渡る。凸凹に並んだ頭が下がり、ガタガタガタ…と椅子が床を滑る。その光景に懐かしさを覚えながら、方泉もゆっくりと腰を下ろした。


「小テスト配ってくぞー」


 教卓からプリントの束を取り、慣れた手つきで配っていく尾沢。最前列の子から後ろの席へ、そしてまた後ろの席へとテストを渡していく生徒達を、方泉はじっと見つめる。


「よーい、始め!」


 声に合わせ一斉にプリントが裏返り、シャープペンが走り出す。背を正し問題を解く姿は、さっきまで先生とふざけ合っていた子達とは思えない程真剣だ。

 カリカリとペンの音だけが響く中、教室を観察していた方泉は一人の少女に目を止める。窓際の席に座り、頬杖を突きながら外を見つめている少女。彼女は確か、出席確認で“笹野凜々花”と呼ばれていた子だ。


「もう終わったのか?」


 ぼーっとしている凜々花に近付いた尾沢が、小声で尋ねる。「うん」と声を出さず頷いた凜々花に、尾沢は大袈裟に驚いた顔をする。そして拳を作ると、「いえ~い」と口パクで言いながら、しょうがなさそうに、けれども少し嬉しそうな凜々花とグータッチをした。

 歩き始めた尾沢を見送って、凜々花は再び窓の外へ目を向ける。

 遠くを見つめる切れ長のアーモンドアイと、凛々しい眉。窓から吹き込む風に踊るショートの髪。

 時折眩しそうに目を細める姿は、まるで漫画の一コマのように、絵になっている。

 頬杖を突き、指先でトントンと机を叩く凜々花。

 その様子をじっと見つめながら、方泉は眼鏡のブリッジを押し上げた。

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