3 彼は疑い、笑顔の裏の蛇を睨む

 





 自分が恵まれた人間であることは、知っていた。




 窓の外を見下ろせば、厩番の下働きの少年が老年の厩番に大声で怒鳴られていた。

 何か失敗をしてしまったのだろうか。朝から晩まで毎日休む間もなく働く苦労を自分は知らないけれど、きっとすごく大変なことなのだと分かる。

 窓の外から視線を戻し振り返れば、世話係や侍女たちが自分に対して恭しく頭を下げていた。


「殿下、お勉強のお時間です。先生がお待ちですので、移動いたしましょう」

「うん……」


 一つ頷き、彼らとともに埃一つなく美しく磨き上げられた廊下を歩く。

 殴られることもなく、怒鳴られることもなく。

 質の良い衣服をまとい、手の掛けられた食事を口にし、国で最も格式高い建物で暮らす。

 それが自分の生活だった。





「ねえ、どうして俺は仕事をしなくていいの?」


 寝台の上で上半身を起こして本を読んでいた兄に、俺は尋ねる。

 いつ見ても顔色の悪い兄は、怪訝そうな顔で首を傾げた。


「お前の仕事は勉強だろ?」

「でも、それは変だよ」


 俺は寝台の横に置かれた椅子の上で、唇を尖らせ不満を表す。

 城内の目につく所にはいないけれど、窓の外を覗けば自分と同じくらいの年ごろの子供が汗まみれになって働いているのは良く見かける。

 怒鳴られて、叩かれて、それでもちょこまかとひっきり無しに走り回っている。

 彼らがしていることは、間違いなく仕事と言えるだろう。


 一方自分は机に座って勉強するだけだし、それだって頻繁に休憩を取らされては、疲れてはいないか辛くないかと逐一確認をされている。

 こんなのは仕事とは言わないと訴えると、兄はくすりと笑って首を傾げた。


「お前だって、宿題さぼって先生に怒られただとか、居眠りをして鞭で手を叩かれたとか言って泣いてた時もあったじゃないか」

「そ、それはそうだけど、そうじゃなくてさ!」


 怖い先生に怒られて兄に泣きついた時のことを持ち出され、俺は真っ赤になって首を振る。


「仕事って、もっと厳しくて大変なものじゃないの?」

「まあ、そうだね」


 兄はふむと頷くと、膝の上で開いていた本を閉じ、真剣な表情で自分と向き合う。


「ヴィル、確かにそういう意味ではお前はまだ仕事と言われるようなことは、何一つしていないだろう」


 すっと雰囲気を切り替えた兄の前で、俺も慌てて背筋を伸ばして姿勢を正す。


「だがこの先、お前はとても責任の重い仕事を担うことを求められる。それは、嫌だと思っても決して逃げることのできない役目だ」


 兄の、否を言わさぬ揺るぎ無い眼差しに、ぐびりと唾を飲む。重い重い何かが、一気に肩に伸し掛かったように感じられた。


「その仕事を果たすためには、多くの事を学ばなければならない。それこそ、子供のうちから何年も費やして。お前の今していることは、そういうことだ」


 そう言われて、ようやく納得がいった。

 自分は仕事をさせてもらうには、まだまだ勉強が足りないのだ。自分がもっと知識を得て、賢くなったら、そこでやっと仕事を任されるようになるのだろう。

 期待に目を輝かせた自分に、兄は微笑ましそうに目を細める。そして、ちょっと悪戯っぽく言い添えた。


「だいたいそれなら、私も仕事をしていないことになってしまうな」

「でもそれは、兄上がご病気だから……!」


 この兄は昔から身体が弱く、病みがちで、一年のほとんどを寝台の上で過ごしている。比較的体調が良い時であっても、走り回って仕事をするなんて到底不可能だ。

 暗に兄を否定するようなことを言ってしまったと慌てていると、兄は優しく笑って頭を撫でてくれた。


「冗談だよ。私もお前と同じように、まだ勉強中の段階だからね」

「兄上にも、任される仕事があるの?」

「そうだよ。私たちに課せられたものは、病気だからと言って免除されるようなものじゃないからね」


 兄はこともなげにそう言ってのけるが、そこで初めて自分は己に課せられた物の重さに気付いて居竦んだ。そしてそれを察した兄は、俺を覗き込み微笑む。


「大丈夫。お前が一生懸命自分の務めを果たそうと努力していれば、まわりもきっとお前を助けてくれるから」


 もちろん私も、お前を助けるよ。と言って貰え、俺はようやくほっとする。少なくとも兄が味方になってくれるなら、それはひじょうに心強いことだった。


「ねえ、兄上。もう一つ、聞いていい?」


 兄は優しく微笑んで、話を促す。


「俺はまだ勉強中で、仕事もしてないし責任も果たしてないのに、どうしてみんな俺に頭を下げてくれるの?」


 兄の言葉を借りれば、この先自分は責任の重い仕事をするようになるのだろう。父上や父上の周りにいる大人たちのように。

 仕事をしている立派な父たちに頭を下げるのは分かるけれど、どうしてまだ何もしていない自分にまで、みんな甲斐甲斐しく世話を焼き、恭しく接してくれるのかは不思議で仕方がない。


 そう言うと、兄は少し目を見開き、くすっと笑った。


「そうだね。それはお前が自分の頭で良く考えてみなさい」

「教えてくれないの?」

「自分で気付いた方が、良いことだからね」


 兄は答えを知っているようなのに、教えてくれない。まるで意地悪をされたようで、思わず頬を膨らますとそれを指先で突っつかれた。


「お前は賢いから、きっと気付けるさ」


 ところで、と話題を変えようとした兄はそこで不意に咳き込んだ。

 そばに控えていた兄の使用人が、慌てて水を持ってきて兄に差し出す。


「そろそろ、お休みになられた方が良いかと存じます」

「そうだね……」


 呼気に掠れたような異音が混じり始めた兄に、俺は不安な眼差しを向ける。兄はそんな俺に、心配ないと言わんばかりに笑いかけた。そしてまた、真面目な表情を作る。


「ヴィル。最近ブレンドレル公爵と親しくしているようだけれど、あまり彼から物を貰ったり、二人きりで会ったりしてはいけないよ」


 優しく、諭すような物言いだったけれど、俺はぐっと唇を噛んで視線を逸らす。兄は哀しげな表情を浮かべたけれど、そればかりは聞く訳にはいかなかった。

 

「……また、近いうちに顔を見せにおいで」

「はい。兄上も、おだいじになさってください」


 寝台に身を横たえる兄に頭を下げ、部屋を出る。

 背中に張り付く兄の視線に、ひどく居心地の悪い思いがした。







 自分はこの国ナーディアントの、第二王子として生まれた。

 十ほど年の離れた兄は幼少時から体が弱く、寝込むことが多かったけれど、すでに王太子として叙任されている。

 だから自分は、父の跡を継いで王となった兄の手伝いをするのだと、漠然とそう思っていた。



「それは、あなた様が愛されるべき存在であるからですよ」


 兄にしたのと同じ疑問を口に出すと、ブレンドレル公爵はさも当然のように答えた。

 ブレンドレル公爵家は、前王たる祖父の妹――すなわち大叔母の婚家だ。そして目の前の男は現在の当主で、縁戚関係で言えば父の従兄弟にあたる人だった。

 王家と血の繋がりもあり、国内でも影響力の強い家である。

 ブレンドレル公爵は、従甥(いとこおい)であるところの自分を殊の外かわいがってくれていた。

 何くれとなく様子を見に足を運んでくれたり、珍しい贈り物をしてくれたりと、多忙や病床にあってであまり会う機会のない実の父兄よりも、頻繁に顔を合わせている。


「愛されるべき、存在……?」


 意外な言葉に首を傾げていると、公爵は目を細めて笑った。


「ええ、その通りです。由緒正しき血を受け継ぐ、正統なる王子殿下。あなたのその気高き威光に、下賤なる者たちは平伏し、恭順の姿勢を示すのです」

「つまり、俺がナーディアンスだから頭を下げるのか?」


 自分に流れる古い血に対して、まわりの大人たちは敬意を払っているのか。

 そう納得しかけたが、公爵は首を振る。


「あなたの存在そのものが、得難く素晴らしいからです」


 理解できずにいる俺に、公爵は言葉を尽くして、如何に俺が生まれながらに素晴らしく、人々に愛されるに相応しいかを語っていく。自分を賞賛し、全面的に肯定するその言葉は確かに心地良かったが、仰々しい物言いにだんだん俺はうんざりしてきた。

 なのでそれを半ば聞き流しながら、頭の片隅で公爵の言葉は何かに似ているなぁと、ぼんやり考える。


「じゃあ、公爵もそう思うから俺のところに来るのか?」

「もちろんでございます」


 満腹になった猫のように目を細める公爵に、俺はふうんと気のない返事をする。

 褒められるのは嫌いじゃないけれど、実感がなければただ尻の座りが悪いだけだった。


「それはともかく、殿下。本日は隣国で人気の蜂蜜菓子をお持ちいたしました。ぜひとも、ご賞味いただければと」

「うん!」


 公爵の侍従が恭しく持ってきた箱に、俺は目を輝かす。公爵が持ってきてくれる菓子は、珍しく美味しい物ばかりで、俺は毎回それを楽しみにしていた。


 公爵がくれる以外に、滅多に口にすることのできない素晴らしい甘味に舌鼓を打っていたが、ふいに兄の言葉を思い出して罪悪感を抱く。

 公爵は優しくて大好きなのに、どうして兄は俺が公爵と会うことに良い顔をしないのかが分からない。

 気落ちした様子を見せる俺に、公爵は心配そうに理由を尋ねる。だから俺は正直に、兄に言われたことを伝えた。


「ねえ、公爵。どうして兄上は、あんまり公爵に会ってはいけないなどと言うのかな」


 甘い菓子を頬張りながら眉尻を下げる俺に、公爵はしたりと答える。


「恐らくは王太子殿下は、ヴィルヘルム殿下に嫉妬なさっておいでなのでしょう」

「嫉妬? どうして?」


 俺は首を傾げる。公爵は、目を細めて笑った。


「ヴィルヘルム殿下の方が、多くの者に愛されていらっしゃるからです」

「そうなの? でも、兄上は頭がいいし、父上に信頼されてるから跡継ぎに選ばれたんでしょ?」

「ええ、左様でございます。ですが、王太子殿下は何分身体が弱くていらっしゃいます。病弱な王太子殿下よりも、健康的で活発なヴィルヘルム殿下の方を好ましいと思う者の多いのでございますよ」

「公爵も?」

「ええ、恐れ多くも殿下を我が息子と同じように愛しております」


 公爵はそう言うが、俺はなんだか兄を貶されたようで嬉しくはなかった。だから、その言葉には素っ気なく頷き、話題を変える。


「ねえ、今度トビアスも連れてきてよ。俺、一緒に遊びたい」


 俺は自分とそう年が変わらないという、公爵の息子の名前を出す。城で大人に囲まれて暮らしている俺は、同年代の子供と遊んだことがほとんどなかった。

 だから公爵にそうねだるが、公爵は困ったような顔をして首を振る。


「申し訳ありませんが、それは陛下のお許しが必要になりますので」

「じゃあ、俺が父上にお願いして、いいと言って貰えれば大丈夫?」

「左様でございます」


 公爵は、俺が授業で正しく答えられた時の教師みたいに、満足そうにうなずく。


「宜しければその際、我が娘のカロリーネも一緒に召して頂けませんでしょうか? 殿下よりも五つ年上ではありますが、きっと殿下のお気に召して頂けると存じますが」

「え、やだよ。女と一緒に遊んでも、つまらないし」


 数少ない同年代の子供と一緒に遊んだ経験を思い出し、俺は渋面を作って首を振る。公爵はそれでも何度か食い下がったが、俺が首を縦に振らないのを見て諦めたようだった。


 公爵の言葉は、彼の持ってくる菓子のようにねっとりと甘く、べたついている。

 俺が公爵の話す言葉の印象を明確に表現できるようになったのは、もっとずっと後になってからだった。


 その後も俺は公爵に可愛がられ、甘やかされ、様々な貢物を受け取ることになったが、彼の息子と遊ぶ機会は永遠に訪れなかった。






 ある年の冬、兄の病状が悪化した。

 日の半分、月の大半を寝台で過ごすことに変わりなくとも、それでもここ数年はだいぶ具合も落ち着いていた筈だった。このまま快癒に向かうのではないかと、そんな風に思われてもいた。

 しかし、そんな周囲の希望とは裏腹に、これまでのツケを支払うかのように兄の身体は一気に病に浸食され、昼夜問わず医者が張り付くことになった。


 一進一退の状態が、数日さらには数週間続くようになると、城内には密やかにある噂が囁かれるようになった。

 いわく、王太子の容体はもはや絶望的である。遠からず、第二王子が王太子に選びなおされることになるだろうと。


 どこからか聞こえてくるそんな噂を、自分は信じたくはなかった。

 けれど、いくら耳をふさいでもそれは聞こえてくる。

 不安を拭い去りたくとも、自分は兄を見舞うことを許されていなかったし、父も母も公務で忙しく顔を合わせる事ができずにいた。

 また公爵も、今までは頻繁に顔を出してくれていたというのにここの所は一度たりとも、自分のもとに足を運んでくれずにいた。

 自分は不安で、何より寂しかった。


 そんなある日、公爵の使いだという人間がやって来た。

 その人間は、最近足を運べていないことに対する公爵からの詫びの言葉と、甘い菓子を携えていた。

 相手が誰であれ、贈られた物は一度側仕えを通さなければ、受け取ってはいけないことになっていた。

 けれど、この時自分は隠れるようにして一人でそれを受け取り、口にした。

 甘味に飢えていた訳ではない。

 ただ、寂しさを紛らわす為に、そして公爵との思い出に縋るために、舌が痺れるほどに甘い菓子を貪り食べたのだ。


 そして、結果――。


 自分は激しい嘔吐と痙攣の末に、意識を失った。





 目を覚ましたのは、一週間と言う時間が過ぎた後だった。

 兄はすでに峠を越し、容体も安定していた。むしろ深刻なのは、自分の方だった。

 ブレンドレル公爵の姿は、王城から消えていた。まわりの大人たちは、その理由を誰一人として教えてくれなかった。

 だが漏れ聞こえてきた噂話や断片的な情報を統合した結果、公爵は自分と兄の両方が死ぬ事で己の子供が王位を得るという、愚かな夢を見てしまったらしかったと分かった。

 もちろん、王位継承者に毒を盛るなどという大罪を犯すにあたって、自分の仕業とは思われないよう偽装を施していたようだし、本人も強く否定していたが、それが認められることはなかったという。

 自分がブレンドレル公爵に会うことは、その後二度となかった。


 また、俺は己の愚かな行いについて、たくさんの大人から叱責を受けた。

 兄の再三の忠告を無視して、公爵に会い続けていたこと。公爵から物を受け取り続けていたこと。側仕えを通さず、強いて言えば毒見も通さずに他人の差し出した食べ物を口にしたこと。

 色んな人が次々にそれらを説教をしてきたのだが、父よりもよっぽど穏やかな人格者だと思っていたクレッシェン宰相の叱責が、一番恐ろしかった。

 声高に咎められる訳ではなかったが、じわじわと真綿で首を絞めるように追い詰めていく叱り方は、しばらく夢に見て魘されるほどだった。


 一方で、俺の周りには側近候補たる年の近い子供らが侍るようになった。

 父やその他、俺の教育に携わる大人たちの意向としては、もう少し俺が成長してから引き合わせたかったようだが、俺の寂しさや常識の無さに付け込む、ブレンドル公爵のような人間が現れたことを考えての決定だった。


 待ちに待った遊び相手。

 しかし、俺はもはやそれを無邪気に喜ぶことができなくなっていた。


 自分はこの国において、間違いなく恵まれた立場にいる。

 だからこそ妬まれ、恨まれ、利用しようとする人間が出てくる。それはもはや妨げようのない必然なのだろう。

 優しげに声を掛け、親しげに触れて来たとしても、その背には刃や毒を隠し持っているかも分からない。笑顔の裏にいかな企みを抱いているか知りようもない。

 それを思うと、誰一人として信用しようとは思えなくなった。


 もちろん例外はあって、幼い頃から面倒を見てくれた乳母や侍女などには気を許していたし、共に馬鹿騒ぎや悪ふざけをするほどにまでなった側近候補の子供たちもまた、最も近しい親友と言えるまでになった。

 しかしそんな彼らであっても、本当に腹の底から信用できるかといえ俺は恐らく口ごもるしかなかった。俺は最も近しい身内以外を信じることができなくなってしまっていた。

 もっともそれを、誰かに気取られるような真似は決してしなかったが。





 

 彼女と出会ったのは、貴族の子弟が通う学院だった。

 この国の貴族の大半は、この学院に籍を置く。それが貴族階級の格式であり、同時に世間知らずの子供たちの見識を広め、また派閥を作る役にも立っていた。

 それは王族も同様で、自分もまた側近候補の幼馴染たちとともに、この学院の一生徒として在籍していた。


 その日は、取り立てて特筆すべきことなど何もない日だった。

 自分が選択していた授業を終え、同じ科目を取得してた幼馴染の一人と学院の敷地を歩いていた。ふと何かに気を取られ、幼馴染から数歩足が遅れた、その瞬間だ。


 頭上から、何かが落下し自分の背中にぶち当たった。

 

 痛みと衝撃に混乱していたのは、瞬きの間だけ。次の瞬間には、身を転がしその場から距離を取っていた。

 脳裏に浮かんだのは、襲撃の可能性だ。

 貴族の子弟を預かる学院では、何人もの警備兵が巡回をしていたし、元より身元の不確かな人間が侵入するような隙はない。それでも不審者が忍び込む可能性は皆無ではなかった。

 将軍を父に持つ幼馴染が慌てて振り返る。だが、俺の目に飛び込んできたのは翻った制服のスカートと、そこからすらりと伸びる白い足だった。


「ごめんなさい! 下に人がいるって気付かなかったのっ。後でお詫びは幾重にも。今は急いでいるから見逃して!」


 そう捲し立てた女子生徒は、こちらを振り返りもせず一目散に駆け出していく。唖然としてその背を見送っていると、幼馴染が駆け寄って頭を下げた。


「ヴィル、すみません! お怪我はありませんか?」

「……大丈夫だ、テオ。あっても軽い打ち身だろう。しかし、今のは……?」


 呆然と呟くとまるでそれに答えるかのように、頭上から「アイリス様、なんて危ない真似を!?」と女性の悲鳴が降ってきた。見上げると、三階の窓から女子生徒の一人が青ざめた顔で身を乗り出している。

 どうやら自分にぶつかった女子生徒は、その窓から木をつたってここまで降りてきたようだ。

 思わず幼馴染と顔を見合わせる。幼馴染はまるで鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしていたが、恐らく俺もまた同じような表情を浮かべていたに違いなかった。




 その衝撃がまだ薄れずにいた、数日後のこと。食堂で昼餉を取っていた自分の元に、あの時の襲撃犯がやって来た。


「あっ! やっと見つけた! あなた、この前踏みつけちゃった人よね!」


 一人の女生徒がこちらに向かって駆け寄ってくる。幼馴染のテオがさりげなく、彼女の進路を妨害するように席を立った。

 癖のある金茶の髪に翠の瞳。うっすらとソバカスの浮いた顔は、綺麗と言うよりは愛嬌のある面立ちだ。

 だが、その女生徒の顔に自分は見覚えがない。顔には笑みを浮かべながらも、ぞわりと胸の中で警戒心が首をもたげた。

 しかし、スカートの下から覗く健康的な白い足がちらりと目に入った時、はたと脳裏に閃くものがあった。


「君は……」


 あの時の、と続けようとした俺の言葉は、背後からの声にかき消される。


「貴女――っ」


 振り返ると、赤い髪が眩い幼馴染の一人が驚いたようにぽかんと口を開けている。

 女性関係の華やかな幼馴染だ。もしや過去の彼女の一人かと思いきや、続けて浮かんだ忌々しげとも怖気づいているとも取れる甚く微妙な表情に、想像が違っていた事を察する。


「ルーク、知り合いか?」

「いえ、先日ちょっと……」


 言葉を濁す幼馴染に、目の前の少女もまた気づいたようで、こちらは屈託のない笑顔を浮かべた。


「あっ、あなたもこの間はゴメンね?」

「いえ……」


 女性に関しては油でも塗ったように良く口が回るこの幼馴染が、こうも口籠るというのは珍しい姿だ。

 どうやら一言にし難い関係のようだが、それでも俺は彼女に対して警戒を解く気にはなれなかった。王族である自分に近付くために、幼馴染らを利用しようとする人間は少なくない。

 そんな警戒心をおくびにも出さす、果たして何が目的かと胸の内で身構える自分に、彼女は無邪気に笑みを浮かべる。


「あたしはアイリスって言うの。この間、足蹴にしちゃったお詫びをしたいと思うんだけど」


 あなたの名前を聞いていい?


 そう言って、首を傾げる少女の後ろでヒィと息を呑む音がした。


「アイリス様! あなたが前に踏みつけたのって、まさかヴィルヘルム殿下――っ!?」


 小柄な銀髪の少女が、蒼褪めた顔でふらりとよろめく。その声は、いつぞや三階の窓から降ってきたものと同じだった。

 そんな悲鳴を一身に浴びた少女は、「あれ? 知り合いだったの?」と振り返って首を傾げた。


 その後、彼女――アイリス・ミラルディア侯爵令嬢が学園に編入してきたばかりであるということ。

 先日の騒動は、性質の悪い下級貴族子弟から玩具にされて衰弱していた仔猫を奪い取り、獣医の元に運び込もうとする最中の出来事であったことを聞かされた。

 また彼女からの詫びの申し出を断ると、アイリス嬢はあっさりと引き下がった。

 これを機に自分に近付こうという企てかと怪しみ、もっと食い下がると思っていた俺は逆に肩透かしを食らった気分だった。


 だがそれ以降、俺とアイリス嬢は機会があるたびに顔を合わせ、その度に俺は、浮かべた笑顔の裏で疑心暗鬼を募らせることとなった。

 



 だから――、


 俺が長年抱き続けてきた頑なな猜疑心が彼女によって解きほぐされ、再び人を信じられるようになるまでには、まだしばらく時間がかるのだった。






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