翠埜真乎の朝

 その日、翠埜真乎みどりのまそこは、寝過ごしていた。

 寝過ごしていたが、寝起きのティータイムは絶対だった。

 それをしないと夢と現の狭間に陥って、リアルに戻ってこれなくなるのだ。


「約束のお時間は、えっと何時でしたっけ」


 寝ぐせではねてる髪をかき上げてから、真乎は大きく伸びをした。

 ベッドサイドテーブルで湯気をたてているミルクティーをひと口飲んだ。


「あたたまりますね」


 お気に入りのころんとしたナチュラルホワイトのマグカップを両手包んで、真乎は誰もいない部屋の天井を見上げた。


「今日は二度寝の時間短かったかな。冷めてないものね」


 真乎は一度起きてから自分でミルクティーを入れてから、そのままうたた寝してしまっていたらしい。


「上出来です。蓋付きとはいえ、冬の朝なのに湯気が残ってるなんて」


 真乎は上機嫌で言うと、何かを探すように天井の四角を順繰りに眺め始めた。


「そうですか。そうでした」


 真乎はつぶやくと、マグカップを置いて、羽枕の下から手帳を取り出した。

 手帳は付箋とメモで膨らんでいる。

 カレンダーのページを開くと大ぶりの白い付箋が貼ってあって、赤字で絶体に遅刻するべからず、と走り書きが見える。

 付箋をつけたのは助手の庚之塚沙綺羅こうのづかきさらに違いない。

 

「庚之塚さんったら、こんなにでかでかと赤い字で。大げさですね」


 真乎は付箋をつまむと、ひらひらさせた。


「まだお時間まで、ええっと、大丈夫でしたよね」


 手帳の今日の日付を確認しながら真乎は言った。

 

 翠埜真乎はフリーのカウンセラーをしている。

 普段は祖母の営む小間物屋の店番をしているが、依頼のあった時だけよろず気迷い心惑い事の相談を受けている。

 相談と言っても、専ら相談者の話を聞くことが主な仕事だった。


 臨床心理士や公認心理士といった方々のところに行くには敷居が高い、医療を受けるような病でもない、かといって占い諸々のスピリチュアルに頼るのは踏み間違えそうで何か違う、そういった狭間の立ち位置で悩んでいる人達の受け皿となっているのが、翠埜真乎だった。


 カウンセリングの看板こそ出していないが、口コミでやってくる人は絶えなかった。

 

 さて、年の瀬が近くなると、いつもより予約件数が多くなる。

 迷いをなんとかして、さっぱりとして、清々しい気持ちで新年を迎えたい人が多いのだろう。

 しかしながら今はまだ十一月、例年より急いてる人が多いようだ。


「まだ、お茶していても大丈夫ですね。庚之塚さんからのラインも入ってませんし」


 時間間隔が時々ずれてしまう真乎の予定管理をしているのは、助手の庚之塚沙綺羅だ。真乎の大学の後輩で、温厚誠実を絵に描いたような人物だった。


「庚之塚さんはのどかな人ですね。私、好きですよ」


 真乎の“好き”はわりとよく発せられる言葉だったが、あまり言われたことのない沙綺羅には深く響いた。

 本来は、温厚誠実というよりは臆病で自尊感情に難有りゆえの穏やかさだと沙綺羅は自分では思っていた。けれども、真乎に好印象を持たれてからは、それを崩さぬよにと自分を律して助手を名乗るお世話係として真乎のそばにいる。

 

 小間物屋の一階と二階は外階段で出入りするようになっていて、二階は二部屋に分かれていて以前は学生下宿だったが、祖母が高齢になったので下宿をやめたのだそうだ。


 沙綺羅は真乎の祖母の恩人の孫とのことで、祖母の小間物屋の2階に間借りしている。真乎は店舗と台所と居間と洋間と和室のある一階で祖母と生活しながら、二階の空室の方を相談室として使っているのだった。


「午後から忙しくなりそうですから、小腹を満たしておきましょう」


 真乎はベッドの端に腰かけると、ベッドサイドテーブルの下に置いてあるきなり色の帆布バッグから、稲藁いなわらで作った卵入れの卵づとを取り出した。地元公民館で開催された正月飾り作りイベントの藁細工体験会で手土産にもらったのだ。

 稲藁で作った卵入れの卵つとには、卵の代わりに詰めたおまんじゅうが入れてあった。うぐいす色のずんだ餡をくるんだ米粉のおまんじゅうだ。


「卵が割れないように稲わらでラッピングとは、なかなかやりますね、昔の方々は」


 真乎はおまんじゅうを頬張るとにっこりした。

 さっぱりとした甘すぎないずんだ餡と、もっちりした米粉の皮が品よくマッチしている。

 

「もう一つ、いただきましょう」


 真乎が2個めに手を伸ばした時だった。

 携帯電話が鳴り始めた。


「美味しいところだったのに」


 翠埜真乎はつぶやくと、笹に包んだ米粉饅頭入りの卵つとをテーブルに置いて立ち上がった。


「はい、ミドリノ相談室でございます」

「あ、ええっと」


 声の主は何かに戸惑っているようだった。


「ミドリノ相談室でございます。どちらさまですか」


 真乎がいつもより少し声を低めて尋ねると、


「お電話で予約しました字宮あざみやです」


 と、相手が名乗った。


「承っております。字宮さまと奥さまですね」

「その、妻は今日は、ちょっと具合が悪くなってしまって」


 若やいだ声の字宮と名乗った男性は、口ごもっている。

 夫婦で予約をしたが配偶者が来られなくなったと言いたいのだろう。

 けれど、何かこちらに知られたくない事情が起きたので言い淀んでいるのだ。


「そうですか。おだじになさってください。ご予約はいかがなさいますか」


 真乎は穏やかな口調で答えた。

 当日キャンセルは全額支払いの規約だ。

 個人経営で気軽に相談できるとはいえ、仕事で承ってるからにはそうした決まり事は大事だった。


「それで、あの、私だけで、その、伺いたいんですが」


 字宮はようやっとの思いでそう言ったようだった。


「わかりました。では、お約束はご予定通りで、字宮さまお一人でいらっしゃるということで」


 真乎が言うと、字宮は、声を潜めて


「よろしくお願いします」


 と言って電話を切った。

 こうした予定変更はよくあることなので、真乎はとくに気にはしなかった。


「さて、お電話をいただいて目が覚めました。まずは食べてしまいましょう」


 真乎は健啖家の本領を発揮して、卵つとに入っていたずんだ饅頭5個を全部食べ終えると、


「ごちそうさまでした」


 と空になった卵づとに頭をさげて立ち上がった。


「それでは、まいりましょうか」


 真乎は手早く着替えると、寝ぐせがついたままのストレートロングの髪を一つに結んでからくるんとまとめてベレー帽に押し込んだ。








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