戦略転換点〈後編〉
「はぅ~ん」
ヒイロの口から漏れ出た声は、生まれて初めてソフトクリームを食べた幼女のように甘かった。
そんな甘々な声が出るなんて思ってもみなかったタヅナは、クローゼットを開けたらアルパカがいた人のように目を見開いた。
「抜けるぅ~! 抜けてっちゃう~!」
「ヨシヨシ」
タヅナはお腹のあたりをヒイロに抱きしめられながら、自分の華奢な胴体が強く締め付けられていくのを感じた。タヅナの背中に回された手が、興奮したヒイロの両腕によってグググッと強く締められている。
それでもタヅナはヒイロに何も言わなかった。そうして甘えてくれることさえ、今は嬉しかった。
「イイコイイコ、いつもお仕事お疲れ様です」
「私だけが頑張っているわけじゃないもん」
制服のシャツ越しに、ヒイロの熱く湿った息が吹きかかる。タヅナのお腹には、彼女の顔面が押し付けられていた。
きっとリップで白いシャツは汚れてしまっているだろう。でもそんなこと、今はどうだっていい。
「そうかもしれません。でも花麒麟さんは、特に頑張ってますよね」
「本当は、トップが頑張り過ぎちゃダメなんだ。オフィスが息苦しくなる」
「そうですね。たまには花麒麟さんも休まないと」
太ももにはヒイロの上半身がすっぽりと収まっていた。股の間に挟まった彼女の胴体は固く、タヅナよりも遙かに筋肉質で、熱を帯びていた。
「私は自分の能力を過大評価して、ついつい仕事を引き受けすぎてしまうんだ」
「頑張り屋さんなんですね」
7対3の比率で切り揃えられたショートボブカットの髪は、艶やかに光を反射していた。その指通りは上質の綿糸のように滑らかで、ほのかに花の蜜のような香りが漂っていた。
「人との接し方が下手クソで、部下にも頼れない。このままじゃダメだとは、わかっているんだ」
「頼られてばかりだと疲れちゃいますよね」
ヒイロが膝立ちになっているおかげで、いつもとは目線の高さが違う。今、タヅナはヒイロの顔を見下ろしていた。そのせいだからだろうか、タヅナはヒイロのことをいつも以上に愛しく思えてきた。
今なら花麒麟さんのワガママを何だって聞いてしまいそうな気がする。胸の辺りにキュゥゥッと切なくなるような、心地いい痛みを感じる。
「はぁぁ……私のダメなところを全部許してくれる人がいたらなぁぁぁあ……」
「大丈夫ですよ。花麒麟さんにはダメなところよりも、良いところの方がいっぱいありますから」
「たとえば?」
親鳥から餌をねだる小鳥のように、ヒイロは顔を上げ、右に小首を傾げた。
「えっとぉ、まず頑張り屋さんでしょう……あと頭がとっても良くて、英語も堪能で、大勢の大人たちの前で発表も出来てすごいです」
「他にはぁ?」
『もっとちょうだい』と、その火照った顔は訴えていた。その頬は赤みを帯びるだけでなく膨らんでおり、その両目は爛々と輝いていた。
「まだ18歳なのに、会社まで経営してるなんて信じられません。実力と行動力を備えたカリスマです」
「他はぁ?」
『もっと、もっとちょうだい』とさらに頬を膨らませている。
「候補生が教官に怒られていても庇ってくれる正義の味方で、退学者にも声をかけたり、面倒見もいいですよね」
「他ぁ?」
『まだまだぁ! もっとぉ!!』と、タヅナとキス3秒前という近さまで、ヒイロの美顔が近寄ってきた。
「物覚えが早くて、料理もすぐに覚えちゃいました。何でも出来るんですね」
「はぁぁぁ、もぉぉぉ……タヅナは褒め上手だなぁぁぁ……」
ヒイロの口から長い溜め息が漏れた。ようやく満足してもらえたらしい。
もしかすると花麒麟さんは、何でも出来る優秀な大人たちに囲まれすぎて、自分自身の凄さがわからなくなってしまっているのかもしれない。
どれだけ頑張っても、周りにいる人たちからたいして褒めてもらえないのなら、可哀想な人だな。頑張っても、頑張っても、報われにくいと思っちゃうだろうし。
「僕たちは、花麒麟さんが、少しでも世の中を良くしようと頑張っているのを見ていますから」
「……そうか」
でもまだ僕は、彼女に一番大切なことを伝えられてない。
今日こそ、ちゃんと言わなきゃ。もう二度と、あんな想いなんて味わいたくないから。
「花麒麟さんの代わりになる人はいません。だから、お体を大事になさってください」
「……うん」
どうか、この祈りが届きますように。
花麒麟さんの内なる何かが、変わってくれますように。
そう願いながら、タヅナはヒイロの頭を撫で続けた。
ヨシヨシ――――
「もっと、甘えてもいいんですよ」
今までいっぱい頑張ってきたんだから、今はいっぱい休んでください。
あなたが倒れたら、悲しむ人が大勢います。僕だって心が痛みます。
イイコイイコ――――
「もっと、人に助けを求めてもいいんですよ」
あなたはきっと、今までたくさんの人たちを助けてきたんですよね。
誰よりもたくさん助けられるから、誰よりもたくさん頼られて、身も心もボロボロになってしまったんでしょう?
これからもまた誰かを助けられるように、時には休むことも必要です。
無理をして倒れて、その果てに死んでしまったりなんかしたら、元も子もありませんから。
「僕は、あなたのことが心配です」
だから、どうか、その大切なお体をご自愛ください。
あなたの代わりになる人は、この世界に一人もいません。
「仕事の悩みくらい、僕がいつだって聴きますから。辛くなったときは、いつでも呼んでくださいね」
僕は、他の誰でもない、あなたに助かってほしい。
仕事なんて、休めばいいじゃないですか。
他の人に、たくさん頼ったっていいじゃないですか。
あなたがまた健康を取り戻して、心安らかに眠れる日が来ますように。
僕は、あなたのことが心配です。
どうか、ご自身のことを大切になさってください。
心から、この祈りを捧げます。
そう念じながらタヅナは、鼻をすするヒイロの頭を撫で続けた。
左手で押さえていたヒイロの肩は、不規則に上下する動きを繰り返していた。
彼女は何も言わず――何も言えなくなっていた。
ただ、彼女は泣き暮れていた。
親の手から引き離された赤ん坊のように呻く背中を、タヅナは何度も何度も、丁寧に撫で下ろした。
少しでもこの祈りが通じてほしいと願いながら、震えの止まらない体を労った。
僕は、あなたのことが心配です。
あなたは、僕のお母さんに、よく似てるから。
毎日毎日、馬車馬のように働いて、家に帰ってきたと思ったらまたすぐに出かけていって。
みんなのために働いて、家事も夜中に1人でやろうとして、自分のことなんて後回しで。
誰よりも自分を犠牲にして、儚く散ってしまったお母さんは、本当に報われなかったと思う。
僕は、本当に後悔してる。悔やんでも悔やみきれない。
あの日、小学校の入学式が行われる朝、ゾンビのような顔をして玄関を出ていったお母さんを、僕は引き留めるべきだった。
『おかあさん、だいじょうぶじゃないでしょ!』って、その腕に追いすがるべきだった。
何度も何度も後悔した。今も後悔し続けている。
ヒイロは、そんなお母さんによく似てる。
だから、今度はそんな想いしたくないんだ。
ヒイロの呼吸がゆっくりになっていくのがわかる。
いつしか腕の締め付ける力も無くなっていた。
タヅナはヒイロの頭を、丁寧に丁寧に撫でた。
その愛撫は、棚の上に置かれたスマートグラスのアラームが鳴るまで続けられた。
* * *
自動運転車で送ってもらうことになり、タヅナはヒイロと一緒に慈悲の塔を出てきた。
ここから校舎までは徒歩3分もかからない距離だったが、タヅナはヒイロの好意を受け入れることにした。
「今日はありがとう。おっ、バイタルの数値も平均水準まで改善しているな」
日光に照らされたヒイロの色白の肌は、昨日倒れた人間にしてはずいぶんと健康そうに見えた。涙と鼻水とメイクでグチャグチャになっていた顔面も、今ではすっかり綺麗になっている。
タヅナのシャツも、ヒイロのメイクやら涙やら鼻水やらで汚れてしまい、急遽新品を届けてもらって、それに着替えた。
まったく、この学校はポイントさえ支払えば、何だってやってくれる。
バックしながら走行してきた白いリムジンはヒイロのジェスチャーで停車し、ブレーキランプを点灯させた。後部ドアから乗って横長の白いシートにタヅナが座ると、左隣にヒイロが座った。
「嫌じゃなかったか? 私の頭部に触れたり……その、撫でたりする行為は」
「いえいえ、そんな、べつに……」
ヒイロはそれでもまだ心配そうな顔を向けている。言葉の行間を読むのが苦手な彼女には、ちゃんと自分の気持ちを話さないといけない。恥ずかしがって言葉を惜しんで、自分の気持ちを察してもらおうとすると裏目に出る。
「こんなことで花麒麟さんの疲れが少しでも癒やされたのなら、僕も嬉しいですよ」
閉じていたつぼみから、パァァッと満開の笑顔が咲いた。
「そうか! それじゃあまた依頼しようかな!」
「いいですよ。でも今日は、ちゃぁんと寝てくださいね」
「善処する」
車窓から見える景色は、長いこと変わらなかった。
自動運転車は、歩行者に置いていかれるほどのトロさで、校舎へと向かった。
タヅナはその日から2週間連続でヒイロの相手をすることになった。
『もしもし、私だ。今、来れそうか?』
『「また」なんだ、すまない』
『もぉ~! 早く来てぇぇぇ!!』
だいたい昼休みか、夕食中の6時過ぎに呼ばれることが多かった。
「タヅナァ~。ヨシヨシしてるときはぁ〜、『花麒麟さん』じゃなくって、『ヒイロ』って呼んで?」
「ヒッ、ヒイロ? ヒイロちゃん??」
「はぁ~、今日も仕事おわんなぁ~い」
ヨシヨシし始めると、ヒイロの愚痴が止まらなくなる。
「あ~ん、もぉ、株主がウザァ~い! 無駄な会議、無駄な会食、無駄な計画、ってもう、全部が無駄無駄無駄無駄ァ~! お前、経営者じゃないのに、会社のことに口出してこないでよぉぉぉぉ〜!」
「たっ、大変ですね……」
「あ~ん、もぉ、部下もウザァ~い! 納期が迫ってて、人員も足りないって時に休む普通? 育休だなんだってそれ、リモートワークすりゃあいいだろぉ~! 家で仕事しろぉ~、家でぇ~!」
「そっ、そうですね……」
「あ~ん、もぉ、パパがウッザァ~い! 私が会社とか学校で何してるかイチイチ把握しててキモォ~い! 私は小学生か!! いい加減、私が社会人になったこと認めてよぉ~! もう過保護すぎるんだよぉ~!」
「寝る時間なぁ~い!」
「ヤダヤダヤダヤダァ~! もう会社辞めたぁ~い! 新事業起こしたぁ~い!」
「抜けるぅぅぅ!!」
今日も出た。ヒイロの興奮が最高潮に達したとき、この『抜ける』という言葉が使われる。でも、言葉の意味はさっぱりわからなかった。
「あの、『抜ける』ってどういう意味ですか?」
「あぁ~、日頃のストレスとか、対人関係の緊張感とかが、体中から抜けていくような快感を覚えるということだ。そのまま続けたまえ」
「そうなんですか……ヨシヨシ」
「抜けるぅぅぅ!!」
ヨシヨシは愛情の意思表示、イイコイイコは賞賛の意思表示。一応、状況に応じて使い分けている。
「今日もすまない。ポイントは振り込んでおくぞ――ん?」
「いや、もうポイントは充分に頂いてるので! 上限なんですよ!」
タヅナの花フォンに表示されている花君ポイントは、いつの間にかチャージ上限の1000万ポイントにまで達していた。
あまりにも高額なポイントは怖すぎて使うに使えず、1日に使うポイントの100倍以上の額が毎日振り込まれることになり、いつの間にかこんなに増えてしまった。
「そうか。それでは早急に花君ポイントシステムの仕様変更を行わなければな。またタスクが増えてしまった」
「とっ、とにかく、もうポイントはいらないですし、お返ししますっ!」
「ダメだ! そんなわけには――」
ヒイロとの会話もそこそこに、タヅナは後部座席のドアを閉じた。
チャージ上限が取っ払われて、このペースで入金が続けられたら、卒業までには1億ポイントを超えてしまうことになると、算数の苦手なタヅナにも容易に想像できた。
溜め息を漏らして校舎へと向かおうとすると、目の前に急に弾力のある壁が現れ、タヅナは「うぷっ」と声を漏らして後ろによろけてしまった。
だがタヅナがぶつかったのは動く壁などではなく、熊のような大男のお腹だった。
「芍薬タヅナ」
聞こえてきたのは重低音のバリトンヴォイス。
魔王のように恐ろしい鐙お姉ちゃんに対抗できるのは、世界中を探してもこの人くらいかもしれない。
「はっ、はい!!」
思わずタヅナの背すじがピーンと伸びる。花麒麟厳吾は、今日も肉弾系悪役プロレスラーのような威圧感を放っていた。
「娘をよろしく頼む」
「ヒッ……」
背広を着た大男から重い手がのしかかり、タヅナの右肩が傾いた。
その歩き去って行く大きな背中を見送りながら、タヅナは任されたものの重みを想像して、手足をワナワナと震わせた。
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