限界を超えて〈後編〉
タヅナは[治療中]と表示されている赤いランプをぼんやりと見つめながら、緊急処置室の扉の前に置かれた長椅子に座っていた。
ここに座ってから、もう40分以上になる。
ヒイロが救急車で担ぎこまれた先は、学校内にある花麒麟病院だった。ここは候補生や教官、警備員の他、様々な学内スタッフたちが利用するために作られた施設で、街の総合病院くらいの大きさがある。
薄暗くて広い廊下の一角で、物音一つしない空間に1人残されているという状況は、やたらと不気味だった。すでに時刻は夜九時を回っており、タヅナのいる付近に人の気配はない。
「はぁ……」
溜め息をつきながら、タヅナは目線を落とした。
きっと、僕のせいだ……。
なんであのとき、花麒麟さんの調理を止めさせなかったんだろう?
花麒麟さんは仕事でくたくたに疲れ果てた状態でやってきた。とっくに身も心も限界は超えちゃってたはずだ。
やっぱり、3回目の調理を終えたところで止めさせるべきだったよね。
このまま花麒麟さんが目覚めなかったらどうしよう? 度重なったストレスで何かの病気が発症してしまって、今まで通りに仕事が出来なくなっちゃったら……。
どうか、花麒麟さんが無事に帰ってきますように……。
僕のせいで花麒麟さんは――
悲観的思考の無限回廊をさまよっていたタヅナは、目の前のドアが開いたのに気が付いて、顔を上げた。
まばゆい光を背に、まるで熊のように大きな1人の男が歩いてきた。
「校長先生?」
その大男は両腕の中に、薄い青の検査衣に着替えたヒイロを抱きかかえていた。
目をつむっているのは眠っているからだろうか。もし起きていたら黙ってないだろうし。
「芍薬タヅナ……」
「はいぃ……」
「娘を病室まで連れていく。話があるからついてきなさい」
「しょ……承知いたしましたぁ……」
学内病院の3階へとエレベーターで上がると、病室が何部屋も横に並ぶ病棟があった。
タヅナの先を歩く厳吾が急に立ち止まったかと思うと、待合エリアに置かれたソファーのことを目で差していた。
「そこで待っていなさい」
「はいぃ……」
タヅナは、飼い主にお座りを言いつけられた忠犬のような従順さで、その指示に従った。
厳吾が病室の中に入って行ってから出てくるまでの数分間、タヅナの膝――どころか全身は、雪の降る夜の道ばたに全裸で放り出されてしまった人のように、ガクガクブルブルと震えっぱなしになっていた。
僕が、花麒麟さんの有望な将来を奪ってしまったんだ……。
それだけじゃない。花麒麟さんが病気で働けなくなってしまったら、会社が潰れてしまうかもしれない……。そうなったら莫大な損失が発生して、何百億円もの賠償請求をされるかも……。
僕は死ぬまでにその借金を返せるのかな……?
きっと、この学校も退学だ……。鐙お姉ちゃんに何て言おう……。
ごめんなさい……。
そして彼が帰ってくると、タヅナは背すじをピーンと伸ばして出迎えた。まさに、おしっこをチビる3秒前という状況。
しかし、熊のような大男の口から出てきた言葉は、土下座3秒前の心持ちだったタヅナの予想を大きく裏切るような内容だった。
「いつも娘の我が侭に付き合ってもらってすまない」
「…………はい?」
娘のわがままに? 付き合ってもらって? すまない? どういうこと?
「過労と不眠と栄養失調などが重なった失神らしい。いくつか精密検査もしてもらったが、異常は見当たらなかった。しばらく安静にしてれば回復するそうだ」
「はぁぁぁ……ご無事だったんですねぇぇぇ……。よかったですぅぅぅ……」
その報告を聞いたタヅナは、肩に乗っていたお米60キロ分ほどの重荷をようやく下ろしてもらったような気がした。
何か重篤な病が発症したわけじゃなかったんだ。よかった、本当によかった。
「『また』君に謝ることになるとはな。覚えているか? 私に初めて会った日のことを」
そう言われたタヅナは顔を上げて左に振り向くと、隣に座っていた花麒麟厳吾の横顔を見つめた。
「あっ……はい」
その眼光鋭い目つきは、9年前と何も変わっていなかった。
――「君が、手綱くんだね?」
あの日の光景は、いつだって鮮明に思い出すことが出来る。
そう、それは手綱が初めて花麒麟厳吾に遭遇した日。まだ手綱は小学校に入学したばかりの6歳だった。
――「お母様が亡くなられたことの一因は、私にある。本当に申し訳ない」
自宅に訪問した、熊のような大男。
黒いスーツを着た大人が子供の前で正座し、畳の上に両手の拳をつき、そのだるまのように大きな頭をうなだれるようにして下げた姿が、目に焼き付いている。
なんで謝られたのかもわからぬまま、手綱は、彼が母の死の原因に関わっているのだろうと察した。あとで鐙お姉ちゃんに聞いた話によると、なんとかエンジニアの、なんとかリーダーとしてお母さんが働いていた会社が、HANAKIRINグループの子会社だったらしい。
大人が子供に謝る姿は、いつだって痛ましいものだ。
お母さんもそうだった。
今でも、何度だって思い出す。
まるで僕から逃げ出すかのように家の玄関から出て行く、スーツを着たお母さんの、後ろ姿を。
「それじゃっ、行ってくるねっ!」
「いってらっしゃーい」
毎朝毎朝、お母さんは何かに追い立てられるように玄関から飛び出していって、いつも手綱が寝かしつけられる間際になると帰ってきた。
お母さんと一緒に過ごせるのは、1週間のうち3日あったらいい方で、2週間まるまる会えない時期もあった。
家に帰れない日が続くと、久々に帰ってきたお母さんの目の下は真っ黒になっている。お母さんはよくそんな顔をして帰ってきては、「ゾンビみたいでしょ」と笑っていた。
「ごめんね、たづな。またお母さん仕事に行かなくっちゃいけないの」
「うん、わかった」
『ごめんね』は、お母さんお得意の魔法の言葉だ。そう言えば、手綱が諦めることを知っていた。
手綱にも鐙にも、お父さんはいなかった。おじいちゃんはいつも店にいたけど、仕事で忙しそうにしているから甘えられない。
だから小学校に上がる前の手綱は、いつも家の居間でテレビを観ていた。再放送されていた『Mr.スカーレット』のアニメが、手綱の一番のお気に入りだった。
「お前、もう少し仕事減らしたらどうだ? ここんとこ、ろくに寝てねぇだろ」
「ごめんねぇ、お父さん。保育園のお弁当も用意してもらっちゃって」
「そんなこたぁ、どぉでもいいんだよ。体悪くしてからじゃ遅ぇぞ」
「うん、今日は頑張って早く仕事終わらせてくるからさ。ごめんね」
保育園に迎えに来るのは、いつも高校の制服を着たお姉ちゃんだった。
運動会にも、お遊戯会にも、卒園式にも、お姉ちゃんとおじいちゃんが来てくれた。
「来週の入学式の日は有給取ったから! このカメラでたづなを撮ってあげるからねー」
お母さんが新品のハンディカムを買ってきた日の夜、手綱は嬉しくて嬉しくて夜遅くまで寝れなかった。それなのに――
「ごめんね……たづな。やっぱりお母さん、入学式に行けないかも……お姉ちゃん、このカメラでたづなを撮っておいて!」
「またかよー。いーじゃん、仕事なんてブッチしちゃば」
「いやぁ、明日納期なのに私だけ休むわけにはいかないし……あっでも、途中で抜けてきて合流できるかもだから」
「だいじょうぶだよ。おしごとがんばって」
手綱が使う魔法の言葉は、『だいじょうぶ』だった。優しくそう言えば、お母さんが泣きそうになるのを知っていた。
「うん……ごめんね」
結局、入学式にもお母さんは来れなかった。
手綱は式の最中、何度も何度も後ろを振り返っては、先生から注意された。そのたびにお姉ちゃんとおじいちゃんは、前を向けと指を差してきた。
お母さんはまだ来てない。もう来ないのかな?
そして体育館での式が終わり、教室で入学ガイダンスが行われていたときのことだ。
突然、教室の後ろのドアから担任ではない先生が慌てた様子で入ってきて、お姉ちゃんとおじいちゃんに早口で何かを説明していた。
「タヅナ、お母さんが事故ったって」
呼ばれていたタクシーに乗り、そのまま病院へ向かったものの、お母さんとは治療中で会えなかった。
「乗ってた車に、横から追突されたんだってよ」
あとで聞いた話では、赤信号なのに無理やり道路を渡ろうとしていたのは、お母さんの車だったらしい。
でも変だ。お母さんは、絶対に赤信号を渡る人じゃなかった。徒歩でも車に乗ってても、しつこいくらいに左右を確認して、そろーり、そろーりと運転するような人だった。
一度家に帰り、翌朝病室に通されると、お母さんの顔の右側3分の2は包帯でグルグル巻きになっていて、紫色に染まった唇には白いテープが貼られ、薄緑色の呼吸器の管が取り付けられていた。
「もしかしたら死ぬかもって」
「鐙ッ! まだわからんだろっ!」
それから手綱は学校を休み、食事もとらずに、付きっきりでお母さんの手を握った。その手はいくら温めようとしても、冷蔵庫から取り出したばかりの生肉みたいに冷たくて、柔らかすぎて、まるでお母さんの手じゃないみたいで……気持ち悪かった。
入院してから2日後のお昼すぎ、愛内桜舞は亡くなった。38歳だった。
「君が、手綱くんだね?」
一連の葬儀を終えた翌週の夕方、自宅の居間で宿題の算数ドリルを広げていた手綱は、熊のように大きな体をした男に名前を呼ばれた。
訳もわからず、おじいちゃんから仏壇のある和室に呼ばれ、黒いスーツを着たスキンヘッドの恐ろしい大男が何を言ってくるのかと思いきや、彼は手綱の前で正座になり、両手をつき、だるまのように大きな頭を畳に擦り付けるかのように下げてきた。
「すまない。君のお母様を――この度は謹んで――」
大男が長々と何を言っているのか、手綱にはほとんど理解できなかったが、彼が自分に向かって謝っているんだろうなとは察した。もしかしたら、彼のした何かのせいで、お母さんがいなくなってしまったのかもしれないと思った。
だから、怒るんだったら、この人に怒ればいいんだなと、手綱は理解した。
「もう、みんながおかあさんみたいにならないようにしてください。ぼくはもう、だいじょうぶですから」
視界がぼやけて、前が見えなくなっていた。
でも、その男の人がずっと何も言わずに、僕に向かって頭を下げ続けていたのはわかった。
* * *
「あのとき、君が私に投げかけてくれた言葉を覚えているか?」
「えっ? 僕、何か言いましたっけ?」
「……そうか。まぁいい」
花麒麟厳吾は、疑いと憐憫の情を混濁させた仁王像のような目で、タヅナを見下ろしていた。
とっさに嘘をついてしまったのは、気まずくなってしまったからだ。
僕もこの人のことを責められない。僕だって、花麒麟さんを無理させてしまったんだから。
「娘は反抗期で、俺の言うことなんか聞きやしない。誰かにお灸を据えてもらえると助かるんだがな――」
「タヅナァ! 大丈夫!?」
校長の言葉を遮ったのは、駆けこんできたジュンだった。
でもなんでここにいるってわかったんだろう? もしかして――
熊のような大男がソファから立ち上がると、タヅナとジュンのことを見下ろしてきた。
「芍薬タヅナ、蓬莱羊歯ジュンは、明日の早朝家事訓練及び、2限目の授業まで免除とする。部屋に帰ってゆっくり休むんだな」
厳吾は2人に、熊のように大きな背中を向けると、病棟とエレベーターホールを仕切る自動ドアの向こう側へと歩いていった。
「タヅナ、こんな遅くに何やってんの、もぉ……。心配したんだからねっ!」
「うん、ごめんね」
「校長に、なんか言われたの?」
「いや、べつに……だいじょうぶだよ」
「タヅナが伏し目がちに『だいじょうぶ』って言うときって、いっつも大丈夫じゃないじゃん!」
「えぇー? そうだったっけぇ?」
純は僕の知らない『僕』のことをよく知ってる。
そっかぁ、いつも伏し目がちになってたのかぁ。
「もう、早く部屋帰って寝るよ」
「うん」
タヅナはジュンに右手を引かれながら、薄暗い病棟の廊下を歩いていった。
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