幸せな思い出だけ、じゃ駄目ですか

 彼は最低な男だった。それはたぶん、付き合い始めた時から分かっていた。否、付き合う前からかもしれない。それでも、26年間生きてきて、こんなにも人を好きになったことはなかった。彼は仕事関係で知り合い、年も近かったのですぐに打ち解けた。同棲を始めて1年たった時、前触れもなしに突然プロポーズされた。彼は自由奔放なタイプだったので、結婚はしばらくないだろうと諦めていたから、このサプライズがとても嬉しくて、涙が出た。そんな私に触発されてか、彼も泣いていた。それなのに、彼は浮気をしていた。心は君だけだと縋り付いてきた。体は私だけじゃないのなら、一緒にいたくないと思った。だからすぐに婚約破棄をして、慰謝料も請求した。舞い上がって周囲に言いふらしていたから、その処理が一番大変だった。婚約破棄をしてから、1週間もたたないうちに同棲を解消して実家に戻った。

 すべて怒りの向くまま、衝動的に動いていたこともあって、彼との関係が切れた瞬間から、私は生きる気力を失ってしまった。復縁をしたいとは一切思わなかったが、彼のことを思い出さない日はなかった。それは、ファストフード店に入る時、ドライヤーで髪を乾かしている時、寝返りをうつ時など日常的な場面から彼との記憶が蘇ってくるのだった。彼との記憶が蘇った時、結局いつも浮気を知ったあの場面を思い出してしまうのだ。だから、忘却治療を受けることにした。

 先生はさすが精神科医なだけあって、親身に私の仕様もない話をきいてくれた。本当はまるっと彼との記憶を失くしたいところだったが、色々とリスクもあったし、皮肉なことに彼から学習した点も多かったので、絶対に思い出したくない記憶だけ抽出することにした。彼が心配だからと私に装着させたデイリームービーがまさか今が役に立つなんて。

 治療の前日、高速コマ送りで彼との写真を見返した。本当に忘れても良いかを確かめるためだった。こんなに時間がたっているのに、彼の笑顔を見るとつい口角があがってしまう。そして忘却した後にもそうやって笑えるよう、記憶を改ざんしようとしている自分に呆れる。私は記憶の修復に関して、詳細なシナリオを作り、綿密な擦り合わせをしてきた。他の人の映像や音声を改変してつなぎ合わせる以上、どこか曖昧な記憶にはなってしまうのだが、どうにか辻褄をあわせられるように新たな物語を作った。これからの私の人生のなかでは、彼は東南アジアに一人旅に行くという設定になっている。彼の性格上、大いにあり得ることだったので、この落としどころを見つけられたのは幸いだったと思う。修復にこだわったため思いのほか高額になってしまい、周知は自分でやることにした。プロがやった方が抜け漏れはないのだろうが、致し方ない。忘却治療をするので協力してほしいと伝えるのは惨めだったが、この記憶だって消えるのだと思うと怖いものはなかった。


 暗い部屋の中、頭や体に色んな機械をとりつけて、ベッドに寝転がると、ムービーの投影が始まった。記憶の想起が始まる。ついさっき、同意書を書いている記憶が始まりだった。先生はパソコンの画面や私を見ながら、記憶の移管先だという受け皿の状態も気にしながら、淡々と記憶を消去するスイッチをいじっている。

 着々と忘却は進んでいった。ついに、彼の浮気を問い詰めている場面が映る。彼は焦って、支離滅裂なことを言っている。改めて冷静な目線で見ると滑稽で馬鹿らしい。なんて間抜けな幕切れなんだろう。自分が惨めで、そんな自分とお別れできるのが嬉しくて、涙が流れた。


「お疲れ様でした」

 先生の声で目を覚ます。ずっと続いていた片頭痛がやっと解消されて、体が軽かった。一定期間飲むようにと数種類の薬を渡される。私は清々しい気分で、今日はじめて来た病院を後にした。

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