沙綺羅帰宅

 香ばしい湯気の向こうに、庚之塚沙綺羅の真顔がのぞいている。

 彼女が真顔の時は、おしゃべりは無用だ。

 真乎は、少し困ったように眉根を寄せてこくびをかしげた。


「この状況で、お茶の時間ですか」

「おかえりなさい。庚之塚さん。お待ちしてたんですよ」

「あ、ただいま、です」


 沙綺羅は慌てて帰宅の挨拶をした。


「さあ、お急ぎで帰ってきていただいたのですものね、まずは、駆けつけ一杯、お茶をどうぞ」

「あんなにせかしておいて、まずはお茶ですか」


 不服そうにしながらも真乎がいれてくれたお茶がうれしくて、沙綺羅は両手で湯呑みを抱えてひと口飲んだ。


「おいしい、です。しみます。深蒸しですね」

「はい。頭脳労働をした後は、濃いお茶ですっきりがいいですよね」


 そう言うと真乎は、麦焦がしをのせた菓子皿を差し出した。


「濃いお茶にあいますね」


 と言ったところで、沙綺羅は、思い出したとばかりに真乎に向き直った。


「真乎さん。今日、ご相談のご予約入ってましたよね」

「お久しぶりになので、心を静めてお仕事したいと思ってます」

「心が静かではないのですか」


 真乎は立ち上がると、両手を広げてひらひらさせて荒れ果てた店内を指し示した。


「ご覧になったでしょ、庚之塚さん」


 と言った。

 店の奥と店の間の引き戸を開け放してあるので、お茶をしているテーブルから店の方は丸見えだった。


「確かに。このありさまでは、落ち着きませんよね」

「商いのものだけではなくて、お預かりしてるものも、時ならぬ嵐にあってしまったのです」


 真乎は、両手をひらひらさせ続けながら、つま先だって散らかった店の中を、品物を踏まないように絵画を置き場のコーナーまで歩いていった。

 それから、女性が油絵具をこそげ落として殴り描きしたキャンバスを拾い上げて、サイドボードの上にたてかけた。幸いなことにサイドボードはガラス戸も割れずにいて無事だった。

 沙綺羅も茶碗を置くと店へ出た。


「それは、前衛絵画ですか」

「庚之塚さんには、そう見えますか」

「シュールな人物画に見えます。輪郭は人間みたいですが、無理に崩して絵具をなすりつけて汚したように見えます。心理表現なのか、怒りなのか、後悔なのか、とにかく不自然な崩し方に見えます」


 小首を傾げながら感想を述べている沙綺羅の言葉の中に気にかかるものがあった真乎は、聞き返した。


「後悔、ですか」

「怒りに任せてぐちゃぐちゃにしたり、荒っぽくしたり、感情をぶつけてるように見えますが、なんでしょう、ここ、目、ですよね、青いきれいな目、一つだけの目、潤んでるように見えます」

「潤んでますね、いえ、潤み始めてるようですよ」


 沙綺羅は真乎の言葉にぎょっとした。


「絵が生きてるとでも」

「さあ、どうでしょう」


 真乎は猫脚のソファで眠っている女性を見やった。


「後悔というのは、当たらずも遠からずかもしれません」

「このありさまは、あの人が、ですよね」


 真乎はうなづくと、寝返りを打った時に落ちかけたブランケットを掛け直した。

 それから、女性の額に手を当てた。


「熱はありませんね。体調がよくないわけではなさそうです」

「でしたら、私がここを片付けながら、彼女の見守りをします。真乎さんは上の相談室で準備をしてください」

「お言葉に甘えてそうさせていただきたいところなのですが」


 真乎はそこで言葉を切った。


「何か不都合でも」

「まあ、これは、私の憶測なのですが」


 真乎は、ソファの女性と沙綺羅を交互に見やると、


「午前中にお電話があったのです」

「電話が? どなたから」

「ちょっと聞いていてください」


 真乎はそう言うと、かかってきた電話の内容を沙綺羅に再現してみせた。



――どちらさまですか

――お電話で予約しました字宮です

――承っております。字宮節佐あざみやせっささまと、奥さまの叶恵さまですね

――その、妻は、今日は、ちょっと具合が悪くて

――そうですか。おだいじになさってください

  よろしければ、字宮様お一人でいらしてください

――はあ、そうですか



「まあ、こんな具合だったのですのよ」

「それは、もしかして」

「もしかする、と思いませんか」


 真乎は、床に放り投げられた女性の唯一の持ち物の長財布からはみ出ている保険証を指さした。


字宮叶恵あざみやかなえ、さん」


 沙綺羅が読み上げた。


「字宮さんって珍しいお苗字ですよね。間違いないと思います」


 二人をうなづき合うと、ソファの女性を見やった。


「家庭内のストレスで歪みが起きてしまったのかな」

「それは、まだ、わかりません」

「あの、こんなことを言ってはなんですが、ずいぶんくたびれてらっしゃるような」


 身なりに気をつかわなくなる、つかえなくなるのは、心の状況、脳の状態に異変が起き始めたサインだ。

 沙綺羅は女性の襟元やはげかけた化粧、無造作で櫛の通ってなさそうな髪などを一瞥してそう思ったのだ。


「ご覧の通りです。彼女が、もし、字原叶恵さんだとしたら、いつから家を出られたのかわかりませんが。探し人の回覧板は回ってきてませんので、そんなに前ではありませんね」


 この辺りでは、回覧板といった昔ながらの情報伝達方法がまだ生きている。

 井戸端会議という尾ひれ付の情報伝達方法も活発だった。

 尾ひれは出汁に入れると、時に身にはない味が出たりするので、ないがしろにはできないと真乎は思っていた。


「その、字宮さんは、こちらの奥さんと一緒に相談に来る予定だったんですよね」

「そうです。だから、早計には一方的な何かとは決めつけられません。なにより、猫ちぐらに妖怪にと、予測不可能な事柄が絡み合っていますので」

「それは、ややこしそうですね」


 沙綺羅に言われて、真乎は困ったように微笑した。

 それから、


「そうですね、やっぱり、準備はしておいた方がよさそうですね」


 と言うと、沙綺羅に字宮叶恵を任せて店を出た。











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