第2話

 涼太の常識的な指摘を受けた女は、自身の身体に視線を向ける。

 彼の言う通り、闇に佇むその姿は一糸纏わぬ裸体。

 最初に目撃した瞬間から、女は全裸だった。

 人気のない夜の道で。

 だからこそ、在原涼太はすぐさま逃げることを選択した。

 彼女が何者なのかとか、どうしてその場所にとか、なぜ全裸なのかとか。

 一瞬にして頭の中に駆け巡る疑問を一切合切放り捨て、振り返ることなく走り出した。

 厄介事には関わらない。

 在原涼太にとってそれは、絶対の決まり事だったからだ。

「問題ない」

「ないわけあるか!」

 全裸であると指摘されたにも関わらず、女は腕で隠す素振りすらない。

 もちろん背中を向けることもせず、むしろ見せつけるかのように鼻を鳴らした。

 そんな女の様子に、涼太は自分の直感と判断が間違いではなかったと、改めて確信した。

 問題は逃げ出すことに失敗した、という点。

 見ないフリをしたはずの厄介事が、なぜか部屋の中にまで追いかけてきた。

 その事実をどうにか咀嚼しようとするが、どう噛み砕けばいいというのか。

 現役男子高校生の涼太にとっては、これまで経験したどんな試験よりも難解だった。

「本当にわからぬ男だな。いや、現代の男がそうなのか?」

「わからないのはどっちだ」

 無駄に気品のある優雅な仕草で顎に手を当てる女に、涼太はため息混じりの悪態をつく。

 ついつい下がりそうになる視線を、女の首から上へと向けながら。

 女は相変わらず身体を隠す素振りを見せない。

 羞恥心が欠如しているのか、あるいは特殊な性癖か。

 どちらとも判断することなどできない涼太は、健全な高校生らしからぬ自制心で視界に収めないようにしていた。

 女はそんな涼太を見下ろし、怪訝そうに眉をひそめる。

「裸の女だぞ? 男に生まれたのなら、興味を抱いて声をかけるのが普通ではないか? それとも現代の男は、裸の女に声をかけられないほど軟弱になったのか?」

「いや逃げるだろ」

「それがわからぬ。なぜだ?」

「わからないのはこっちだよ……」

 まるで理解できない女の言葉に、涼太はありもしない頭痛を覚えた。

 が、考えるよりも先に解決すべきことがあると思い直し、酷使した両足に力を込め、玄関の壁に縋り付くようにして立ち上がる。

「とにかく、裸……そんな格好じゃ話もできない。なんとかしてくれ」

 顔を壁の方へ向けながらそう提案する。

 話し合いがしたいわけではないし、できることならこのまま追い出してしまいたいくらいだ。

 しかし、と涼太は考えてしまう。

 全裸の女を部屋から追い出したりすればどうなるか。

 なにせ相手はここまで追いかけてきたような、常識の通じない相手。

 裸のまま部屋の前で騒がれでもしたら、最悪が現実のものとなってしまう。

 それだけは避けたいというのが、涼太に隙を作らせた。

「あぁ、それは構わぬが……見ての通り、何もない身でな」

 言葉を区切った女は、あえて続きを涼太に委ねた。

 服を着てもいいが、着るものは持っていない。

 ならどうするか。

「……男物でも文句言うなよ」

「贅沢は言わんさ」

 涼太の葛藤と苦悩を楽しむように頷き、女は部屋の奥へと入る。

 その後ろ姿を見ないようにしつつ、涼太も靴を脱いで明かりをつけた。

 そして極力床を見つめながらクローゼットを開け、シャツとジャージを取り出し、女の方へと放り投げる。

「妙な手触りだが、悪くはないか」

 女が着替える気配を背中で感じつつ、涼太はため息をつく。

 なし崩しとは言え、明らかに不審な女を部屋に上げてしまった。

 関わってはいけないとわかっているのに、なにをしているのか。

 自分自身を叱りつけるように額を軽く叩き、もう一度ため息をつく。

「しかし、あれはどうなのだろうな」

「なんの話だよ」

 話しかけてきた女が着替え終わったのかどうかがわからないので、涼太は背中を向けたまま答えた。

「先ほどのあれだ。裸の女が夜道にいたとして、逃げるのはいかがなものだろうな、と。男として……いや、人間としてどうかと思うのだが、貴様はどう考える?」

「それは……仕方ないだろ、あんなの」

 女が言わんとしていることを理解できる涼太は、弱々しい声でぼやく。

 夜道に裸の女性が一人でいた。

 そんな状況に至るいくつかの可能性は、すぐ思いつく。

 涼太自身、あの一瞬で考えなかったわけじゃない。

 なにかしらの事件という可能性を。

 頭に浮かんだのは厄介事に対する警戒と道徳。

 葛藤は確かにあった。

 全力で逃げている間も。

 誰かを見捨ててしまったという後悔と恐怖。

 玄関に駆け込んだ瞬間に崩れ落ちたのは、疲労だけではない。

 涼太はそれからも逃げていた。

 自分はなにも見なかった、なにもしなかった。

 ただそれだけで、悪いことはしていない。

 そんな風に自分を納得させて。

「……だっていうのに、なんで追いかけてくるんだよ」

 逃げ出したはずの色んな現実が、当たり前のように現れ、話しかけてきた。

 そして今は部屋の中で着替えている。

 行き場のない葛藤や自己嫌悪に涼太は悩まされていた。

「理由はいくつかあるが……まずはこれだ」

「――――は?」

 不意に耳元で囁かれた声にハッとして顔を上げる。

 同時に肩を掴まれ、涼太は身体の向きを変えさせられた。

 視界一杯に広がるのは、女の顔。

 明かりのついた部屋の中でさえ、深紅の瞳は吸い込まれるような存在感を放っていた。

 髪に隠れていた耳飾りが、僅かな音を鳴らす。

「貴様を少し、分けてもらうぞ」

 女の吐息が涼太の唇を掠める。

「――ぇ、ちょっ」

 なにをと問いかけようとした瞬間、涼太は唇を塞がれた。

 女の唇によって、呼吸さえも遮られる。

 戸惑いも理解も全てを置き去りにして、女が咥内に侵入していく。

 次の瞬間、涼太の意識は途切れる。

 そして眠った子供のようにぐったりとする涼太を女は抱き留め、その唇を存分に味わい尽くした。

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