第8話 タートルネックの女(4)

「勘弁してくださいよ、さっき徹夜明けで帰宅したばっかじゃないですか」

 駐在所に戻ってすぐ、姫川は本署の石田に電話を入れた。

 駐在所業務の引継ぎに来ていた新人は出会い頭に押しのけられてポカンとしていたが、すぐにパトカーの中のミケとチャコに気が付き、姫川のことはすっかり忘れて猫の相手をし始めた。


「石田、ちゃんと聞いて。例の猫動画の投稿者をさっき偶然見つけたの」

「動画…って、あの、紗栄子とかいう」

「そう。三宅の妹のマンションのそばに住んでたのよ。立ち話になって、本人との確認も取れたわ」

「はあ、なるほど。ボスに報告しておきます」

 電話を切られそうになり、姫川は思わず声を荒げた。

「ちょっと!」

「眠いんですよ。さっき帰署したら、忘木さんがここ数日あちこちでひったくりしてた未成年を朝のお散歩感覚で引っ張ってきちゃってて。これから取り調べなんです」

「忘木さん、まだそんなお気楽に任意同行かけちゃってんの?お元気だねぇ」

 野田警察署には、忘木という初老の名刑事がいる。

 とにかく勘が鋭いことで署内では有名で、管内に入り込んだ犯罪者を見つけてはやたらと捕まえてくる。その年で手配書をばっちり頭に叩き込んでいるだけでなく、情報分析がとにかく正確なので、後輩刑事たちは頭が上がらない。

「今回は未成年だから、いきなり手錠かけてこないだけいいですけどね。取り調べはみんな押し付けてくるもんだから…。徹夜明けで事件資料を一から読み込むの、しんどくて」

 かつては姫川も、それでずいぶん鍛えられたものだった。

「そんなわけで、ボスのほうから他の人に振ってもらいますんで、…うわっ!」

 突然、受話器の向こうの声が変わった。

「よう、姫川。面白そうな話をしてるじゃないか?」

 忘木の声だった。姫川は睡眠不足の頭痛が酷くなるのを感じた。

「忘木さん」

「うちの連中が言ってたが、また育ったみたいじゃねえか。ちゃんと巡回やってんのか、お前」

「も、もちろんですよぅ…忘木さんこそ、定年まだでしたっけ?」

「おう、まだ四十代だからな」

 忘木のわかりやすいホラに、姫川は思わず噴き出した。五十はとうに過ぎている。

「俺が引っ張る時に、嘱託だと何かと不便だしなあ。おめえが石田を引っ張りまわしてたみたいに、若くて体力あるのはべらしてもいいんだけどよ」

 やめてくださいね、マジで、という石田の声が忘木の後方から電話越しに聞こえた。


「そっか、忘木さんにお願いしていい?」

「おう、なんだ?合コンか?」

 軽口に付き合っていてはきりがない。姫川は話を続けた。

「今朝、ちょっとしたきっかけで、猫の虐待動画を不正販売してる疑いのある動画配信者の女をみつけたの。石田が言ってた事件の」

「あー、タートルネックの女か。あのあざとい奴」

「そう、それ」

「お前もちょっとは頑張れよ」

 ほっといてください、と姫川はイラつき気味に返した。

「でね、その女は江戸川沿いの一軒家に住んでて、たぶんガサをかければ何か出てくると思うんだけど、決め手がないのよね」

「ダメなやつじゃねえか」

「ダメなやつなのよ。だけど、うちのミケとチャコがものすごい警戒してて、何かあるのは間違いないと思うんだ」

 うーん、と少し悩むような声がした後、忘木はひときわ大きな声で姫川に言った。

「そうだ、だったらその猫貸してくれよ。オスのほうでいい。ミケだっけ?」


 意外な提案に姫川は驚いてミケを見た。

 新人の猫じゃらしに夢中になっていたミケは突然真顔に戻り、姫川に黙って頷いた。新人がびっくりしていると、また何事もなかったように遊びを再開した。

「…いいみたいよ」

「そうか、じゃあ昼過ぎにでも借りに行くわ」

 まるで映画のディスクでも借りに来るかのような気軽さで、忘木は電話を切った。

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