わがはいは新年来多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。

 がんちよう早々主人のもとへ一枚の絵はがきが来た。これは彼の交友某画家からの年始状であるが、上部を赤、下部をふかみどりで塗って、そのまん中に一の動物がうずくまっているところをパステルでかいてある。主人は例の書斎でこの絵を、横から見たり、縦からながめたりして、うまい色だなと言う。すでに一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、縦から見たりしている。からだをねじ向けたり、手を延ばして年寄りがさんそうを見るようにしたり、または窓の方へ向いて鼻の先まで持ってきたりして見ている。早くやめてくれないとひざが揺れてけんのんでたまらない。ようやくのことで動揺があまりはげしくなくなったと思ったら、小さな声でいったい何をかいたのだろうと言う。主人は絵はがきの色には感服したが、かいてある動物の正体がわからぬので、さっきから苦心をしたものとみえる。そんなわからぬ絵はがきかと思いながら、寝ていた目を上品になかば開いて、落ち付きはらって見ると紛れもない、自分の肖像だ。主人のようにアンドレア・デル・サルトをきめこんだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんと整ってできている。だれが見たって猫に相違ない。少し眼識のあるものなら、猫のうちでもほかの猫じゃない吾輩であることが判然とわかるように立派にかいてある。このくらいめいりようなことをわからずにかくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒になる。できることならその絵が吾輩であるということを知らしてやりたい。吾輩であるということはよしわからないにしても、せめて猫であるということだけはわからしてやりたい。しかし人間というものはとうてい吾輩猫属の言語を解しうるくらいに天の恵みに浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにしておいた。

 ちょっと読者に断わっておきたいが、元来人間がなんぞというと猫々と、こともなげに軽侮の調ちようをもって吾輩を評価する癖があるははなはだよくない。人間のかすから牛と馬ができて、牛と馬のくそから猫が製造されたごとく考えるのは、自分の無知に心づかんで高慢な顔をする教師などにはありがちのことでもあろうが、はたから見てあまりみっともいいものじゃない。いくら猫だって、そう粗末簡便にはできぬ。よそ目には一列一体、びようどう無差別、どの猫も自家固有の特色などはないようであるが、猫の社会にはいってみるとなかなか複雑なもので十人いろという人間界の言葉はそのままここにも応用ができるのである。目つきでも、鼻つきでも、毛並みでも、足並みでも、みんな違う。ひげの張り具合から耳の立ちあんばい、しっぽのたれかげんに至るまで同じものは一つもない。器量、不器量、好ききらい、すいすいの数をつくして千差万別と言ってもさしつかえないくらいである。そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず、人間の目はただ向上とかなんとかいって、空ばかり見ているものだから、我らの性質はむろんそうぼうの末を識別することすらとうていできぬのは気の毒だ。同類相求むとは昔からある言葉だそうだがそのとおり、もち屋は餠屋、猫は猫で、猫のことならやはり猫でなくてはわからぬ。いくら人間が発達したってこればかりはだめである。いわんや実際をいうと彼らがみずから信じているごとくえらくもなんともないのだからなおさらむずかしい。またいわんや同情に乏しい吾輩の主人のごときは、相互を残りなく解するというが愛の第一義であるということすらわからない男なのだからしかたがない。彼はしようの悪いのごとく書斎に吸い付いて、かつて外界に向かって口を開いたことがない。それで自分だけはすこぶる達観したようなつらがまえをしているのはちょっとおかしい。達観しない証拠には現に吾輩の肖像が目の前にあるのに少しも悟った様子もなくことしはせいの第二年目だからおおかたくまの絵だろうなどと気の知れぬことを言ってすましているのでもわかる。

 吾輩が主人のひざの上で目をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第二の絵はがきを持って来た。見ると活版ではくらいの猫が四、五匹ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をしている。その内の一匹は席を離れて机のかどで西洋の猫じゃ猫じゃを踊っている。その上にほんの墨で「吾輩は猫である」と黒々と書いて、右のわきに書を読むやおどるや猫のはるひとという俳句さえしたためられてある。これは主人の旧門下生より来たのでだれが見たって一見して意味がわかるはずであるのに、かつな主人はまだ悟らないとみえて不思議そうに首をひねって、はてなことしは猫の年かなとひとり言を言った。吾輩がこれほど有名になったのをまだ気がつかずにいるとみえる。

 ところへ下女がまた第三のはがきを持って来る。今度は絵はがきではない。きようしんねんと書いて、かたわらに恐縮ながらかの猫へもよろしく御伝声願い上げ奉りそろとある。いかにえんな主人でもこうあからさまに書いてあればわかるものとみえてようやく気がついたようにフンと言いながら吾輩の顔を見た。その目つきが今までとは違って多少尊敬の意を含んでいるように思われた。今まで世間から存在を認められなかった主人が急に一個の新面目を施したのも、全く吾輩のおかげだと思えばこのくらいの目つきは至当だろうと考える。

 おりから門のこうがチリン、チリン、チリリリリンと鳴る。おおかた来客であろう。来客なら下女が取り次ぎに出る。吾輩はさかな屋のうめこうが来る時のほかは出ないことにきめているのだから、平気で、もとのごとく主人のひざにすわっておった。すると主人は高利貸しにでも飛び込まれたように不安な顔つきをして玄関の方を見る。なんでも年賀の客を受けて酒の相手をするのがいやらしい。人間もこのくらいへんくつになれば申しぶんはない。そんなら早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気もない、いよいよ牡蠣のこんじようをあらわしている。しばらくすると下女が来てかんげつさんがおいでになりましたと言う。このかんげつという男はやはり主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、なんでも主人より立派になっているという話である。この男がどういうわけか、よく主人の所へ遊びに来る。来ると自分をおもっている女がありそうな、なさそうな、世の中がおもしろそうな、つまらなそうな、すごいようなつやっぽいような文句ばかり並べては帰る。主人のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話をしに来るのからしててんがゆかぬが、あの牡蠣的主人がそんな談話を聞いて時々あいづちを打つのはなおおもしろい。

 「しばらくごぶさたをしました。じつは去年の暮れから大いに活動しているものですから、出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」とおりのひもをひねくりながらなぞみたようなことを言う。「どっちの方角へ足が向くね」と主人はまじめな顔をして、黒もめんの紋付き羽織のそでぐちを引っぱる。この羽織はもめんでが短い。下からべんべらものが左右へ五ぐらいずつはみ出している。「エヘヘヘ少し違った方角で」と寒月君が笑う。見るときょうは前歯が一枚欠けている。「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた。「ええじつはある所でしいたけを食いましてね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで。椎茸のかさを前歯でかみ切ろうとしたらぽろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯が欠けるなんざ、なんだかじじい臭いね。俳句にはなるかもしれないが、恋にはならんようだな」とひらで吾輩の頭をかろくたたく。「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大いに吾輩をほめる。「近ごろだいぶ大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。ほめられたのは得意であるが頭が少々痛い。「一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね」と寒月はまた話をもとへもどす。「どこで」「どこでもそりゃお聞きにならんでもよいでしょう。ヴァイオリンが三ちようとピアノの伴奏でなかなかおもしろかったです。ヴァイオリンも三梃ぐらいになるとでも聞かれるものですね。ふたは女でわたしがその中へまじりましたが、自分でもよくひけたと思いました」「ふん、そしてその女というのは何者かね」と主人はうらやましそうに問いかける。元来主人は平常ぼくかんがんのような顔つきはしているもののじつのところはけっして婦人に冷淡なほうではない。かつて西洋のある小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それがたいていの婦人には必ずちょっとほれる。勘定をしてみると往来を通る婦人の七割弱には恋着するということがふうてきに書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。そんなうわな男がなぜてきしようがいを送っているのかというのは吾輩猫などにはとうていわからない。ある人は失恋のためだとも言うし、ある人は胃弱のせいだとも言うし、またある人は金がなくておくびようなたちだからとも言う。どっちにしたって明治の歴史に関係するほどの人物でもないのだからかまわない。しかし寒月君の女連れをうらやましげに尋ねたことだけは事実である。寒月君はおもしろそうに口取りのかまぼこはしではさんで半分前歯で食い切った。吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。「なに二人ともさる所の令嬢ですよ、御存じのかたじゃありません」とよそよそしい返事をする。「ナール」と主人は引っぱったが「ほど」を略して考えている。寒月君はもういいかげんな時分だと思ったものか「どうもいい天気ですな、おひまならごいっしょに散歩でもしましょうか、りよじゆんが落ちたので市中はたいへんな景気ですよ」と促してみる。主人は旅順の陥落より女連れの身元を聞きたいという顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心をしたものとみえて「それじゃ出るとしよう」と思いきって立つ。やはり黒もめんの紋付き羽織に、兄の紀念かたみとかいう二十年来着古したゆうつむぎの綿入れを着たままである。いくら結城紬が丈夫だって、こう着つづけではたまらない。ところどころが薄くなって日に透かして見ると裏からつぎを当てた針の目が見える。主人の服装には師走しわすも正月もない。ふだん着もよそゆきもない。出るときはふところ手をしてぶらりと出る。ほかに着るものがないからか、あってもめんどうだから着換えないのか、吾輩にはわからぬ。ただしこれだけは失恋のためとも思われない。

 両人ふたりが出て行ったあとで、吾輩はちょっと失敬して寒月君の食い切ったかまぼこの残りをちょうだいした。吾輩もこのごろでは普通一般の猫ではない。まずももかわじよえん以後の猫か、グレーの金魚をぬすんだ猫ぐらいの資格は十分あると思う。車屋の黒などはもとより眼中にない。かまぼこの一切れぐらいちょうだいしたって人からかれこれ言われることもなかろう。それにこの人目を忍んでかんしよくをするという癖は、なにも我ら猫族に限ったことではない。うちのおさんなどはよく細君の中にもちなどを失敬してはちょうだいし、ちょうだいしては失敬している。おさんばかりじゃない現に上品なしつけを受けつつあると細君からふいちようせられている子供ですらこの傾向がある。四、五日まえのことであったが、二人の子供がばかに早くから目をさまして、まだ主人夫婦の寝ているあいだに向かい合うて食卓に着いた。彼らは毎朝主人の食うパンのいくぶんに、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょうどとうつぼが卓の上に置かれてさじさえ添えてあった。いつものように砂糖を分配してくれる者がないので、大きいほうがやがて壺の中から一匙の砂糖をすくい出して自分のさらの上へあけた。すると小さいのが姉のしたとおり同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。しばらく両人ふたりはにらみ合っていたが、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた。小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。すると姉がまた一杯すくった。妹も負けずに一杯を付加した。姉がまた壺へ手をかける、妹がまた匙をとる。見ているに一杯一杯一杯と重なって、ついには両人の皿には山盛りの砂糖がうずたかくなって、壺の中には一匙の砂糖も余っておらんようになった時、主人が寝ぼけまなこをこすりながら寝室を出て来てせっかくしゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。こんなところをみると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫よりまさっているかもしれぬが、知恵はかえって猫より劣っているようだ。そんなに山盛りにしないうちに早くなめてしまえばいいにと思ったが、例のごとく、吾輩の言うことなどは通じないのだから、気の毒ながらおはちの上から黙って見物していた。

 寒月君と出かけた主人はどこをどう歩いたものか、その晩おそく帰って来て、翌日食卓についたのは九時ごろであった。例のお櫃の上から拝見していると、主人は黙ってぞうを食っている。代えては食い、代えては食う。餠の切れは小さいが、なんでも六切れか七切れ食って、最後の一切れをわんの中へ残して、もうよそうと箸を置いた。他人がそんなわがままをすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り回して得意なる彼は、濁ったしるの中に焦げただれた餠のがいを見て平気ですましている。細君が戸袋の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は「それはきかないから飲まん」と言う。「でもあなたでんぷんしつのものにはたいへん効能があるそうですから、召しあがったらいいでしょう」と飲ませたがる。「澱粉だろうがなんだろうがだめだよ」とがんに出る。「あなたはほんとにあきっぽい」と細君がひとり言のように言う。「あきっぽいのじゃない薬がきかんのだ」「それだってせんだってじゅうはたいへんによくきくよくきくとおっしゃって毎日毎日あがったじゃありませんか」「こないだうちはきいたのだよ、このごろはきかないのだよ」とついのような返事をする。「そんなに飲んだりやめたりしちゃ、いくら効能のある薬でもきく気づかいはありません、もう少し辛抱がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えたおさんを顧みる。「それはほんとうのところでございます。もう少し召しあがってごらんにならないと、とてもい薬か悪い薬かわかりますまい」とおさんは一も二もなく細君の肩を持つ。「なんでもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか。黙っていろ」「どうせ女ですわ」と細君がタカジヤスターゼを主人の前へ突きつけてぜひ詰め腹を切らせようとする。主人はなんにも言わず立って書斎へはいる。細君とおさんは顔を見合わせてにやにやと笑う。こんな時にあとからくっついて行ってひざの上へ乗ると、たいへんな目に会わされるから、そっと庭から回って書斎の縁側へ上がって障子のすきからのぞいてみると、主人はエピクテタスとかいう人の本をひらいて見ておった。もしそれがいつものとおりわかるならちょっとえらいところがある。五、六分するとその本をたたきつけるように机の上へほうり出す。おおかたそんなことだろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳を出してしものようなことを書きつけた。


  寒月と、うえいけはたかんへんを散歩。池の端のまちあいで芸者がすそようの春着を着て羽根をついていた。衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。なんとなくうちの猫に似ていた。


 なにも顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾輩だってどこへ行って顔さえってもらやあ、そんなに人間と違ったところはありゃしない。人間はこううぬぼれているから困る。


  ほうたんかどを曲がるとまた一人芸者が来た。これは背のすらりとしたなで肩のかつこうよくできあがった女で、着ているうすむらさき衣服きものも素直に着こなされて上品にみえた。白い歯を出して笑いながら「げんちゃんゆうべは──ついいそがしかったもんだから」と言った。ただしその声はたびがらすのごとくしゃがれておったので、せっかくのふうさいも大いに下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るもめんどうになって、ふところ手のままなりみちへ出た。寒月はなんとなくそわそわしているごとくみえた。


 人間の心理ほどしがたいものはない。この主人の今の心はおこっているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書にいちどうの慰安を求めつつあるのか、ちっともわからない。世の中を冷笑しているのか、世の中へまじりたいのだか、くだらぬことにかんしゃくを起こしているのか、ぶつがいに超然としているのだかさっぱりけんとうがつかぬ。猫などはそこへゆくと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、おこる時は一生懸命におこり、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものはけっしてつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかもしれないが、我ら猫属に至るとぎようじゆうこうそう尿にようことごとく真正の日記であるから、べつだんそんなめんどうなかずをして、おのれのしんめんもくを保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら縁側に寝ているまでのことさ。


  神田の某亭でばんさんを食う。久しぶりでまさむねを二、三杯飲んだら、けさは胃の具合がたいへんいい。胃弱にはばんしやくが一番だと思う。タカジヤスターゼはむろんいかん。だれがなんと言ってもだめだ。どうしたってきかないものはきかないのだ。


 むやみにタカジヤスターゼを攻撃する。ひとりでけんかをしているようだ。けさのかんしゃくがちょっとここへ尾を出す。人間の日記の本色はこういうへんに存するのかもしれない。


  せんだって○○はあさめしを廃すると胃がよくなると言うたから 二、三朝飯をやめてみたが腹がぐうぐう鳴るばかりで効能はない。△△は ぜひこうの物をてと忠告した。彼の説によるとすべて胃病の原因はつけ物にある。つけ物さえ断てば胃病の源をからすわけだから本復は疑いなしという論法であった。それから一週間ばかり香の物に箸を触れなかったがべつだんのげんも見えなかったから近ごろはまた食い出した。××に聞くとそれはあんぷくもみりように限る。ただし普通のではゆかぬ。みながわりゆうというりゆうなもみ方で一、二度やらせればたいていの胃病は根治できる。やすそくけんもたいへんこのあんじゆつを愛していた。さかもとりようのようなごうけつでも時々は治療をうけたというから、さっそくかみぎしまで出かけてもましてみた。ところが骨をもまなければなおらぬとか、ぞうの位置を一度てんどうしなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷なもみ方をやる。あとでからだが綿のようになってこんすいびようにかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。A君はぜひ固体形を食うなと言う。それから、一日牛乳ばかり飲んで暮らしてみたが、この時は腸の中でどぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかった。B氏はおうかくまくで呼吸して内臓を運動させれば自然と胃の働きが健全になるわけだからためしにやってごらんという。これも多少やったがなんとなくふくちゆうが不安で困る。それに時々思い出したように一心不乱にかかりはするものの五、六分たつと忘れてしまう。忘れまいとすると横膈膜が気になって本を読むことも文章を書くこともできぬ。美学者のめいていがこのていを見て、さんのついた男じゃあるまいしよすがいいとひやかしたからこのごろはよしてしまった。C先生はを食ったらよかろうと言うから、さっそくをかわるがわる食ったが、これは腹が下るばかりでなんらの効能もなかった。は年来の胃弱をなおすためにできうる限りの方法を講じてみたがすべてだめである。ただゆうべ寒月と傾けた三杯の正宗はたしかにききめがある。これからは毎晩二、三杯ずつ飲むことにしよう。


 これもけっして長くつづくことはあるまい。主人の心は吾輩の目玉のように間断なく変化している。何をやっても長もちのしない男である。その上日記の上で胃病をこんなに心配しているくせに、表向きは大いにやせ我慢をするからおかしい。せんだってその友人でなにがしという学者が尋ねて来て、一種の見地から、すべての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果にほかならないという議論をした。だいぶ研究したものとみえて、条理がめいせきで秩序が整然として立派な説であった。気の毒ながらうちの主人などはとうていこれをはんばくするほどの頭脳も学問もないのである。しかし自分が胃病で苦しんでいる際だから、なんとかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思ったものとみえて、「君の説はおもしろいが、あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であるといったような、見当違いのあいさつをした。すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」ときめつけたので主人はもくねんとしていた。かくのごとく虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でないほうがいいとみえて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっとこつけいだ。考えてみるとけさ雑煮をあんなにたくさん食ったのもゆうべ寒月君と正宗をひっくり返した影響かもしれない。吾輩もちょっと雑煮が食ってみたくなった。

 吾輩は猫ではあるがたいていのものは食う。車屋の黒のように横町のさかな屋まで遠征をする気力はないし、しんみちげんきんの師匠のとこののようにぜいたくはむろん言える身分でない。したがって存外きらいは少ないほうだ。子供の食いこぼしたパンも食うし、餠菓子のあんもなめる。香の物はすこぶるまずいが経験のためたくあんを二切ればかりやったことがある。食ってみると妙なもので、たいていのものは食える。あれはいやだ、これはいやだと言うのはぜいたくなわがままでとうてい教師のうちにいる猫などの口にすべきところでない。主人の話によるとフランスにバルザックという小説家があったそうだ。この男が大のぜいたく屋で──もっともこれは口のぜいたく屋ではない、小説家だけに文章のぜいたくを尽くしたということである。バルザックがある日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけてみたが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出かけた。友人はもとよりなんにも知らずに連れ出されたのであるが、バルザックはかねて自分の苦心している名を目つけようという考えだから往来へ出るとなんにもしないで店先の看板ばかり見て歩いている。ところがやはり気に入った名がない。友人を連れてむやみに歩く。友人はわけがわからずにくっついて行く。彼らはついに朝から晩までパリを探険した。その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとその看板にマーカスという名が書いてある。バルザックは手をうって「これだこれだこれに限る。マーカスはいい名じゃないか。マーカスの上へZというかしらをつける、すると申しぶんのない名ができる。Zでなくてはいかん。Z.Marcusはじつにうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでもなんとなくわざとらしいところがあっておもしろくない。ようやくのことで気に入った名ができた」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人うれしがったというが、小説中の人間の名前をつけるにいちんちパリを探険しなくてはならぬようではずいぶんすうのかかる話だ。ぜいたくもこのくらいできれば結構なものだが吾輩のようにてき主人を持つ身の上ではとてもそんな気は出ない。なんでもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇のしからしむるところであろう。だから今雑煮が食いたくなったのもけっしてぜいたくの結果ではない。なんでも食える時に食っておこうという考えから、主人の食いあました雑煮がもしや台所に残っていはすまいかと思い出したからである。……台所へ回ってみる。

 けさ見たとおりの餠が、けさ見たとおりの色で椀の底にこうちやくしている。白状するが餠というものは今まで一ぺんも口に入れたことがない。見るとうまそうにもあるし、また少しはが悪くもある。前足で上にかかっている菜っぱをかき寄せる。つめを見ると餠のうわかわが引きかかってねばねばする。かいでみるとかまの底の飯をおはちへ移す時のようなにおいがする。食おうかな、やめようかな、とあたりを見回す。幸か不幸かだれもいない。おさんは暮れも春も同じような顔をして羽根をついている。子供は奥座敷で「なんとおっしゃるうさぎさん」を歌っている。食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと来年までは餠というものの味を知らずに暮らしてしまわねばならぬ。吾輩はこのせつに猫ながら一つの真理を感得した。「得難き機会はすべての動物をして、好まざることをもあえてせしむ」吾輩はじつをいうとそんなに雑煮を食いたくはないのである。否わんていの様子を熟視すればするほどが悪くなって、食うのがいやになったのである。この時もしおさんでも勝手口をあけたなら、奥の子供の足音がこちらへ近づくのを聞きえたなら、吾輩は惜しげもなく椀を見捨てたろう、しかも雑煮のことは来年まで念頭に浮かばなかったろう。ところがだれも来ない、いくらちゆうちよしていてもだれも来ない。早く食わぬか食わぬかとさいそくされるような心持ちがする。吾輩は椀の中をのぞきこみながら、早くだれか来てくれればいいと念じた。やはりだれも来てくれない。吾輩はとうとう雑煮を食わなければならぬ。最後にからだ全体の重量を椀の底へ落とすようにして、あぐりと餠のかどを一寸ばかり食い込んだ。このくらい力を込めて食いついたのだから、たいていなものならかみ切れるわけだが、驚いた! もうよかろうと思って歯を引こうとすると引けない。もう一ぺんかみ直そうとすると動きがとれない。餠は魔物だなと感づいた時はすでにおそかった。沼へでも落ちた人が足を抜こうとあせるたびにぶくぶく深く沈むように、かめばかむほど口が重くなる、歯が動かなくなる。歯ごたえはあるが、歯ごたえがあるだけでどうしても始末をつけることができない。美学者迷亭先生がかつて吾輩の主人を評して君は割り切れない男だと言ったことがあるが、なるほどうまいことを言ったものだ。この餠も主人と同じようにどうしても割り切れない。かんでもかんでも、三で十を割るごとくじんらいざいかたのつくはあるまいと思われた。このはんもんの際吾輩は覚えず第二の真理にほうちやくした。「すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」真理はすでに二つまで発明したが、餠がくっついているのでごうも愉快を感じない。歯が餠の肉に吸収されて、抜けるように痛い。早く食い切って逃げないとおさんが来る。子供の唱歌もやんだようだ、きっと台所へ駆け出して来るに相違ない。煩悶の極しっぽをぐるぐる振ってみたがなんらの効能もない、耳を立てたりねかしたりしたがだめである。考えてみると耳としっぽは餠となんらの関係もない。要するに振り損の、立て損の、ねかし損であると気がついたからやめにした。ようやくのことこれは前足の助けを借りて餠を払い落とすに限ると考えついた。まず右のほうをあげて口の周囲をなで回す。なでたくらいで割り切れるわけのものではない。今度は左のほうを伸ばして口を中心として急激に円を画してみる。そんなまじないで魔は落ちない。辛抱がかんじんだと思って左右かわるがわるに動かしたがやはり依然として歯は餠の中にぶらさがっている。ええめんどうだと両足を一度に使う。すると不思議なことにこの時だけはあと足二本で立つことができた。なんだか猫でないような感じがする。猫であろうが、あるまいがこうなったひにゃあかまうものか、なんでも餠の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔じゅう引っかき回す。前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。倒れかかるたびにあと足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいるわけにもゆかんので、台所じゅうあちら、こちらと飛んで回る。我ながらよくこんなに器用に立っていられたものだと思う。第三の真理がばくに現前する。「危うきに臨めば平常なしあたわざるところのものをなしあとう。これをてんゆうという」幸いに天祐をけたる吾輩が一生懸命餠の魔と戦っていると、なんだか足音がして奥より人の来るようなあいである。ここで人に来られてはたいへんだと思って、いよいよやっきとなって台所をかけ回る。足音はだんだん近づいてくる。ああ残念だが天祐が少し足りない。とうとう子供に見つけられた。「あら猫がお雑煮を食べて踊りを踊っている」と大きな声をする。この声を第一に聞きつけたのがおさんである。羽根も羽子板もうちやって勝手から「あらまあ」と飛び込んで来る。細君はちりめんの紋付きで「いやな猫ねえ」と仰せられる。主人さえ書斎から出て来て「このばかやろう」と言った。おもしろいおもしろいと言うのは子供ばかりである。そうしてみんな申し合わせたようにげらげら笑っている。腹は立つ、苦しくはある、踊りはやめるわけにゆかぬ、弱った。ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「おかあ様、猫もずいぶんね」と言ったのできようらんとうになんとかするという勢いでまたたいへん笑われた。人間の同情に乏しい実行もだいぶ見聞したが、この時ほど恨めしく感じたことはなかった。ついに天祐もどっかへ消えうせて、在来のとおり四つばいになって、目をしろくろするの醜態を演ずるまでに閉口した。さすが見殺しにするのも気の毒とみえて「まあ餠をとってやれ」と主人がおさんに命ずる。おさんはもっと踊らせようじゃありませんかという目つきで細君を見る。細君は踊りは見たいが、殺してまで見る気はないので黙っている。「とってやらんと死んでしまう、早くとってやれ」と主人は再び下女を顧みる。おさんはごちそうを半分食べかけて夢から起こされた時のように、気のない顔をして餠をつかんでぐいと引く。寒月君じゃないが前歯がみんな折れるかと思った。どうも痛いの痛くないのって、餠の中へ堅く食い込んでいる歯を情け容赦もなく引っぱるのだからたまらない。吾輩が「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」という第四の真理を経験して、けろけろとあたりを見回した時には、家人はすでに奥座敷へはいってしまっておった。

 こんな失敗をした時には内にいておさんなんぞに顔を見られるのはなんとなくばつが悪い。いっそのこと気をかえて新道の二弦琴のお師匠さんとこでも訪問しようと台所から裏へ出た。三毛子はこの近辺で有名なぼうである。吾輩は猫には相違ないが物の情けは一通り心得ている。うちで主人の苦い顔を見たり、おさんのけんつくを食って気分がすぐれん時は必ずこの異性のほうゆうのもとを訪問していろいろな話をする。すると、いつのまにか心がせいせいして今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生まれ変わったような心持ちになる。女性の影響というものはじつにばくだいなものだ。すぎがきのすきから、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく縁側にすわっている。その背中の丸さかげんがいうにいわれんほど美しい。曲線の美を尽くしている。しっぽの曲がりかげん、足の折り具合、ものげに耳をちょいちょい振るけしきなどもとうてい形容ができん。ことによく日の当たる所に暖かそうに、ひんよく控えているものだから、からだは静粛端正の態度を有するにもかかわらず、ビロードを欺くほどのなめらかな満身の毛は春の光を反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。吾輩はしばらくこうこつとしてながめていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「三毛子さん三毛子さん」と言いながら前足で招いた。三毛子は「あら先生」と縁をおりる。赤い首輪につけた鈴がちゃらちゃらと鳴る。おや正月になったら鈴までつけたな、どうもいいだと感心しているに、吾輩のそばに来て「あら先生、おめでとう」と尾を左へ振る。われら猫属間でお互いにあいさつをする時には尾を棒のごとく立てて、それを左へぐるりと回すのである。町内で吾輩を先生と呼んでくれるのはこの三毛子ばかりである。吾輩は前回断わったとおりまだ名はないのであるが、教師のうちにいるものだから三毛子だけは尊敬して先生先生と言ってくれる。吾輩も先生と言われてまんざら悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。「やあおめでとう、たいそう立派におしようができましたね」「ええ去年の暮れお師匠さんに買っていただいたの、いいでしょう」とちゃらちゃら鳴らしてみせる。「なるほどいいですな、吾輩などは生まれてから、そんな立派なものは見たことがないですよ」「あらいやだ、みんなぶらさげるのよ」とまたちゃらちゃら鳴らす。「いいでしょう、あたしうれしいわ」とちゃらちゃらちゃらちゃらつづけざまに鳴らす。「あなたのうちのお師匠さんはたいへんあなたをかあいがっているとみえますね」とわが身に引きくらべてあんきんせんの意をもらす。三毛子は無邪気なものである。「ほんとよ、まるで自分の子供のようよ」とあどけなく笑う。猫だって笑わないとは限らない。人間は自分よりほかに笑える者がないように思っているのは間違いである。吾輩が笑うのは鼻のあなを三角にしてぼとけを震動させて笑うのだから人間にはわからぬはずである。「いったいあなたのとこの御主人はなんですか」「あら御主人だって、妙なのね。お師匠さんだわ。二弦琴のお師匠さんよ」「それは吾輩も知っていますがね。その御身分は何なんです。いずれ昔は立派なかたなんでしょうな」「ええ」


  君を待つひめまつ……


 障子の内でお師匠さんが二弦琴をひき出す。「いい声でしょう」と三毛子は自慢する。「いいようだが、吾輩にはよくわからん。ぜんたいなんというものですか」「あれ? あれはなんとかってものよ。お師匠さんはあれが大好きなの。……お師匠さんはあれで六十二よ。ずいぶん丈夫だわね」六十二で生きているくらいだから丈夫といわねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少しが抜けたようだがべつだん名答も出てこなかったからしかたがない。「あれでも、もとは身分がたいへんよかったんだって。いつでもそうおっしゃるの」「へえもとはなんだったんです」「なんでもてんしよういんさまゆうひつの妹のお嫁に行った先のおっかさんのおいの娘なんだって」「なんですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹のお嫁に行った……」「なるほど。少し待ってください。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしいわかりました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「お嫁に行った」「妹のお嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹のお嫁に行った先の」「おっかさんの甥の娘なんですとさ」「おっかさんの甥の娘なんですか」「ええ。わかったでしょう」「いいえ。なんだか混雑して要領を得ないですよ。つまるところ天璋院様のなんになるんですか」「あなたもよっぽどわからないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの甥の娘なんだって、さっきから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかりわかっているんですがね」「それがわかりさえすればいいんでしょう」「ええ」としかたがないから降参をした。我々は時とすると理詰めのうそをつかねばならぬことがある。

 障子のうちで二弦琴のがぱったりやむと、お師匠さんの声で「三毛や三毛や御飯だよ」と呼ぶ。三毛子はうれしそうに「あらお師匠さんが呼んでいらっしゃるから、あたし帰るわ、よくって?」悪いと言ったってしかたがない。「それじゃまた遊びにいらっしゃい」と鈴をちゃらちゃら鳴らして庭先までかけて行ったが急にもどって来て「あなたたいへん色が悪くってよ。どうかしやしなくって」と心配そうに問いかける。まさか雑煮を食って踊りを踊ったとも言われないから「なにべつだんのこともありませんが、少し考え事をしたら頭痛がしてね。あなたと話でもしたら直るだろうと思ってじつは出かけて来たのですよ」「そう。お大事になさいまし。さようなら」少しはなごり惜しげにみえた。これで雑煮の元気もさっぱりと回復した。いい心持ちになった。帰りに例の茶園を通り抜けようと思って霜柱のとけかかったのを踏みつけながらけんにんのくずれから顔を出すとまた車屋の黒が枯れ菊の上に背を山にしてあくびをしている。近ごろは黒を見て恐怖するような吾輩ではないが、話をされるとめんどうだから知らぬ顔をして行き過ぎようとした。黒の性質としてひとがおのれをけいしたと認むるや否やけっして黙っていない。「おい、名なしのごん、近ごろじゃおつう高く留まってるじゃあねえか。いくら教師の飯を食ったって、そんな高慢ちきなつらあするねえ。人つけおもしろくもねえ」黒は吾輩の有名になったのを、まだ知らんとみえる。説明してやりたいがとうていわかるやつではないから、まず一応の挨拶をしてできうるかぎり早く御免こうむるにしくはないと決心した。「いや黒君おめでとう。相変わらず元気がいいね」としっぽを立てて左へくるりと回す。黒はしっぽを立てたぎり挨拶もしない。「なにおめでてえ? 正月でおめでたけりゃ、おめえなんざあねんが年じゅうおめでてえほうだろう。気をつけろい、このふいごの向こうづらめ」ふいごの向こうづらという句はの言語であるようだが、吾輩には了解ができなかった。「ちょっと伺うがふいごの向こうづらというのはどういう意味かね」「へん、てめえがあくたいをつかれてるくせに、そのわけを聞きゃ世話あねえ、だから正月野郎だってことよ」正月野郎は詩的であるが、その意味に至るとふいごのなんとかよりもいっそうめいりような文句である。参考のためちょっと聞いておきたいが、聞いたって明瞭な答弁は得られぬにきまっているから、めんと向かったまま無言で立っておった。いささか手持ちぶさたのていである。すると突然黒のうちのかみさんが大きな声を張り揚げて「おやたなへ上げておいたしやけがない。たいへんだ。またあの黒のちきしようが取ったんだよ。ほんとに憎らしい猫だっちゃあありゃあしない。今に帰って来たら、どうするかみていやがれ」とどなる。はつはるののどかな空気を無遠慮に震動させて、枝を鳴らさぬ君がみ代を大いに俗了してしまう。黒はどなるなら、どなりたいだけどなっていろと言わぬばかりに横着な顔をして、四角なあごを前へ出しながら、あれを聞いたかと合図をする。今までは黒との応対で気がつかなかったが、見ると彼の足の下には一切れ二銭三厘に相当するしやけの骨がどろだらけになってころがっている。「君相変わらずやってるな」と今までのゆきがかりは忘れて、つい感投詞を奉呈した。黒はそのくらいなことではなかなかきげんを直さない。「何がやってるでえ、このやろう。しゃけの一切れや二切れで相変わらずたあなんだ。人をみくびったことを言うねえ。はばかりながら車屋の黒だあ」と腕まくりの代わりに右の前足をさかに肩のへんまでかき上げた。「君が黒君だということは、初めから知ってるさ」「知ってるのに、相変わらずやってるたあなんだ。なんだてえことよ」と熱いのをしきりに吹きかける。人間ならむなぐらをとられて小突き回されるところである。少々へきえきして内心困ったことになったなと思っていると、再び例のかみさんの大声が聞こえる。「ちょいと西にしかわさん、おい西川さんてば、用があるんだよこのひたあ。牛肉を一斤すぐ持って来るんだよ。いいかい、わかったかい、牛肉の堅くないところを一斤だよ」と牛肉注文の声がりんせきばくを破る。「へんねんに一ぺん牛肉をあつらえると思って、いやに大きな声を出しゃあがらあ。牛肉一斤が隣近所へ自慢なんだから始末におえねえあまだ」と黒はあざけりながら四つ足を踏ん張る。吾輩は挨拶のしようもないから黙って見ている。「一斤ぐらいじゃあ、承知ができねえんだが、しかたがねえ、いいから取っときゃ、今に食ってやらあ」と自分のためにあつらえたもののごとく言う。「今度はほんとうのごちそうだ。結構結構」と吾輩はなるべく彼を帰そうとする。「おめっちの知ったことじゃねえ。黙っていろ。うるせえや」と言いながら突然あと足でしもばしらのくずれたやつを吾輩の頭へばさりと浴びせかける。吾輩が驚いて、からだの泥を払っている間に黒は垣根をくぐって、どこかへ姿を隠した。おおかた西川のぎゆうをねらいに行ったものであろう。

 うちへ帰ると座敷の中が、いつになく春めいて主人の笑い声さえ陽気に聞こえる。はてなと明け放した縁側から上がって主人のそばへよってみると見慣れぬ客が来ている。頭をきれいに分けて、もめんの紋付きの羽織にくらはかまを着けてしごくまじめそうなしよせいていの男である。主人の手あぶりの角を見るとしゆんけいりのまき煙草タバコれと並んでとうふう君を紹介いたしそろみずしまかんげつという名刺があるので、この客の名前も、寒月君の友人であるということも知れた。しゆかくの対話は途中からであるから前後がよくわからんが、なんでも吾輩が前回に紹介した美学者迷亭君のことに関しているらしい。

 「それでおもしろい趣向があるからぜひいっしょに来いとおっしゃるので」と客は落ち付いて言う。「なんですか、その西洋料理へ行って昼飯を食うのについて趣向があるというのですか」と主人は茶をつぎ足して客の前へ押しやる。「さあ、その趣向というのが、その時は私にもわからなかったんですが、いずれあのかたのことですから、何かおもしろい種があるのだろうと思いまして……」「いっしょに行きましたか、なるほど」「ところが驚いたのです」主人はそれみたかといわぬばかりに、ひざの上に乗ったわが輩の頭をぽかとたたく。少し痛い。「またばかなちやばんみたようなことなんでしょう。あの男はあれが癖でね」と急にアンドレア・デル・サルト事件を思い出す。「へへー。君何か変わったものを食おうじゃないかとおっしゃるので」「何を食いました」「まずこんだてを見ながらいろいろ料理についてのお話がありました」「あつらえない前にですか」「ええ」「それから」「それから首をひねってボイの方を御覧になって、どうも変わったものもないようだなとおっしゃるとボイは負けぬ気でかものロースか小牛のチャップなどはいかがですと言うと、先生は、そんな月並みを食いにわざわざここまで来やしないとおっしゃるんで、ボイは月並みという意味がわからんものですから妙な顔をして黙っていましたよ」「そうでしょう」「それから私の方をお向きになって、君フランスやイギリスへ行くとずいぶんてんめい調ちようまんよう調ちようが食えるんだが、ほんじゃどこへ行ったってはんでおしたようで、どうも西洋料理へはいる気がしないというような大気炎で──ぜんたいあのかたは洋行なすったことがあるのですかな」「なに迷亭が洋行なんかするもんですか、そりゃ金もあり、時もあり、行こうと思えばいつでも行かれるんですがね。おおかたこれから行くつもりのところを、過去に見立てたしゃれなんでしょう」と主人は自分ながらうまいことを言ったつもりで誘い出し笑いをする。客はさまで感服した様子もない。「そうですか、私はまたいつのまに洋行なさったかと思って、ついまじめに拝聴していました。それに見て来たようになめくじのソップのお話やかえるのシチュの形容をなさるものですから」「そりゃだれかに聞いたんでしょう、うそをつくことはなかなか名人ですからね」「どうもそのようで」とびんすいせんをながめる。少しく残念のけしきにもとられる。「じゃ趣向というのは、それなんですね」と主人が念を押す。「いえそれはほんの冒頭なので、本論はこれからなのです」「ふうん」と主人は好奇的な感投詞をはさむ。「それから、とてもなめくじや蛙は食おうっても食えやしないから、まあぐらいなところで負けとくことにしようじゃないか君と御相談なさるものですから、私はついなんの気なしに、それがいいでしょう、と言ってしまったので」「へー、とちめんぼうは妙ですな」「ええ全く妙なのですが、先生があまりまじめだものですから、つい気がつきませんでした」とあたかも主人に向かってこつをわびているようにみえる。「それからどうしました」と主人はとんじやくに聞く。客の謝罪にはいっこう同情をひようしておらん。「それからボイにおいにんまえ持って来いと言うと、ボイがですかと聞き直しましたが、先生はますますまじめな顔でじゃないだと訂正されました」「なある。そのという料理はいったいあるんですか」「さあ私も少しおかしいとは思いましたがいかにも先生が沈着であるし、その上あのとおりの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、私も口を添えてだとボイに教えてやりました」「ボイはどうしました」「ボイがね、今考えるとじつにこつけいなんですがね、しばらく思案いたしましてね、はなはだお気の毒様ですがこんにちはおあいにく様でならおふたまえすぐにできますと言うと、先生は非常に残念な様子で、それじゃせっかくここまで来たかいがない。どうかを都合して食わせてもらうわけにはゆくまいかと、ボイに二十銭銀貨をやられると、ボイはそれではともかくも料理番と相談して参りましょうと奥へ行きましたよ」「たいへんが食いたかったとみえますね」「しばらくしてボイが出て来てまことにおあいにくで、おあつらえならこしらえますが少々時間がかかります、と言うと迷亭先生は落ち付いたもので、どうせ我々は正月でひまなんだから、少し待って食ってゆこうじゃないかと言いながらポッケットから葉巻きを出してぷかりぷかり吹かし始められたので、私もしかたがないから、ふところから日本新聞を出して読みだしました、するとボイはまた奥へ相談に行きましたよ」「いやに手数がかかりますな」と主人は戦争の通信を読むくらいの意気込みで席をすすめる。「するとボイがまた出て来て、近ごろはの材料がふつていかめへ行ってもよこはまの十五番へ行っても買われませんから当分のあいだはおあいにく様でと気の毒そうに言うと、先生はそりゃ困ったな、せっかく来たのになあと私の方を御覧になってしきりに繰り返さるるので、私も黙っているわけにもまいりませんから、どうもかんですな、遺憾きわまるですなと調子を合わせたのです」「ごもっともで」と主人が賛成する。何がごもっともだか吾輩にはわからん。「するとボイも気の毒だとみえて、そのうち材料が参りましたら、どうか願いますってんでしょう。先生が材料は何を使うかねと問われるとボイはへへへへと笑って返事をしないんです。材料は日本派の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボイはへえさようで、それだものだから近ごろは横浜へ行っても買われませんので、まことにお気の毒様と言いましたよ」「アハハハそれが落ちなんですか、こりゃおもしろい」と主人はいつになく大きな声で笑う。ひざが揺れて吾輩は落ちかかる。主人はそれにも頓着なく笑う。アンドレア・デル・サルトにかかったのは自分一人でないということを知ったので急に愉快になったものとみえる。「それから二人で表へ出ると、どうだ君うまくいったろう、とちめんぼうを種に使ったところがおもしろかろうと大得意なんです。敬服の至りですと言ってお別れしたようなもののじつは昼飯の時刻が延びていたのでたいへん空腹になって弱りましたよ」「それは御迷惑でしたろう」と主人ははじめて同情を表する。これには吾輩も異存はない。しばらく話がとぎれて吾輩のを鳴らす音が主客の耳に入る。

 東風君は冷たくなった茶をぐっと飲み干して「じつはきょう参りましたのは、少々先生にお願いがあって参ったので」と改まる。「はあ、何か御用で」と主人も負けずにすます。「御承知のとおり、文学美術が好きなものですから……」「結構で」と油をさす。「同志だけがよりましてせんだってから朗読会というのを組織しまして、まいげつ一回会合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりで、すでに第一回は去年の暮れに開いたくらいであります」「ちょっと伺っておきますが、朗読会というと何かでもつけて、しい文章の類を読むように聞こえますが、いったいどんなふうにやるんです」「まあ初めはじんの作から始めて、おいおいは同人の創作なんかもやるつもりです」「古人の作というとはくらんてんこうのようなものででもあるんですか」「いいえ」「そんしゆんぷうていきよくの種類ですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「せんだってはちかまつしんじゆうものをやりました」「近松? あのじようの近松ですか」近松に二人はない。近松といえば戯曲家の近松にきまっている。それを聞き直す主人はよほど愚だと思っていると、主人はなんにもわからずに吾輩の頭を丁寧になでている。やぶにらみからほれられたと自認している人間もある世の中だからこのくらいのびゆうはけっして驚くに足らんとなでらるるがままにすましていた。「ええ」と答えて東風子は主人の顔色をうかがう。「それじゃ一人で朗読するのですか、または役割をきめてやるんですか」「役をきめて掛け合いでやってみました。その主意はなるべく作中の人物に同情を持ってその性格を発揮するのを第一として、それに手まねや身ぶりを添えます。せりふはなるべくその時代の人を写し出すのがしゆで、お嬢さんでもでつでも、その人物が出て来たようにやるんです」「じゃ、まあ芝居みたようなものじゃありませんか」「ええ衣装とかきわりがないくらいなものですな」「失礼ながらうまくゆきますか」「まあ第一回としては成功したほうだと思います」「それでこの前やったとおっしゃる心中物というと」「その、船頭がお客を乗せてよしわらへ行くとこなんで」「たいへんな幕をやりましたな」と教師だけにちょっと首を傾ける。鼻から吹き出したの煙が耳をかすめて顔の横手へ回る。「なあに、そんなにたいへんなこともないんです、登場の人物はお客と、船頭と、おいらんなかとやり手とけんばんだけですから」と東風子は平気なものである。主人は花魁という名を聞いてちょっと苦い顔をしたが、仲居、やり手、見番という術語について明瞭の知識がなかったとみえてまず質問を呈出した。「仲居というのはしようにあたるものですかな」「まだよく研究はしてみませんが仲居は茶屋の下女で、やり手というのがおんなの助役みたようなものだろうと思います」東風子はさっき、その人物が出てくるようにこわいろを使うと言ったくせにやり手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。「なるほど仲居は茶屋にれいぞくする者で、やり手は娼家にする者ですね。次にというのは人間ですかまたは一定の場所をさすのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」「見番はなんでも男の人間だと思います」「何をつかさどっているんですかな」「さあそこまではまだ調べが届いておりません。そのうち調べてみましょう」これで掛け合いをやったひにはとんちんかんなものができるだろうと吾輩は主人の顔をちょっと見上げた。主人は存外まじめである。「それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか」「いろいろおりました。花魁が法学士のK君でしたが、くちひげをはやして、女の甘ったるいせりふを使うのですからちょっと妙でした。それにその花魁がしやくを起こすところがあるので……」「朗読でも癪を起こさなくっちゃ、いけないんですか」と主人は心配そうに尋ねる。「ええとにかく表情がだいじですから」と東風子はどこまでも文芸家の気でいる。「うまく癪が起こりましたか」と主人は警句を吐く。「癪だけは第一回には、ちと無理でした」と東風子も警句を吐く。「ところで君はなんの役割でした」と主人が聞く。「私は船頭」「へー、君が船頭」君にして船頭が務まるものならぼくにも見番ぐらいはやれるといったような語気をもらす。やがて「船頭は無理でしたか」とお世辞のないところを打ち明ける。東風子はべつだんしゃくにさわった様子もない。やはり沈着な調ちようで「その船頭でせっかくの催しもりゆうとうに終わりました。じつは会場の隣りに女学生が四、五人下宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読会があるということを、どこかで探知して会場の窓下へ来て傍聴していたものとみえます。私が船頭の声色を使って、ようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっていると、……つまり身ぶりがあまり過ぎたのでしょう、今までこらえていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚いたことも驚いたし、きまりが悪いことも悪いし、それで腰を折られてから、どうしてもあとが続けられないので、とうとうそれぎりで散会しました」第一回としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずにはいられない。覚えずぼとけがごろごろ鳴る。主人はいよいよ柔らかに頭をなでてくれる。人を笑ってかあいがられるのはありがたいが、いささか不気味なところもある。「それはとんだことで」と主人は正月早々ちようを述べている。「第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、きょう出ましたのも全くそのためで、じつは先生にも一つ御入会の上御尽力を仰ぎたいので」「ぼくにはとても癪なんか起こせませんよ」と消極的の主人はすぐに断わりかける。「いえ、癪などは起こしていただかんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が」と言いながら紫のふろしきからだいじそうに小菊版の帳面を出す。「これへどうか御署名の上なついんを願いたいので」と帳面を主人のひざの前へ開いたまま置く。見ると現今知名な文学博士はかせ、文学士れんじゆうの名が行儀よく勢ぞろいをしている。「はあ賛成員にならんこともありませんが、どんな義務があるのですか」と先生はねんのていにみえる。「義務と申してべつだんぜひ願うこともないくらいで、ただお名前だけを御記入くださって賛成の意さえおひようしくださればそれで結構です」「そんならはいります」と義務のかからぬことを知るや否や主人は急に気軽になる。責任さえないということがわかっていればほんの連判状へでも名を書き入れますという顔つきをする。のみならずこう知名の学者が名前をつらねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんなことに出会ったことのない主人にとっては無上の光栄であるから返事の勢いはあるのも無理はない。「ちょっと失敬」と主人は書斎へいんをとりにはいる。吾輩はぼたりと畳の上へ落ちる。東風子はざらの中のカステラをつまんで一口にほおる。モゴモゴしばらくは苦しそうである。吾輩はけさのぞう事件をちょいと思い出す。主人が書斎からいんぎようを持って出て来た時は、東風子の胃の中にカステラが落ち付いた時であった。主人は菓子皿のカステラが一切れ足りなくなったことには気がつかぬらしい。もし気がつくとすれば、第一に疑われる者は吾輩であろう。

 東風子が帰ってから、主人が書斎に入って机の上を見ると、いつのまにか迷亭先生の手紙が来ている。

 「新年のぎよけいめでたく申し納めそろ。……」

 いつになく出がまじめだと主人が思う。迷亭先生の手紙にまじめなのはほとんどないので、このあいだなどは「その後べつに恋着せる婦人もこれなく、いずかたよりえんしよも参らず、まずまず無事に消光まかりありそろあいだ、はばかりながら御休心くださるべくそろ」というのが来たくらいである。それにくらべるとこの年始状は例外にも世間的である。

 「ちょっと参堂つかまつりたくそうらえども、大兄の消極主義に反して、できうる限り積極的方針をもって、この千古の新年を迎うる計画ゆえ、毎日毎日目の回るほどの多忙、御推察願い上げそろ……」

 なるほどあの男のことだから正月は遊び回るのにいそがしいに違いないと、主人は腹の中で迷亭君に同意する。

「昨日は一刻のひまをぬすみ、東風子にのごちそうをいたさんと存じそろところ、あいにく材料払底のためその意を果たさず、かんせんばんに存じそろ。……」

 そろそろ例のとおりになって来たと主人は無言で微笑する。

「明日は某男爵のかい、明後日は審美学協会の新年宴会、その明日はとり教授歓迎会、そのまた明日は……」

 うるさいなと、主人は読みとばす。

「右のごとく謡曲会、俳句会、短歌会、新体詩会等、会の連発にて当分のあいだは、のべつ幕無しに出勤いたしそろため、やむをえず賀状をもってはいすうの礼にかえそろだんあしからずゆうじよくだされたくそろ。……」

 べつだん来るにも及ばんさと、主人は手紙に返事をする。

「今度御光来の節は久しぶりにてばんさんでもきようしたき心得にそろかんちゆうなんの珍味もこれなくそうらえども、せめてはでもとただ今より心がけおりそろ……」

 まだを振り回している。失敬なと主人はちょっとむっとする。

「しかしは近ごろ材料払底のため、ことによると間に合いかねそろも計りがたきにつき、その節はじやくの舌でも御風味に入れ申すべくそろ。……」

 りようてんびんをかけたなと主人は、あとが読みたくなる。

「御承知のとおり孔雀一羽につき、したにくの分量は小指のなかばにも足らぬほどゆえけんたんなる大兄の胃袋をみたすためには……」

 うそをつけと主人はうちやったように言う。

「ぜひとも二、三十羽の孔雀を捕獲いたさざるべからずと存じそろ。しかるところ孔雀は動物園、あさくさはなしき等には、ちらほら見受けそうらえども、普通の鳥屋などにはいっこう見当たり申さず、苦心このことにそろ。……」

ひとりでかってに苦心しているのじゃないかと主人はごうも感謝の意を表しない。

「この孔雀の舌の料理は往昔ローマ全盛のみぎり、一時非常に流行いたしそろものにて、ごうしや風流の極度とへいぜいよりひそかに食指を動かしおりそろ次第りようさつくださるべくそろ……」

何が御諒察だ、ばかなと主人はすこぶる冷淡である。

「くだって十六、七世紀のころまでは全欧を通じて孔雀は宴席に欠くべからざる好味と相成りおりそろ。レスター伯がエリザベスじよこうをケニルウォースにしようだいいたしそろ節もたしか孔雀を使用いたしそろよう記憶いたしそろ。有名なるレンブラントが描きそろきようえんの図にも孔雀が尾を広げたるまま卓上に横たわりおりそろ……」

孔雀の料理史を書くくらいなら、そんなに多忙でもなさそうだと不平をこぼす。

「とにかく近ごろのごとくごちそうの食べ続けにては、さすがの小生も遠からぬうちに大兄のごとく胃弱と相成るはひつじよう……」

 大兄のごとくはよけいだ。何もぼくを胃弱の標準にしなくてもすむと主人はつぶやいた。

「歴史家の説によればローマ人は日に二度三度も宴会を開きそろよし。日に二度三度もほうじようしよくせんにつきそうらえばいかなる健胃の人にても消化機能に不調をかもすべく、したがって自然は大兄のごとく……」

 また大兄のごとくか、失敬な。

「しかるにぜいたくと衛生とを両立せしめんと研究を尽くしたる彼らは不相当に多量の滋味をむさぼると同時に胃腸を常態に保持するの必要を認め、ここに一の秘法を案出いたしそろ……」

 はてねと主人は急に熱心になる。

「彼らは食後必ず入浴いたしそろ。入浴後一種の方法によりて浴前にえんせるものをことごとくおうし、胃内をそういたしそろ。胃内かくせいの功を奏したるのちまた食卓につき、あくまで珍味を風好し、風好しおわればまた湯に入りてこれを吐出いたしそろ。かくのごとくすればこうぶつはむさぼり次第むさぼりそうろうもごうも内臓の諸機関に障害を生ぜず、一挙両得とはこれらのことを申すべきかと愚考いたしそろ……」

 なるほど一挙両得に相違ない。主人はうらやましそうな顔をする。

「二十世紀の今日交通のひんぱん、宴会の増加は申すまでもなく、軍国多事せいの第二年とも相成りそろおりから、じん戦勝国の国民は、ぜひともローマ人にならってこの入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着いたしそろことと自信いたしそろ。さもなくばせっかくの大国民も近き将来においてことごとく大兄のごとく胃病患者と相成ることとひそかに心痛まかりありそろ……」

 また大兄のごとくか、しゃくにさわる男だと主人が思う。

「この際吾人西洋の事情に通ずる者が古史伝説を考究し、すでに廃絶せる秘法を発見し、これを明治の社会に応用いたしそうらわばいわゆるわざわいぼうに防ぐのどくにも相成り平素いつらくをほしいままにいたしそろ御恩返しも相立ち申すべくと存じそろ……」

 なんだか妙だなと首をひねる。

「よってこのあいだじゆうよりギボン、モンセン、スミス等諸家の著述をしようりよういたしおりそうらえどもいまだに発見のたんしよをも見いだしえざるは残念の至りに存じそろ。しかし御存じのごとく小生は一度思い立ちそろことは成功するまではけっして中絶つかまつらざる性質にそうらえば嘔吐ほうを再興いたしそろも遠からぬうちと信じおりそろ次第。右は発見次第御報道つかまつるべくそろにつき、さよう御承知くださるべくそろ。ついてはさきに申し上げそろおよび孔雀の舌のごちそうも相成るべくは右発見後にいたしたく、さすれば小生の都合はもちろん、すでに胃弱の悩みおらるる大兄のためにも御便宜かと存じそろ草々不備」




 なんだとうとうかつがれたのか、あまり書き方がまじめだものだからついしまいまで本気にして読んでいた。新年草々こんないたずらをやる迷亭はよっぽどひまじんだなあと主人は笑いながら言った。

 それから四、五日はべつだんのこともなく過ぎ去った。はくすいせんがだんだんしぼんで、あおじくの梅がびんながらだんだん開きかかるのをながめ暮らしてばかりいてもつまらんと思って、一両度を訪問してみたが会われない。最初はだと思ったが、二へん目には病気で寝ているということが知れた。障子の中で例のお師匠さんと下女が話をしているのを手水ちようずばちらんの影に隠れて聞いているとこうであった。

 「三毛は御飯を食べるかい」「いいえけさからまだなんにも食べません、あったかにしておに寝かしておきました」なんだか猫らしくない。まるで人間の取り扱いを受けている。

 一方では自分の境遇と比べてみてうらやましくもあるが、一方ではおのが愛している猫がかくまで厚遇を受けていると思えばうれしくもなる。

 「どうも困るね、御飯を食べないと、からだが疲れるばかりだからね」「そうでございますとも、私どもでさえ一日ぜんをいただかないと、明くる日はとても働けませんもの」

 下女は自分より猫のほうが上等な動物であるような返事をする。じっさいこのうちでは下女より猫のほうが大切かもしれない。

 「お医者様へ連れて行ったのかい」「ええ、あのお医者はよっぽど妙でございますよ。私が三毛をだいて診察場へ行くと、でもひいたのかって私の脈をとろうとするんでしょう。いえ病人は私ではございません。これですって三毛をひざの上へ直したら、にやにや笑いながら、猫の病気はわしにもわからん、ほうっておいたら今になおるだろうってんですもの、あんまりひどいじゃございませんか。腹が立ったから、それじゃ見ていただかなくってもようございますこれでもだいじの猫なんですって、三毛をふところへ入れてさっさと帰って参りました」「ほんにねえ」

 「ほんにねえ」はとうてい吾輩のうちなどで聞かれる言葉ではない。やはりてんしよういんさまのなんとかのなんとかでなくては使えない、はなはだであると感心した。

 「なんだかしくしく言うようだが……」「ええきっと風邪をひいてが痛むんでございますよ。風邪をひくと、どなたでもおせきが出ますからね……」

 天璋院様のなんとかのなんとかの下女だけにばか丁寧な言葉を使う。

 「それに近ごろは肺病とかいうものができてのう」「ほんとにこのごろのように肺病だのペストだのって新しい病気ばかりふえたひにゃ油断もすきもなりゃしませんのでございますよ」「旧幕時代にないものにろくなものはないからお前も気をつけないといかんよ」「そうでございましょうかねえ」

 下女は大いに感動している。

 「風邪をひくといってもあまり出歩きもしないようだったに……」「いえね、あなた、それが近ごろは悪い友だちができましてね」

 下女は国事の秘密でも語る時のように大得意である。

 「悪い友だち?」「ええあの表通りの教師のとこにいる薄ぎたないねこでございますよ」「教師というのは、あの毎朝無作法な声を出す人かえ」「ええ顔を洗うたんびにちようが絞め殺されるような声を出す人でござんす」

 鵝鳥が絞め殺されるような声はうまい形容である。吾輩の主人は毎朝でうがいをやる時、ようで咽喉をつっ突いて妙な声を無遠慮に出す癖がある。きげんの悪い時はやけにがあがあやる、きげんのいい時は元気づいてなおがあがあやる。つまりきげんのいい時も悪い時も休みなく勢いよくがあがあやる。細君の話ではここへ引き越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふとやり出してからきょうまで一日もやめたことがないという。ちょっとやつかいな癖であるが、なぜこんなことをこんよく続けているのか我ら猫などにはとうてい想像もつかん。それもまずよいとして「薄ぎたない猫」とはずいぶん酷評をやるものだとなお耳をたててあとを聞く。

 「あんな声を出してなんのまじないになるかしらん。いつしんまえちゆうげんでもぞう取りでも相応の作法は心得たもので、屋敷町などで、あんな顔の洗い方をするものは一人もおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」

 下女はむやみに感服しては、むやみにを使用する。

 「あんな主人を持っている猫だから、どうせのら猫さ、今度来たら少したたいておやり」「たたいてやりますとも、三毛の病気になったのも全くあいつのおかげに相違ございませんもの、きっとかたきをとってやります」

 とんだえんざいをこうむったものだ。こいつはめったに近寄れないと三毛子にはとうとう会わずに帰った。

 帰ってみると主人は書斎のうちで何かちんぎんのていで筆をとっている。二弦琴のお師匠さんのとこで聞いた評判を話したら、さぞおこるだろうが、知らぬが仏とやらで、うんうん言いながら神聖な詩人になりすましている。

 ところへ当分多忙で行かれないと言って、わざわざ年始状をよこした迷亭君がひようぜんとやって来る。「何か新体詩でも作っているのかね。おもしろいのができたら見せたまえ」と言う。「うん、ちょっとうまい文章だと思ったから今翻訳してみようと思ってね」と主人は重たそうに口を開く。「文章? だれの文章だい」「だれのかわからんよ」「無名氏か、無名氏の作にもずいぶんいいのがあるからなかなかばかにできない。ぜんたいどこにあったのか」と問う。「第二読本」と主人は落ち付きはらって答える。「第二読本? 第二読本がどうしたんだ」「ぼくの翻訳している名文というのは第二読本のうちにあるということさ」「冗談じゃない。じやくの舌のかたきをきわどいところで討とうという寸法なんだろう」「ぼくは君のようなほら吹きとは違うさ」とくちひげをひねる。泰然たるものだ。「昔ある人がさんように、先生近ごろ名文はござらぬかと言ったら、山陽がの書いた借金の催促状を示して近来の名文はまずこれでしょうと言ったという話があるから、君の審美眼も存外たしかかもしれん。どれ読んでみたまえ、ぼくが批評してやるから」と迷亭先生は審美眼の本家のようなことを言う。主人はぜんぼうだいとうこくかいを読むような声を出して読み始める。「巨人、引力」「なんだいその巨人引力というのは」「巨人引力という題さ」「妙な題だな、ぼくには意味がわからんね」「引力という名を持っている巨人というつもりさ」「少し無理なだが表題だからまず負けておくとしよう。それからそうそう本文を読むさ、君は声がいいからなかなかおもしろい」「まぜかえしてはいかんよ」とあらかじめ念を押してまた読み始める。

 ケートは窓から外をながめる。しようたまを投げて遊んでいる。彼らは高く球を空中になげうつ。球は上へ上へとのぼる。しばらくすると落ちて来る。彼らはまた球を高くなげうつ。再び三たび。なげうつたびに球は落ちて来る。なぜ落ちるのか、なぜ上へ上へとのみのぼらぬかとケートが聞く。「巨人が地中に住むゆえに」と母が答える。「彼は巨人引力である。彼は強い。彼はばんぶつをおのれの方へと引く。彼は屋敷を地上に引く。引かねば飛んでしまう。小児も飛んでしまう。葉が落ちるのを見たろう。あれは巨人引力が呼ぶのである。本を落とすことがあろう。巨人引力が来いというからである。球が空にあがる。巨人引力は呼ぶ。呼ぶと落ちて来る」

 「それぎりかい」「むむ、うまいじゃないか」「いやこれは恐れ入った。とんだところでの御返礼に預かった」「御返礼でもなんでもないさ、じっさいうまいから訳してみたのさ、君はそう思わんかね」ときんぶちのめがねの奥を見る。「どうも驚いたね。君にしてこのりようあらんとは、全く今度という今度はかつがれたよ、降参降参」と一人で承知して一人でしゃべる。主人にはいっこう通じない。「なにも君を降参させる考えはないさ。ただおもしろい文章だと思ったから訳してみたばかりさ」「いやじつにおもしろい。そうこなくっちゃ本ものでない。すごいものだ。恐縮だ」「そんなに恐縮するには及ばん。ぼくも近ごろは水彩画をやめたから、そのかわりに文章でもやろうと思ってね」「どうして遠近無差別こくびやくびようどうの水彩画の比じゃない。感服の至りだよ」「そうほめてくれるとぼくも乗り気になる」と主人はあくまでもかん違いをしている。

 ところへ寒月君が先日は失礼しましたとはいって来る。「いや失敬。今たいへんな名文を拝聴しての亡魂を退治られたところで」と迷亭先生はわけのわからぬことをほのめかす。「はあ、そうですか」とこれもわけのわからぬあいさつをする。主人だけはさのみ浮かれたけしきもない。「先日は君の紹介でとうふうという人が来たよ」「ああ上がりましたか、あのという男は至って正直な男ですが少し変わっているところがあるので、あるいは御迷惑かと思いましたが、ぜひ紹介してくれというものですから……」「べつに迷惑のこともないがね……」「こちらへ上がっても自分の姓名のことについて何か弁じてゆきやしませんか」「いいえ、そんな話もなかったようだ」「そうですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈をするのが癖でしてね」「どんな講釈をするんだい」と事あれかしと待ち構えた迷亭君は口を入れる。「あのというのをおんで読まれるとたいへん気にするので」「はてね」と迷亭先生はきんからかわの煙草入れから煙草をつまみ出す。「私の名はとうふうではありません。越智ですと必ず断わりますよ」「妙だね」とくもを腹の底までのみ込む。「それが全く文学熱からきたので、こちと読むとという成語になる、のみならずその姓名がいんを踏んでいるというのが得意なんです。それだからおんで読むとぼくがせっかくの苦心を人が買ってくれないといって不平を言うのです」「こりゃなるほど変わってる」と迷亭先生は図に乗って腹の底から雲井を鼻のあなまで吐き返す。途中で煙がとまどいをしての出口へ引きかかる。先生は煙管キセルを握ってはごほんごほんとむせび返る。「先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたと言っていたよ」と主人は笑いながら言う。「うむそれそれ」と迷亭先生が煙管でひざがしらをたたく。吾輩はけんのんになったから少しそばを離れる。「その朗読会さ。せんだってをごちそうした時にね。その話が出たよ。なんでも第二回には知名の文士をしようだいして大会をやるつもりだから、先生にもぜひ御臨席を願いたいって。それからぼくが今度も近松のものをやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新しいものを選んでこんじきしやにしましたと言うから、君にゃなんの役が当たってるかと聞いたら私はおみやですと言ったのさ。とうふうのお宮はおもしろかろう。ぼくはぜひ出席してかつさいしようと思ってるよ」「おもしろいでしょう」と寒月君が妙な笑い方をする。「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないからいい。迷亭などとは大違いだ」と主人はアンドレア・デル・サルトとじやくの舌と復讎かたきを一度にとる。迷亭君は気にも留めない様子で「どうせぼくなどはぎようとくまないたという格だからなあ」と笑う。「まずそんなところだろう」と主人が言う。じつは行徳の俎という語を主人は解さないのであるが、さすが長年教師をしてごまかしつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交上に応用するのである。「行徳の俎というのはなんのことですか」と寒月がしんそつに聞く。主人はとこの方を見て「あのすいせんは暮れにぼくがの帰りがけに買って来てさしたのだが、よくもつじゃないか」と行徳の俎を無理にねじ伏せる。「暮れといえば、去年の暮れにぼくはじつに不思議な経験をしたよ」と迷亭が煙管をだい神楽かぐらのごとく指の先で回す。「どんな経験か、聞かしたまえ」と主人は行徳の俎を遠く後ろに見捨てた気で、ほっと息をつく。迷亭先生の不思議な経験というのを聞くとのごとくである。

 「たしか暮れの二十七日と記憶しているがね。例のとうふうから参堂の上ぜひ文芸上の御高話を伺いたいから御在宿を願うという先ぶれがあったので、朝から心待ちに待っていると先生なかなか来ないやね。昼飯を食ってストーブの前でバリー・ペーンのこつけいものを読んでいるところへ静岡の母から手紙が来たから見ると、年寄りだけにいつまでもぼくを子供のように思ってね。寒中は夜間外出をするなとか、冷水浴もいいがストーブをたいてへやを暖かにしてやらないとをひくとかいろいろの注意があるのさ。なるほど親はありがたいものだ、他人ではとてもこうはいかないと、のんきなぼくもその時だけは大いに感動した。それにつけても、こんなにのらくらしていてはもったいない。何か大著述でもして家名を揚げなくてはならん。母の生きているうちに天下をして明治の文壇に迷亭先生あるを知らしめたいという気になった。それからなお読んでゆくとお前なんぞはじつにしあわせ者だ。ロシアと戦争が始まって若い人たちはいたへんな辛苦をしてみ国のために働いているのに節季師走しわすでもお正月のように気楽に遊んでいると書いてある。──ぼくはこれでも母の思ってるように遊んじゃいないやね──そのあとへもってきて、ぼくの小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷した者の名前が列挙してあるのさ。その名前を一々読んだ時にはなんだか世の中があじきなくなって人間もつまらないという気が起こったよ。いちばんしまいにね。わたしも取る年にそうらえばはつはるのお雑煮を祝いそうろうも今度限りかと……なんだか心細いことが書いてあるんで、なおのこと気がくさくさしてしまって早く東風が来ればいいと思ったが、先生どうしても来ない。そのうちとうとう晩飯になったから、母へ返事でも書こうと思ってちょいと十二、三行書いた。母の手紙は六尺以上もあるのだがぼくにはとてもそんな芸はできんから、いつでも十行内外で御免こうむることにきめてあるのさ。すると一日動かずにおったものだから、胃の具合が妙で苦しい。東風が来たら待たせておけという気になって、郵便を入れながら散歩に出かけたと思いたまえ。いつになくちようの方へは足が向かないでさんばんちようの方へ我知らず出てしまった。ちょうどその晩は少し曇って、から風がおほりの向こうから吹きつける、非常に寒い。神楽かぐらざかの方から汽車がヒューと鳴って土手下を通り過ぎる。たいへんさみしい感じがする。暮れ、戦死、老衰、無常迅速などというやつが頭の中をぐるぐる駆け回る。よく人が首をくくるというがこんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思いだす。ちょいと首を揚げて土手の上を見ると、いつのまにか例の松の真下に来ているのさ」

 「例の松た、なんだい」と主人がだんを投げ入れる。

 「首掛けの松さ」と迷亭はえりを縮める。

 「首掛けの松はこうだいでしょう」寒月が波紋をひろげる。

 「鴻の台のは鐘掛けの松で、土手三番町のは首掛けの松さ。なぜこういう名がついたかというと、昔からの言い伝えでだれでもこの松の下へ来ると首がくくりたくなる。土手の上に松は何十本となくあるが、そら首くくりだと来て見ると必ずこの松へぶらさがっている。ねんに二、三べんはきっとぶらさがっている。どうしてもほかの松では死ぬ気にならん。見ると、うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。ああいい枝ぶりだ。あのままにしておくのは惜しいものだ。どうかしてあすこの所へ人間を下げてみたい、だれか来ないかしらと、あたりを見渡すとあいにくだれも来ない。しかたがない、自分で下がろうかしらん。いやいや自分が下がっては命がない、あぶないからよそう。しかし昔のギリシア人は宴会の席で首くくりのまねをして余興を添えたという話がある。一人が台の上へ登ってなわの結び目へ首を入れるとたんにほかの者が台をけ返す。首を入れた当人は台を引かれると同時に縄をゆるめて飛びおりるという趣向である。はたしてそれが事実ならべつだん恐るるにも及ばん、ぼくも一つ試みようと枝へ手を掛けてみるといい具合にしわる。しわりあんばいがじつに美的である。首がかかってふわふわするところを想像してみるとうれしくてたまらん。ぜひやることにしようと思ったが、もし東風が来て待っていると気の毒だと考えだした。それではまず東風に会って約束どおり話をして、それから出直そうという気になってついにうちへ帰ったのさ」

 「それでいちが栄えたのかい」と主人が聞く。

 「おもしろいですな」と寒月がにやにやしながら言う。

 「うちへ帰ってみると東風は来ていない。しかしこんにちはよんどころなきさしつかえがあって出られぬ、いずれえいじつめんを期すというはがきがあったので、やっと安心して、これなら心おきなく首がくくれる、うれしいと思った。でさっそくを引っかけて、急ぎ足で元の所へ引き返してみる……」と言って主人と寒月の顔を見てすましている。

 「みるとどうしたんだい」と主人は少しじれる。

 「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織のひもをひねくる。

 「見ると、もうだれか来て先へぶらさがっている。たった一足違いでねえ君、残念なことをしたよ。今考えるとなんでもその時は死に神にとりつかれたんだね。ゼームスなどに言わせると副意識下のゆうめいかいとぼくが存在している現実界が一種のいんほうによって互いに感応したんだろう。じつに不思議なことがあるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。

 主人はまたやられたと思いながら何も言わずにくうもちほおって口をもごもご言わしている。

 寒月はばちはいを丁寧にかきならして、うつ向いてにやにや笑っていたが、やがて口を開く。きわめて静かな調子である。

 「なるほど伺ってみると不思議なことでちょっとありそうにも思われませんが、私などは自分でやはり似たような経験をつい近ごろしたものですから、少しも疑う気になりません」

 「おや君も首をくくりたくなったのかい」

 「いえ私のは首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮れのことでしかも先生と同日同刻ぐらいに起こった出来事ですからなおさら不思議に思われます」

 「こりゃおもしろい」と迷亭も空也餠を頰張る。

 「その日はむこうじまの知人のうちで忘年会兼合奏会がありまして、私もそれへヴァイオリンを携えて行きました。十五、六人令嬢やら令夫人が集まってなかなか盛会で、近来の快事と思うくらいに万事が整っていました。晩餐もすみ合奏もすんでの話が出て時刻もだいぶおそくなったから、もういとまごいをして帰ろうかと思っていますと、ぼう博士はかせの夫人が私のそばへ来てあなたは○○子さんの御病気を御存知ですかと小声で聞きますので、じつはその両三日前に会った時は平常のとおりどこも悪いようには見受けませんでしたから、私も驚いてくわしく様子を聞いてみますと、私の会ったその晩から急に発熱して、いろいろなうわことを絶え間なく口走るそうで、それだけならいいですがその譫語のうちに私の名が時々出て来るというのです」

 主人はむろん、迷亭先生も「お安くないね」などという月並みは言わず、静粛に謹聴している。

 「医者を呼んで見てもらうと、なんだか病名はわからんが、なにしろ熱がはげしいので脳を犯しているから、もし睡眠剤が思うように功を奏しないと危険であるという診断だそうで私はそれを聞くや否や一種いやな感じが起こったのです。ちょうど夢でうなされる時のような重くるしい感じで周囲の空気が急に固形体になって四方からわが身をしめつけるごとく思われました。帰り道にもそのことばかりが頭の中にあって苦しくてたまらない。あのきれいな、あの快活なあの健康な○○子さんが……」

 「ちょっと失敬だが待ってくれたまえ。さっきから伺っていると○○子さんというのが二へんばかり聞こえるようだが、もしさしつかえがなければ承りたいね、君」と主人を顧みると、主人も「うむ」となまへんをする。

 「いやそれだけは当人の迷惑になるかもしれませんからよしましょう」

 「すべてあいあいぜんとしてまいまいぜんたるかたでゆくつもりかね」

 「冷笑なさってはいけません、ごくまじめな話なんですから……とにかくあの婦人が急にそんな病気になったことを考えると、じつに飛花落葉の感慨で胸がいっぱいになって、そうしんの活気が一度にストライキを起こしたように元気がにわかにめいってしまいまして、ただそうそうとしてろうろうという形でずまばしへ来かかったのです。らんかんって下を見ると満潮か干潮かわかりませんが、黒い水がかたまってただ動いているように見えます。はなかわの方からじんりきしやが一台駆けてきて橋の上を通りました。そのちようちんの火を見送っていると、だんだん小さくなってさつぽろビールの所で消えました。私はまた水を見る。するとはるかの川上の方で私の名を呼ぶ声が聞こえるのです。はてな今時分人に呼ばれるわけはないがだれだろうと水のおもてをすかして見ましたが暗くてなんにもわかりません。気のせいに違いないそうそう帰ろうと思って一足二足歩きだすと、またかすかな声で遠くから私の名を呼ぶのです。私はまた立ちどまって耳を立てて聞きました。三度目に呼ばれた時には欄干につかまっていながらひざがしらががくがくふるえ出したのです。その声は遠くの方か、川の底から出るようですが紛れもない○○子の声なんでしょう。私は覚えず『はーい』と返事をしたのです。その返事が大きかったものですから静かな水に響いて、自分で自分の声に驚かされて、はっと周囲を見渡しました。人も犬も月もなんにも見えません。その時に私はこの『よる』の中に巻き込まれて、あの声の出る所へ行きたいという気がむらむらと起こったのです。○○子の声がまた苦しそうに、訴えるように、救いを求めるように私の耳を刺し通したので、今度は『今すぐに行きます』と答えて欄干から半身を出して黒い水をながめました。どうも私を呼ぶ声が波の下から無理にもれてくるように思われましてね。この水の下だなと思いながら私はとうとう欄干の上に乗りましたよ。今度呼んだら飛び込もうと決心して流れを見つめているとまた哀れな声が糸のように浮いてくる。ここだと思って力を込めていったん飛び上がっておいて、そして小石かなんぞのように未練なく落ちてしまいました」

 「とうとう飛び込んだのかい」と主人が目をぱちつかせて問う。

 「そこまでゆこうとは思わなかった」と迷亭が自分の鼻の頭をちょいとつまむ。

 「飛び込んだあとは気が遠くなって、しばらくは夢中でした。やがて目がさめてみると寒くはあるが、どこもぬれたとこも何もない、水を飲んだような感じもしない。たしかに飛び込んだはずだがじつに不思議だ。こりゃ変だと気がついてそこいらを見渡すと驚きましたね。水の中へ飛び込んだつもりでいたところが、つい間違って橋のまん中へ飛びおりたので、その時はじつに残念でした。前と後ろの間違いだけであの声の出る所へ行くことができなかったのです」寒月はにやにや笑いながら例のごとく羽織のひもをやつかいにしている。

 「ハハハハこれはおもしろい。ぼくの経験とよく似ているところが奇だ。やはりゼームス教授の材料になるね。人間の感応という題で写生文にしたらきっと文壇を驚かすよ。……そしてその○○子さんの病気はどうなったかね」と迷亭先生が追窮する。

 「二、三まえ年始に行きましたら、門の内で下女と羽根をついていましたから病気は全快したものとみえます」

 主人は最前から沈思のていであったが、この時ようやく口を開いて、「ぼくにもある」と負けぬ気を出す。

 「あるって、何があるんだい」迷亭の眼中に主人などはむろんない。

 「ぼくのも去年の暮れのことだ」

 「みんな去年の暮れは暗合で妙ですな」と寒月が笑う。欠けた前歯のふちに空也餠がついている。

 「やはり同日同刻じゃないか」と迷亭がまぜ返す。

 「いや日は違うようだ。なんでも二十日はつかごろだよ。さいくんがおせいの代わりにせつだいじようを聞かしてくれろと言うから、連れて行ってやらんこともないがきょうの語り物はなんだと聞いたら、細君が新聞を参考してうなぎだにだと言うのさ。鰻谷はきらいだからきょうはよそうとその日はやめにした。翌日になると細君がまた新聞を持って来てきょうはほりかわだからいいでしょうと言う。堀川はしやせんものでにぎやかなばかりでがないからよそうと言うと、細君は不平な顔をして引きさがった。その翌日になると細君が言うにはきょうは三十三げんどうです、私はぜひ摂津の三十三間堂が聞きたい。あなたは三十三間堂もおきらいかしらないが、私に聞かせるのだからいっしょに行ってくだすってもいいでしょうと手詰めの談判をする。お前がそんなに行きたいなら行ってもよろしい、しかし一世一代というのでたいへんな大入りだからとうてい突っかけに行ったってはいれるきづかいはない。元来ああいう場所へ行くには茶屋というものがあってそれと交渉して相当の席を予約するのが正当の手続きだから、それを踏まないで常規を脱したことをするのはよくない、残念だがきょうはやめようと言うと、細君はすごい目つきをして、私は女ですからそんなむずかしい手続きなんか知りませんが、おおはらのおかあさんも、すずきみさんも正当の手続きを踏まないで立派に聞いて来たんですから、いくらあなたが教師だからって、そう手数のかかる見物をしないでもすみましょう、あなたはあんまりだと泣くような声を出す。それじゃだめでもまあ行くことにしよう。晩飯を食って電車で行こうと降参をすると、行くなら四時までに向こうへ着くようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢いがいい。なぜ四時までに行かなくてはだめなんだと聞き返すと、そのくらい早く行って場所をとらなくちゃはいれないからですと鈴木の君代さんから教えられたとおりを述べる。それじゃ四時を過ぎればもうだめなんだねと念を押してみたら、ええだめですともと答える。すると君不思議なことにはその時から急にかんがしだしてね」

 「奥さんがですか」と寒月が聞く。

 「なに細君はぴんぴんしていらあね。ぼくがさ。なんだか穴のあいた風船玉のように一度にしゆくする感じが起こると思うと、もう目がぐらぐらして動けなくなった」

 「急病だね」と迷亭が注釈を加える。

 「ああ困ったことになった。細君がねんに一度の願いだからぜひかなえてやりたい。いつもしかりつけたり、口をきかなかったり、しんしようの苦労をさせたり、子供の世話をさせたりするばかりで何一つさいそうしんすいの労にむくいたことはない。きょうは幸い時間もある、のうちゆうには四、五枚のぶつもある。連れて行けば行かれる。細君も行きたいだろう、ぼくも連れて行ってやりたい。ぜひ連れて行ってやりたいがこう悪寒がして目がくらんでは電車へ乗るどころか、くつぬぎへ降りることもできない。ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお目がくらんでくる。早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君と相談をしてあま医学士を迎いにやるとあいにくゆうべが当番でまだ大学から帰らない。二時ごろにはお帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますという返事である。困ったなあ、今きようにんすいでも飲めば四時前にはきっと直るにきまっているんだが、運の悪い時には何事も思うようにゆかんもので、たまさか細君の喜ぶがおを見て楽しもうという予算も、がらりとはずれそうになってくる。細君は恨めしい顔つきをして、とうていいらっしゃれませんかと聞く。行くよ必ず行くよ。四時までにはきっと直ってみせるから安心しているがいい。早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、と口では言ったようなものの胸中は無限の感慨である。悪寒はますますはげしくなる、目はいよいよぐらぐらする。もしや四時までに全快して約束を履行することができなかったら、気の狭い女のことだから何をするかもしれない。情けない仕儀になってきた。どうしたらよかろう。万一のことを考えると今の内にてんぺんの理、しようじやひつめつの道を説き聞かして、もしもの変が起こった時取り乱さないくらいの覚悟をさせるのも、夫の妻に対する義務ではあるまいかと考えだした。ぼくはすみやかに細君を書斎へ呼んだよ。呼んでお前は女だけれどもmany a slip 'twixt the cup and the lipという西洋のことわざぐらいは心得ているだろうと聞くと、そんな横文字なんかだれが知るもんですか、あなたは人が英語を知らないのを御存じのくせにわざと英語を使って人にからかうのだから、よろしゅうございます、どうせ英語なんかはできないんですから。そんなに英語がお好きなら、なぜがつこうの卒業生かなんかをおもらいなさらなかったんです。あなたくらい冷酷な人はありはしないと非常なけんまくなんで、ぼくもせっかくの計画の腰を折られてしまった。君らにも弁解するがぼくの英語はけっして悪意で使ったわけじゃない。全くさいを愛する至情から出たので、それをさいのように解釈されてはぼくも立つ瀬がない。それにさっきからの悪寒とめまいで少し脳が乱れていたところへもってきて、早く有為転変、生者必滅の理をのみ込ませようと少しせき込んだものだから、つい細君の英語を知らないということを忘れて、なんの気もつかずに使ってしまったわけさ。考えるとこれはぼくが悪い、全く手落ちであった。この失敗で悪寒はますます強くなる。目はいよいよぐらぐらする。細君は命ぜられたとおりへ行ってもろはだを脱いでおしようして、たんから着物を出して着換える。もういつでも出かけられますというふぜいで待ち構えている。ぼくは気が気でない。早く甘木君が来てくれればいいがと思って時計を見るともう三時だ。四時にはもう一時間しかない。『そろそろ出かけましょうか』と細君が書斎の開き戸をあけて顔を出す。自分のさいをほめるのはおかしいようであるが、ぼくはこの時ほど細君を美しいと思ったことはなかった。もろはだを脱いでせつけんでみがき上げた皮膚がぴかついてくろちりめんの羽織と反映している。その顔が石鹼と摂津大掾を聞こうという希望との二つで、有形無形の両方面から輝いて見える。どうしてもその希望を満足させて出かけてやろうという気になる。それじゃ奮発して行こうかな、と一ぷくふかしているとようやく甘木先生が来た。うまい注文どおりにいった。がようだいを話すと、甘木先生はぼくの舌をながめて、手を握って、胸をたたいて背をなでて、ぶちを引っくり返して、がいこつをさすって、しばらく考え込んでいる。『どうも少しけんのんのような気がしまして』とぼくが言うと、先生は落ち付いて、『いえ格別のこともございますまい』と言う。『あのちょっとぐらい外出いたしてもさしつかえはございますまいね』と細君が聞く。『さよう』と先生はまた考え込む。『御気分さえお悪くなければ……』『気分は悪いですよ』とぼくが言う。『じゃともかくもとんぷくすいやくをあげますから』『へえどうか、なんだかちと、あぶないようになりそうですな』『いやけっして御心配になるほどのことじゃございません、神経をお起こしになるといけませんよ』と先生が帰る。三時は三十分過ぎた。下女を薬取りにやる。細君の厳命で駆け出して行って、駆け出して帰ってくる。四時十五分前である。四時にはまだ十五分ある。すると四時十五分前ころから、今までなんともなかったのに、急に吐きけを催してきた。細君は水薬を茶わんへついでぼくの前へ置いてくれたから、茶わんを取り上げて飲もうとすると、胃の中からげーというものがとつかんして出てくる。やむをえず茶わんを下へ置く。細君は『早くお飲みになったらいいでしょう』とせまる。早く飲んで早く出かけなくては義理が悪い。思い切って飲んでしまおうと茶わんをくちびるへつけるとまたゲーが執念深く妨害をする。飲もうとしては茶わんを置き、飲もうとしては茶わんを置いていると茶の間の柱時計がチンチンチンチンと四時を打った。さあ四時だぐずぐずしてはおられんと茶わんをまた取り上げると、不思議だねえ君、じつに不思議とはこのことだろう、四時の音とともに吐きけがすっかり止まって水薬がなんの苦なしに飲めたよ。それから四時十分ころになると、甘木先生の名医ということもはじめて理解することができたんだが、背中がぞくぞくするのも、目がぐらぐらするのも夢のように消えて、当分立つこともできまいと思った病気がたちまち全快したのはうれしかった」

 「それからへいっしょに行ったのかい」と迷亭が要領を得んという顔つきをして聞く。

 「行きたかったが四時を過ぎちゃ、はいれないという細君の意見なんだからしかたがない、やめにしたさ。もう十五分ばかり早く甘木先生が来てくれたらぼくの義理も立つし、さいも満足したろうに、わずか十五分の差でね、じつに残念なことをした。考えだすとあぶないところだったと今でも思うのさ」

 語り終わった主人はようやく自分の義務をすましたようなふうをする。これで両人に対して顔が立つという気かもしれん。

 寒月は例のごとく欠けた歯を出して笑いながら「それは残念でしたな」と言う。

 迷亭はとぼけた顔をして「君のような親切な夫を持った細君はじつにしあわせだな」とひとり言のようにいう。障子の陰でエヘンという細君のせきばらいが聞こえる。

 吾輩はおとなしく三人の話を順番に聞いていたがおかしくも悲しくもなかった。人間というものは時間をつぶすためにしいて口を運動させて、おかしくもないことを笑ったり、おもしろくもないことをうれしがったりするほかに能もない者だと思った。吾輩の主人のわがままで偏狭なことは前から承知していたが、ふだんは言葉数を使わないのでなんだか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点には少し恐ろしいという感じもあったが、今の話を聞いてから急にけいべつしたくなった。彼はなぜ両人の話を沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚にもつかぬべんろうすればなんの所得があるだろう。エピクテタスにそんなことをしろと書いてあるのかしらん。要するに主人も寒月も迷亭もたいへいいつみんで、彼らはへちまのごとく風に吹かれて超然とすましきっているようなものの、その実はやはりしやもありよくもある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼らが日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼らが平常とうしている俗骨どもと一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。ただその言語動作が普通の半可通のごとく、紋切り形のいやみを帯びてないのはいささかの取りえでもあろう。

 こう考えると急に三人の談話がおもしろくなくなったので、三毛子の様子でも見てきようかと二弦琴のお師匠さんの庭口へ回る。かどまつ注連しめかざりはすでに取り払われて正月もはや十日となったが、うららかな春日は一流れの雲も見えぬ深き空より四海天下を一度に照らして、十坪に足らぬ庭のおもがんじつしよこうを受けた時よりあざやかな活気を呈している。縁側にとんが一つあって人影も見えず、障子も立て切ってあるのはお師匠さんは湯にでも行ったのかしらん。お師匠さんはでもかまわんが、三毛子は少しはいいほうか、それが気がかりである。ひっそりして人のあいもしないから、どろあしのまま縁側へ上がって座布団のまん中へ寝ころんでみるといい心持ちだ。ついうとうととして、三毛子のことも忘れてうたた寝をしていると、急に障子のうちで人声がする。

 「御苦労だった。できたかえ」お師匠さんはやはり留守ではなかったのだ。

 「はいおそくなりまして、ぶつへ参りましたらちょうどできあがったところだと申しまして」「どれお見せなさい。ああきれいにできた、これで三毛も浮かばれましょう。きんははげることはあるまいね」「ええ念を押しましたら上等を使ったからこれなら人間のはいよりも持つと申しておりました。……それからみようしんによの字はくずしたほうがかつこうがいいから少しかくをかえたと申しました」「どれどれさっそくお仏壇へ上げてお線香でもあげましょう」

 三毛子は、どうかしたのかな、なんだか様子が変だと布団の上へ立ち上がる。チーンみようしんによぶつ南無阿弥陀仏とお師匠さんの声がする。

 「お前もこうをしておやりなさい」

 チーン南無猫誉信女南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と今度は下女の声がする。吾輩は急にどうがしてきた。座布団の上に立ったまま、木彫りの猫のように目も動かさない。

 「ほんとに残念なことをいたしましたね。初めはちょいとをひいたんでございましょうがねえ」「甘木さんが薬でもくださると、よかったかもしれないよ」「いったいあの甘木さんが悪うございますよ、あんまり三毛をばかにしすぎまさあね」「そう人様のことを悪く言うものではない。これも寿命だから」

 三毛子も甘木先生に診察してもらったものとみえる。

 「つまるところ表通りの教師のうちののら猫がむやみに誘い出したからだと、わたしは思うよ」「ええあのちきしようが三毛のかたきでございますよ」

 少し弁解したかったが、ここが我慢のしどころとつばをのんで聞いている。話はしばしとぎれる。

 「世の中は自由にならんものでのう。三毛のような器量よしは早死にをするし。不器量なのら猫は達者でいたずらをしているし……」「そのとおりでございますよ。三毛のようなかあいらしい猫はかねと太鼓で捜して歩いたって、ふたとはおりませんからね」

 二匹と言う代わりにふたりと言った。下女の考えでは猫と人間とは同種族ものと思っているらしい。そういえばこの下女の顔は我ら猫属とはなはだ類似している。

 「できるものなら三毛の代わりに……」「あの教師の所ののらが死ぬとおあつらえどおりにまいったんでございますがねえ」

 おあつらえどおりになっては、ちと困る。死ぬということはどんなものか、まだ経験したことがないから好きともきらいとも言えないが、先日あまり寒いので火消しつぼの中へもぐり込んでいたら、下女が吾輩がいるのも知らんで上からふたをしたことがあった。その時の苦しさは考えても恐ろしくなるほどであった。白君の説明によるとあの苦しみが今少し続くと死ぬのであるそうだ。三毛子の身代わりになるのなら苦情もないが、あの苦しみを受けなくては死ぬことができないのなら、だれのためでも死にたくはない。

 「しかし猫でも坊さんのお経を読んでもらったり、かいみようをこしらえてもらったのだから心残りはあるまい」「そうでございますとも、全くほうものでございますよ。ただ欲を言うとあの坊さんのお経があまり軽少だったようでございますね」「少し短か過ぎたようだったから、たいへんお早うございますねとお尋ねをしたら、げつけいさんは、ええききめのあるところをちょいとやっておきました、なに猫だからあのくらいで十分浄土へゆかれますとおっしゃったよ」「あらまあ……しかしあののらなんかは……」

 吾輩は名前はないとしばしば断わっておくのに、この下女はのらのらと吾輩を呼ぶ。失敬なやつだ。

 「罪が深いんですから、いくらありがたいお経だって浮かばれることはございませんよ」

 吾輩はその後のらが何百ぺん繰り返されたかを知らぬ。吾輩はこの際限なき談話を中途で聞き捨てて、布団をすべり落ちて縁側から飛びおりた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度に立てて身震いをした。その後二弦琴のお師匠さんの近所へは寄りついたことがない。今ごろはお師匠さん自身が月桂寺さんから軽少な御回向を受けているだろう。

 近ごろは外出する勇気もない。なんだか世間がものうく感ぜらるる。主人に劣らぬほどのしようねことなった。主人が書斎にのみ閉じこもっているのを人が失恋だ失恋だと評するのも無理はないと思うようになった。

 ねずみはまだとったことがないので、一時はおさんから放逐論さえ呈出されたこともあったが、主人は吾輩の普通一般の猫でないということを知っているものだから吾輩はやはりのらくらしてこのしている。この点については深く主人の恩を感謝すると同時にその活眼に対して敬服の意を表するにちゆうちよしないつもりである。おさんが吾輩を知らずして虐待をするのはべつに腹も立たない。今にひだりじんろうが出て来て、吾輩の肖像を桜門の柱に刻み、ほんのスタンランが好んで吾輩の似顔をカンヴァスの上に描くようになったら、彼らどんかつかんははじめて自己の不明を恥ずるであろう。

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