第4話 千葉 巧④


「あらあら、尾沢先生、もう千葉君と仲良くなられた…って何かあったんですか?」


 にこやかな笑顔でやってきた校長は、尾沢がギラギラした目で鼻水を垂らしている事に気付くと、驚いて目を丸くした。


「いやぁ~…千葉君に色々と教えなきゃいけないはずが、逆に彼から教わってしまったと言いますか!」


 腰に手を当て、恥ずかしそうに鼻の下を擦る尾沢に、校長は疑問符を浮かべる。

 彼の言っていることはよく分からない…が、千葉はニコニコと笑っている。

 何か問題があった訳ではなさそうだと判断した校長は、笑顔を作り頷いた。


「お二人が仲良くなったのなら、私も嬉しいです。先生には、急に協力してもらう事になってしまって申し訳ないですけど…」

「いえ!むしろ私が担当になれて良かったですっ!千葉君には教師の背中というものをしっかり見せてあげたいと思います!」


 ニカッと歯を出して笑い、千葉にウインクする尾沢。

 ……最初に声をかけた時は、明らかに嫌そうだったのに。

 何故こんなに気合が入りまくっているのだろう…褒められた事が余程嬉しかったのだろうか…と、校長は疑問に思うが、千葉は変わらずニコニコと笑っている。

 まぁ、やる気がないよりは良いかと判断した校長は、笑顔を張り付けたまま頷いた。


「とても頼もしいです、尾沢先生!クラスの子達には私から説明しようと思っていますが…」

「いえ!この尾沢にお任せください。私がしっかり説明しますので!」

「あの、でも急な話で彼女達も戸惑うでしょうし」

「いやいや、生徒達は困るどころか、イケメンが来たー!って大喜びすると思います。千葉君の事は、私の手が空いている時は責任を持ってサポートしますので、ご心配なく!」


 有無を言わさぬ勢いで得意げに胸を張る尾沢に、「そ、そう?」と戸惑いながら頬に手を当てる。

 何だかやる気がありすぎて、本当に任せていいのか不安になってくる。

 尾沢は今まで見てきた教師の中で“情熱のある先生第一位”だが、“情熱が空回りする先生第一位”でもある。

 不安だ。このギラついた目を見ていると不安になる。とは言え、本人が「大丈夫」と言っているのだ。彼に任せると決めたのだから、本人の言葉を信じるしかない。


「…分かりました!千葉君の事は先生にお任せしますね」

「かしこまりましたっ!」


 ビシッと敬礼を決める姿に益々不安を募らせながらも、校長はその場を離れようとする。

 しかし、尾沢の後ろから白衣が見えていることに気づくと、足を止め、小さく溜め息を吐いた。


「……田原先生」

「あっ、校長先生~。おはようございまぁす」

「…こんなところで何をしているんですか。そろそろ保健室に戻らないと、生徒が待っているかもしれませんよ」


 コツッと一歩歩み寄ると、田原は見つかっちゃったぁとお道化て肩を竦める。ぺろっと舌を出す仕草に、思わず「かぁわい~」と尾沢が鼻の下を伸ばす。

 校長はンン゛ッ!と喉を鳴らすと、イラッ…と湧きそうになる怒りを、息に混ぜて長く吐いた。

 彼女はいつもこうだ。

 仕事中にも関わらず、常に真剣味に欠けている。

 一体職場を何だと思っているのだろう。前任の校長から推薦されていなければ、とっくにクビに…と考えて、いけないいけないと頭を振る。学園の責任者たるもの、怒りに呑まれることなどあってはならない。常に冷静な判断ができるようにしなくては。

 スゥ…と息を吸い込んだ校長は、キリッと顔を引き締め、田原に向き直る。


「そう言えば、来月配布する保健だよりがまだできていないと聞いていますが」

「あー…すみませーん。ちょっと忙しくてぇ」


 グーにした両手を顎の下に置き、こてんと首を倒す田原。その瞬間、グワッと怒りの火が灯った。

 平常心平常心…と自分に言い聞かせるも、これが社会人の謝罪の仕方なのか?と膨れ上がる苛立ちが、段々校長の声を尖らせていく。


「…田原先生、前回の保健だよりは誤字脱字が多かったですよね?」

「えっ!そうでしたっけぇ。とっても可愛かったと思うんですけど」


 今度は反対側に首を傾けながら、先月配布したお便りを思い浮かべる。

 ファンシーな文字で書かれた“保健だより”。その両脇に描かれたポップなテディベア。余白にはバランス良く季節の花が描かれており、まるで雑誌の一ページのようだと、生徒達からとても評判が良かった5月号。

 何か問題でも?と不思議そうな顔をする田原に、校長は一気に怒りを爆発させた。


「可愛いとか可愛くないとかそういう事を言ってるんじゃないんです!誤字脱字!誤字脱字が問題だと私は言ってるんです!」

「やだぁ~!校長先生、そんなに大きい声を出したら他の先生方がびっくりしますよぉ」

「!?誰のせいで私が怒ってると思ってるんですか!」


 カッと目を見開き、真っ赤な唇を激しく動かす。今にも角が生えてきそうな恐ろしさを物ともせず、田原はにっこり微笑むと人差し指を立てた。


「も~っ、そんなにカリカリしてると活性酸素がいっぱい出て、もーっとおばさんになっちゃいますよ。ただでさえ服と化粧が古臭いのに、これ以上おばさんになったら」

「うわ――――――!」


 ギョッと目を丸くした尾沢が、急いで二人の間に割り込む。ドクッドクッと脈打つ心臓が、尾沢の呼吸を荒くし、額に一筋の汗を流す。

 何故こんなにも必死に尾沢が遮ったのか。


 その理由は三年前まで遡る。


 当時、新しい校長としてやってきた松井の歓迎会が居酒屋で行われた。貸し切りにしたこともあり、いつもより派手に騒ぎながら、それはそれは楽しい時間をみんなで過ごしていた。初めは教師と一線を引いていた松井も、次第に顔を崩し、とても楽しそうに飲んでいたのだ。

 そう、飲み過ぎて悪酔いした男性教師が


「松井校長ってバブルのまま時が止まってるって言うか~…あっ、鞄にジュリ扇入れてそうですよね~!」


 と、無邪気に言うまでは。

 正直、みんな思っていた。

 派手なピンクのアイシャドウに真っ赤な口紅。肩パッドが主張したスーツ姿は、まるでバブル時代からタイムスリップしてきたようだと。でも、誰も突っ込まなかった。本人がその恰好を好きでしているのなら、他人が口を出すのは野暮であり無神経だからだ。

 案の定、笑っていた校長の顔から一瞬で表情が無くなり、息もできないような緊張感が現場に走った。男が己の失言に気づくも、時すでに遅し。「そうですか」と言い腰を上げた校長は、自分の分のお金をテーブルに置くと、振り向くことなく扉へ向かってしまった。

 コツ、コツ、と静寂の中で響くヒール音は、まるで死刑判決を告げる木槌のようで。

 ピシャン!と店の扉が閉まると同時に、教師達は止めていた息を一斉に吐きだした。落ち込む男性教師を叱りながら、そして励ましながら。彼らはその時、心に強く刻み込んだのだ。絶対に校長の服装について触れてはいけない。触れたら死ぬ、と。

 それ以来、新任教師が来ると“校長のタブー”を一番初めに教える事になっているのだが。田原が赴任してきたのは一年前。もしかして、忘れてしまったのだろうか。それとも誰も教えなかったのだろうか…とハラハラしながら田原を窺い見て、「あっ」と声が漏れる。

 

 能天気に笑っているように見える目の奥が、全く笑っていない。

 寧ろ、相手を煽るような圧力さえ感じる。


 嘘だろ。まさか確信犯だったとは…と唾を呑んだ尾沢は、ハッとして校長を見る。こちらも大きく見開いた目から、ビームが出そうな程怒りを放っている。

 火花を散らす二人に挟まれ、ひえぇ…と身を震わせる。萎縮して綿棒のように縮こまっていく尾沢を助けたのは、ちょんちょんと背中を叩く千葉だった。


「先生、そろそろホームルームの時間じゃないですか?」

「!!あっ、あぁ~!そうだな、もうそんな時間だな~~~!!」


 バッと腕時計を顔に近づけた尾沢は、時間を確認すると大袈裟に驚いてみせた。

 横目でちらりと二人を見る。すると、張り詰めていた緊張感が消えている。どうやら千葉の言葉で我に返ったようだ。

 千葉君ナイスアシスト!と胸を撫で下ろしていると、校長がコホンと咳をした。


「…長々と引き留めてしまいすみませんでした。尾沢先生、千葉君をお願いしますね」

「はっ、はい!」


 ぎこちない笑顔で何度も頷く尾沢。校長は申し訳なさそうに微笑むと、田原に視線を向けた。


「田原先生は今日中に保健だよりを作成して、教頭先生に誤字脱字がないかを確認してもらってください」


 「良いですね?」と念を押すと、田原は「はぁ~い」と鼻にかかった声で返事をする。そして顔の両脇にパーを作ると、千葉に向けてふりふりと振った。


「千葉君またねっ。保健室に遊びに来てね~っ」

「…田原先生、早く保健室に」

「あっ、瀬波先生が行っちゃう!」

「!?」

「瀬波先生~」


 咎める声を遮るように、軽い足取りで追いかけて行く田原。校長はひくつく頬を手で押させると、ふー…と長い息を吐いた。


「そ、それじゃぁ俺達も行くか~」


 静かに漂う怒りのオーラに内心冷や汗をかきながら、尾沢は出席簿を手に取る。


「はい」


 千葉は嬉しそうに微笑むと


「松井校長、行ってきます」


 と言って、険しい顔をする校長を見つめた。


「!あぁ、行ってらっしゃい。しっかり見学してきてね」


 慌てて微笑み返した校長に、千葉はさらに目を細める。

 教室へ向かって歩き出した二人を、校長は職員室の外まで見送った。

 2年B組はどんな生徒達なのかと尋ねられた尾沢が、得意げに出席簿を開き、一人一人の説明をしていく。その話を尊敬の眼差しで聞き、頷く千葉。

 小さくなっていく二人の背を見ながら、校長は弧を描いていた唇をキュッと引き締めた。


 千葉巧。

 杜都城大学の教育学部から我が校の教育現場を見学しにきた、真面目な大学4年生。



 ―――という人物は、この世に存在しない。



 遡ること3日前。

 校長――松井由乃は仙台駅からほど近い雑居ビルの2階にある、探偵事務所を訪れていた。


「うちの学校に、私宛にこんな手紙が届いたんです」


 松井はカバンの中から真っ白な封筒を取り出すと、艶やかに塗装された木のテーブルへ置いた。受け取った青年は中から一枚の紙を取り出して、ハッと目を見開く。

 綺麗に折られた縦長の便箋には、


 “あのことをばらすぞ。このまま続けるならだまっていない”


 と、雑誌から切り抜いた大小の文字で書かれている。


「これは…いたずらにしては悪質ですね」

「悪質すぎます!立派な脅迫状です!」


 ぎゅっと眉を寄せる松井が悔しそうに膝を叩く。


「警察には相談されましたか?」

「いえ…しておりません」

「…その理由を聞いても良いですか?」


 そう青年に尋ねられた松井は、パッと目を反らす。数秒躊躇っていたが、意を決したように背を正すと、真剣な眼差しで青年を見つめ返した。


「…我が校は開校以来、政治家や有名企業に勤めるご両親を持つ子供達が非常に多く通っています。それは文武両道を極める私共の学校に信頼を置いて下さっているからです。長年築き上げてきたその信頼を、壊したくない…。学校の名前に傷がつくような事だけは絶対にしたくないんです!だから…」


 と、切羽詰まった声で言うと、松井は膝に手を付き頭を下げた。


「犯人を突き止めて止めてもらえませんか。何とか穏便に解決したいんです…!」


 さらに深く下がる頭に、青年は慌てて手を伸ばす。


「頭を上げて下さい。大丈夫です。私共の探偵事務所は、余程の事がない限りお客様のご依頼に協力させて頂く事にしています」

「!じゃあ…」

「はい。松井様のご依頼、承ります」


 ニコッと優しく微笑むと、強張っていた顔が徐々に明るくなっていく。コースターに乗ったままのコーヒーを進めると、松井は小さく礼を言い、安堵したように口を付けた。


「ここには“あのこと”と書いてありますが、何か心当たりはありますか?」


 便箋の文字をなぞりながら、静かにグラスを置く松井に尋ねる。


「いえ、ありません。日頃から生徒や先生の模範になるよう心掛けていますので…ばらされて困ることは何も」


 グッと固く拳を握り、膝頭を擦り合わせる。視線を落とした松井に、青年は「ふむ…」と呟くと、封筒を裏返した。


「…この封筒には切手が貼られていないんですね」

「はい。なので、犯人は学園内の誰かだと思います」

「!はっきりと断言されるんですね」


 「郵便物に外部の誰かが混ぜ込んだとか…」と言うと、松井は頭を振る。


「学校に届く郵便物は、不審なものがないか必ず守衛が確認する決まりになっているんです。この手紙が届いた日の事を守衛に聞きましたが、変わったことは無かったと言っていました。念のために録画した監視カメラの映像も見ましたが、怪しい人は映っていませんでした」

「監視カメラはどこに設置しているんですか?」

「校門と下駄箱などの出入口…校舎内は廊下だけです。職員室がある廊下の映像も確認しましたが、部屋が廊下の奥にあるせいで、人が映っても、画質が荒くて誰なのかまでは判別できませんでした。」


 肩を落とす松井に相槌を打ちながら、青年は再び便箋を見つめる。一つ一つの文字を眺めていた青年は、ハッと目を見開くと天井の照明に便箋を透かしてみる。


「…これは」

「!何かわかったんですか!?」


 グラスに伸ばした指を引っ込め、驚いて身を乗り出す。青年は「ちょっと失礼しますね」と言ってスマートフォンをタップすると、


「…そうですね。そんなに時間をかけずに、犯人を見つけられるかもしれません」


 と言って、微笑んだ。


 早期解決を望む松井の希望で、学園に潜入する事になったのだが。学校の予定を踏まえると、潜入できるのは一日だけになってしまった。しかも、松井はスケジュールが詰まっているので、殆ど手助けする事ができない。それでも大丈夫だと青年は言っていたが――


「…」


 廊下の角を曲がっていく尾沢と千葉――否、探偵、近葉方泉ちかばほずみを見つめながら、スーツの上から内ポケットを触る。ほんの少しだけ、凹っと指を滑る感触。それは真っ白な長方形の手紙。

本当に解決できるのか、不安はある。けれど、あっという間に尾沢と距離を縮めてしまったところをみると、信じても良いかもしれないと、小さな期待が膨らんでいく。

 …いや、信じるしかない。大丈夫だと言った方泉の言葉を。


「……しっかり見てきてね、“千葉君”」


 松井は祈るように呟くと、校長室へと戻って行った。


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