4 彼女は天敵に出会い、茶番を演じる



 私は表情筋を総動員させると、全力で遠慮がちな、けれど親しみのこもった笑みを浮かべる。


「ご無沙汰しておりますわ。エミール様」

「君も、元気そうで何よりだよ。シャーリン・グィシェント」


 すっと目を細めて、エミール・クレッシェンが笑う。あんたが顔を見せなきゃ、もっと元気でいられたんだけどね。


「アイリスたちが、貴方様を待っておりましたわ。早く行って差し上げたほうが、よろしいのではありません?」


 こちらはお前に用はない。言外に、さっさと消えろと誘導する。

 しかし、この男はさらに笑みを深めると、こちらに一歩足を踏み出してきた。

 もっとも私もさりげなく足を引いたので、二人の間の距離は等間隔に保たれる。両者の間に、微妙な沈黙が訪れた。


 エミールは驚いたように僅かに目を見開いていたけれど、ふいにその目に愉快そうな色が滲む。

 一度の瞬きで綺麗に消え失せはしたものの、好青年を絵にかいたような彼の姿に似つかわしくない愉悦の気配に、私の背筋はぞわっと粟立っていた。


 私は一目見た時から、アイリス・ミラルディアという女を心の底から気に食わないでいた。

 けれどそれと同じくらい、いやそれ以上に好きでないのが、このエミール・クレッシェンという男だ。

 清廉潔白そうな顔をしているが、実際は抜け目なく腹黒く性格が悪い。こいつを前にすると、まるで爬虫類を目にした時のようにぞっとするのだ。

 しかも長らく、そうした本性を私に察しさせないでいたところも腹が立つ。


「それで、いったい何が妙なんだい?」


 あ、こいつ。私の言葉をまるっと無視しやがった。

 私はひくりと引きつりそうになるこめかみを緩めつつ、頬に手を置き困ったように小首を傾げた。


「何のことでしょう? アイリスは先日できた新しいお友達といらっしゃいますわ。挨拶がてら、一緒にお話しするのも素敵だと思いますの」


 そっちがその気なら、こっちだって空っとぼけるまでだ。もともと、大した意味のない独白である。いくらでも誤魔化しは利く。

 しかし、エミールは眉尻を下げると、寂しげな笑みを浮かべ、こちらを真っ直ぐに見た。


「僕は、何か君の気に障ることをしたかい? まるで僕を追い払いたがっているように聞こえるよ」


 私は心外だと言わんばかりに目を見張り、微笑みを浮かべて首を振った。


「とんでもありませんわ!」


 まったくもって、その通りだよ! あんた、分かっていて言ってるって、こっちも気付いているんだからね。

 嫌味を通り越して寒気すら覚えるような白々しさから意識を逸らし、私もまた慎ましやかな所作で偽りを演じる。


「でも、あたくしは所詮アイリスのおまけですもの。あたくしのような女が、アイリスを差し置いてエミール様と親しくするなんて、烏滸がましいにも程がありますわ」


 互いに素知らぬ顔で演技を続けている現状は、正直滑稽すぎて下手な喜劇そのものだ。

 しかしどれだけ黒に近く見えても、決定的な証拠を突きつけない限りは、灰色は灰色のまま。決して奴には私を黒と断ずることはできない。

 ならば、わざわざこちらから馬脚を現してやる必要はない。精々わざとらしい程に真っ白く振る舞ってやる。

 腹の探り合いなら負ける気はないし、ならばあとは根気との勝負になる。私は自分の目的の為なら、いくらだって気長になれるのだ。


「そうかい? だけど僕は君に対しても、かなり興味を持っているよ」

「エミール様は、お戯れが過ぎますわ」


 私は頬を染め、恥らうように視線を落とす。その姿は初心な乙女そのもので、思わず目に浮かんだ蔑みの色もきちんと隠せたはずだ。


 いくら心理戦は得意だと言っても、それとこいつの気色悪さを我慢できるかどうかはまた別の話だ。

 いや、我慢はできる。顔にだって態度にだって、一切出したりしない。その気になれば色を利用してやることだってできるけれど、それでも気持ち悪いと思う感情を消し去ることはできないのだ。


 そもそも奴のこうした振る舞いは、私が嫌がることを見越してやっているに過ぎない。そうすることで、私がうっかり隙を見せるのを狙っているのだ。

 相手が最も嫌がる部分を最も嫌がる方法で攻めるのは、王道であり一番効果的な手段だ。だからこそ私は弱みを見せることはせず、平然と対応しなければならない。

 本当に狡猾で嫌味で腹の立つ野郎だけれど、親しげに振る舞うくらい私には御茶の子さいさいだと見せつける。

 それがこの手段は効かないと、この男に知らしめる唯一の方法なのだ。


「つれないね、シャーリン・グィシェント。薄紅色のドレス、よく似合っているよ。ただ、そのリボンはいただけないな」


 気が付けば、エミールの手が私の髪に伸ばされている。私は思わず仰け反りそうになるのを、くっと堪えた。

 前も感じたけれど、この男は人の意識の外で動くのに長けているようだ。

 家系的に根からの文官肌かと思っていたけれど、なんらかの武術もかじっているのかも知れない。誰だ、この男にはた迷惑な技能を仕込んだのは。


「ええ、ルーカス様にも言われてしまいましたわ。お恥ずかしながら、こうした小物をあしらうのが不得手でして」


 困ったような笑みを浮かべた私の言葉を後半まるっと無視し、エミールは「ルークがね」と呟く。その顔に一瞬不敵な笑みが浮かんだ気がして、私は嫌な予感を覚えた。


「ルークもどうやら、君を気に入っているようだね」

「ルーカス様は綺麗な女性を見慣れていらっしゃるから、あたくしの野暮ったさが目に余ってしまうのでしょうね」


 実際は愉快な小動物扱いだけれど、それ以外は間違ってはいないだろう。女の趣味はさて置き、ルーカスの美的感覚が一線を画しているのは確かだ。

 私はいつまでも自分の髪とリボンを弄ぶエミールの手に、苛立ちを見せないようそんな事を思って気を散らす。しかしふいに、くいっと引っ張られる感覚を頭部に覚えると同時に、耳元で衣擦れの音がした。


「良かったら、髪を結いなおしてあげようか。そういうの、僕は得意だよ」

「か、返して下さい!」


 子どもかっ!

 いきなり解かれた髪飾りのリボンに、私は唖然とした目を向けてしまった。

 リボンは紐で括った上で結わいてあったので、髪が解けることはなかったけれど、二つに結わいた片方だけのリボンが外されているのは見るからにおかしい。

 こんな悪戯をするのは初等部の悪ガキくらいなもので、そんなことをエミール・クレッシェンがするなんてまったく予想外だった。

 私は半泣きの表情を作って手を伸ばすものの、頭二つ分は身長差があるエミールの持つリボンを取り返すことはできない。


「遠慮しなくていいよ。ちゃんと可愛くしてあげるから」


 あやすようにぽんぽんと頭を撫でられ、私は心の中だけで怒りを露わにする。

 お前が手を加えなくても、私は初めから可愛いんだよ。あえてそれを表に出していないだけで!

 できる事ならその楽しげな顔をぶん殴ってやりたいが、残念ながら“グィシェント子爵家の御令嬢”に付した性格上、それは難しい。


 そうやって私が予想外過ぎるエミールへの対応に苦慮していたその時、それは唐突に起こった。


「お願いだから、いじわるしないでくださ――、」


 私の言葉尻を掻き消して、いくつもの硝子が一斉に砕けたような、大きな破壊音が耳に飛び込んできた。そして間髪なく響き渡る幾人もの悲鳴とどよめき。

 私とエミールはほぼ同時に、音のした方を振り返った。


「シャーリン、君はここに」

「いえ、あたくしも行きますわ」


 身を翻しその音の出元へと走るエミールの背中に、声を掛ける。残念ながら踵の高い靴を履いた私は急ぐことができないけれど、その他の野次馬と一緒に私は夜会の為に解放された広間の方へ向かった。



 露台のように張り出した二階桟敷部分からは、中庭に面し、吹き抜けになっている一階の広間が見下ろせる。そこからは本来すぐ目の前に、硝子細工の美しいシャンデリアが蝋燭の火を反射して煌めいているのが見えた筈だ。

 しかしそれは現在、床一面に砕けた硝子片を散乱させていた。

 二階から覗き込めば、危うく直撃を避けられたらしい何人かの令嬢が、身も世もなく泣き喚いているのが見えた。と言うか、彼女たちは先ほどアイリスにとっちめられた学院の生徒ではなかったか。

 彼女たちは見るからに錯乱し、取り乱していたけれど、ふいにその口から意味のある叫びが発せられる。


「やっぱり、これは呪いのせいよ――っ!!」


 混乱したまま放たれたと思われる言葉は、しかしどういう訳か一気に広間に浸透した。

 『呪い』『呪術』。そういった言葉がまるで波紋のように広まり、幾かしこで囁かれ始めたのだ。

 私が怪訝な気持ちで周囲を見渡していると、誰かがまた広間に飛び込んできた。

 垢抜けない時代遅れのドレスを着たブルネットの少女が、散々たる広間の様子に一気に顔を蒼褪めさせる。


「モニカ、待って!」


 追って荒々しい足音と共に飛び込んできた声は、私の良く知るものだった。アイリスはモニカ・ウルマンの腕を掴むけれど、少女はそれに気付く余裕もなく、ただわなわなと唇を震わせていた。

 そんな少女を避けるかのように幾人かの人々が一歩二歩と後ずさり、さらに何人かがそれにつら、憚るように人の輪を作る。そこには明らかに、怯えの感情があった。

 ぽっかりと空いたその空間の中心で、少女がとうとう卒倒する。

 必死に呼びかけるアイリスの声に紛れて、「呪いの令嬢」という誰かの言葉が私の耳を掠めたのだった。

 

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