「本社さん」~イケメンのホンネは意外と面倒!?~

秋月一成

【プロローグ】

 ――なんてことだ。


 僕は今、無様にも田園を流れる用水路の中に上半身を突っ込んでいる。


 両腕はぬかるみに捕らえられ、髪の毛は半分水に浸かった状態で身動きが取れない。スーツはすでに台無しだった。しかも顔の隣では溺れかけの黒い子猫が必死に鳴き叫んでいる。


 ともに崖っぷちだから、可愛らしいはずの鳴き声が怨念のようにも聞こえる。助けるつもりならちゃんと助けろと主張しているようだ。


 不幸には不幸が重なるものだ。女の当たりどころが悪かったがために辺境地にある提携会社の支店に飛ばされた。


 その初日、用水路に落ちた猫を発見し、助けようとしたところ足を滑らせこのざまだ。出勤時間に人の姿がないなんて東京では考えられない。


 だから助けてくれ、と呼びかける相手はどこにもいない。僕も黒猫もじわりじわりと濁った水の中に身を沈めてゆく。


 そのとき、背後に車のエンジン音が近づいてきた。地球の中心に向かって突き刺さっている僕のそばを通り過ぎたところでブレーキをかける音が鳴った。そして車の扉が開く。誰かが小走りでこちらに向かって近づいてくるようだった。


 九死に一生だ、誰かが気づいて助けに来てくれたみたいだ。


 僕の珍妙な姿を見て驚いたのか、慌てて呼びかける声がする。


「だっ、大丈夫ですかっ?」


 さっきまで仰いでいた秋空のように高く澄んだ声が聞こえたが、姿を確認するのは今の体勢では無理難題だ。


「どこの誰だか知りませんが、これが大丈夫に見えますか」


「……ですよね」


「……手を貸してもらえませんか」


 助けを乞うのには羞恥心が伴うが、背に腹は代えられない。人間は天地無用にできているものだと思い知らされた。


「じゃあ、引き上げますよ」


「お願いします!」


「ニャーニャーニャー!」


 黒猫がもはや僕を頼りにしていない。高い声の主を救世主だと見なしたようで、視線は僕の背後に向けられている。


 僕の腰に細い腕が巻きついた。若い女性特有のやわらかさとしなやかさが感じられ、つい反射的に身をこわばらせてしまう。


「んっ!」


 救世主は息をこらえて力を込めたようで、細い腕が僕の腰周りを締めつける。必死な様子が震える声と腕から伝わってきた。


「ん~っ、重いっ!」


 僕の両腕は次第に浮き上がり、ついに泥の中から抜けた。すかさず片手は用水路の縁を掴み、もう片手で黒猫の首の皮をつまみあげる。


「ニャー!」


 僕の体は大きく仰け反り、勢い余って草むらの中に倒れ込んだ。


 黒猫が顔の上に落下したので反射的に目を閉じたが、隣でも雑草がばさりと音を立てた。助けてくれた人が倒れこんだようだ。


 黒猫をつまみ上げて除け、音のした方に顔を向ける。


 生い茂る雑草をはさんだ向こう側には、若い女性の姿があった。相手も目を見開いて僕に向き合っている。


 彫刻のように綺麗な鼻筋に、すっと引き締まった顎のライン。自前のまっすぐな長い睫毛が際立っていて、ひたいには意志の強さを感じさせる刀身のような揃った眉。栗色をした艶やかなストレートヘアは雑草の上に無造作に広がっていた。ぱっちりと見開いた大きな瞳には僕の顔とブルーの秋空が映り込んでいる。


 意外に思ったのは、二十歳過ぎくらいの若い女性のようなのに、健康を色で表したような桃色の頬には化粧の修飾がほとんどなかったし、小さな耳たぶにはビーズでこしらえた、たぶん手製のイヤリングがはめられていたことだ。


 まじまじと視線を移すと、白いブラウスの下がだぶついたカーキ色のチノパンで、動きやすそうだけれどお洒落とは無縁な、地味な色合いだった。


 都会の大企業では女子社員は皆、おしゃれに気を遣い、外見も重要なステータスだという認識があった。だから僕が知る女性達とは真逆の、まさに田舎の女の子といった印象を受けた。


 互いに寝転んだまま草の上で向かい合い、けれども時が止まったように言葉が出てこなかった。


 間があってから、彼女は口元を緩めたかと思うと、たまり兼ねたようにけたけたと笑い始めた。堪えきれない笑いを隠そうとして顔を両手で覆う。僕は失礼とも取れるその反応に少々、腹が立った。身を起こし彼女に話しかける。


「助けてもらったのはありがたいんですけど、そんなに笑わないでもらえますか。ウケ狙いで落ちた訳ではないんですから」


 彼女は手のひらで口元を隠したまま身を起こし、潤んだ眼を覗かせて返事をする。


「あはは、だって、あなたみたいにこの町と関係のない人が、こんなところで真っ逆さまになってるんですもの!」


「天地がひっくり返るってどういうことか、身に染みました」


 そういったものの、僕は彼女の言葉に疑問を抱いた。どうして僕が「この町と関係ない人」だとわかったのだろう。不本意なことに、今日からこの田舎町の住人になるのだが。


 すると彼女には確信があったようで、続けて尋ねてきた。


「どちらからいらしたんですか」


 敬語で喋っているせいで訛りは目立たないものの、標準語とは微妙なイントネーションの違いがあった。


「あ、東京です。仕事の都合でしばらくいるんです。でもなんで僕がよそ者って分かったんですか」


 すると彼女はこともなげに答える。


「だってわたし、この町の人のことは全員知ってますから」


「全員……?」


「はい、全員ですよ。おじいちゃんおばあちゃんから、ついこの前生まれた赤ちゃんまで」


 そして無邪気に小首を傾げた彼女は、僕が知る女性の誰とも違って、誰にも縛られることなく思いのまま生きている人のように思えた。


 そう、生え揃った田園の稲穂をしなやかに踊らせ、通り過ぎてゆく秋の風のように――。

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