第4話 一年という月日

 春の暖かさは、さらに陽気を纏い始める。雲一つない、見事な五月晴れのゴールデンウィーク初日。そして五月の初日でもある、五月一日を迎えた。

 大学が私服登校のため、普段とあまり変わらない服装に袖を通す。白い長袖Tシャツの上から薄手の襟付きシャツ、着心地の良いカジュアルな黒色のパンツというコーデは、その中でもお気に入りの部類だ。インドア派ではあるため、こういったお洒落には無頓着だったのだが、春と出会ってからは少しだけ気を遣うようになった。

 大学に行く日のの出発よりも少しだけ遅い、午前十時。家を出て、待ち合わせに場所になっている駅を目指す。

 先に駅に到着し、近くにあったベンチに腰かけて春を待っていると、人ごみの中から彼女は姿を現した。


「ごめん! 待った?」


 ベージュのスウェットに青色の長いスカートに身を包み、キャリーバックとヒールの音を鳴らしていた彼女は、立ち止まって膝に手をつく。どうやら急いで来たらしく、息を切らしていた。


「……いや、さっき来たとこ」

「ごめんね、準備に手間取っちゃって」

「いや、全然大丈夫」


 ようやく少し呼吸が落ち着いたのか、彼女はスマホを開いて現在時刻を確認する。


「何時に乗ればいいんだっけ?」

「十一時までにここを出れば、新幹線には間に合うよ」

「そっか……、それならよかった」


 春はほっとして様子で胸をなでおろす。彼女は少し遅刻したとはいえ、たった二分ほどの話だ。誤差の範疇と言えるし、たったそれだけの遅刻で間に合わなくなるほどカツカツなスケジュールは元から組まれていない。

 それでも彼女がこれだけ気にしていたのは、例えプライベートの待ち合わせであっても、遅刻は絶対にしてはいけないものだという認識が強いからだろう。気遣いのできる彼女ならではの悩みともいえる。


「春。荷物重いだろうし、それにその恰好じゃ走るの危ないぞ。遅刻なんかより、それで怪我した方がよっぽど問題だよ」

「そう、だね。ごめん。次からはヒールとかスカートはやめとくね」

「いや、そっちじゃなくて……」


 彼女は俺の言いたかったこととは別の解釈をしてしまったらしい。単に、走らないようにね、と言いたかっただけなのだが、彼女は服装が不適切であると受け取ってしまったらしい。

 むしろ、服装は……。


「すごく似合ってる。だから止めないで欲しい」


 少しだけ目線を逸らしながら、柄にもなく真っ直ぐに言葉を伝えた。言葉とは真逆で照れ臭くて、とても彼女を真っ直ぐ見つめることなんてできなかった。


「……うん。ありがと」


 どうやら照れているのは俺だけではなかったようで、彼女も小声でそう口にした。お互いに少しだけ、無言が流れた。でもその無言は気まずいわけではなく、なんだかほんわかとしていて心地いいとすら感じた。


「そ、それはいいんだけどさ」

「う、うん」


 会話に戻ろうとするも、さっきの余韻のために若干ぎこちなさが残っていた。俺はそれを払いのけるようにして一度咳払いをしてから尋ねる。


「本当に帰るのか? 石川に……」


 話は昨日に遡る。

 メールで今日についての打ち合わせをしていた時のことだった。

 どこへ行くつもりなのかを尋ねると『石川』と、さも当たり前かのように二文字を返してきたのである。正直、予想のしようがないこの回答には、驚きのあまりしばらくの間呆然としていた。

 ここ神奈川県厚木市からから石川県まで、電車と新幹線を駆使すれば約四時間半から五時間。往復となれば半日かかるわけで、この時点で日帰りではなさそうだなと察してツッコミを入れる。


『俺、地元離れてから一か月も経ってないんだけど?』

『知ってるよ。でも、どうしても行きたいの』


 彼女が大学に入学してから一度も帰っていないということは少し考えにくい。だとすれば、この提案がただのお里帰りではないように思えた。


『何泊するつもり?』

『明日行って明後日に帰るよ』

『……え?』


 またもや予想外の回答。ゴールデンウィーク期間を使って、という意味だと思っていたので四、五日の滞在は覚悟していた。それがまさかの一泊二日の弾丸帰省である。


『ごめん。実はバイトの予定もあるから、これ以上は長居できないんだよ』

『往復いくらかかるのか知ってる? 時給換算で何時間分か分かってる?』


 因みに片道で約一万五千円。往復にして約三万円。

 最低賃金を千円と見積もると約三十時間分であるが、滞在時間の方が短いのではないだろうか。


『それでも行きたいの』

『俺と一緒に?』

『うん。むしろ、一緒じゃないと意味ない』

『そっか。春から言い出すのも珍しいし、今回は仰せのままに』

『ありがとう!』


 そんなやり取りを経て、今日の日を迎えた。今この瞬間もまだ、何かのドッキリなんじゃないかと疑っている自分がいる。それほど、突拍子もない帰郷デートは違和感があるのだ。

 それでもニコニコ微笑みを浮かべている彼女が楽しみにしているのは間違いなく、信じるしかない。まさに半信半疑だ。


「春休みは帰れなかったからね」

「その言い方だと、やっぱり年末年始は帰ってたんだろ?」

「うん、まぁね」


 それならこんな弾丸ではなく、夏まで辛抱強く耐えてゆっくり帰った方がいいのではないか。そんな風にも思ったけれど、きっと彼女なりの理由があるのだろう。であれば、これ以上の勘繰りも詮索も無用。何より、彼女が楽しみにしている時間に水を差すわけにはいかないのだ。

 スマホを開き、スマホの時刻を確認する。予定している列車の時間まではまだ十分に余裕があった。


「そろそろ行こっか」

「まだ思ったよりも時間あるし、お土産とか買ってく?」

「うん!」


 本厚木駅構内の地下には、まるでデパ地下のようなフロアが広がっており、そこには名産品やお土産品の数々が並んでいる。

 俺たちはいくつかのお土産品を購入した後、小田急線で東京へと向かった。



* * *



 あれから約四時間。北陸新幹線の車内には、『間もなく富山、富山に停まります』とのアナウンスが流れる。現在の北陸新幹線の終点である金沢までは、あと一区間だ。

 区間が延長されると遂に陸の孤島だった福井まで行けるようになる。喜ばしいことに違いないが、今なら寝過ごす心配のない新幹線で寝過ごす可能性が生まれるのだとすると、なぜか少しだけ嫌に思ってしまう。

 そんなことを誰かさんが言っていたなぁ、なんてふと思った。エゴ極まりないし、福井県民に謝れ、とその当時は言った気がする。


『今のお前の顔は見たくない』


 翔と出会ってから、こんな風に仲違いしたことは一度もなかった。だから、あの言葉は余計に堪えた。

 もしかしたらあいつは今まで何度も怒っていたけれど、それを笑って誤魔化していただけなのかもしれない。ネガティブな思考に陥れば、ど壺にはまるだけだと分かっているけれど、頭に残る彼の言葉はそれを止めさせてくれなかった。

 無意識にキーボードのエンターキーを強く叩いてしまう。


「ん……?」


 横ですやすやと寝息を立てていた春が、その音のせいか少しだけ目を覚ます。

 小田急線、中央線、北陸新幹線と二度の乗り継ぎもあって疲れていたんだろう。東京駅を出てからここまでずっと眠ったままだった。


「次で着くぞ、金沢」

「うん……」


 彼女は俺の方に半分預けていた体を起こし、目を擦った。


「ずっと書いてたの?」

「まぁね」


 北陸新幹線が東京駅を発ってから二時間。多少揺れるが、座り心地のいい座席、近くにコンセントもあるこの環境は執筆に適している。周りには何人かスーツ姿の人がいて、その人たちも俺同様にパソコンで仕事をこなしていた。


「気持ち悪くならない?」

「乗り物酔いとかには強いから大丈夫」


 俺は、車の中で本を読んだりしても一度も酔ったことがない。人にとって最も無駄な時間と言える移動時間を上手く有効活用することは、効率の良さを求める俺にとっては大切なことで、乗り物酔い耐性の強い体に生んでくれたことには感謝している。……ここに感謝してるのは、世の中で俺だけかもしれない。


「変わらないね、涼君」


 しみじみと春はそう呟く。

 変わらない。きっといい意味で言ったのだろう。

 でもそれは、何も進歩していない、成長していない証でもあるんじゃないだろうか。……なんて、再び悪い方向に考えてしまった自分を心の中で咎める。

 いい意味で言ったのなら、それでいいじゃないか。


「それで言うと春は変わったな」

「涼君の目にはそう映る?」

「はっきりとな」

「……そっか」


 春は明らかに変わったと思う。

 髪型、服装といった容姿の面もそうだが、特に変わったのは雰囲気だ。入学式の日、遠目であったとはいえ、最初は彼女が春だとは思いもしなかった。見違えたような大人のオーラだった。


「変わらないといけないって思ったんだ」

「どうして?」

「……」


 俺が問うと、彼女は口を紡いで視線を窓の外の景色に移す。富山県西部特有の散居村が、高速で移り変わる景色の中では際立って見える。


「私には魅力が足りないと思ったからだよ」


 彼女は再びこちらを向きそう言った。その悲しげで、それでも取り繕うような痛々しい笑みが、心にチクリと棘を刺す。


「そんなこと……、絶対にない」


 それは断言できる。真面目で優しくて友達想いで明るい春に、俺の心が惹かれた。彼女の優しくて穢れのない笑顔に心が奪われた。そのことは彼女も知っているはずなのに……。


「由美奈にお洒落とか色々教えてもらったんだけどね。気づいたころには、元の自分がどんな感じだったかも忘れちゃった」


 再び作り笑いを浮かべる春。

 どうして彼女が自らに魅力がないと考え、変わることを決意したのか。その理由は、彼女の作り笑いを見て尋ねるまでもないと思った。

 これも、俺があの時に守れなかった約束のせいだ。

 きっと彼女はあえて伏せながら話している。俺を責めないで済むように……。その優しさが、気遣いが、余計に俺の心の罪悪感を強くしてしまう。


「でもね……」


 彼女がそう切り出すと、もうさっきまでの作り笑いは消えていた。


「今日帰ってきたのはそのためだよ」

「え?」


 彼女はもう一度、窓の外を眺める。田園、山々の景色を経て今、街の姿が顕わになる。

 帰ってきた。俺たちの故郷。

 それを改めて知らせるのは、駅が近づいたことを知らせる音楽と車掌の車内案内。文字通り、間もなく金沢駅に到着する。


「自分をもう一度見つけるために、私は帰ってきたの」


 そうハッキリ言った彼女は、とても前向きだった。

 この帰省の意義。昔の彼女をもう一度見つけるための旅行が、今ようやく始まろうとしている。



 新幹線が徐々にスピードを落とすこと二、三分。停車したところで荷物をしっかりと確認し、車外に出た。同じく帰省している人や旅行客で埋め尽くされた駅のホームから人の流れに沿って改札を出ると、見覚えのある駅の構内に心が躍る。

 たった一ヶ月、されど一か月。これだけの期間、地元から離れたことはなかったので、随分と久しぶりに感じられる。


「ただいま!」


 駅の正面口から外に出ると、春が空を見上げて口にする。と言っても、駅入り口付近は特別な構造になっているため、汚れて半透明になっているガラス越しにしか空を見ることができないが……。

 周りを見通すと何度も何度も見た景色。本厚木駅と少し似たような雰囲気のある金沢駅周辺だが、地元というだけでこうも景色が美しく映えて見えるものかと感動を覚える。


「それで、ここからどうする?」

「一旦解散して、また集合しようよ。荷物多いと動き辛いし」

「そうだな。じゃあ、一時間後にまたここで」

「うん」


 そう言って俺たちは一度駅で別れ、それぞれが自宅へと向かった。

 駅からは徒歩二十分。少し駅から外れただけで、高い建物の姿はめっきり少なくなる。それでも北陸でも有数の都市である金沢市は、駅周りにもたくさんの家々が建ち並んでいる。

『芳永 幸次こうじ』と、父親の名前が書かれた表札が玄関の上の方に掲げられている、築二十年近くの和風住宅。実家だというのに、他人の家に入るかのような緊張感に包まれながらも、インターホンはあえて鳴らさず家の扉を開く。母の車が家にあったので、おそらく母はいるはずだ。

 スライド式の扉を横に開くと、ガラガラという音を立てた。その音に気づいたのか、そ足音が近づいてくる。そして目の前に姿を現した母は、俺を見てしばし硬直した。


「ん?」

「ん? じゃねぇよ。帰ってきたんだよ、息子が」


 息子を前に、誰だこいつって感じの表情を浮かべるのはどうかと思うんだが……。

 どうやらコンタクトレンズをつけていないらしく、ぼんやりしか見えていないのだろう。俺が説明して拳をポンっと叩いた。

 因みに母親は極度の近眼なのだが、幸い俺はとても視力のいい父の遺伝子を引き継いだ。おかげで裸眼で生活ができている。


「連絡すれば迎えに行ったのに。やけに急だったわね?」

「まぁ、俺も予定してなかったからな。春休みにも言ったけど、夏までは帰る予定立ててなかったわけだし」

「じゃあ、何か用事?」

「んー、まぁそんなとこ?」


 春は自分をもう一度見つけるために帰ってきたと言っていた。一方の俺はそれに付き添う形で帰ってきたことになるが、そんな事情をわざわざ話す意味もないし、年頃の男が話しやすいような内容でもない。


「ただ、明日には帰るよ。あっちも用事があるらしいから」

「あっちって?」


 俺の失言を見逃さず、疑うような視線をまじまじと向けてくる。俺はばつが悪くなって視線を逸らす。


「……いや何でもない」

「青春だねぇ」

「……」


 この人、大体何のことか分かっていながら遊んでやがるな……。


「と、とにかく俺は荷物置いたら出かけるから。夜までには帰る」

「分かった。気を付けてね」


 俺は靴を脱いで自分の部屋へと向かう。


「そうだ。父さんは相変わらず仕事?」


 俺の脱いだ靴をしっかり揃えている母親の方を振り向き、今この家にいない片親のことを尋ねた。


「うん。最近はいつもより忙しいみたいで、家を空ける日も増えてる」


 父の本業は小説家だ。でも、名が売れるようになるにつれて別の仕事が舞い込むようになり、とても忙しい日々を送っている。

 有名になるということはいいことのように思える。けれどいいことばかりでもない。忙しくなれば休んでばかりはいられなくなるし、父のように家にも帰れない日々もあるだろう。

 そう思うと、プロ作家を目指している自分の環境は、それに比べて随分と甘いようにすら感じる。それほど、今父がいる立ち位置とは得られるものも大きいが、その分過酷なのだ。


「ってことは、今日も?」

「そうね。帰ってこないって連絡はもらってるわ。せっかく涼真が帰ってきたのに、タイミングが悪かったわね」

「まぁ、仕方ないよ。どうせ夏に帰ってくるだろうし、その時で」


 残念がる母を尻目に、俺はすぐさま自分の部屋へと向かった。

 久しぶりに部屋の扉を開けたがそこに埃っぽさは微塵もなく、まるでまだ自分がいるかのような雰囲気が残されていた。きっと母がこまめに掃除をしてくれていたおかげだろう。

 ここには俺のルーツがたくさん詰まっている。今住んでいる家に持っていけなかった大半の本は今もここに置かれたままで、背表紙をさらっと流し見しているだけなのに懐かしい気持ちになった。

 荷物を布団の傍に置き、服装を整えた俺は引き返すようにして金沢の街の方へと向かった。



* * *



 午後三時過ぎの金沢駅前。移ろいゆく人々の姿の中に春の姿を見つけたのは、約束の時間ちょうどくらいだった。

 今朝に言ったことを律儀に守っているからか、彼女は足元に気をつけながら早歩きに近い速さで歩いていた。


「ごめん、また待たせちゃった?」

「ううん。全然」

「ちょっと談笑してたら時間が経ってて……」


 そう言う彼女の額には薄っすら汗が滲んでいる。年末年始以来の再会となれば積もる話もあるだろうし、彼女の性格上話したくなるのは何となく理解ができる。


「それで、この後は?」

「それならもう決まってるんだ~。だから行こっ!」

「ちょっ!?」


 春は突然俺の手を掴んで、どことも言わず走り出した。無邪気な表情を浮かべる彼女の姿は、高校時代と重なるようだった。

 変わったと思っていたけれど、あの時の彼女はまだ消えていなかった。純粋無垢なその笑顔が、俺にそう思わせるのには十分だった。

 それから春に連れ回されること二十分。見覚えのある場所周辺にやってきて、何となく向かう場所に心当たりがあった。


『自分をもう一度、見つけるために私は帰ってきたの』


 この言葉が脳裏を再び掠めたことで、俺の予想は確信に変わる。

 段々と建物の片鱗が姿を覗かせた。少しだけ街から外れた住宅街であるこの辺は、何度も何度も目にした景色ばかりだ。

 目的地である場所の正面に立ち、真っ直ぐに建物を見つめる。ここは、俺たちが三年間通った母校の高校だ。

 敷地の内外を少し高めのフェンスで隔て、校舎までの間はまるで石川県が誇る日本三大庭園である兼六園のような雰囲気のある木々や草花が彩っている。

 そして肝心の校舎は凛然たる立ち振る舞いで風格すら感じさせる。通っていた当時は薄れていたけれど、他の高校とは一線を画す神々しさすら感じる佇まいに俺たちは言葉を失い、飲まれていくような感覚だった。


「行くよ」

「あぁ……、あぁ!?」


 あまりにも平然と歩いていく春の姿に、文字通り開いた口が塞がらない。

『この紋所が目に入らぬか!』とでも言いたくなるくらい、堂々と書かれた『関係者以外立ち入り禁止』の看板。卒業生なので完全部外者ではないが、そうは言っても今は関わりがないと言ってもいい。入る際にはあらかじめアポを取るのがマナーとなっているが、そもそもその目的があまりにも曖昧なので、許可を貰えるかは別問題だけど……。

 そんな中、春は何一つ気にしていない様子で、むしろ俺の反応に首を傾げつつ、手招きしている。まぁ、仮に何か言われても、この学校には俺たちを知る先生もいるだろうし、何とでもいい訳は効くか……。

 若干の罪悪感を抱きながらも、俺は高校の敷地内へと足を踏み入れた。


「懐かしいね……」


 周りを見渡しながら、感嘆の声を漏らす春。記憶には断片的にしか残っておらず、さほど長時間過ごした気がしないが、それでも三年間という月日をここで過ごしてきた。暫くの時間が過ぎ、当時目に映っていた景色とは少し違って見えるけれど、やはり懐かしいという感情が一番強い。

 校舎の傍を歩きながら、彼女はどこかを目指して歩いているように見えた。

 ゴールデンウィークの昼間から夕方の間であるこの時間。グラウンドや校舎内で部活動に励む生徒はたくさんいる。その証拠に金属バットの高い音色や、ラケットでボールを打つ音、様々な楽器によって奏でられる演奏曲が、俺たちの耳に飛び込んでくる。

 時々すれ違う生徒たちには多少奇異の目を向けられる。私服姿の男女のペアが学校内をうろついている光景が普通に見えないのは当然だから仕方ないのだが、やはり少々恥ずかしい……。

 校庭を歩くこと数分。少し開けた場所にやってきた。造られたものか、それとも自然のものか。小さな丘のような場所の麓には一本の大木が貫録を感じさせるほど凛々しくそびえ立つ。樹齢は相当重ねているに違いない。


「久しぶりだね」

「そうだな」


 彼女が高校に連れてきた理由がここに来るためだというのはすぐに分かった。

 なぜならここは……。


「全ての始まりの地、だな」


 春に告白されたのも、春と同じ大学でもう一度一緒に授業を受ける約束を交わしたのも、卒業式の日に別れたのも、全てこの大樹の下。俺たちの関係はここから始まったんだ。


「もう二年も前だね。ここに涼君を連れ出して、告白したの」


 俺と春が知り合ったのは高校三年生になってからだった。

 最初の席で偶然、隣通しになった。けれど最初は会話も何もなく、ただのクラスメイトという近くて遠い関係だった。

 ある日、彼女は俺をこの場所へと呼び出した。突然のこと過ぎたのもあるが、まさか告白されるとも思っていない俺は、何されるのかと怯えながら彼女の元に辿り着いた。

 あの時の彼女の様子はよく覚えている。夕焼けの影響もあって、余計に赤く染まった顔と耳。下の方をずっと見つめながら少し震えていた。なんで呼び出した本人が緊張しているのかと思っていたけれど、春の言葉で全てを察したのである。


「あなたのことが大好きです。付き合ってください!」


 誰かを好きになったことはなく、好きとは何か知らない。なんてべたな表現ではあるが、好きという感情をフィクションでしか知らない俺には実感のない感情であった。

 それでも彼女の真っ直ぐで透き通った綺麗な気持ちには心が打たれた。こんなに美しいものはあるのかと、全身に衝撃が走った。

 俺に向けて差し出された右手は、小さくて可愛らしい。その手を取ることが承諾を意味することは分かっている。断る理由もないけれど、その手を取るには彼女を知らなさ過ぎた。

 だから、その時一番強かったのは『彼女のことを知りたい』と思う感情だった。

 俺は手は取らず、彼女がそうしたように、その気持ちを真っ直ぐに伝えることにした。


「美藤、でいいよな? 隣の席の」


 俺がそう言うと彼女は顔を上げ、少し驚いた表情を見せた。そしてほんの小さく頷く。


「ごめん。今は付き合うことはできない」


 そう言うと、彼女の表情に影が下りた。俺はそのことに気がつき、間髪入れず言葉を続けた。


「でもそれは俺が美藤のことを何も知らないから。美藤に告白されて、俺は美藤のことを知りたいって思ったんだ。……だから、今はできないけど、いつかもう一度返事をさせてくれないかな」


 自分で言いながらも何とくさい台詞を言っているのだと、内心では恥ずかして仕方がなかった。こういう時に柄にもないことを言いたくなるのは、フィクション好きの性かも知れない。

 俺の言葉を聞いた彼女の瞳にパッと光が灯る。すると彼女は取るのを待っていた手で強引に俺の手を掴んで、


「うん!」


 と、快く答えた。

 これが俺と春の出会いのエピソード。甘酸っぱくて、思い出しただけでも顔に熱が帯びるほどのエピソードだが、本当にいい思い出だ。

 その日を境に俺たちはようやく関係をスタートさせた。そして、一歩一歩確実に距離を近づけていった。


「進級して最初の授業があった日だったと思う。隣の席がどんな人なのか気になって覗いたら、まだ授業の話をしていないのに必死にノートに文字を書き込む人がいてね。随分と熱心な人もいるんだなって驚いたのが最初の印象だったかな~」


 当時を懐かしむように話す春。

 高校の頃は、授業中であってもお構いなしに小説を書き続けていた。例えパソコンが使えなくても、ノートに書けばいい。そんな風に四六時中書くことばかりに目を向けていた。今もそうかもしれないが、当時は生粋の小説馬鹿だったと思う。


「ある日、早々に帰っちゃった涼君の机の中に、一つノートが置き忘れていることに気がついてね。熱心にノートとってたからどんなノートなのかすごく気になって、こっそり見ちゃったの」

「衝撃的な告白だな、おい……」


 彼女はえへへといたずらげに、そして可愛げのある笑みを浮かべる。この表情を見てしまうと怒ろうにも怒れないだろう。それに今はそれどころじゃない。

 あの時のノートに書いていたことは、プロットにも満たない純粋な妄想の数々だ。本気でやっていなければ黒歴史ノートとして扱われるような代物。それが見られていたことを知っただけでも顔から火が出そうなのだ。

 俺は何とか赤面する顔を隠そうと下を向いたが、次の彼女の言葉は意外だった。


「この人、すごいなって。かっこいいなって思ったんだ」


 何を書いていたかははっきりと覚えていない。だが、青春小説を書く俺のノートにかっこいい要素なんてあっただろうか……。


「ごめんね。だからといって、人のノートを見られるのって恥ずかしいよね……」


 春は申し訳なさそうに過去の出来事を謝る。きっと悶え死にそうな俺の様子を見て気遣ったのだろう。


「何の弁明にもならないかもだけど、最後のページだけしか見てないの。だから涼君が見て欲しくないような部分はきっと見てないと思うよ」

「ほっ……。じゃなくて、最後のページ?」


 俺はそっと胸を撫で下ろしたが、すぐに安心できないことに気がついた。

 書いた内容のことはほとんど覚えていない。だから、最後のページと言われても何のことかは分からないのだ。もしかしたら、それこそ死ぬほど恥ずかしい黒歴史が詰まっているかもしれない。そうだったら顔面を両手で押さえて、すぐにここから逃げ出す覚悟だ。

 でもそれらは全くの杞憂であった。


「『プロ作家になる!』って、大きく書かれてた」


 春にそう言われ、一つ思い出した。

 あのノートだけじゃない。小説用のノートの最後のページには、必ず目標を書き込んでいたのだ。自分への戒めの気持ちも込め、太いペンで大きく。


「私はさ、人生に目標とか夢とかなくてさ。ただ何となくで時間を過ごしていくんだろうなって思ってた。だからその力強く書かれたその文字を見て、すごいな、かっこいいなって。その時からずっと……、今だって涼君は私の憧れで尊敬する人なんだよ」

「……そんな大層な人間じゃない。大切な約束一つ守れない、情けない奴だぞ」


 素直に春の気持ちは受け取れなかった。彼女が言う憧れであり、尊敬する人間が、その彼女を傷つけていたんだ。酷く悲しませ、長い時間一人にさせてしまった。そんな人間を、誰に対しても優しくて気遣えるような彼女が憧れるべきではない。

 でも彼女はそれに対し、首を横に振った。


「そんなことないよ。本当に情けないのは私の方」


 そう言った彼女の表情はとても悲しげで、そしてふつふつと湧き出る怒りも滲ませた。その怒りの対象は自分自身だった。


「きっとあの時、約束すべきじゃなかったって今は思ってる」


 その彼女の言葉の真意は測りかねたけれど、あの時交わした約束を後悔しているなんて、思いもしなかった。

 彼女はしばらく口を閉ざし、大樹を見上げた。そして再び、当時のことを思い出しながら話し始めたが、そこには懐かしむような様子は一切感じられなかった。


「約束を交わす前、涼君が私に、『初めて二次選考通った!』って、嬉しそうに報告してくれたよね?」

「うん」


 高校三年の秋。これまで万年一次選考落ち、良くても二次選考を通過できなかった俺は、目標には届かずとも一歩前進できたと、舞い上がっていた。だからわき目は一切ふらず、春に報告に行ったことははっきりと覚えていた。


「その時、涼君が前進したことが嬉しかったのと同時に、悲しいとも思った。これから先、きっと涼君はずっと夢を追い続けていく。でも、勉強時間を削り睡眠時間も削っていったように、きっといつかは私の元を離れていくだろう。最後まで涼君の傍で応援し続けることはできないんだろうって思うようになった」


 俺は物悲しそうな表情を見せる春に、何も言い返すことができなかった。あの時も、今も、一度だって俺が自ら春の元を離れていくことを想像したことはなかった。けれど、春がそんな風に思ってしまうのは無理もないと思う。

 特にあの頃、周りの生徒たちは受験勉強に励んでいた。当然、残り半年を切る中で、絶対に受からないといけないと思っているのだから、死に物狂いだろう。

 でもきっと俺だけは違った。大学への進学は段々そっちのけになり、元から少なかった勉強時間も減り始めていた。受験生としてはあり得ないことだ。

 そしてそのことは、成績一つ見れば春にだって分かったことだろう。


「夢を追いかける涼君が好きなのに、それ故に離れて行ってしまうことも嫌だなんて、すごい我儘だよね」


 彼女は苦笑いを浮かべた。その苦笑はとても痛々しかった。


「受験という一つの大きな岐路の中で、涼君はどちらを選ぶのか。それが知りたくて、あの約束を交わしたの」


 あの日交わした約束の真意を今、ようやく理解できた。


『もう一度、同じ教室で授業を受けよう』


 俺はその約束を交わし、減っていた勉強時間を増やした。でもたったそれだけだった。

 受験そのものを甘く考えていたわけじゃない。高校受験と比べて倍率も違う。それに俺は周りと比べて、これまでの勉強量でも劣っていた。だからそれを補い、かつ他の受験生の何倍も努力しようと勉強を重ねた。

 しかし、それでも小説を書くことは止めなかった。時間が短ければ問題はないと考えていたからだ。

 けれど、小賀のあの言葉を聞き、春から直接この約束の真意を伝えられた今、これがいかに愚かで独善的な選択だったかを痛感する。これまでで最も深く、自らを卑下した。


「もしあの時、涼君が夢を追いかける決断を下して、その約束を断ったとしても私はそれでよかった。その場では受け入れがたくて、悲しみに明け暮れたかもしれないけどね」


 もう止めてくれ。それ以上言わなくても分かっている。

 けれど決して彼女に、言葉を止めるよう言うことはない。

 本当の罪を自覚した今、俺が欲しいのは傷つく言葉だ。もっと自分を傷つけて欲しい。被害者である彼女よりも痛くないなんて絶対にあってはならないことだと思うから。


「そしてその先別れることになっても、ずっと憧れの存在として応援し続けていきたいと思えたと思うから。でも約束を交わしても、夢を追う影は消えなかった」


 勉強を選ぶ、すなわち春を選ぶか、夢を追うことを選ぶか。その二択を迫ったこの約束の中で、俺は約束を交わしたうえで小説も続けるという選択肢を取った。俺にとってはどちらも本当に大切で、天秤にかけてもどちらかが傾くことのないほど、同じくらい大切なものだから。

 小賀は言っていた。選べない選択肢はないとは断言できないと。だからこの点が問題なのではない。


『君は一番半端な選択肢を取った』


 これも小賀の言葉だが、本当にその通りだ。約束を交わしたということは、勉強に専念すると決意したということ。その中で小説を書き続けるなど、裏切り行為に他ならない。もし両方を選択したかったなら約束を交わさなければよかったのだ。春が言ったように、きっとそれでも彼女は応援してくれただろう。

 だから俺の本当の罪とは――。

 約束を破ってしまったこと。それは確かだ。

 でも、ちゃんと受験勉強だけに向き合ったならば、結果がどうであれ彼女が傷つくことはなかった。

 約束を交わした上で、その約束に背くような行為をしたこと。それこそが本当の罪。


「受験が近づいてもそのままで、成績も芳しくない様子だった。そして最後の模試の結果を知って、私は受からないだろうって確信したんだ……」


 その確信は、俺と春を一年もの間遠ざけたあの日に繋がる。


「だからあの時……」

「……うん」


 俺が中途半端な選択を取らなければ起きなかったであろう、あの日の出来事。

 卒業式の日だ。


「きっと涼君は合格できない。だから別れるのなら今だなって、本当はそのために呼び出したの。このまま関係を続けてもお互いのためにならないから」


 彼女はやはりどこまでも優しいと思った。お互いのためにならないからと彼女は言うけれど、悪いのは全て俺だ。それなのに、断固として俺が悪いとは言わないのだ。

 いっそはっきり責めてくれた方が楽なのに――。


「でも、あの日涼君と会って気付いたんだ。最後まで夢を手放さなかったことが、私を選んでくれなかったことの何よりの証明だってずっと思ってた私の勘違いを、正してくれたんだよ……」


 彼女の声が湿ると同時に、頬から二、三滴零れ落ちた。


「ねぇ、どうして……? どうして!」


 彼女の心から込み上げた悲痛な叫びが心にずっしりと重くのしかかる。

 ずっと見上げていた彼女が、静かに俺の方を真っ直ぐに見つめた。

 その表情は泣いているはずなのに……。


『どうして……』


 それは俺の台詞だと思った。


「……どうしてあんなにも悔しそうだったのかな?」


 どうしてそんなにも美しく微笑むのだろうか。俺がしたことは決して許されないようなことで、彼女を完全に裏切ってしまったというのに。


「その時悟ったよ。選ばなかったんじゃない。選べなかったんだって。どちらも大切で、切り離せない。だから最後の最後まで、どちらも手放せなかったんでしょ? 涼君」

 彼女の言葉が、表情が。心を大きく揺さぶり、釣られる様にして熱いものがこみ上げた。

 約束をしたとき、勉強の成果が出なかったとき、そして受験に落ちたとき。

 いつだってどちらかだけを選ぶタイミングがあったのに、俺は最後まで選ぶことができなかった。

 最後まで、どちらも心から大切だと思っていたから――。


「ごめん……」


 彼女を前にして情けないと思うけれど、ただ涙を流し、謝ることしかできなかった。


「ううん。謝るのは私の方なんだ」


 彼女は首を振り、涙を軽く拭うと話を続ける。


「さっきも言ったけど、約束したことが全ての間違い。たった一人の我儘で、その涼君から夢を奪うかもしれなかった。それにね、いつか私が選ばれなくなった時に悲しまなくて済むようにしてた。早いうちなら諦めもつくだろう、……ってこれも我儘だね。そして何より、恋人である涼君の気持ちを信じてあげられなかった。恋人として失格だね」

「違う、違うよ。春……」


 悪いのは全て俺だ。だからそんな風に俺を気遣って庇おうとするのはやめてくれ。そう切に願ったけれど、彼女の表情からそれがただ罪を被ろうとしたのではないと知った。

 真っ直ぐ、真剣な面持ち。きっとこれは彼女の本心だ。


「だからしばらく距離を開けたかった。気持ちを整理してから、全てを決めたかった」


 だから彼女は卒業式の日、あんな風に言ったのだ。


『もし私か涼君のどちらか一方でも合格できなかったら、お互いが合格するまでは会わないし、連絡もしないこと』


 全ての事実がここではっきりとした。

 だけど、全て納得することはできない。


「春は何にも悪くないよ。どっちつかずで、約束も守れない。恋人失格なのは俺の方だよ……」


 しかし、彼女は再び首を横に振る。そして、悲しい表情を浮かべた。

 まるで俺が彼女に思っているように、彼女も『俺に気遣って庇うのはやめて欲しい』と、そんな風に言っているようにも思えた。


「きっと涼君には辛い思いばかりさせちゃったと思う。何も語らないままで一方的に会わない約束を取り付けて、納得いかなかったと思う。心苦しかったと思う。――本当に私は、涼君の傍にいてもいいのかな……」


 彼女が滅多に見せない痛々しい表情。純粋無垢な笑顔を見せる彼女が好きだからこそ、そんな表情は見たくなかった。

 純粋無垢な笑顔を見せる春……。そうだ。彼女はいつだって――。


「……春は一つ隠している」

「……」


 彼女は少しだけ目線を逸らした。だから俺の予想は正しいと確信が持てた。


「俺は春を信じてるから言う。あの約束は、俺のためでもあったんじゃないか?」

「っ!?」


 恋人としてずっと彼女の傍にいたからこそ分かる。俺に少しでも夢を追う時間に充ててもらおうと、自らデートに誘わないような彼女。そしてそんな気遣いを相手に悟らせないようにするのもまた彼女の気遣いなのだ。相手に気遣いをさせないために。

 いつだって自分より、誰かのために動く彼女だからこそ、自らの欲だけで実行したとは思えなかった。


「……私は、涼君が夢を追いかける時間だけは絶対に邪魔したくないって思ってた」

「……うん、知ってる」


 最初は気付かなかった。けれど、彼女と一緒にいればいるほど、彼女を知れば知るほど、その真意が見えてきたのだ。一見いいことのようにも思えるけれど、彼女からすれば望まないものだったはずだ。なぜなら、気遣いを気遣いであると悟らせない気遣いをしたかったのだから。


「でも逆にそのせいで、涼君は私に気を遣ったよね」


 付き合っているのに一緒に登下校をしたりもせず、デートにもあまり行かない。一般的な交際関係と比べれば、一緒にいる時間は決して多いとは言えなかった。

 彼女はそれでも気遣いを優先していた。

 でも、お互いが好きで付き合っているのだからもっと一緒にいたいと思うんじゃないか。そんな思考は常にあった。だから彼女の気遣いに対して俺が気遣いをしていたという彼女の言い分は正しい。


「涼君の夢は応援したいけど、傍にもいたい。相対する二つの気持ちがあったから、どうしても微妙な距離感で接することしかできなかった。でもそんな関係はお互いにとって良くないと思ったの。だから夢を追いかける選択を取ったなら静かに見守って、私を選ぶのであれば自分の想いを隠すのはもう止めようって決めてた」

「そっか……」


 その先はもう言わなくてもわかった。

 彼女はあの日の約束で、自分か夢かを選んでほしかった。それは変わりのない事実。

 違うのは、その約束が俺のために交わしたものでもあったという点だ。

 気遣いという善意がむしろ、付き合っている関係とは程遠い距離感を生み出してしまっていた。そんな関係を終わらせたかったのだ。

 彼女は全てを包み隠すことなく曝け出してくれた。

 ならば俺も、きちんと自分の思いを伝えるのが筋というものだろう。


「俺は春には隣にいて欲しい。そう願ったからあの日、告白したんだよ」


 彼女に告白されたあの日を境に、隣同士ということもあってよく話すようになった。

 最初は少しぎこちなかった。関係の始まりが告白というイレギュラーがあったからだろう。

 それでも時間が経つにつれ関係は深まっていく。彼女のいい所をたくさん知り、意外な一面を垣間見たりしながら、曖昧だった関係は友達になり、それ以上になっていく。

 いつしか彼女が隣にいることに居心地の良さを感じるようになった。そしてそんな関係がずっと続けばいいな、と思うようになったころには、もう彼女のことが好きになっていた。

 そして春に初めて告白されてから約一か月後。俺は自ら彼女に告白した。


「その気持ちは今だって同じ。例え隣の席でなくても、隣にいて欲しいと思う」

「……うん」


 彼女は俯き加減で静かにそう答える。

 隣にいて欲しいと思った。でも俺は、彼女に気を遣ってほしかったわけじゃない。

 俺は彼女を真っ直ぐに見据える。彼女はそれに応えるように俺を見た。

 いつしかの、俺の告白の時のように。そして、かつて彼女がしたように――。


「俺は真っ直ぐな春が好きだ。だから、自分の思いに真っ直ぐでいて欲しい」

「!」


 彼女は身体を硬直させ、顔を赤面させた。そしてすぐに再び俯いた。


「私も好きだよ。大切なことに真っ直ぐな涼君のこと」

「!?」


 不意を突くような彼女の言葉に、表情。今度は俺の顔が紅潮する。そしてすぐに顔を逸らした。

 いきなり、見たこともないほど優しい笑みを見せるだなんて卑怯だ。

 そんな俺の様子を見てか、彼女は声を出して笑った。


「私たち、ほんと不器用だね。だからこんな風にすれ違っちゃったんだよ」


 春のその表情に、さっきまでのような影は見られない。


「一年って期間が開いちゃったけど、少しは前進できたのかな?」


 彼女の言うように、すれ違いによって一年という隙間を生んでしまったけれど、彼女が懸念していたことはいずれやってきたに違いない。

 であれば、それを乗り越えた今、少しは前向きにならなければいけない。時間はかかったかもしれないが、大きな一歩分、二人の距離は縮まったのだから。

 彼女は再び大樹を見上げ、俺も同じようにして見上げた。

 夕方に吹く涼しげな風が、緑に色づく葉や枝を靡かせる。


「大樹は地表に見えているだけでも十分に立派だけど、目に見えない地面の下には沢山の根っこがそれを支えている。あの時の出来事が根となることで、俺たちはどこまでも太く長いこの先を過ごしていける……」


 そんな気がした。


「お後がよろしいようで」

「……え?

「口に出てたよ」

「嘘、だろ?」

「小説家っぽかったよ? 俺たちはどこまでも太く長いこの先を……」

「やめて、本当にやめて!」


 自分の書いた文章を目の前で読み上げられるほど、作家にとって気恥ずかしいことはないと思う。いくら創作したものとはいえ、その大半は作家の妄想でできているのだから……。

 俺の慌てふためく様子に、春は笑いながら何度も口にしようとする。

 俺がそれを必死に止めようと春を追いかけると、彼女はそのまま来た道を引き返すように走っていく。その際、再び奇異の目で見られたが、もはや気にもならなかった。


「大樹は地表に見えているだけでも……」

「本当に、本当にごめんなさい!」


 俺は半分何に謝っているのか分からないながらも、必死に謝り叫びながら、彼女を追いかけて校庭を走り抜けた。

 約一年ぶりの母校。俺と春を繋いだ大切な思い出の詰まった場所だったけど、同時に俺たちを一時的に引き裂く原因にもなったことで、少し思い出したくない場所でもあった。

 でも今日、こうして二人で訪れたことがそんな思いをすべて掻き消した。

 またいつか、こうやって思い出せたらな。

 そんなことを思いながら、俺は母校に再び別れを告げた。



* * *



「……やっと追いついた」

「遅かったね。やっぱり家にいる時間多いから体鈍ってるんだよ。いい運動になったんじゃない?」

「逆に余計運動したくなくなった気がしますけどね!」


 俺は膝に手をついて、ゆっくりと呼吸を整える。

 彼女に追いつくまで一体何分かかっているんだろう……。そんな風に自分のあまりの運動不足感に呆れながら、周りを見渡す。気づけば金沢駅周辺まで戻ってきていた。


「ねぇ、涼君の予備校ってどの辺なの?」

「駅からちょっと東に行ったところだよ。ここら辺なら結構近いはず」

「だったら行ってみたいかも」


 彼女は元気そうに二度跳ねた。

 スマホを確認すると、時刻はもう六時を回っている。厚木からここまでの移動、加えて今までずっと走ってたのに、どこからそんな元気が湧き出るのかと不思議に思う。……いや、そういえば隣で爆睡してたな。


「でもさっきと違って、行っても何もないと思うぞ」

「私、行ったことないからどんな場所かなって気になるんだよ」

「無意識なんだろうけど、嫌味に聞こえるぞ。浪人生ハラスメントだ」

「あっ。ごめんなさい……」


 春は本当に申し訳なさそうに、肩を窄めた。

 できれば行きたくはない場所である。現役時に行くことはあっても、浪人していきたい場所ではないのが予備校という場所だ。だから、行ったことがないからという興味本位で行こうとする人など、この世を探しても春くらいだろう。

 俺は小さくため息をつくと、有無を言わず歩き始める。それが承諾を意味していると察した春は、すぐに俺の横に並んだ。

 三月までは予備校に通っていたので、高校周辺の記憶よりもこの辺りの方が記憶に新しい。予備校周辺は駅前ということもあって居酒屋がたくさん建ち並んでいる。時間も時間なのでいい匂いにお腹が空くが、見るだけに留めてそのまま進んでいく。

 予備校の近くにやってきて、俺はちらっと横の方に視線を移す。そこにはたくさんの人が列を成していた。


「何の行列? あれ」

「ラーメン屋だよ。煮干しラーメンが売りで、口コミの評価もここらじゃトップクラスに高くて、いっつもあんな感じなんだ」

「へぇー。行ったことあるの?」

「予備校の講義が終わって、少し勉強して帰る頃がちょうどこの時間帯でさ。翔に誘われて何回も並んだよ」


 帰って勉強すると俺は何度も言ったが、それでも翔は『今日だけ、今日だけだから』と、ダメな奴が言いそうな言い回しで俺を口説いた。それで口説かれている俺もまた、ダメな奴に違いない。

 最初はラーメンを並んでまで食べるなんて……、と思っていたけど、食べてその理由はすぐに分かった。濃厚な煮干しの香りに、スープに負けないしっかりとした麺。並んででも食べたいと思うには十分すぎるほどの味には当時相当な衝撃を受けたものだ。

 それからも事あるごとに誘われたのだが、あの味を一度知ったためか、徐々に断ることは減っていき、最後の方は週に二、三回は行っていた気がする。


「そうなんだ……。気になるなぁ」

「今度帰ってきた時に行くか?」

「うん! 行く!」


 きっと隣に翔がいるのとは、ラーメンの味が雲泥の差になるんだろうなぁ、と自分でも失礼すぎると思うほどの妄想を頭の中が過った。

 そんなこんなで、気付けば予備校の前に到着していた。その場所は一方通行の狭い道に面しており、『こんなところに学校があるのか?』と思ってしまうほど、古びた雰囲気が辺りに漂っている。あの金沢駅からさほど離れていないのに、こうも違うのかと驚いてしまうほどである。

 それでも俺の通っていた予備校は確かに存在する。白をベースとしたこじんまりとした建物で、学校というよりは小さな塾と言った方が想像しやすいのかもしれない。

 一年前の記憶だから曖昧だが、確かゴールデンウィーク期間は閉鎖されていたはず。そう思って窓の外から中を覗いたが、光が全く見えないことからやはり今日は休みなのだろう。


「ここで涼君は一年間を過ごしたんだね」

「あぁ。大学のことしか頭になかったから、そこからの落差で余計にしょぼく見えたぞ」


 俺がそう言うと春は少し苦笑いを浮かべた。オープンキャンパスで一度あの光景を目の当たりにしていれば、当然そう見えるだろう。それに高校とも雲泥の差だった。


「でもまぁ、ここに入ったのは評判が良かったからで、実際こうして大学に入れたんだからその通りだったってことだろうな」


 見た目で悪く言ってすいませんでした。そう言いたくなるほど、正直この場所には感謝をしている。人間同様、見た目で判断するのは良くないということらしい。

 でも同時に、もう二度とここに戻りたくないなと思うくらい、苦い思い出の詰まった場所だ。


「涼君。せっかくだから、予備校の時のこと話してよ」


 春が知らない、予備校にいた頃の俺の話に興味深々と言った表情で上目遣いの彼女。可憐な仕草を目の前にするととても断れないし、絶対に話したくないほどの話でもない。


「いいけどさ、ここにいたら風邪引くぞ?」

「ううん、大丈夫」


 彼女はそう言うけれど、まだ春の夜。少し冷えた夜風がこの狭い路地に吹き込むと、俺は少し身震いした。夜になると辺りのぼろ屋などが味を出して一層不気味になり、余計に寒気が増すので注意が必要だ。まるでお化け屋敷のよう。

 俺はふと思い出したかのように、彼女に告げる。


「ちょっと待ってて」

「あ、うん」


 俺はとてとてと歩いて、予備校の陰に隠れた自販機の前に向かう。

 季節的にはギリギリなのだろうが、まだ『あったか~い』飲み物の姿があり、俺は硬貨を入れてすぐにボタンを押す。ガタンと音を立てて落下してきた商品を手に取った。当たり前のことではあるがあったかい。


「ほい」

「おっ、と」


 買った小さな緑茶のペットボトルを彼女に投げて渡すと、彼女はあちあちと言いながら掌の上で転がした。


「ありがと」


 俺はそのお礼に小さく頭を下げて答えると、彼女が聞きたがっていた話を始めた。



 三月二十日。その日は俺が春との約束を果たせる最後の機会である、大学後期試験の合格発表の日だった。

 恐る恐るパソコンに自分の受験番号と生年月日を打ち込み、震える手を何とか制御してマウスでクリックする。

 そこには俺が期待していた二文字ではなく三文字が表示され、何とか繋いできた希望は全て、一瞬のうちにして崩壊した。

 そして襲ってきたのは大きな絶望と疎外感だった。

 彼女との約束を果たせなかったばかりか、卒業式に言われたこともあって連絡することもできない。彼女との関係はこれで終わってしまうのかと、悲しみに明け暮れ絶望した。

 そして同時に、学生でも社会人でもなくなったことで、社会から取り残されてしまったという錯覚に苛まれた。

 この先どうすればいいか。その答えを完全に失ってしまった俺は、呆然としたまま家のリビングに向かった。


「落ちてた」


 母親は当時出かけていて、偶々休日だった父親にその事実を告げた。


「そうか。残念だったな」


 そう短くだけ慰めの声をかけてくれた。それ以上の言葉をかけられると惨めな思いになるだけだとまるで知っているかのように、その先は言葉を紡がなかった。

 しばらくの間、リビングには父が新聞を捲る音だけ響いた。その静けさを破るようにして、俺は父親に問う。


「この先どうすればいい?」


 こんな風にして改まって父に尋ねたことは、生涯一度もなかった。それは父が頼りがいがないとかではなく、基本的には自分で考えて行動してきていたからだった。

 父は無言のまま新聞を机の上に置くと、初めて俺の方を向いた。


「一度目指したのであれば、例え一年遅れることになったとしても、もう一度目指した方がいい。負けたままで諦めることは、きっと何をしていくにも悪い癖になりかねないからな」


 何をしていくにも。その言葉の裏には、受験を諦めて夢だけを追う選択をとったとしてもという言葉を含んでいるようにも思えた。きっと俺が、心の奥底でその選択の可能性を残していると踏んで釘を刺すように。


「一年だ。一年だけでいい。筆を置け」

「……」


 筆を置け。その意味は勉強の方の鉛筆を指して言っているわけじゃない。

 この結果になった原因がこれであることは、この結果がはっきりと教えてくれた。だから筆を置くべきなのは分かっているけれど、その一歩だけがなかなか踏み出せない。


「お前がどれだけ頑張ってきたのかは知っている。二兎追うものは一兎も得ず。まずは目先のことを追い、それから夢を追え。この一年は、この先の人生で必ず生きてくるはずだ」

「分かった」


 そんな父親の一言は、もう一度一歩を踏み出すきっかけをくれた。

 すぐに自室に戻ると、俺はすぐにパソコンを手にした。そしてそれを自ら父親に手渡し、絶対に書けない状況を作り出した。

 その後はすぐに決めなければいけない状況もあって、トントン拍子に事が運んだ。

 評判のいい予備校を見つけて入学を決め、入学までの間は、すぐに行われるという実力テストに備えて勉強した。

 そうして予備校に入学したのが四月の十日ごろだった。

 入学初日。周りを見渡すと、意外な光景が目に入った。浪人することになったというのに、彼らから絶望のオーラは全くと言っていいほど感じられなかった。

 そんな中一人だけ場違いだなと思いながら、ボーっと授業を聞き流していく。

 浪人して来年の入学を目指すと言っても、一年は長すぎる。ただ長いだけでなく、内容もこれまでやってきたこととは何一つ変わらない。何度も何度も聞いた、聞きなれた単語や公式の数々は、もう聞きたくないと勝手にシャットアウトされていく。最初の意気込みも虚しく、勉強のやる気は萎む一方だった。

 仮に来年、その志望校に入ったとしても、破ってしまった約束が守られることはない。もう彼女との関係が元に戻ることは決してないんだと、段々と自らを追い込むようなことばかりが頭の中を支配した。

 後悔が募っていく。後悔なんてしたって意味はないのに……。

 一歩進んで、再び一歩下がる。一進一退の日々をしばらく続けた。

 転機は五月。ゴールデンウィークが開けたくらいの日だった。

 その日も、いつもと変わらず上の空で授業を右耳から左耳に受け流していると、気付けば一日の講義が全て終わっていた。

 人の体感時間は年をとればとるほど短くなるという。その原因は、新しいことが年々少なくなっていくからだそうだ。それをまさに実感するかのごとく、時が流れてしまっていたのだ。

 最後の授業を受けた講義室を後にしようと、俺はゆっくり席を立とうとした。

 そんな時。


「なぁ」


 誰かに声をかけられた気がしたが、誰一人知り合いもなければ作った覚えもないので、聞かなかったことにしようとする。


「おい! 無視するなよ」


 だが、肩をポンと叩かれてしまえば、さすがに無視するのには無理がある。俺は仕方なく声のした方に視線を向けた。


「何か用ですか?」


 見た目から、どことなく軽薄で浮ついた印象を受ける。明らかに他の生徒とは違うものを感じた。


「なんで授業、いつもちゃんと聞かないんだよ」

「は、はぁ……」


『いつも』と言うのだから、おそらく彼はいつも俺の方を見ていたのだろう。やはり普通の人ではないと思った。


「なんか訳ありと見た」

「それはこちらの台詞ですけどね」

「っはは。まぁまぁ、いいじゃん。同じ一浪生なんだから仲良くしようぜ」


 落ちぶれた同士仲良くしようってか。

 そんなのごめんだ、と真正面から言ってやろうと思ったけど、さっきまでの腑抜けた表情がスッと引いて、言うのを止めた。


「あんたからは普通じゃないものを感じたんだ。だから気になった」


 彼は建前を排除し、本音を語った。それが本音で、さっきのが建前というのは、彼の表情の変化だけではなく、声色の変化からも良く分かった。


「志望校を目指してひたすらに勉強する。それがここにいる生徒たちの『普通』っていうのならそうかもな……」


 さっきの『同じ一浪生』という言葉を聞いて敬語は不要だと思い、タメ口で呟く。

 普通の対義語は特別。一見プラスの表現にも見えるが、俺の場合は決して誇れるようなものじゃない。ここは本来、雑念を持ってきてはいけない場所なのだから。

 彼は俺の言葉を聞くと、再び笑みを浮かべた。


「勉強して、受験して、勉強して……。その先に待つ未来が例え安泰なんだとしても、俺はただ決められた道を歩いているみたいに思えてさ」

「そっか……」


 なんだか分かる気がする。小学校に入って中学校に入って高校に進んで……。そうやって道を歩いていくけれど、一体どのくらいの人が自らの意思で進むことを決めたんだろうか。きっと大半が、『周りがそうしているから』とか『そうしなければいけない』と、リスクばかりを気にして選択させられたと言った方が正しいだろう。

 俺は多少理由は違うけれど、その大半に属するのかもしれない。

『作家の大半は兼業であるから、進学する方がいいだろう』

 最初の進路希望調査の時点では、進学に対してあまり前向きではなかった。

 偶然、それが春の進路と綺麗に重なった。そしてモチベーションを高めたけれど、こうして落ちたことでそのモチベーションは失われた。そして今は周りと同じように、皆が行く道に戻ろうとしている最中だ。そうした方がいい、と父に言われたから。


「もう一度聞いていいか? どうして授業を真面目に聞かないんだ?」

「同じことばっかりだろ? 退屈じゃないか?」

「それは同感だな。だから俺も聞いていない」

「胸張って言うことではないよな……」


 なぜか自慢げに話す彼。見た目通りとはいえ、意外にも、真剣に授業を受けていない奴が他にもいるのかと少し驚いた。


「でも、一番はモチベーションの欠落、だと思う。高校の時は約束があったから頑張れたんだけど」

「約束?」


 そう問われてハッとする。ついつい口を滑らせてしまった。

 大切な約束。そのことを彼女以外に話したことは一度もなかった。けれど、彼になら話してもいいんじゃないか。そう思って、打ち明けることを決意した。


「『二人でもう一度一緒に授業を受けよう』って」

「……ぷっ、くくっ……」


 彼は突然、噴き出すようにして笑った。


「笑うところか?」

「ごめんごめん。随分とくさ……、いやなんでもないや。そっか、恋人いたのかぁ~」

「いないように見えたか?」

「そうも見えた」

「そうかよ」


 まぁ、こうして教室の後ろの隅の方に一人でいるのを見れば、とても居そうには見えないか。


「本当に偶然なんだけどさ。俺の志望していた学校と学部、学科まで重なってたんだ」

「まさに奇跡とか、運命ってやつだな。そりゃ、そんな約束もしたくなるか……」

「でもその約束は果たせなかった。彼女とは両方が合格するまで連絡を取らないって取り決めがあるんだ。だから、事実上別れたって言えるかもな」

「ふぅ~ん」

「な、なんだよ」


 彼は含みのあるような言葉を漏らす。


「『両方が合格するまで連絡は取らない』。取り決めの内容は本当にそのままか?」

「あぁ。原文ママだよ」

「だったら言ってないだろ。もう今後二度と連絡とらないとはな」

「……は?」


 彼はさも当たり前かのように話すが、さっぱり言っていることに理解が追い付かない。


「『両方が合格するまで』。この部分が肝だ」

「そんなところでもったいぶるなよ。ちゃんと言ってくれ」


 俺が彼のその遠回しな言い方に文句をつけると、少しお茶らけていた雰囲気をスッとおさめた。そして次に見せて表情は、静かな怒りのようなものに見えた。


「その彼女さんは、お前が合格するまで待つって言ってんだ。気づけよ鈍感野郎」

「いや、何急に怒ってるんだよ……」


 明らかに語気が強くなったので、彼は本当に怒っているのだろう。

 だが明らかに急すぎて、その浮き沈みにはついていけない。


「いつまでも、とはきっと思ってない。でも、お前がいつか合格するのを待ってるって言ってんだよ」

「それは深読みしすぎだろ」

「いいや。俺はそう思わない。もし本当にこれで終わりにしたかったんだったら、わざわざ言う必要もなく、一方的に連絡を断てばいいとは思わなかったのか?」

「……っ!?」


 彼の言うことは上辺だけの感情論のようなものではなく、ちゃんと筋が通った話だった。当然、それは本人に聞かなければ真意は分からないけれど……。

 少なくとも希望の糸になるには十分だと思った。

 俺は彼女を心から信頼している。

 それは今だって、全く変わっていないから。


「その涙が答え、だな?」


 まだ全てを諦めるには早計過ぎたと思った。その判断をした自分への悲しさと、彼に言われるまでそのことに気付けなかった悔しさが、俺の目から涙となって零れ落ちていく。

 彼の問い。それは、もう一度頑張る決断をするのかどうかだ。

 もう考えるまでもない。俺は小さく頷いて答えた。


「だっせーぞ。男の悔し涙なんてよ」


 俺のそんな恥ずかしい姿を見て、彼は包み隠さず本音を言う。

 こういう時こそ遠回しに発言するものだろ……。

 慌てて涙を拭い、彼の方を向く。

 見た目とは裏腹に案外いいやつだな。むしろ軽薄とか、酷い印象を抱いたことが申し訳なくなった。


「もう一度頑張ってみる。助かったよ、えっと……」

「あぁ、名前? 宇和島翔」

「ありがとな、翔。俺の名前は……」

「あぁ~、それなら大丈夫。芳永涼真、だろ?」

「え、なんで俺の名前知ってんだよ」


 もう一度言うが、彼とは今日が初対面。加えて、高校のように団体と言うよりは個人個人であるのが予備校なので、他の人の名前を知る機会なんてほとんどないはずだ。


「散々先生に呼ばれてるだろうが。ちゃんと授業聞けって」

「そういえばそうだった……」


 上の空でぼーっとしていることは当然講師の目にも入っているわけで、俺は何度も何度も注意されていたのだった。


「因みにだけど、俺も涼真の志望学科目指すことにするわ」

「それは一体どういう風の吹き回しで?」

「俺が大学受験に失敗した理由は、本命の試験日に虫垂炎になったからなんだけどさ」

「いや、そりゃ何とも不幸な……」


 大学の入学試験は、主に二度に別れている。一度目は共通一次、二度目は各大学の本試験である。共通一次は、万が一の時にも追試を受けることができるのだが、大学本試験、所謂二次試験においてはそれが許されていない。

 インフルエンザのような流行性の感染症なら、対策不足による自業自得だとも言えるのかもしれないが、虫垂炎ともなれば運が悪かったとしか言いようがなかった。


「まぁだから、浪人するからにはランクを上げるつもりだったわけ」


 いやそりゃ俺の志望大学知らなきゃ言えないだろ……。

 と思ったけど、彼の目線が机の上に向かっていることに気がついてハッとした。そこには、進路希望調査の紙切れが置かれており、ばっちりと記されていたのだ。この後、高校で言うところの担任の先生、チューターに提出する予定だったものだ。


「……いや、でも待てよ。本当にそんな決め方でいいのか? それも学科まで同じで……」


 その選択肢は周りに合わせる行為であり、社会のレール上にいることに疑問を覚えた彼が取る選択だとは思えなかった。

 だからその確認のために言ったのだが、全くの思い過ごしだと思った。彼の目に、そんなような気配を全く感じなかったからだ。


「学部学科は元々志望していたところだから、涼真の懸念しているようなことは気にしなくてもいい。大学をそこに決めたのは、お前に興味が湧いたからだ。どうだ、これで?」

「いや待て。そんな自信満々に言うことじゃねぇよ」

「何だか、変われる気がしたんだよ。お前の近くにいたら」


 何の根拠もないことだけど、彼の本心からの言葉を否定するのは違うと思った。

 それに俺自身も、似たようなことを感じていたのだ。

 俺が彼に何かを与え、彼から俺が何かを得られるのなら。それはお互いにメリットのある有益な関係性になれるだろう。

 もちろん、彼とビジネスパートナーのような都合のいい関係性を気付きたいと思っているわけではない。話していても普通に面白いし、彼はユーモアがあって楽しいと思う。

 だから俺たちは……。


「っ……。くくっ」


 俺は遂に堪えきれなくなって、笑いが噴き出す。


「いや、何笑ってんだよ」

「興味が湧いたってそんな真剣に言うことかよ? 正面切ってさ」


 いわゆる思い出し笑いと言うやつだ。

 まさか男に、こんな正々堂々とそんな言葉を言われるとは思っておらず、加えてその時の真面目な顔つきったらもう……。


「いや、思ってること言っただけだぞ? ……おい、もう笑うなよ!」

「あはははは!」


 俺は腹を抱えるようにして笑いながら、荷物を持っていち早く講義室を出ていく。


「おい、こら逃げるな!」


 俺たちはきっと友達になれる。たった二十分くらい話しただけで、そう思った。

 そして約一年の時を経て、同じ大学に進学した。

 楽しい時も、辛い時も、嬉しい時も。長くを共にして、俺たちは本当に友達と呼べる関係性になった。



「まぁ、こんなところかな」


 所々を掻い摘んで話したが、正直上手くまとまっていたかは自信がない。

 それでも春は『へぇ~』と、感嘆のような声を漏らした。


「でも、そんなあいつがなぁ……」


 俺がほぼ無意識に漏らした独り言に、彼女はすかさず問う。


「何かあったの?」

「まぁ、俺が悪いんだよ。大学の講義前に、溜息ついて『隣は春が良かったなぁ』って呟いたら突然あいつ怒りだしたんだ」

「へ、へぇ~」

「ん、どうした?」

「いやぁ~、何でもないんだけどね?」


 と言う割には含みのありそうな口ぶり。そして、夕焼けは過ぎたというのに、顔が少し赤い。


「続けて続けて」

「今思えばさ、今隣の席にいるやつの前で言うべきではなかったなとは思う。こういう、予備校での経緯を思い出すとなおさらな」

「そう思ってるんだったら、話してみるといいよ」

「話すって……、ここ金沢だぞ?」


 一体どれだけ離れてると思ってんだ、と思っていると、彼女は手のひらを人差し指で二度なぞる。このジェスチャーが何を指すかは、現代人ならすぐに分かる。


「うっ……」


 確かにスマホを使えばいい話だ。だが、こういうことはできれば直接会って話したい。特に謝罪となれば、直接相手のところに出向くのが礼儀というものだろう。

 それに、彼があの日途中で見せた表情は、初めて会った日に見せた怒りの表情と同じもの。関係性のリセットを意味しているのではないかと、勝手な深読みもあって踏み出し辛さがあった。

 そんな俺の様子を見てなのか、彼女は自らのスマホを取り出す。


「もしもし?」


 そしてスピーカー状態にして電話をかけた彼女。一体誰に電話したんだろうと一瞬疑問を抱いたが、経緯を踏まえると一人しかいないことに気付く。それを結論付けたのは、彼女のスマホ越しに聞こえた聞きなれた声だった。


『もしもし、美藤さん? どうしたの?』

『私が言いたいことは言わなくても分かるでしょ?』といった表情で、彼女は俺にスマホを差し出した。それを受け取り、俺は恐る恐る耳に近づけた。

『あれ? 電波が悪いのかな……』

「もしもし」

『あれ? 美藤さん、ボイスチェンジャー使った?』

「んなわけあるか!」


 気まずい関係にあることも一瞬忘れて、脊髄反射的に思いっ切り突っ込んだ。


『まぁ、知ってた』

「だろうな」


 翔のことだから知っててボケていたのは理解していた。あの日からもう一年も、長く隣にいたやつのことなんて手に取るように分かってしまう。

 ――だったら、あの時も分かっただろ。俺は自分を責めた。


『何の用? わざわざ美藤さんのスマホからかけてきて』

「……悪かった」

『電波が?』

「その話は終わったろうが。黙って聞けや、ったく……」


 やれやれ、と黒く染まる空を見上げながら一度嘆息して、仕切り直す。


「あの時はごめん。お前の気持ち、何も考えてなかった。大学に入った経緯を考えたら、お前が一番言ってほしくなかった言葉だったのに、無神経にそれを口にしてしまった。本当にごめん……」


 そうだ。あの時、翔は言っていた。『罪を繰り返している』って。

 俺が春の本当の気持ちに気付けなかったように、翔の気持ちにも気付けなかった。

 昔からなんでもそうだった。目の前の自分のことばかり夢中になって、気付けば周りが見えなくなっている。

 猪突猛進、無鉄砲。向こう見ずでただ直線的。俺はそんな人間だった。


『気付いたんだったらもういいさ。気にすんな』


 翔は俺の萎れた声を聞いたからか、俺を励ますようにそう言った。


『でも、お礼言っとけよ?』

「お礼?」

『美藤さんにだよ』

「……春に?」


 スピーカー設定のため、俺たちの会話をしっかり聞いていた春の方をじっと見つめると、彼女はばつが悪そうに目線を逸らす。予備校の正面に位置する神社に目を向けながら、彼女は話し始める。


「今日、本厚木駅の待ち合わせの時、本当はもう少し早く来てたんだよ」


 午前十時ごろ。春は数分遅れて待ち合わせに慌てた様子で姿を現した。

 今思えばとても不自然だった。彼女は指定の待ち合わせ時刻に遅れるようなことはかつて一度もなく、楽しみにしているときほど早く来ていたからだ。今日が一年以上ぶりのデートであることから、余計に遅刻するとは考えにくい。

 あの時、俺の脳裏には翔との喧嘩の件が過っていたこともあり、今の今まで気付かなかった。


「ずっと待っている涼君の表情がいつもよりも暗くてさ。これからデートって時なのにね……。私には心当たりがなかったから、いつも一緒にいる彼ならその事情を知ってるかもしれないと思って尋ねたのが事の発端」

『その時にあの日のことを全て話したんだよ。その時は具体的にどうするとは言ってなかったけど、何とかするって言ってた』


 電話越しに翔が春の言葉の続きを語った。

 もうその先は言わずとも分かってしまった。

 春がこの場所に連れ出した理由は、もちろん自分の知らなかった一年間を知りたかったというのもあるだろう。けれどそれとは別に、翔との喧嘩を終わらせるよう誘導しようとしたからなのだろう。


『美藤さんのスマホからかけて来たってことが、美藤さんの仕業である何よりもの証拠だ。涼真はこういう時、馬鹿真面目だから直接話そうとしただろうからな』

「名推理。さすがだね、宇和島君」

『助手のワトソン君とは一年以上、共に過ごしたからね』

「なぁ二人とも、電話を持っている俺越しに会話するのやめてくれない? あと助手じゃないし、ワトソンでもないし、お前はどちらかと言えば犯人側だろうが」


 俺は一度大きく溜息を吐く。でも、どちらかと言えば安堵の息に近かった。


『まぁとにかく、美藤さんに直接お礼を言っておくこと。それが仲直りの条件ってことで』

「分かった。ちゃんと言っとく」


 これだけ話せるのにまだ仲直りしてなかったのかよ、という疑問は置いておきつつも、翔の言う通りお礼の一言くらい言っておくべきだとは思った。


『じゃ、二人の時間をこれ以上邪魔するわけにはいかないし、お邪魔虫は退散するとしますか~』

「分かった。また学校でな」

『りょーかい』


 彼は軽くそう伝えると、電話を切った。そして辺りに戻った静寂の中、すぐに二人の目線は重なる。

 春は何も言わず、こちらを真っ直ぐ見つめたまま。これが何を意味しているのか分からないほど鈍感ではない。


「俺たちの喧嘩の仲裁なんて面倒なこと、させてごめん」

「ううん。違うよ?」


 彼女は少し笑って、俺の方に一歩だけ近づく。


「宇和島君が言ってたのはお礼、だよ? それに『ごめん』って言葉は要らないよ。私がしてあげたくて勝手にしたことなんだし」

「だとしてもせっかくのデート中、いやその前から気を遣わせたこと、ちゃんと謝っておきたかったんだ」

「……そっか。でもさ」


 彼女はさらにもう一歩、そしてもう一歩距離を近づけた。二人の距離はもう、次の一歩が踏み出せない距離にある。


「困っている時、辛い時。そんな時に何かしてあげたいって思うのは本当に自然に沸き立つ想いなんだよ。だって私、涼君の彼女なんだから」


 体を前のめりにして、さらに距離を近づける春。さっき俺が改めて告白したこともあってなのか、彼女は自分の気持ちをはっきりと伝えた。

 心がグッと掴まれた。彼女の言葉に、彼女の優しい微笑みに。


「ありがとう」


 ありがとう。

 とてもありふれた言葉だけど、こうやって面と向かって話す時、どこか照れたりして躊躇ってしまうことが多い。

 だけど今、この瞬間だけは、何一つ滞りなく自然に出た感謝の言葉だった。

 彼女は顔を急に赤らめると、倒れ込むようにして身体を預けた。


「ずるいよ……、そんなの」


 彼女はそうボソッと呟いた。

 日はすっかり落ち切って、辺りはもう随分と暗い。俺たちの周りを照らすのは、電柱に取り付けられた古びた外灯だけ。光量はとても十分とは言えず、奥に見える大きなビルの光の方が明るく見えた。

 しばらくして、俺たちは予備校の前に置かれていた木のベンチに座った。

 視界の奥の方には高い建物が建ち並び、近くはボロボロの木造建築や神社といった趣のある建物。両方が同時に存在する景色は、とても不思議だった。


「涼君は、さ……」


 隣の春が静かに呟く。


「今の方がいいって思ってる? ……いや、意地悪だったね。きっとあの時約束を果たせなかったことを今も悔やんでる」

「……うん」


 受験に落ちたあの日から、何度も何十回も、何百回も……。繰り返し、繰り返し理想の世界を思い描いた。その世界では隣に春が居て、高校と似たような日々が連なっていく。けれどその中に、翔の姿はない。

 翔がいて、かつあの時の約束を守った世界線はどこにも存在しない。だから結果として、翔もいて春と再び時間が過ごせる今が一番いい。しかしそれは、約束を破ったことを肯定することになる。身勝手で結果オーライで、最悪で最低な考え方だ。

 だから俺は、今の方がいいなんて思えない。


「両方が大切で、手放せなくて。だから両方本気になった。その結果、上手くいかなかったかもしれない。だけどね」

「……!」


 唇に熱を感じた。突然のことで瞑っていた目をゆっくりと開く。これまでで一番、彼女が近くにいる。それが実感できる瞬間で、幸せで頭が真っ白になった。それを嚙みしめるように、俺は再び瞼を下ろす。

 でも、俺の頬を水滴が伝った瞬間、もう一度目を見開いた。その水滴が俺のものではなかったからだ。

 彼女は静かに俺の方から離れた。


「私は、そんな涼君のことが好きだったんだよ。そのことを思い出させてくれたのは、涼君だよ……」


 彼女は優しく微笑む。涙が僅かな夜の明かりによって光り輝いている。でも、何よりその笑みは美しいと思った。

 約束を果たせなかった事実は確かだ。でもあの時、俺があの選択を取らなければ、いつしか薄れた彼女の原点である気持ちを思い出させてあげられなかった。彼女はその事実を打ち明けることで、もう悔やまないで欲しいと、暗に告げているのだ。

 俺も似たような思いがあった。だから彼女に倣って、打ち明けようと思う。


「春はあの日、約束しない方が良かったって言ってたよね。でも、俺はそのおかげで、自分の醜い所も弱い所もたくさん知れた。翔にも出会えた。そして何より、あの時よりもずっとずっと春のことが好きになれた」


 きっとあの日の約束がなければ知り得なかった。

 努力さえすれば全て叶うわけではないと知った。

 彼女の気持ちを全然知らなかったことを知った。

 何より、彼女のことがこんなにも好きだってことを知った。

 それもまた事実で、俺たちが目を向けるべきはそういうところだと思った。


「だからさ。お互い、もう悔やむのはやめよう。きっとこれで、今度こそ前を向けると思うから」

「……うん」


 俺たちは再び、唇を交わした。

 お互いの傷を慰め合うように、その傷があったから得たものを喜び合うように。

 たった十秒ほどの時間が、約束を交わしたあの日々から一年半近くもの日々を埋めたようにも思えた。そして長く長く、しこりとして残り続けた過去の出来事は、この時ようやく解消されたように思う。

 きっとこの先もずっと忘れないだろう。悔やまれる罪としてではなく、大切な思い出の一時として――。



* * *



 閑寂な夜の狭い路地。俺が話を切り出すと、その声は少しだけ辺りに響く。


「……ところで、いつ翔と知り合ったんだ?」


 俺はずっと気になっていたことを口にする。お互いをそれなりに認知はしていただろうが、連絡先を交換していたとは思ってもみなかった。

 時刻はもう午後八時前。俺たちは狭い路地を再び歩きながら予備校からの帰り道を進む。


「ん~。ほんと偶然だよ」


 そう言って顎に指を当てながら、春は知り合った当時のことを話し始める。


「先週、たまたまキャンパス内で一人でいるのを見かけてね」

「先週?」


 俺はその言葉に強い違和感を覚えた。なぜならその頃はまだ喧嘩の最中であり、授業に出ていない彼がいるはずはないと思っていたからだ。


「うん。何かキョロキョロしてて、何してるんだろって気になって話しかけてみたんだ」

「顔を知ってるから声をかけたんだよな。普通なら絶対に声かけちゃダメなとこだぞ……」


 彼女は純粋すぎるが故に、こういう言動を聞くと時折心配になる。

 翔は性懲りもなく美少女サーチでもしていたのだろう。あれほど止めておけと釘を刺したのに、本当に懲りない奴だ。

 もういっそ、あのまま縁切った方が良かったまである。いつか越えてはいけない一線を越えたときに共犯を疑われても困るしな。


「そこで少し話して、連絡先交換したってだけだよ」


 さも普通かのように話す彼女。相手が誰か知ってるからやったんだよな? 

 それに何を話したのかすごく気になる。……が、今はそこじゃない。


「あいつ、授業全部突っぱねてるはずなんだけどな……」

「うん。去年と講義の予定が同じならきっとこの時間は講義中だと思って、私も聞いたんだよ。そしたら、『あぁ~。出席なら授業五分前に済ませてあるから大丈夫』って」


 一体何が大丈夫なのだろうか。

 本学の出席は、カードリーダーに学生票をかざすことで出席となる仕組みが採用されていて、授業開始五分前から授業開始後三十分までのみ受付可能となっている。要するにカードリーダーにかざすことができれば、出席点だけは稼げるということ。すなわち、単位を取得するための条件を満たすことが可能だ。


『そんなの、どうにでもなるだろ』


 あの日、あいつが言っていた通り、確かにこれならどうにでもなる。

 良い子の皆さんは絶対に真似しないで欲しい。


「でもあいつ、一度も見かけてないんだけどな……」


 とはいえ、出席カードリーダーは各講義室に行かなければかざすことができない。つまり必ず俺の前に姿を現さなければいけないはずだ。その点には疑問が残る。


「出席はそれで良くても、成績は大丈夫なのかな……?」

「いや、あいつのことだから多分死ぬほど家で勉強してると思う。予備校の時からそういうやつなんだよ」

「へぇ~」


 俺は徐にスマホを取り出すと、メッセージを打ち込んで送信した。


『おい。こっそりと出席点だけは稼いでいたらしいな』


 すると、これを予見していたかのような速度でメッセージが返ってくる。


『美藤さんに聞いた? 講義分の内容なら勉強していくらでも取り返せるけど、出席点だけは別だからな』

『でもあの日から一度もお前を見かけてないぞ』

『自分の行動を振り返ってみろ』


 自分の行動を振り返る……?

 言われた通りにいつものルーティンを振り返る。

 まず講義室につくと、講義に必要な教科書や筆記用具を机の上に置き、パソコンを開く。そして開始時刻を確認したらテキストエディタを開いて執筆を開始する。時間になったら必ず先生が声を発するので、それを合図に授業に頭も画面も切り替える。

 これがいつもの過ごし方だ。喧嘩の最中にあった日々も例外ではない。


『振り返ったけど?』

『いつも授業開始まで何してる?』

『執筆』

『お前、その時に俺が何話しても一発じゃ気付かないだろ?』

『あっ……』


 俺はここでようやく気付く。

 俺は執筆する際、集中のあまり周りのことなんて完全に意識外だった。

 だからあいつはその隙をついて出席だけ済ませ、こっそり抜け出すことが可能。それもいとも容易く……。


『ほんと、お前は何か一つにしか集中できないよな……』

『うるさい』


 それは確かなので言い返す言葉がない。

 自他ともに認める不器用なのだから。


『それよりお前、俺のいないところでも周りジロジロ見てんだろ?』

『そんなことまで聞いたのか?』

『予備校の時ならまだしも、大学は四年も通うんだぞ。本当に居場所なくすぞ?』


 俺は優しいので何度でも釘を刺してあげる。

 もう手遅れな気がするぞ、ということはあえて言わないでおく。

 ――ほら、優しいだろ?


『でもな、大学で機会を逃すわけにはいかないんだ。就職すると出会いは激減するというからな』

『あーそうですか』

『めちゃくちゃ優しい彼女がいるお前には分からないでしょうね!』

『あーうん。分からん分からん』

『くぞぉおおおおおおおお』


 俺はあいつの魂の叫びを見た瞬間、スマホの電源を落とした。


「じゃあ、私はここで」


 翔もない、いやしょうもない会話を繰り広げている間に大通りに出ていた。

 右に行けば俺の家の方、左に行けば春の家の方である。


「もう夜だし、家まで送るけど」

「ううん。それだと涼君が家に着く頃には九時回っちゃうから。それに私の歩く道は明るい大通りだし、そんなに心配いらないよ?」

「でもさ……」


 先ほどの話を聞いたせいか余計に心配だった。万が一のことを考えて、送り届けるべきだと思う。


「大丈夫。もし誰かに後をつけられるようなことあっても逃げられる自信あるから」

「そういう問題じゃ……」

「少なくとも男の子の涼君よりは早いから大丈夫」

「俺を世の一般男性の運動能力に当てはめてはいけない気がするけど?」


 自慢ではないが、俺ほど運動しない人間もそういないだろう。何せ、走ることにおいて彼女に劣るくらいなのだから。


「とにかく大丈夫だから」

「あのな。フィクションの世界だと死亡フラグなんだよ?」

「もぉ~」


 春はむすっとして頬を膨らませる。


「……こうなったら!」

「?」


 そして彼女は何か企んだ様子で不敵な笑みを浮かべた。その瞬間嫌な予感が過ったが、時すでに遅し。


「『大樹は地表に見えているだけでも十分に立派だけど、目に見えない地面の下には……』」

「もう勘弁してくれ、いやして下さい……」


 予備校に来るまでに散々言われたせいでもう憔悴しきっている俺に、彼女を止める気力はもうなかった。だから弱々しく懇願した。

 そんな様子を見て彼女はニコッと微笑む。


「じゃあ、もう止めるし忘れる。だから家まで送らない。それでいい?」

「……分かった」


 そこまでされたらこちらは折れるしかなかった。心配の気持ちは拭えないが、これ以上こちらが何と言おうと彼女は『うん』と言わないだろう。これ以上の説得は無駄骨に違いない。


「じゃあ、また明日。集合時間と場所は後で連絡するね」

「うん」

「それじゃ」


 彼女はそう短く別れを告げると、踵返して金沢駅方面へと体を向けた。

 でもすぐにもう一度こちらの方を振り返る。


「嘘。絶対忘れないから」

「お、おいっ!」


 春はいたずらな表情を浮かべてそれだけを言い残すと、小走りで俺の元を離れていった。

 俺はその背中を見守りながら、やれやれと口にして大きく息を吐く。

 そして誰に向けるわけでもなく、笑みを浮かべるのだった。

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