嫌悪の正体

「親父もお袋も、昔っから朝も夜も、一回も顔を見ずに寝るなんてザラだった。昔はおにぎりかカレー、今はテーブルに金が置いてあるだけ」

 俺を一切見ず、薄くなった茶色いグラスを両手で包んで八古は話し続ける。時折その綺麗な顔を歪めてみたり、嘲笑うように口角を上げてみたり、と様々な方法で嫌悪感を示していた。だが、その口から吐き出される言葉は、どれもたったひと言を濁しに濁した言い訳のように聞こえてしまい、それを確かめるために、

「それで?」

 と、八古の中に溜め込まれているものを全て吐かせようと促せば、待ってましたと言わんばかりに両親への恨み辛みが出てくるのだ。

「あの人達は、子どもには金を与えておけば勝手にデカくなると思ってんだよ」

 会ったことのないその人達を、非難する理由を俺は持っていない。

「だから、血が繋がってたって他人は他人だ。お前が、他人に起こったことを自分のことみてぇに怒れる理由が分かんねぇ」

 満足したらしい八古を見ると、薄くなった烏龍茶を口にして顔を顰めていた。

「八古、現文苦手だろ」

「ああ?まぁ。作者の意図なんか知るかよ」

「あれってさ、想像力の問題じゃん」

 大分乏しいよ、と苦笑すると八古は不服そうに口元を歪める。

「ずーっと、八古の話聞いてたけど、八古も普通に家族は好きなんじゃないの」

「ホントに俺の話聞いてたか?」

「聞いてた聞いてた」

 薄くなってしまったカルピスのグラスを傾けて口にすると、殆ど水のような、しかし味がするような不思議な液体で、濃過ぎずいいかもしれない、なんて思う。

「俺には、ずーっと八古が“寂しい”って言ってるように聞こえたけど」

「マジで人の話聞いてねぇだろ」

 聞いてたって、と笑うと目の前にある顔はパッと俺から視線を外し、なにもない、綺麗でも汚い訳でもない床へと視線を落とした。

「だってさ、小さい時に家にいてくれなかった、褒めてくれなかった、一緒にメシを食ってくれなかった、って全部寂しいやつが言うやつじゃん」

 顰めっ面で、珍しく俺の目を真っ直ぐと見る八古は子どもみたいで、俺の帰りを待つ弟を思い出した。いや、あいつはこんな目をしないのだが。

「俺は恵まれてたから、お前の寂しさを理解してやれない。でも、それがどうしたら薄まるかは知ってる」

「なに言ってんだ」

「お前の寂しさがなくなりゃいいんだよ」

 手っ取り早いだろ、と言いながら立ち上がり、グラスを手に席を後にする。ドリンクバーのマシンにグラスを置きボタンを押すと、鈍い音を立てながら水とカルピスの原液が注がれた。段々と増していく量を眺め、赤いロゴマークまで達したところでボタンから手を離した。

 ふと顔を上げて席を見ると、八古はテーブルを指で叩きながらただ待っていた。

「態度悪いぞ」

「なにが」

「指」

 不機嫌さを隠さず、俺に当たるようにする八古に注意をする。無意識だったのか、癖なのか、どちらにしても好ましくないそれを八古はハッとしたように止め、その顔を俯けた。

「八古も、もう少し気を付けた方がいいぞ」

「なにをだよ」

「だから、態度」

 無意識のうちに高圧的になってしまう悪癖持ちらしい八古は、同年代の男子としては普通なのかもしれない。普段見ている柳田や髙橋、道場のやつらが比較的穏やかなあまり忘れていた。高校の奴らも、見ているに大っぴらにいじめるよりは、カビが生えそうな程ジメジメと陰湿に陰口をたたく方が多い。それもそれで好ましくはないのだが、そういう性分を直せ、というのは難しい話だ。

「態度って、別にそんなつもりねぇし」

「八古って、ちょっと子どもっぽいよね」

「は?」

 俺に対して嫌悪感を剥き出しにし、鋭く睨み付けてくる様は、やはり反抗期のそれで微笑ましく思える。

「じゃあ、話を変えるけど、なんで俺のこと嫌いなの?」

 振動した携帯をポケットから出し、八古の顔を敢えて見ないようにした。目の前にいる俺の嫌いな所を吐けと俺に言われているのだ。見られているよりいいだろう。

「デカい身体付きとか、不満なく生きてそうな感じとか、そういうのが羨ましかった」

「今も?」

 いや、と間髪入れずに八古は否定し、透明に近い薄茶色を口にして眉間に皺を寄せた。

「家のこととかなんも知らなかったから、正直、恵まれてんだろうなって思ってた。父親のこととか……好きなんだろうなって」

 八古の中にいた俺の像が段々と俺の前に姿を現す。

 恵まれていて、幸せそうな家族の中にいる俺を、そこに見た。そんな虚像を八古は、自分と違う、と羨み、妬んで俺を遠目に見ては嫌悪していた、なんてまるで小学生のような理由に呆れよりも憐れみよりも、もっと違う、柔らかい感情を抱いた。

「当たり前だけど、お前はお前で苦労してるし、それでも、なんつーの……人としてちゃんとしてるんだって、思ったら、こう……」

 不器用に言葉を探しながら、八古はグラスから手を離し頭を抱えた。

「お前、もっとトゲトゲしくあってくれよ。もっと感じ悪けりゃよかったのに……なんなの」

「え?なに?クレーム?」

 どした、と隠された顔を覗こうとテーブルに右頬をつけると、チラリと動かされた八古の瞳とかち合った。少しだけ潤んだような、赤みを帯びた白目にゾワリと肌が粟立った。


***


 目の前にいる、不器用そうに見えて実は器用な男を、市民体育館での剣道の稽古を見た日以来直視したくなくて仕方がない。

 稽古中に目に入った竹刀のカケラを取ったあの時、まばたきをしてボロリと大粒の涙を流した次の瞬間、柔らかく笑った顔が脳裏にこびりついて離れないのだ。

 深い理由なんてない。そう思いたい。

「えー、なに。感じはいいに越したことねぇじゃん」

「お前、微妙に柳田に似てるよな」

「まぁ、付き合い長ぇから」

 ニヤリと上げられる口角は見慣れず、こうも表情が豊かだとは思っていなかった手前、俺は平常心を保てない。

「なぁ、俺が感じ悪い方が良かったってなに?なんか迷惑かけた?」

「マジで、そういうの柳田に似てる」

「分かったから、はぐらかすなって」

 なんで、と俺の顔を覗き込んだままいる清水にムシャクシャして、俺の足の近くまで伸びている足を蹴り上げた。

「いった。暴力反対。」

「しつこいのが悪い」

「いや、言わないのが悪いだろ」

 口には出さないものの眉間に皺を寄せると、うぜぇって顔してる、とケラケラ笑い身体を起こした。

 離れていても鼓膜を荒く削るように撫でる掠れ声とか、温かさを持ったまま細められる切れ長の目とか、全てを握り込めそうな程デカい掌とか、全部が俺をムシャクシャさせる。

「お前、無差別に誰にでも優しいから、それが腹立つ」

「褒められたのに怒られてんの?納得いかねぇわ」

 優しいのはいいことだろ、と至極当然のことを言われ、それが俺の神経を逆撫でする。

「あ、でも」

 と、何かを思い出したように声を上げた清水が珍しく困ったように笑った。

「あ?」

「こわぁ。優しくねぇのな、って今日言われたよ。女子に」

「なんで」

 コイツ程優しい人間を高校で見たことはない。髙橋も優しいことには優しいが、あれは友人限定だ。それ以外には基本的に無関心で、嫌いな奴や苦手な奴は普通にいる。清水のそれとは実感として違うのだ。

「前に告ってきた子フったじゃん。フった理由言ったら、案外優しくないんだね、って」

「なんでフったんだっけ?」

 聞くと、あー、と濁しつつも言いにくそうに口を開いた。

「好きでもないのに付き合って、やっぱゴメン、ってできる程俺は器用じゃないからさ、期待させないようにって」

 そんなこと言っていたか、と視線を泳がせると清水はバツ悪そうに苦笑する。

「髙橋に聞かれた時は別のこと言った」

「だよな。なんだっけ、化粧がどーのって」

「よく覚えてんな」

 ヘラリと笑った清水は、俺の知る柔らかさとはまた違い、いつもの包み込むような雰囲気ではなく、許容を求めるようなものだった。

「じゃなくてさ、なんで優しいのが腹立つん?」

「……知らね」

「髙橋には思わんの?」

「……思わねぇ」

 へー、と興味があるのかないのか分からない返事をし、清水は小さく笑って何かを整理するように視線を泳がせる。

 相変わらず騒がしい店内にいて、俺と清水の間だけに沈黙があるように思える程、外はうるさいのにここだけは耳が痛くなる程静かだ。段々と音が遠退き、隔絶され、俺と清水しかここにいないような錯覚を起こす。

「八古さ、」

 ホワイトノイズによって雑音がなくなったような空間に、心地よい掠れ声が柔らかく挿し込まれた。

「今も俺が嫌い?」

 一度だけ見た、あの幼い弟へと向けられたのと同じ、この上ない程柔らかい笑みで清水は俺へと問い掛けた。今まで聞いた全部と、今目の前にいる清水を見て抱くのはそんな感情ではない。

 首を振ると、清水はニッと口角を上げた。

「よかった」

 と、嬉しそうに笑う清水は俺の知る清水ではなくて、その顔に、声に、心臓が騒ぎ、落ち着かせようにも言うことを聞かないそれは収まる気配がなく、うるさく暴れ続ける。

「そろそろ店出る?」

 何の気なしに聞いてくる声も、優しく俺を見る目も、全部から逃げ出したくなる。

「そうだな」

 平静を装おうと返すも、どこか軽いような重いような身体は思うようには動かず、声は微かに掠れていた。

「どした?」

 席を立ってバックパックを肩に掛けた清水が俺を待ちながら、のんびりと聞いてくる。

 そんな態度、柳田にもしていなかっただろう。

「なんでもねぇよ」

 苛立ちにも似た心地になって、やっと扱いやすくなった身体だが、自分のものではないような感覚には変わりなかった。

 エナメルバッグを肩に掛け、清水の少し後ろに立つとチラリと俺を見た。清水の手に握られている伝票を見ようと覗き込むと、パッとそれが隠される。

「奢るっつったろ」

「悪い」

 そうじゃなくて、とすかさず訂正するように言われ意味が分かり、口の中で数度言うべき言葉を転がした。

「……サンキュ」

「お、そうそう。言えんじゃん」

 笑いながら遠回しにされた言葉だが、俺の中にあるらしい空っぽだった器を満たした。

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