知りたくなかった現

 車の走る音も、風に揺れた髪が耳に擦れる音も、清水の声も。目の前にいるはずの清水の顔も。

「それは、どういう」

 全部が遠退いて朧げになっていくのに対して、甲高い壊れた自転車のブレーキを強く握ったような音が鋭く頭の奥で響いた。

「そのまんまだよ。あいつが今まで付き合ったのは女子が三人、男が一人。女子とは長くても三週間弱しか続いてない。」

 清水はなにを言っているんだろう。

「男は、俺の道場にいた七つ上の大学生。そいつとは四ヶ月続いた。」

 先輩らしいその人を、そいつ、と呼んだ清水に違和感があって、これは聞かなければならないことだ、と思うのに口は意に反して、はくはくと開閉を繰り返す。次第に頭の中が整理され、薄い希望と疑問が浮かんだ。

 朗報ではないか。

 一目惚れして、好きで、好きでどうしようもなかった彼が女を好きになれないのだ。願ってもいないことのはずだろう。

 それなのに、なぜ俺は素直に喜べない?

「その人、とは……なんで」

 アキレス腱を伸ばしていた清水が脚を引いてグッと身体を屈める。それと同時に深く息を吐くのが聞こえた。ふと見えた目は、冷たい。

「あいつは根っからのお人好しで、人タラシで、誰にでも平等に接する。」

 分かるだろ、と清水は悲しみと、なにか悔しさのようなものを含ませた声で俺に訴える。俺はそれに頷くしかできない。事実だから。

「柳田はそれ以上をその男に与えようとした。いや、与えたんだ。笑顔で、幸せそうに……けど、そいつはそれを利用した。柳田は犯罪の手伝いをさせられたんだ」

 清水、俺はどうやらお前の言葉を受け入れられないようだ。

「犯罪って……中学生にできることなんて、限られてるだろ」

「そうだな。けど、ナンパならどうだ?その辺歩いてる子に声掛けて、飯に誘って、自分だけ先に帰らされて」

 苛立っているのか、清水は早口で捲し立てる。けれど、それはどれも素直に俺の中には入ってこない。耳に飛び込んではくるものの、脳が受け付けないのか、それともただ俺の頭が悪いのか。理解しようとしても追いつかない。

「待って、それ……は?なに。どういうこと」

 屈伸を繰り返していた清水が動きを止め、すっとその場に立つ。拳を強く握って、その手を震わせながら開き、顔を覆った。

「そいつは……そいつと連んでる奴らは、常習犯だったんだよ」

 レイプの、とボソリと呟かれた言葉に身体が震え喉からおかしな音がした。

 実際にあるのは知っているけど、一番遠い犯罪だと、どこか異国の話だと思っていた。こんな田舎で、まさか本当にやっているヤツらがいるなんて、という呆れと気持ち悪さが腹の中で渦巻いた。

「柳田が女の子に声掛けて、大学生達がセッティングした飯屋まで行って飯食って、大学生が女の子に薬盛って、柳田だけそこで帰される。柳田は……三回目くらいでおかしいって気が付いて、そいつから離れようとした。」

 それで終わらなかったことは清水が言わずとも分かった。

「そんなん、利用してるだけじゃねぇか」

「そうだ。けど、柳田はそれでも信じようとした。そんなことはやめようって、そいつに訴えた。だけど、すんなり辞めるはずもないだろ。あいつらは根っからのクズなんだ。」

 口角がヒクヒクと痙攣して、喉がカラカラに渇いて、それでも言わなければ、と息を吸い込む。

「なんで、ハルはそんなやつを--」

「いい人だったんだ」

 苦々しさを滲ませながら強く、けれど悲しみにも溢れた声を放って清水は顔を歪めた。叫んだわけでも、怒鳴ったわけでもないのに声を出すのが躊躇われる。

「昔っからうちの道場にいたんだ。俺は柳田より前からあの人を知ってる……面倒見が良くて優しかった。親父を亡くした俺のことも、本当の……」

 弟みたいに、と呟く掠れた声が震えて音が消える。いつも羨ましくて見ていたはずのデカい身体が、そんなことを感じさせない程に震えて弱々しい。

「そんな人が、まさか大学でオカシな連中と連んでそんなことしてるなんて思わないだろ……俺だって、最初は信じられなかったよ。信じたくなかった。けど、あんな……あんなに泣いてるの見たら、本当なんだって」

 段々と掠れ声を低くし、清水は悔しさと腹立たしさを溢れさせた。

 清水は、仲間としてハルを大切に思っている。だからこそ、そのハルが傷付けられ、蔑ろにされたのが許せないのだと、それが見て取れて、勘違いをしてしまっていた自分を恥じる。俺よりもマサの方が余程しっかりとふたりを見ている、と実感した。

「ハル、ハルは辞めれたんだよな」

「ああ。子どもだけじゃ無理だから、さすがに大人が間に入ったけどな。」

 重量を増した空気が俺と清水を押し潰そうとする。段々と丸くなる清水の背中は、見えないはずの後悔がどっさりと積まれているようだ。

「でも、それと……ハルが誰も好きにならないってのに、なんの関係があんだよ」

「トラウマなんだよ」

 清水の掠れた声が鈍器のように俺を殴り続ける。ガンガンと頭を打つような衝撃は止むことを知らない。

 面倒見が良くて優しいその人にハルは、その優しさを全部利用されて傷付けられ、裏切られた。傷付きたくなくて、裏切られたくなくて、ひとりを選んだのだとしたら。

 その深過ぎる傷を俺は癒せるだろうか。

「みんな、あの人を信じてた。だから、やつれていく柳田にすら気付いてやれなかった。」

 もっと早く気付いてやりたかった、と言葉にはしないものの清水の声から、表情から、そう言っているように聞こえた。それと同時に、清水も裏切られた内の一人なのだ、と嫌でもわかった。

 重過ぎる空気を肺に取り込み過ぎて上手く声が出なくなった。目の前にいる清水が携帯を出して時間を確認する。

「悪い。俺そろそろ戻るな」

「あ、」

 待って、と無意識に清水の腕を掴んだ。それはやはりがっしりとしていて、筋肉の付き方が俺や八古とは全く違うと触れただけで知らしめる。

「なに?」

 振り返らず、引き止められるままに足を止める。

「その、その人は、今」

「どうしてるか、って?」

 俺に対してのものではないと分かる軽蔑を含ませた声で、清水は吐き捨てた。

「うちの高校に出入りしてる。剣道部の外部指導やってたよ」

「は」

 そんなことをしたやつが出入りしている。況してや、お咎めなしだったのでは、と思うだけでゾワリと気持ち悪さが俺の胸元辺りを這っていった。

「だから、俺らは剣道部で稽古しない。本当なら他の奴らもそうだったけど……ここに来た方が都合がいいんだ。」

 俺に向けられた清水の目も濡れていた。

「そ、か」

 その目が悲しくて、俺にも伝染したように短く答えることしかできなかった。視線が俺から外れて、清水が深く息を吐くのが聞こえる。

「帰るんなら、気を付けろよ」

 じゃあな、と俺の手からするりと腕を抜き、清水は市民体育館へと消えて行った。

 溜息を吐き、その場で頭を抱える。

 こんなはずじゃなかったのに。なんて都合のいいことを言うつもりはない。けれど、そんなに大きくて、苦しくて、悲しい秘密をハルと清水が抱えているだなんて、まさか思うはずがないではないか。いつも優しくて笑顔で、明るくて、イタズラが好きなハルからは想像できないものなのだから。

 違う。彼はそれを繕っているわけではない。

 俺の目に見えているハルは、清水が言っていた通りに素だ。繕っているのではない。俺の目が曇って朧になっている実像にはしっかりと輪郭があって、決して嘘ではないと、現実だと知っている。そして、なによりも--

「誰も好きじゃない、わけじゃない」

 そうなのであれば、伝え続ければいいだけだ。俺は裏切らないよ、と。利用なんかしないよ、と。ハルを真っ直ぐに思っているよ、と。

「それだけじゃんな」

 呟いて立ち上がる。

 暗いことばかり考えていたからか、思考がそちらへと引っ張られていたけれど、そうだ。たったそれだけのことだ。好きになれない、ではない。好きではない、と思い込んでいるに過ぎない。

 観音開きの重いドアを押し、体育館へと足を踏み入れる。風なんて吹いていないのに、それだけで髪が揺れた。

「清水!」

 階段を駆け上がりすでに足しか見えていない彼を呼ぶと、数段降りて顔を覗かせた。

「どした?」

「見学してい?」

 眉根を寄せて難しい顔をしていた清水だけれど、俺の言葉を聞いて表情をやわらげる。

「当たり前だろ。早く来い」

 ニッと口角を上げて笑う清水の顔が優しくて、ハルが清水と一緒にいる理由がなんとなく分かった。

 階段まで走り、一段飛ばしで駆け上がる。清水の隣に立つと、気を付けろよ、と困ったように笑った。

「清水!早く来いよ!」

 と、大好きな声が鼓膜を揺らす。

「すぐ行く」

 顔を上げると、いつもの制服姿とは違う、上下で色の違う袴姿のハルがいた。

「あ、れ……見てくん?」

「うん」

 いつもと違うぎこちない雰囲気は、ハルが素直である証拠のようで、それがなぜか今は嬉しい。自然と顔が綻んで、声も明るくなる。

「そか、侑司も、早よ来い来い」

 釣られたようにハルも笑った。

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