第一章 ヒイロフラグ

カリスマ社長だってヨシヨシされたい〈前編〉

 視界いっぱいに女子。

 女子、女子、女子、女子、女子の群れ。


 収容人数2000名と言われている学生食堂の一帯で、無数の女子たちが蠢き、耳を刺すような嬌声が轟き、甘く蒸れた匂いが充満していた。


 度重なる授業と家事訓練でゾンビのような顔をしていた花君候補生たちは、昼休みになった途端に息を吹き返す。全身に溜まったストレスを吐き出すかのごとく、全力でお喋りに集中しているのだ。


 芍薬タヅナは横長のテーブル席の端っこに座り、手足を小刻みに震わせながら、購買で買ったサンドイッチを頬張っていた。


 約3ヶ月半も彼女たちと一緒に生活しているというのに、2500名以上の女子たちに囲まれる学校生には、全く慣れる気がしない。


「まーたアイツ、授業中に教官と喧嘩してたよ」

「アイツって、花麒麟ヒイロ?」

「そうそう」

「今度は何しでかしたの?」

「なんか英語で喋ってるやつがいるなーって思ったら、アイツ授業中にWEB会議してんの。しかも教官に注意されて逆ギレ」

「信じらんなーい」


 タヅナは周りで繰り広げられているお喋りには加わることなく、外敵を警戒するダンゴムシのように縮こまっていた。


 どこで誰が聞いているか、わかったものじゃない。目の前のご飯よりも噂話の方によだれを垂らしている彼女たちは、友人・知人を通して無数の情報ネットワークを築いている。ふとした発言や行動が、平穏な学校生活を脅かすような致命傷になってしまうこともあるのだ。


「なーんかムカつくよねー! アタシたちは本気で専業主婦目指してんのにさー、『私は仕事してますから』アピールしてくるじゃん?」

「わかるー! 意識高い系!」

「本気で婚活する気ないなら退学すればいいのにー!」

「ほんっと、目障り! 花麒麟ヒイロ」


 その時、背後でガタガタガタッと席を立つ音が聞こえた。

 彼女たち5人は、これまでの罵詈雑言に我慢できなくなったとでも言うかのように憤慨した表情を浮かべて、タヅナたちの座っているテーブル席の真横まで歩いてきた。


「ヒイロ様の悪口は許しませんわ!」

『許しませんわ!!』


 彼女たちは〈ヒイロさま親衛隊〉を自称している、花麒麟ヒイロの学内ファングループだ。それぞれヒイロと同じ黒フレームのメガネをかけ、髪型も本人と同じく7対3に分けられたショートボブカットに切り揃えている。


「ヒイロさまは、お仕事でお忙しいの」

「ヒイロさまは、学業とお仕事と家事のマルチタスクをこなしてらっしゃるの」

「ヒイロさまは、横暴な教官たちから私たちを守ってくださるヒーローなの、そのことをわかって?」


 それまでヒイロの悪口を並べ立てていた候補生たちは溜め息をつきながら、ウンザリした表情で互いを見合っていた。


「ねぇ、タヅナは花麒麟ヒイロのこと、どう思う? 男子代表として」

「えっ、僕……?」


 タヅナが最も聞かれたくない質問してきたのは、同級生であり、この学校へと一緒に入学してきた義理の姉でもある蓬莱羊歯ほうらいしだジュンだ。


 気が付けば、無数の鋭い目つきに囲まれており、タヅナは思わず肩をビクッとすくめた。

 ジュンの意見に反論すれば、きっと周りの女子候補生たちから責められるだろう。でも肯定したら、今度は親衛隊の人たちから睨まれてしまう。どうしよう……。


 自分の出方を迷いながらキョロキョロと視線を右往左往させていると、タヅナの学内専用スマホ〈花フォン〉が振動した。

 画面を見ると、[花麒麟ヒイロ]と表示されている。

 やっぱり、とタヅナは思った。昨日も一昨日もお昼休みに電話がかかってきたから、今日のお昼にも電話がかかってくるんじゃないかと予想していた。


「あっ、ちょっとごめん!」


 急用であるという雰囲気を醸し出しながらタヅナは席を立ち、人だかりの少ない場所まで駆けていってから通話ボタンを押す。


「……どうしました?」

『あの……ほら……少し休憩したいんだが、今いいか?』


 その声は、三日三晩高熱でうなされている病人のような声だった。いつも自信満々に胸を張り、大人たちと対等な立場で議論しているときとは正反対に弱々しく、可哀想に思えてくる。


「はい、大丈夫ですよ」

『なら今から3分後に昨日の場所まで来てくれ――』


 そこでプツッと通話が切れた。

 ヒイロからの電話は、いつもこうだ。必要最小限の情報が伝えられて、一方的に切れる。


「誰からの電話?」


 テーブル席に戻ると、すでにヒイロさま親衛隊の人たちはどこかへと消えており、騒動の仕掛け人であるジュンが不思議そうな顔を向けてきた。肩まで伸びたウェーブパーマが、猫のように愛くるしい顔の周りに生い茂っている。


「えぇーっと……教官からだよ。また僕の担当してる清掃箇所が汚れてたみたい」


「またぁ? 昨日も一昨日もじゃーん。誰かの嫌がらせなんじゃないのぉ?」

「それじゃ、ちょっと行ってくるね」


 タヅナはサンドイッチのビニールごみを掴むと、逃げるようにして席から離れた。

 勘の鋭いジュンには、もう自分の嘘がバレてしまっているかもしれない。変な追求をされないうちに、その場をすぐ離れたかった。


 タヅナが廊下を小走りで抜け、校舎北口から出てすぐのバスロータリーにやってくると、ちょうどそのタイミングで白いリムジンが入ってきた。いつも通り、運転席は無人だ。


 リムジンはタヅナの目の前を横切って停車した。でも、いつもはすぐに開くはずのドアが、なかなか開かない。

 タヅナは不思議に思って後部座席の窓に顔を近付けてみるも、黒いスモークガラスのせいで車内の様子までは見えなかった。


 しばらく待っていると突然ドアが開いたので、タヅナは思わずビクッと後ずさりをして、恐る恐る車内を覗いた。


 向かい側のシートにはビジネススーツを着た、長身で細身の女性が座っている。黒いジャケットに黒いパンツスーツ、白いカッターシャツには、いつものように細身の黒ネクタイを締めている。


 7対3の割合で右に分けたショートボブに突き刺さった無骨なフレームの黒メガネの奥には、見る者を威嚇するような鋭い瞳が爛々と輝いていた。

 花麒麟ヒイロには、とても18歳の女子高校生とは思えないような貫禄があった。見た目はまるで、30代のカリスマ経営者だ。


 ヒイロは背中を丸めて右手の甲に顎を載せ、足を組んだ膝を上下に激しく揺すりながら、あたかも何か考え事の真っ最中というように振る舞っていた。


 彼女の視線は窓の外に向いている。こちらに気付いているはずだけど、今のところ反応無し。

 ドアが開いたってことは、「乗ってきてほしい」ってことだよね?

 ヒイロの様子をそれとなく窺いながら、タヅナはそーっと車内に乗り込むことにした。


「失礼しまぁす」


 リムジンの内装は一般的な車とは異なり、右側は横に大人4人が座れるような、薄いベージュ色のロングシートになっている。


「忙しいところ呼び出してすまなかったな」

「いえいえ、僕は大丈夫ですよ」


 そう言いながらタヅナは顔を赤らめ、ヒイロの右隣へと座った。一見すると硬そうに見えるシートも、座ってみるとお尻をすっぽりと包み込んでくれるように柔らかい。


 横並びになると、身長160センチのタヅナが、身長175センチのヒイロを見上げる形になった。


 心臓がトクトクトクトクと忙しなく働きだし、緊張で顔が強張る。


 すでに彼女とは3日連続で、似たようなシチュエーションで顔を合わせていたのだが、こんな至近距離で、こんな密室で2人きりというのは、3日連続でも慣れるものではなかった。


 これから起こるであろう出来事を知っていれば、なおさらかもしれない。


 タヅナが左に目を向けると、ヒイロは黒ネクタイを緩め、シャツの第2ボタンまで開けていた。その控えめに膨らんだ胸元からは、花の蜜が滴っているかのような甘い香りが漂ってきた。


「君は、何かを無性に撫でたくなることはないか?」

「はい?」


 ふと投げかけられた謎の質問に、タヅナはキョトンとしてしまった。

 『何かを無性に撫でたくなる』って、どういうことだろう?


「犬や猫の飼い主たちは、ペットの体を手で撫でたいがために世話をしている。そのような人たちと同様に、君は何かを無性に手で撫でたくなることはないか?」

「実家では犬を飼ってたので、よく頭を撫でさせられてまし――」


「そうだろう! そして実家を離れた君は今、犬の代わりに撫でられるようなものを欲している! 毛が生えて、適度に温かい、撫でると喜んでもらえるような存在を!!」


 ヒイロの手によって両肩を掴まれながら、タヅナは苦笑いした。

 そうか、今日はこういう理由か。


 ヒイロは何かしら理由をつけては、タヅナをあるシチュエーションにもっていくための誘導をしてきた。

 昨日は摩擦熱を感じてみたくなったと言い出し、一昨日は頭蓋骨の形を確かめてみたくなるとか言っていた。


「欲求不満というのはストレスホルモンの分泌を促し、健康に良くない。君も何かを手のひらで擦りたくなったら、遠慮なく擦ってくれていいんだぞ?」


 両肩をガシッと掴まれ、黒メガネと大きな瞳が迫ってきた。

 タヅナには、ヒイロの誘導したい方向が手に取るようにわかっていた。つまり、彼女は――


「ヨシヨシします?」


 ヒイロの瞳孔が開き、ぐにゃりとした笑顔が咲いた。

 彼女の白い頬は仄かに赤く染まり、口元は緩みに緩み、ピンク色の唇は艶めいた。


「もうっ、タヅナは積極的だなぁ! そんなに私のことをヨシヨシしたいのかぁ!?」


 それはまるで、大好物のお子様ランチを目の前にした子供のような顔だった。


 ヒイロは両腕で胸のあたりを抱きかかえ、全身をくねらせていた。先ほどまでの堂々とした貫禄はどこへやら、タヅナの目の前に座っていたのは、ごくごく一般的な思春期の――と言っても特段に甘えん坊の――女の子だ。


「はい。僕は花麒麟さんをヨシヨシしたいです」


 黒メガネの両サイドのフレーム中央部に、赤い線が発光する。これは録画モードのサインだ。これから起こるであろう出来事への同意を示す決定的な証拠が今、そのメガネ型ウェアラブルデバイスに記録されたのだろう。


「もう、仕方ないなぁ! じゃあ、ちょっとだけだぞぉ!」

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