第3章(3)

 一面が深緑だ。まるで汚れた川底みたいに。

 水中を歩いている感覚。

 緩慢な動きで四人は進む。

 薄暗い待合室のソファ。ライトで照らされた受付。

 観葉植物が、膝ほどの位置を漂っている。

 シーツやカーテンが上へと浮き上がり、海藻のように見える。

 所々に、玩具が転がっている。この階層の主である子どもの記憶だろう。

 自販機の前に、ワンピース姿の女が立っている。

 女はアヒルの顔をしていた。嘴に、破砕ごみのポリ袋をくわえている。その腹部は大きく前後に膨らんでいた。

「スキなのえラんでいイヨ」

 ひび割れた声で話しかけてくる。

 英梨は落ち着き払った声で「害意は無さそうね」と言った。この場所では、声はくぐもり、ある種の揺らぎをもって聞こえる。

 桜子は満面の笑みで、アヒル顔の女を凝視している。

「興味深い。これは母親との記憶だろうな。典型的な見捨てられ不安が感じられる」

「やっぱり、階層五ともなると生々しいねえ。悪夢を覗いている感じだ」

 女を後に、四人はさらに歩を進める。

 途中、ついに桜子が「まどろっこしい」と泳ぎ始めた。

「お前たちは泳がないのか?」

 英梨が呆れた顔で首を振る。

「そこまでの浮力があるのはあなただけよ。私たちはまだ歩いた方がマシ」

「そういうものなのか」

 無人の受付を過ぎると、奥に診察室が並んでいる。

 看板表示を見るに、その奥に入院患者の病室へとつながる通路があるようだ。おそらく、取り残された子どもたちはそこにいる。

 四人が診察室の前へと差し掛かったところで、一番手前の引き戸が勢いよく開いた。

「ちゅうシャスるヨ」

 白衣を着た異形の何かが歩み出てくる。

 峰で覆われた顔面が縦に割れ、そこにずらりと並んだ歯が見える。ゴーヤの化け物のように見えた。

 思わず身構えた一生に、総一郎が「大丈夫」と声を掛けた。

「これはただの『怖い記憶』だねえ。まだサカナにもなっていない」

「ちゅうシャ、コワくナイからね」

 ゴーヤはぐるりと引き返し、首から下げた聴診器をぷかぷかとさせながら、診察室の中へと戻っていった。

「サカナと出会ったら、気を付けないとね」

 英梨が言う。

「それが外部から送り込まれたサカナなのか、この子の内側にもともと居るサカナなのかの判断が必要よ。もし、この子のサカナを壊してしまったら――」

「なぜいけない? トラウマなど消すに越したことはないだろう」

 桜子の言葉に、英梨と総一郎が首を横に振る。

「僕らはどうあっても他者の内面に干渉すべきではないよ。この子のサカナには、いずれこの子が向き合うべきだからねえ」

「そういうものなのか。理解しかねるな」

 一連の流れを聞いていた一生が、「あの」と口を挟んだ。

「どう見分ければいいでしょう?」

 英梨がそれに答える。

「まずはシンプルに、そのサカナの形態ね。入院していたのだから、病気や病院に関する形が考えられるわ。白衣や注射器、手術をしていたのならメスとか――。それと、一概には言えないけれど、そのサカナが浮いているのかどうかも判断の材料になるわ」

「浮いているか?」

 仰向けでぷかぷかと漂いながら、桜子が後を引き継いだ。

「外部から侵入したものと、もとから内側にあるものでは浮力が違うのだ。外部からのサカナは、多くの場合這っていることが多い」

 英梨が苦笑いした。

「これだけ見事に浮かんでいる状態で言われてもね。この人は例外」

 そんな話をしている間に、一同は入院病棟への連絡通路を抜け、階段に差し掛かった。

 空間が歪んでいるらしい。上階へ向かう階段は無く、下りの方向へ「2階」の表示がある。

 足を前方に出し、身体の重心を前に傾け、そのままゆっくりと次の段に降りる。浮力が邪魔をしているのだ。

「厄介だわ。下るのに時間がかかる」

「先に行って様子を見て来よう」

「くれぐれも勝手な動きはしないでね」

 英梨の警告が届いたのかどうか、桜子は一人、すいすいと階下へ泳いでいった。

 桜子はそのまま、2階にある病室を一つ一つ確認していく。どの病室も、ベッドが床から少しだけ浮き上がり、シーツが天井近くを漂っている。廊下には、ストレッチャーを押す何かが徘徊していた。

 三人がようやく踊り場へたどり着いたのと、桜子が「見つけたぞ」と声を上げたのが同時だった。

「今行くわ。どこ?」

「二〇四号室」

 声の方向へ三人が進もうとしたそのとき、突然すぐ脇の壁が崩落した。

 水中のような浮遊感は微塵も感じられない。重量感のある崩壊だ。

 ずるずると音がする。

 大穴の向こうを、何かが這っているのだ。

「サカナだねえ」

 いまいち緊張感を欠いた声音で、総一郎が言う。

 英梨がやれやれと首を振った。

「最悪ね。こんなふうに分断されるなんて、想定外だわ」

 瓦礫は廊下を塞ぎ、さらに三人の正面にはサカナが躍り出ようとしている。

 つまりは、桜子とそれ以外が完全に分断されたかたちになったのだった。

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