難しくて苦手な事

 髙橋がいきなり椅子から立ち上がり、そのまま七組の教室から出ていってしまった。

 確実に、何か勘違いをしたままで。

 深い溜息を吐き、持って来ていたパック牛乳を啜りながら能天気な柳田に目を遣る。

「なに?」

「……なんでもねぇよ」

 髙橋に聞かれた、柳田に好きな奴がいるか、という質問は俺にとっても難問だった。柳田に直接聞けば済む話だが髙橋はそうせず、俺を介して知ろうとした。それはつまり、そういうことなのか?

「あ、俺も戻るわ」

「ん、あとでな」

 小学生の頃から通っている道場に柳田が来たのは、中学二年の時だった。今と変わらず明るくて誰とでも分け隔てなく、同じ温度で接することのできる人タラシ。正直、俺は柳田が苦手だった。道場に来てすぐの頃、俺は柳田と稽古以外では関わらずに過ごしていた。

「放課後、剣道部行ってみる?」

 中学三年に上がる少し前、小学生の頃から同じ道場で汗を流していた仲間の一人に彼女が出来た。その頃の俺はランダムで選ばれる師範の標的の内の一人になっていて、少しだけ柳田以外とも距離が出来ていたから、話には入らずただ聞いていた。当然、彼女が出来たとなれば連日自慢話を聞かされるのだが、柳田はその中にいる奴でただひとり、羨むような言葉も、妬むような言葉も言わなかったのだ。ほんの些細なことだったが、そこから少しずつ話題を逸らすために柳田は俺を巻き込むようになった。

「……一応」

 オーケー、と言ってオレンジジュースのパック片手に柳田も八組へと戻っていく。予鈴が鳴り響き、教室がまた騒がしくなった。

 明るくて、人を巻き込むのが上手い柳田に初めての恋人が出来たのは中学三年の秋だった。それまで色恋の話を持ち出すことがなかった柳田に、と周りは驚き、俺は少しの嫌悪感を抱いたが、それも束の間だった。彼女が出来ても、浮かれるでもなんでもない柳田は数週間後にはフラれ、そのまた数週間後には新たな彼女が出来、またフラれた。たった三ヶ月の間にころころと別の女が出来たことで、二股三股を元彼女達から疑われた柳田だったが、それは俺や道場の連中が否定することでことなきを得た。

 聞いたことがある。本当にあの子達のことは好きだったのか、と。今でもはっきりと覚えているのは、あっけらかんと言った柳田の顔だ。

--そのはずなんだけど、あの子達はトクベツではなかったのかも。実際、しっくりこなかったし。

 それを聞いてから、俺は恋愛というものに蓋をして、俺が意識する存在していないかのようにしていた。昨日までは。

 ふう、とひとつ溜息を吐き、柳田に邪魔をされ結局続きを書けていない詩と、単語やなんやを書き出したメモを机の中から引っ張り出す。途中まで進んで入るもものの何か決定的なものが足りない、とシャープペンシルを右手で回しながら再び紙と睨めっこする。

--ランナーの描写がないんだよな。というより、何か有名な人の描写の方がいいのか、ただ野球部のプレーの描写だけでいいのか……微妙だな。ああ、でも八古のライナーはすごかった。コントロールも若干ズレてたけど、あんだけ身体の近くに投げてもらえればキャッチャーも文句ないよな。あと、足が良いな。あいつ何秒で走るんだろ。

 昨日見た光景とテレビの中で時折見る光景を瞼の裏で再生し、書けそうな場面を探す。だが、何度再生しても、フライを獲りにボール下へと走りキャッチした八古が、そこから流れるような動作で思い切り腕を振り抜く場面が気を抜くたびに浮かぶ。

 八古は俺の体格を羨ましいと言った。それは髙橋もだ。けれど、あんなにセンスと脚力があるのなら体格なんて不要とも思えた。そう思ったから、羨ましいと言われて困惑したのだ。

「清水」

「え?」

 思考を巡らせている間に何度も俺を呼んでいたらしい隣に座る女子が、俺の腕を掴み揺すった。顔を彼女に向けると紙切れを差し出してくる。咄嗟に手を出し受け取るが、皆目見当も付かずただ見詰める。

「あの子から」

「……サンキュ」

 隣に座る彼女が指差した女子に目を遣るが、接点がなさ過ぎて名前も定かではない。受け取った紙切れは可愛らしい小さな便箋で、女子らしい丸字で俺の名前が書かれていた。何かあったかだろうかと考えてみるものの思い浮かばず、少しの興味と強い恐怖を抱く。

--悪目立ちするタイプではないけど、比較的目立つ女子といる気がしたな……。え、ナニ。怖……。

 気乗りせず、開きもせずにワイシャツの胸ポケットへとしまう。まだ俺を見ていたらしい隣席の彼女が慌てて椅子ごと、俺の方へと身体を近付けてきた。

「なんで見ないの?」

 ボリュームを落としているものの、比較的静かな教室内ではうるさいと思える語気で俺に訴える。

「いや、なんか気乗りしないだけ」

 なんで、と訊かれたこと自体が不思議で聞き返す。すると、彼女は眉間に深いくっきりとした皺を作って俺を睨んだ。

「いいから、見てみなって」

「なんで、あとで見るって」

「あとでじゃなくて!早く」

 俺の胸元を指差して、女子は急かしている。押しの強さに負け、しまったばかりの便箋を取り出し、カサカサと音を立てるそれを恐る恐る開いた。

「なんて?」

「あー……いや。人に言うもんじゃないわ」

 書かれていた内容は、嬉しいような、怖いような、ただ複雑な感情をぐるぐると巡らせるもので、やはり開くんじゃなかった、と後悔した。悩んだまま聞く本鈴は遠く感じられて、どこか違う世界に俺だけ飛ばされたようだった。


***


 結局、ハブられた。

 髙橋も清水も、俺を見て“あとで”と言ったくせに、授業の合間は疎か、昼飯の時すら来やしなかった。たまたま、本当にたまたま用があって七組の前を通り掛かった時に見えたのは、丁度髙橋と柳田の背中があのデカい清水を隠すところだった。

 ……別にいい。別に清水は来なくてもいいのだが、普段一緒にいる髙橋まで清水や柳田といるとなると、なんとなく近付くのが憚られた。いや、俺はもともと誰かと連むような質ではない。だから、どうでもいいのだが、普段騒がしく矢継ぎ早に話題を振る髙橋がいない昼は、時間の流れが穏やかで遅く感じた。

「あ、マサー!早く行かねぇと遅れる!」

「遅れはしねぇよ」

 またもホームルームを最後まで聞かずに走って来たらしい髙橋が、教室の外から俺を手招いている。エナメルバッグを担いで行くと、髙橋は当然のように身体の左側のスペースを空けた。そこを歩け、ということなのは分かりきっていて、言われずともそうするのが身に染み付いている。

「昼、清水と食ったのな」

「え?知ってたんなら来りゃよかったじゃん」

「いや、スペースなかったろ」

「ハハ、それ清水も言ってた」

 溜息を吐いて、ムシャクシャする腹の虫を誤魔化そうとついでに咳払いをする。それだけで治ってくれればいいものを、未だ暴れようとするソイツに尚のこと腹が立ち、二、三回、心臓近くを柔く拳で殴る。

「なんか、イラついてる?」

「……別に」

「エリカ様かよ!」

 うるせぇよ、といつにも増してうるさい髙橋をあしらうが、なんとなく様子がおかしいように思えた。

「あ、八古」

 と髙橋、と今一番聞きたくない声に呼び止められ、俺も髙橋もその足を止める。ふと目に入った髙橋の笑顔が、今朝と違って引き攣っていると直感で分かった。ほんのわずかな違いだが、無駄に長い付き合いのせいで気付いてしまう。触れて、いいものだろうか。

「なに」

「ハハ、冷てぇの。髙橋、悪いけど少しだけ八古のこと借りていい?」

「いーよ」

「サンキュ」

 髙橋の、少し堅い声色に募り続ける違和感を抱きながら、清水に緩く右腕を引かれるままその場を離れる。往来の多い廊下ではなく、ソファーやテーブルのあるコミュニケーションホールへと連れて行かれた。髙橋は壁にもたれてスマホを弄っている。

「んだよ」

「んな警戒すんなって。大したことじゃねぇんだ。」

「じゃあ早く」

 そのまま行けば問題なかったが、清水に引き止められてしまったことで部活に遅れそうだ。昼のことといい、今といい、ガタイといい、色んな要素が相俟って腹が立つ。

「お前、モテるよな?」

「……は?」

 聞き間違いかと思い聞き返すが、俺の顔を覗き込む顔は真剣そのもので、真面目に言っているのだと分かる。分かるのだが、

「いや、知らねぇよ」

「愛想悪いけど顔はいいんだし、モテるだろ?告られたことは」

「まぁ、何回か」

「あるんじゃねぇか。嫌味かよ」

 俺を助けろ、と少し苦々しい顔で俺を見て清水は胸ポケットから小さな紙を取り出した。清水の趣味にしては可愛過ぎる、女子っぽい字で清水の名前が書かれたそれを俺に見せて、清水がボヤく。

「この後女子に呼び出しくらってんだけど、思い付く理由が一個しかねぇんだよ」

 ボソボソと言うもんだから何かと思えば惚れた腫れたの話らしい。心の底からどうでもいいし、それなら俺ではなく柳田に聞け、と言いたくなる。が、もっと効果的な言葉が見付かった。

「いいじゃん。おめでと。じゃあな」

「待て待て待て、そうじゃなくて。俺この子の名前すら見るまで忘れてたんだけど、それ言ったら絶対ダメだろ?意識したこともねぇし……この場合フッていいのか?」

「好きにしろよ」

 冷てぇの、と清水がまた呟いた。人の恋路とか、ましてや清水の恋路なんて俺の知ったことではない。

「好きじゃねぇんなら、それを言ってやるのも優しさなんじゃねぇの?中途半端に受け取って傷付ける方が残酷だわ」

 清水の背後に柳田が見える。清水へと腕を伸ばしたまま止まったが、髙橋に気が付いてそちらへ行ったようだ。

「そうだよな。……悪ぃ、サンキュ」

「え、お、おう」

 掴んでいた俺の右腕から手を離し、清水はくるりとそのデカい背を向けた。柳田は髙橋と話していたが、清水が加わったことでまた顔を凍り付かせている。そこへ行くと、柳田は人懐っこい笑顔で俺を見た。

「八古?だっけ?昨日ぶり〜」

「おう」

「え、柳田には優しいのな」

 俺に対するのとは大違いじゃん、とニヤリと口角を上げて清水は言い、柳田の肩を叩いた。

「俺、ちょっと行かなきゃねぇとこあったから。先行ってて」

「先に言えよ。つか、どこ行くんだよ。ついてっていい?」

「いや、いらねぇから」

 あとでな、と今朝も聞いた言葉を柳田に残し、俺と髙橋を見て何かを言うでもなく指差してきた。今日も行くからな、ということなのだろう。

「ハル、清水とどっか行くん?」

「ん?ああ、剣道部に頭下げに行くんだわ」

「あ、言ってたやつか!」

 そ、と笑って見せる柳田を見る髙橋は、清水といる時よりずっと柔らかかった。

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