聲~こえ~

聲~こえ~ 其の壱

 火口奈々ほぐちななは疲れていた。

 要求の多い患者の対応に追われ、室長の説教に巻き込まれ、院内の道案内を矢継ぎ早にこなし、世間話が好きな老人たちをうまく煙に巻き、緊急の呼び出しに対応し、寸でのところで薬剤の取り違えを回避し、最後に医者に手際の悪さを指摘される。世の中が頑張っても報われる世界ではないということを嫌ほど痛感させられて、今日も奈々は重い足取りで休憩室のドアを開ける。

 食欲どころではなかった。ロッカーから引っ張り出してきたオーディオプレイヤーにワイヤレスイヤホンを接続して、休憩室の隅の長椅子をベッド代わりに横になる。横になったらなったで、来週の勉強会のことが頭をよぎる。耳に流れる希望を投げかける歌詞が自分を急かす言葉のように聞こえる。溜息をついて、インスト曲に切り替える。


「ねえ……」


 目を閉じていた奈々の耳に声がかかる。

 瞼を開けるが、向かいの長椅子に座った同僚の海月みづきは医学雑誌をめくりながらコンビニ弁当をつついている。

「今、なんか言った?」

 奈々がそう声を掛けると、海月の丸い眼が返ってくる。

「なに?」

「いや、なんでもない」

「お昼食べないの? ぶっ倒れるよ」

 ウォーターサーバーから確保してきた白湯を口に運んで海月が尋ねる。

「食べる気力がない」

「大丈夫?」

「大丈夫って言えるうちは大丈夫」

 海月が同情を寄せるように小さな笑いを口元に浮かべた。

「二十日に室長の誕生日パーティーだよ。プレゼント用意した?」

 奈々は頭を抱えた。

「ああ、まだだ……」

 この狭い世界では、室長へのプレゼントを忘れるなんて、自殺行為に等しい。

「今日が十七日だから、あと三日だよ」

「十七日?」

 壁にかかったカレンダーに目をやる。十月十七日。奈々は飛び跳ねるように長椅子の上で身を起こした。

 ──今の声……。

「どうしたの?」

 険しい表情の奈々に海月は箸を止めた。

「なんでもない」

 取り繕うように微笑む奈々の顔は強張っていた。


***


 夜の病院が恐ろしいというのは、そこが仕事場ではない人間の妄言だと奈々は思っている。特に騒がしくない夜なら、ナースステーションでやるべきことをやる自由な時間がとれる。もっとも、そんな日があるかどうかは別だが。

 奈々は病棟の見回りに出ていた。

 この病院にも一丁前に怪奇現象の遭遇話が伝わっている。廊下の先に誰かが立っていたとか、どこかの病室ですすり泣く声がするとか、霊安室で叫び声が聞こえたとか、いずれも真偽不明なものばかりだ。奈々にはどれも下らない子ども騙しのように思えた。

 病室の消灯を終えた院内の廊下は少しだけ照明の数が少ない程度で不気味さもない。

 多人数部屋が並ぶ廊下を歩いていると、


「ねえ……」


 と、またあの声がした。奈々は立ち止まって、前後を見回した。真っ直ぐと続く廊下は静かで、誰の姿もない。近くの病室の扉を開いて中を見回る。

 声は若い女性。ところが、近くの病室には男性しかいない。

 ──きっと、気のせいだ。

 奈々はそう結論づけて、廊下に出て見回りを再開した。



 入院患者のリストに特記事項がある。高齢者もしくは病状によっては、寝ている間に寝返りなどを打つことができない患者がいる。その体位変換を行うのも、夜勤での重要な仕事だ。

「ちょっと行ってきます」

 先輩に声を掛けて、奈々は点滴の確認と体位変換のために、再びナースステーションから夜の院内に足を踏み出した。

 担当の病室を回り、患者の体勢を変えてやる。見た目以上に力仕事な上に、目を覚ました患者から小言を貰うことも多い。心身に堪える業務だ。


「あはは……」


 体位変換を行うさなか、病室に無邪気な笑い声が響いた。思わず素早く病室の中を振り返った。暗い室内には、想像を掻き立てるような影法師がいくつも立っている。

 その笑い声は、明らかに部屋の中から聞こえてきた。奈々は急いで作業を終え、病室を出た。

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