杭を穿ち花を植える

こむらさき

黒い靄

『相談したいことがあるから店にきて。明日おれおふだから』


 そんな連絡をもらったので、俺はいそいそと準備を終えて家を出る。

 連絡をくれたのは、俺より二歳上のバーテンダーさん。俺が働いているタトゥースタジオの常連が連れて行ってくれたことがきっかけで出会った。

 店に通い始めて一年。最初に店に行った日に、カウンターに立っていたのは、黒髪長髪で背がスラッと高い男の人だっだ。女慣れをしている都会の男って感じで、一目惚れをしてしまったのだ。

 二十数年生きていて、男を好きになったのは初めてだったし、どうしていいかわからないし、こんな天パでダサい俺とは釣り合わないから近くで見ているだけで十分だと思っているけれど、そんな相手から呼び出されたら仕事が立て込んでいて疲れていようがなんだろうが出掛ける準備をしてしまうというものだ。


「じゃあ……店に行きますっと」


 送ったメッセージに既読が着かないのは少し心配だけれど、まあ、店か家で酔い潰れているのだろう。

 駅から出て繁華街へ向かうために歩き出すと、人混みの波が自分を避けるように割れていく。

 ……墨、もう少し隠した方がいいかな。

 僅かに捲れていたダウンジャケットの袖を伸ばして、見えていた手首を隠し、ずり落ちていたネックウォーマーを口元まで持ち上げる。

 それでも、指に入れた墨までは隠せないのだけれど。

 他人に関心が無い人ばかりの繁華街ですらこれだ。だから、地元には二度と帰れないんだろうな……なんて思いながら、賑やかな街を目的地に向かってひたすら突き進む。

 辿り着いたのは雑居ビルの8F。深呼吸をして冷たいドアノブにそっと手をかけた。

 黒塗りの扉を開くと、カランコロンと低めのベルが鳴り、中にいる人たちに来客を知らせた。視線を上げると、狭い店内のカウンターから人が出てくるのが目に入る。


「あ、すみませんまだ準備が……って佐々木くんか。開店準備終わってないけどよければ入っちゃって」


 店の人にも顔は覚えてもらうくらいに通っている店だけれど、こうして店に入る瞬間は未だに緊張してしまう。


「ありがとうございます、仁史ひとしさん」


 深い赤と黒を基調とした店内は薄暗い暖色のライトに照らされている。

 まだ始業間もない時間、店内にいるのはダルそうにカウンターに突っ伏している黒髪長髪の男……ユウヒさん。そして、俺を出迎えてくれた、短い黒髪をきっちりオールバックにしてシワのない白いワイシャツをパリッと着こなしている仁史ひとしさんだった。

 仁史ひとしさんに頭を下げてから、ダウンジャケットを脱ぎユウヒさんの隣に腰を下ろす。


「う゛う゛……こう?」


 カウンターに額をくっつけたまま、ユウヒさんは顔をこちらへ向けると、肩にかかっていた黒くて艶のある髪がはらはらと重力に逆らわずに落ちていった。

 よく目を凝らすと、肩の辺りになにかくすんだ靄のようなものが漂っているようだ。

 昔から、俺は疲れている人や調子の良く無さそうな人の周りにこういう靄みたいなものが纏わり付いているように見える。

 霊感みたいなものだと思っているけれど、払えるわけでもないし、いつでも見えるわけじゃない。だから、もちろんそういう力が役に立ったこともない。


「調子悪そうっすね……。大丈夫ですか?」


「ぜんぜん」


 どっちともとれない返事を聞いて、苦笑いを浮かべている俺に、仁史ひとしさんはグラスを磨きながら声をかけてくれた。


「そこの酔っ払いはほっといて。で、何飲む?」


「ええと……じゃあ、ジントニックで」


 ユウヒさんの長くてキレイな指が水滴の付いたグラスに伸びて、そっと表面を撫でる様子にどぎまぎしそうになる。そんなやましい気持ちを悟られないように視線を逸らし、俺は仁史ひとしさんにジントニックを注文した。

 グラスを拭く手を止めて、仁史ひとしさんはジンの入ったボトルとロンググラスを手に取り、カラカラとグラスに氷を入れていく。

 店内に流れているオシャレなジャズっぽい音楽を聴きながら、静かに注がれるお酒でグラスの中の氷がパキパキと音を立てて溶けていく。

 少し間を置いてからトニックウォーターの炭酸が弾ける音が聞こえてきて、カラカラとゆっくりカクテルを混ぜる音に変わる。

 田舎に住んでいたときに憧れていた、夜の世界。ぐったりと脱力し、グラスの表面を撫でたまま動かないユウヒさんは、暖色のダウンライトに照らされて、まるで舞台の上にいるみたいだ。

 男性だというのにやたらきめ細かい肌だとか、腕まくりをしているからうっすら筋が浮かび上がってる腕がきれいだとか、長い髪がカーテンみたいに降りているけれど、その隙間から見えるスッと通った鼻筋や小さな鼻梁、半分開いた薄い唇から覗いている少し鋭い犬歯だとか、つけまつげでもつけてるんじゃないかってくらい濃い睫毛……全部が作りものみたいに綺麗で、何度会っても綺麗さに慣れる気がしない。


「ひとしぃ……おれもおさけのみたぁい」


 俺の前に厚手の布で作られた黒いコースターが置かれ、そっと柔らかい手つきでジントニック入りのグラスが置かれる。

 ライムとミントが縁に飾られているグラスを手に取って一口飲むと、先ほどまで水滴のついていたグラスを撫でていたはずのユウヒさんの指が手首に絡みついてきた。

 どきりとしながら、ユウヒさんを見ると、唇を尖らせるように前に突き出て拗ねたような表情を浮かべながら仁史ひとしさんの方を向いている。


「まずは水飲めって。迎え酒はダメゼッタイ」


こうー」


「甘やかしちゃダメだからね」


 ぴしゃりと言い返されたユウヒさんは、眉尻を下げて甘えた声色で俺の肩にしなだれかかってくる。

 どうぞ……とグラスを差し出そうとしたのを見抜かれたのか、仁史ひとしさんにそう言われて、俺はユウヒさんが先ほどまで撫でていたグラスをそっと手に取って近くに引き寄せた。


「ですってユウヒさん」


「んー」


 がっくりしたように肩を落として、しぶしぶといった様子でユウヒさんは水の入ったグラスを掴み、中身を一気に飲み干しす。

 華奢な白い喉元に不似合いな喉仏が大きく上下し、ぷは……と小さく吐息を吐いたユウヒさんは、もう一度カウンターに額をくっつけるようにして、両腕をだらんとぶらさげた。


「飲み過ぎだろ。家にも帰ってないらしいじゃん? またストーカー?」


「またって?」


「ああ、佐々木くんは知らないんだっけ? こいつ、タチが悪い女に好かれがちでさ。よくストーカー騒ぎを起こしてしょっちゅう引っ越ししてるんだよ」


 空になったグラスに新たに水を入れながら、仁史ひとしさんはそう言った。


「最近は平気だったんだけどなぁ。なあーこう、刺青って魔除けにならねーの?」


 顔を上げて、顎で体を支えるようにしたユウヒさんが、俺に視線を向けてくる。

 綺麗な顔だし、多少だらしなくても性格が破綻しているわけではない。だから、モテるのは知っていたけれど、改めて言われるとわずかに胸がズキンと痛む。


「ああ! 佐々木くんと一緒に家に帰ればいいんじゃねーの? 墨でビビってくれたら二度と来ないかもしれないじゃん」


「ああー。こう、かわいい顔してるけど墨エグい数入ってるもんな」


 少し人よりも鋭い犬歯を見せてニカッと笑うユウヒさんは、おもむろに腕を伸ばすと俺の黒いチノパンを捲り上げた。


「このふくらはぎに彫ってある椿の花、おれ、めちゃくちゃ好き」


 それから黒で描かれた椿の花を指して、キュッと唇を結んで微笑む。

 仕事柄、同業者に刺青を彫られたり、逆に練習させて貰ったりで俺たちはバラバラな絵柄やテイストの刺青が入っていることが多い。もちろん、自分の体を練習台にすることもある。

 ユウヒさんが指差したそれは、俺が初めて彫ったものだった。

 つつーっと長い指が俺のスネに咲いた椿をなぞっていくのを見て、思わず生唾を飲み込む。


こう、おれにも入れてよ」


 俺の肌から離れた手がゆっくり顔に掛かっている髪を雑にかきあげると、弓なりの形の良い眉が露わになった。

 そういう意味ではないとわかっていながらも、その言葉の響きにどぎまぎして、誤魔化すようにグラスを手に取ってジントニックを口に運んだ。


「よぉ。調子じゃん」


 どう答えようか考えあぐねていたところで、カランコロンと来客を告げる鐘が鳴り、聞き覚えのある高めの声が耳に入ってきた。

 カラコンでも入れたような明るい金色の瞳は薄暗い店内なのに輝いて見える。背中の真ん中あたりまで伸ばされた黒い髪の男は、狐を思わせる細いつり目を更に細めて、妖しく艶めかしい笑みを浮かべた。

 こいつが、俺をこの店に連れてきた客だ。


「マダラさん、いらっしゃいませ」


 同じ黒髪長髪で顔が整っている二人だけれど、ユウヒさんが綺麗な美人だとすれば、マダラは妖艶な美人というような雰囲気をまとっている。

 コートを脱いで壁に掛けたマダラは、広く首元が開いたニットからチラチラと狼をモチーフにしたトライバルのタトゥーが見え隠れしている。

 マダラは、ユウヒさんの反対側の隣の席に座ると、ジンフィズを一杯頼んだ。


「ああー! そういや、マダラくんの墨もこうが入れたんだっけ」


 頬杖を着いたマダラの右手首から覗いている、真っ赤な彼岸花の刺青をめざとく見つけたユウヒさんが、そっと視線の先へと手を伸ばす。

 それを流れるような手つきで掴んだマダラが、捲って見せたしなやかな筋肉の付いた腕に誘導をした。


「ああ、綺麗だろう? よく見るかい?」


「んー?」


 首を傾げたユウヒさんを、腕ごと引き寄せたマダラが小さく口を開いたのが見えた。

 耳元で何か囁いたのか、くすぐったそうにユウヒさんが笑って、それからマダラから体を離す。

 美男同士がこうして仲睦まじげに関わっているのを見ると、平凡な自分なんかはユウヒさんに憧れているだけで、さらに一歩深い仲になりたいなんて考えているのが、身の程知らずな浅ましい願いだと思い知ってしまう。

 楽しそうにマダラに笑いかけるユウヒさんは、さっきまで肩の辺りに漂っていた、くすんだ空気まで消えたように思えた。


コウ


 カッと頭に血が上っていたからか、いつのまにか自分の唇を噛みしめていたらしい。マダラの一言で急に冷静になって慌てて口元を抑えると、気配もさせずに目の前に来ていたあいつは俺の首元に手を伸ばしてくる。

 一瞬ひやりと冷たい手で頬を撫でられた気がして肩を竦めると、マダラの手はもう俺から離れていた。

 親指と人差し指で何かを掴んだような形を作っているあいつの指先には、黒いモヤモヤが蠢いているように見える。目を擦って見直してみるけれど、やっぱり気のせいじゃないみたいだ。

 ぽかんとしているユウヒさんと仁史ひとしさんを尻目に、マダラは切れ長の目をさらに細めて「ニィ」っと笑った。


「ひっひ……オレと関わっちまったから、そういうもんがえやすくなっちまったんだな」


 大きく口を開いて、マダラは黒いモヤモヤを飲み込むと肩を揺らして愉快そうに笑い声を漏らす。

 その後、驚いている俺から目を逸らし、グラスに半分ほど残っていた水をグイッと飲み干したユウヒさんの髪に手をかけた。


「うっわ! つめた!? なんだよマダラくん」


 細くて真っ直ぐなユウヒさんの髪を持ち上げたマダラは、露わになった彼の白くて艶めかしいうなじを指差して「河骨コウホネがいい」とだけ言ってすぐに手を離した。

 それからたちどころに元の席へ戻ると「ごめんってぇ」とユウヒさんに謝って、再び何事もなかったみたいに酒を飲み始めている。

 どういうことかわからないまま、俺もとりあえずユウヒさんの隣に座り直し、氷が溶けて薄くなったジントニックを一気に呷った。


 時間が経つにつれ店内は混み合っていき、ユウヒさんもすっかり調子を取り戻したのかご機嫌になってお酒を呷っている。

 タバコを吸う客も多いからか、それとも目が疲れているのか、灰色の靄が天井に渦巻いていた。

 ぼうっとしながら、ユウヒさんの最近寝ている間に悪夢を見る話にうなずきつつ、天井に渦巻いているモヤモヤを見ていると、見知らぬ女の肩を抱いて店から出ようとしているマダラがこちらへ近付いて来た。


コウ、怖い目に遭ったらなぁ、静かにしろって呟いてみろ」


 タイトな濃いグレーのチェスターコートに袖を通しながら、いきなりそんなことを言ってきた。


「は? なんで?」


「ひっひっひ……お化けとか妖怪にゃあ強気に出てみるといいってことだ。ユウヒの家に行くんだろ? こいつの家、事故物件だからさぁ」


「おれは住んでてなにもないってのに、こいつが脅すんだよ! マジでなんもないからさ!」


「ククク……タチの悪いやつに押し掛けられてる次点で、なにもないわけねぇって」


 ユウヒさんの家に行くって話、こいつにしたっけ? と疑問に思ったけれど、それよりもこいつがユウヒさんの家を知っていることに胸がざわっとする。

 慌てて俺たちの会話に割り込んでくるユウヒさんをからかうように笑っていたマダラの瞳に、一瞬鋭い肉食獣のような光が帯びる。


「綺麗なもんは、厄介な女だけじゃなくって魔ってやつに好かれるんだ。ありがたーい花でも彫ってやれば効果があるかもなぁ」


 マダラは自分のうなじ辺りを触りながらそう言うと、俺たちに背中を向けた。

 振り返らずに掌だけひらひらと振って外へ出て行くマダラを見送ると、ユウヒさんは仁史ひとしさんが他のお客さんと話しているのを確認してから、俺の方へ少し身を乗り出してくる。


こう、マジで今日、家に泊まりに来てくれねえ?」


「いいですけど……。刺青も入れたいならついでにカウンセリングもしますか? 絵柄とか決めたいですし」


「マジでいいやつだよお前」


 腕を伸ばされて、そのまま抱きすくめられる。

 ユウヒさんからは、ウッド系の香水の香りとアルコールが混ざったような匂いがして、体が密着しているから俺の心臓の音が伝わってしまうんじゃないかと焦りながら「くっつきすぎですって」と平静を装って体を引き離した。

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