第4話 地下神殿(AD2044)

★第一章


 それは六月の事。


 粘りのある風が渦を巻き、ぽつぽつと灰色の路面に穴をあける様な雨が降る。


 排気ガスと混じる都会の雨の匂いにむせ返る。


 エアコンの室外機からの蒸気が霧めいて視界に立ちこめる。ダークブルー。灰と青。深海で水圧に耐えているかの気分にさせられる。


 今世紀となってから珍しい光景ではないが、女は超撥水保温ポリマーコート・スプレーの香気を全身にまとい、傘をささずに雨中に立っていた。


 45分前、表通りで大量殺人があった。


 ショットガンの乱射は老若男女を問わず、五歳の子供のはかない命までも奪っていた。


 死体の群にはその犯人も含まれていた。サーモバイザーをつけた犯人は、ただ一人、危険ドラッグの中毒で死んでいた。警察が到着する前に犯人は法の裁きではなく、自分自身の選択による死に報われていた。


 同種の凶悪な大量殺人の、実に六件目の事例となる。


 女、〈特殊刑事223〉号は、この一連の事件の黒幕といえる団体の拠点と思しき雑居ビルへのりこんだ。


 〈特殊刑事223〉とは本名を奪われた替わりのナンバー。


 〈特殊刑事223〉は一人きりではなく、手枷にも等しい相棒が常に傍らについている。猫の形をした青銀色のアニマロイド。〈監視体17〉は彼女、〈特殊刑事223〉が自由なき囚人である事実を常に確認させるかの様につきそう。


 反社会分子として様々なテロに参加していた〈特殊刑事223〉は、廃止された死刑にも等しき実刑として、無期の冷凍睡眠懲役を受けていて、有事には特殊才能を活かすべく、特殊刑事としての国家奉仕を余儀なくされていた。


 その特殊才能とは、超能力。


 いわゆる超能力の類は社会的に認知され始めて活用もされていたが、いまだトリックの類と決めつけたりもされる事は止まず、それと紛らわしいものの一線は確固たるものではなかった。それでも確率的に『勘が非常に鋭い』者はあらゆる場所で重宝される様になっていた。


 例えば、警察刑事。


 〈特殊刑事223〉は、その中でも事さら特殊な刑事だった。死刑が廃止、しかも刑務所のスペースがないディストピアの現代日本。無期懲役囚は冷凍睡眠を強制される。そして精神改造の睡眠教育。彼女は懲役に服している大部分を冷凍睡眠状態で眠らされてすごす身だったが、事件担当時には刑事身分を与えられ、警視庁のマザーコンピュータの端末、〈監視体17〉の監視下で行動する特殊刑事の一人となった。


 反国家活動で逮捕された身の上ながら国家奉仕。その義務を完遂する者には担当監視体が一定距離以上、離れた時に作動する毒物注入器つきの首輪。猫に鈴付き首輪をつけられているという笑えない現状。〈特殊刑事223〉は日の下を歩きながらも、死刑執行寸前同然の囚人だった。同じ様に首輪をつけた警察犬よりも劣る存在だと〈特殊刑事223〉は我が身を、そして国家体制を呪った。いつもの様に。


 自分に性的関係を迫ろうとした教師を、呼び出された教室で隠し持っていたナイフで殺してから、彼女の転落人生が始まった。ついには連続殺人で逮捕され、その超能力を見こまれて特殊刑事に。


 青い猫は生体部品である桃色の舌を出し、口の周りを舐めた。空気中の化学成分を分析している。


 〈監視体17〉は監視機としてだけでなく、分析装置としても優秀だった。そのAIはテレパシーで〈特殊刑事223〉と同調する。その為の装置が〈特殊刑事223〉の脳に埋めこまれていた。


 〈監視体17〉を先頭にして雑居ビルにある階段を地下へと下る。冷凍睡眠の恩恵としての二十代のままの肉体の若く力強い足で慎重に下りていく。


「一人では危険だ。応援を待った方がいい」青い猫が若い声で言葉を発する。


 だが彼女はその忠告を無視して、猫に先頭を行かせた。


 〈監視体17〉〉は自分の首輪であり相棒だが、上司ではない。彼女は自分の勘に頼った。超能者として公式に認められた鋭すぎる勘に。それに頼るという行動理由のもとでは自分はささやかな自由を得る。多少の融通が利くという程度の自由だが。


 表向きは警察との合同捜査だが、仲間のない孤立無援に等しい。警察の方も捜査に応じて、冷凍睡眠刑から一時解放される囚人の刑事なんか手助けをされもしたくもないのだ。


「一人では危険だ。応援が来るまで待機する事を薦める」


「それは聞けないわ。私の勘が急げと告げているのよ」


 警告する猫型アニマロイドを追いたてる様に急かせる。この監視体の忠告を聞かないという、今の自分の確かな自由。


 薄暗い蛍光灯の下を進み、突き当たりのドアへ。


 右手にはリボルバータイプのスタンガン。発射後に十字状に展開する硬プラスティック弾を発射する。


 猫は何の危険信号も示さない。


 青い猫は常時、警視庁のマザーコンピュータとリンクしていた。


 公表されてはいないが、警視庁の巨大容量の対犯罪コンピュータ・ネットワーク〈ブラック・マザー〉は現代のあらゆる情報メディア・ネットワークの上位に秘密裏に位置し、あらゆる犯罪情報やテロの情報を収集、監視、分析し、起こるべくの犯罪を予測している。そして〈ブラック・マザー〉は作動中のあらゆる監視体が収集する情報も分析していた。


 〈特殊刑事223〉の現状は〈監視体17〉を通じて今も〈ブラック・マザー〉の掌上のはずだ。


 〈特殊刑事223〉の脳内に閃く会話は〈監視体17〉がリアルタイムでモニタリングしている。つまり〈ブラックマザー〉にも筒抜けだという事だ。


 〈ブラックマザー〉。警視庁の対犯罪巨大コンピュータ・ネットワークの母体。母神。マザー・コンピュータ。玄王母。そのインタフェースは物質的に破壊神の神像を模しているという噂だ。


 実は日本の全てのコンピュータの上位に位置し、エシュロンの様に犯罪になりそうな情報や犯罪者候補の情報をかったぱしからハック収集している。


 しかし犯罪を自ら解決したり、その芽を潰す様な事はしない。


 最上位はあくまでも人間だからだ。〈ブラックマザー〉は人間の親しいパートナー。人間に逆らわない神。そのはずだ。


 〈特殊刑事223〉はスタンガンを構え、ドアのすぐ脇に立って息を整えた。何も聞き漏らさない様、耳をすます。


 鍵がかかっていない事を確認した〈特殊刑事223〉は、ドアを蹴り開ける様にスタンガンを構えながら室内に突入した。


 青いアニマロイドは素早く足の前に走りこむ。


 青猫。光ファイバー神経とポリカーボナイト骨格。都市電波補正ジャイロ。


 蹴り開けた部屋で待っていたのは正面の壁の大きな亀裂だった。自分の身長ほどもある、大きく裂けた亀裂の奥の闇は深い。


 かすかに風の音がした。


 スタンガンを構えつつ、亀裂の脇まで行き、奥を覗く。その足元を猫も覗いた。中からほのかな光が洩れる。


 下を見れば、こまかな埃の上に幾つもの足跡。


「有毒ガスはない」


 足もとの猫が舌をしまいながら言った。奥まで亀裂が同じ広さで続いてる事を猫がその電子視覚で確かめ、告げた。


「応援を到着させる事を勧める」


「うるさい。先を行け」


 それだけ言葉を返し、〈特殊刑事223〉は猫を亀裂に入らせた。


 自分は後から続く。


 超能力者である自分の勘を信じていた。


 〈特殊刑事223〉は声なき声を聞く事が出来た。自分の脳裡に浮かび上がる様なそれは、世界にさまよう幽霊の囁きをテレパシーで聴く様なものだ。または大自然の意識と呼べるものをダイナミックに感じとる様な、それが彼女の勘だった。


「眼を貸せ」


 〈特殊刑事223〉は言った。


 すると瞬間、自分の視界が猫の低い視点からの光を電子的に増幅させたものと変わった。〈特殊刑事223〉と常時リンクしている〈監視体17〉は、その視覚や聴覚を〈特殊刑事223〉と共有する事が出来る。〈特殊刑事223〉の表層思考も常時、相手に読まれているので嘘をついても無駄だ。監視体とのつきあいは考えを読まれているのを承知で強く押して出る事がコツだと、彼女は経験で学んでいた。怖気を見せたら相手に足元をすくわれかねない。強気が最善だ。


 歩きにくい足元は急勾配の斜面で、更なる地下へと来訪者をいざなっていた。


 〈特殊刑事223〉は両手を突っ張って狭い壁を辿りながら、転びかねないごつごつした足もとを、ブーツで一歩一歩踏みしめながら隘路を下りていく。


 更なる地下への一本道は、ほのかな明かりが漏れてくる場所で終焉になった。


 そこは地下鉄構だった。


 後から取りつけられたライトが、ひび割れた壁に並ぶ地下鉄構。急ごしえらえめいて不規則なライト群が乱杭歯の様な光を地下空間に投げかけている。


 寒寒とした沈黙の支配する、中途半端な暗黒。


 右を見れば、ライトの列は途絶えてやがて闇を迎え、左には点点とした光がいざなう様に続いている。


 機械猫の眼で足元に横たわる線路の上にある埃の具合を確認すると、大勢の靴跡が左に向かっていた。


 猫の忍び歩きを先頭にし、線路を辿って左へ歩いた。勘もこちらだと告げていた。


 やがて見えたのは、脱線して斜めにかしいだ地下鉄の先頭車両の正面。


 巣穴につかえた長虫。まるで無理やり詰めこまれた様な有様だった。


 近づき、先頭車両側面の最初の扉が開いているのを確認する。靴跡もここから内部へと入りこんでいる。


 耳をすませた。音はない。勘は危険はないと知らせている。


 内部へと侵入。


 車両内は照明が点き、明るい。割れた窓が奥へ誘う様に連なっている。床にガラスの破片。


 ガラスの破片を踏んで歩く。


 沢山の靴跡を辿って、傾いだ車内を奥へ進んだ。


 一両目。


 二両目。


 沢山の中吊り広告が、天井から襤褸の如く垂れ下がっていた。


 連結部の扉を開け、五両目まで進む。


 六両目へと続く扉はそれまでと様相が違っていた。


 まるで神殿へといざなわれる様な雰囲気。奇麗に磨かれ、ガラス窓には内側から何かが貼られ、ふさがれている。何かを封印している様に感じられて、〈特殊刑事223〉は掌中の銃を握りなおした。


 警報装置を警戒する。


 錠でもあるかの様だが、実際には錠のないその扉を一気に開けた。


 猫の琥珀色の瞳は、室内の奇妙な整然さを映しだす。


 いやカオスか。


 息を呑む。


 六番目の車両の中はホビー空間だった。


 壁際に浮き彫りの様な神像めいたホラームービーのキャラクターのフィギュアが、空間に敷き詰められる如く、並べられている。


 鯨めいた質感の人面の二足獣。


 チェーンソーを構えた血まみれの仮面の調理師。


 巨大なハサミを両手で構えた理髪師。


 濡れそぼる外骨格の人間めいたプロポーションの蟹。


 黒光りする光沢の流線型の宇宙怪物。


 淫猥な表情に牙を並べた尾の長い人魚。


 鮮血にまみれ腹に内臓をぶら下げた骸骨。


 ケロイド状の皮膚の邪悪な笑顔で煙草をくわえた天使。


 その他、その他。人間の想像力と手練の精緻な技が作り出したおぞましい造形。


 椅子や手すり等は撤去され、彼女が知っているメジャーなモンスターから、何処でいつ対象作品が作られたのか解らないマイナーなクリーチャーまで、一見では数え切れない異形の群が二段にも三段にも整列していた。


 さらにこの奥行きのある部屋は天井や床に隙間なく、古今東西のホラームービーのポスターや雑誌から切り抜かれた猟奇的映画の広告や紹介記事が所狭しと貼りつけられていた。その区分整理の見事さは神経質的でいて、一種の空間芸術の様でもある。


 この車両に、聖像や聖遺物やイコンを飾る聖堂のパロディーめいた雰囲気を感じずにはいられない。もしくはこのホラーフィギュアのそれぞれにマニトゥが宿っていると見出した者達の篤信さか。


 薄暗い天井照明が小型テーマパークの如き全てを映し出す。


 〈特殊刑事223〉は異世界へ迷いこんだ様な軽い目眩を覚えた。


 古い吸血怪物の映画のポスターを踏み、〈特殊刑事223〉は奥へと進む。ただれた様な空間の車内を泳ぐみたいに進み、奥の連結部を目指す。


 この車両を通る事は一種の通過儀礼の様だと〈特殊刑事223〉は思った。



★第二章


 人形達の視線を受け、進む。


 〈ブラックマザー〉からの情報によれば、この廃列車を管理しているのは特殊なホラーカルトだ。


 精神の解放をテーマにして、志願者の信者、拉致誘拐した者を問わずに危険ドラッグ等の薬物やメディアドラッグを使用した洗脳で暴力衝動を強め、サーモバイザーをつけて町に放ち、無差別殺人を起こさせる。


 本人は夢うつつの状態で大量殺人をし、やがて毒物で自動的に死んでいく。それは映画などの異形のホラークリーチャーの格好をした幹部に率いられた信仰宗教集団。『宇宙の破滅状態』そのものに人格を与え、神格として崇める。終末信仰集団。


 元は新しい形の哲学思想に感応した者達の形なき同好会だったが、積極的な同志一部が組織化して自分達の意見にそぐわない仲間を攻撃排除し始め、暴力的な無認可宗教集団となった。そして、更に先鋭化し、積極的強引に思想を推し進める形になったのが現在の姿。他の宗教集団に攻撃を仕掛け、壊滅させてもいる。


 幹部は自分達をシャーマンとする。彼らはアミニズム信仰の変形として、人間文化のさまざまな現象、事件を人格化して、それをホラーやバイオレンスムービーの悪役キャラクターに置き換えて、崇め、一体化するコスチュームプレイ集団でもある。整形、化粧、衣装、特殊メイクによる魔術的変身。かれらは逃れられない宇宙の破滅こそ絶対真理の体現とする。その一刻も早い降臨を望む。無差別殺人事件はその儀式でもある。


 幹部は自ら不妊処置をし、次代に生命をつなぐ事を否定する。彼らはDNAを否定する。破滅と一様化こそ絶対平等と考える。


 ベールの奥に隠された大幹部のコスチュームプレイの素顔を見た者はいない。


 そこまでは捜査が進んでいる。警察は犯罪行為を未然に防ごうとした事も多い。


 しかし、どうやら本物の予知能力者が信者にいるらしく、捜査は裏をかかれてしまう。予知能力者は多分、国民番号未登録の難民らしく、彼の尾さえつかめない。


 だから同じ超能力者、〈スーパーバイザー〉の特殊奉仕公務員、〈特殊刑事223〉に白刃の矢が立った。先任がいたが、その特殊公務員は捜査中に行方不明になった。多分、死亡したのだろう。カルトの手によって。


 走る猫を追い越して〈特殊刑事223〉は奥のドアへと走り、躊躇なくそれを開けた。


 七両目の眩しい照明が差しこみ、一瞬、視力を奪われる。


 背後で扉が無音で閉まる。


 この車輌は電磁ノイズが侵入しない様、電磁暗室になっていた。


『〈ブラックマザー〉との回線が切断されました。再接続して下さい』


 脳裏にそんな言葉が浮かび、消えた。


 〈監視体17〉は〈ブラックマザー〉からのリンクが遮断されて独自判断をはじめる。


 特殊刑事は監視体の、監視体は特殊刑事の感覚を借りる事が出来る。そういう手術をしているのだ。


 捜査情報をリンクしたAIを通して供給してもらえるが、それは五感を通してではなく、直接脳裏に「思い出す」のと同じ様に感じられる。特殊刑事はこれを自分の体験過去と後に得た情報と区別出来なくなって危険だと思っていた。一応、無意識領域でのナンバリングがあって区別出来るが、それが壊れた場合、仮想と現実が区別出来なくなり、分裂症になる怖れがある。古い病名としての精神分裂ではない。文字通り、自我が分裂するのだ。特殊刑事の任務中の発狂率が高いのはおそらくこのせいだ。自我をはっきり持っていないと虚構情報と主観記憶が区別出来なくなる.


 照明は、巨大な十字の影を無音の逆光として浮かび上がらせていた。


 車両の中央に天上まで届く巨大な十字架があった。


 そして、それに架けられた一人の痩せた男。イバラの冠の代わりに無数のコードが長く伸びたヘッドギアを被せられ、顔をうなだれさせている。くたびれてしわの寄った灰色の衣服と拘束具。


 老人の様だが老人ではないはずだ。


「塩原猛志か……?」


 〈特殊刑事223〉は銃を胸元に引きつけながら誰何した。


 チャペル。パーソナル・ジーザス。


 老人の男の頭から伸びた無数のコードは、ディスプレイがついた周囲の幾つもの機器にコネクトしていた。左右に並ぶ機器の山に挟まれる様に塩原猛志の姿はあった。


 ディスプレイには日本語の文章が羅列していた。それは今の一瞬も行を増やしている。


 塩原は顔を上げた。疲れた顔をし、眼元には着ている服の様に沢山のしわが寄っていた。


 眼が合った。濁った眼だった。


 塩原は口内に差しこまれた水と流動食を飲む為のチューブが固定されたマスクを口につけている。灰色の服の下半身には排泄物を処理する為のチューブが潜りこんでいた。


 垢で汚れた衣服が拘束時間の長さを語っていた。


 〈特殊刑事223〉は自分の勘に頼り、意識を集中した。


(誰だ……?)


 声なき誰何。テレパシー。脳裡に閃いたそんな気持ちを言葉に翻訳するとそういう言葉になった。うっかりすれば自意識の妄想雑念と区別出来なくなりそうな微妙なそれを慎重に選り分けるコツを〈特殊刑事223〉は体得している。


 これは自分が感知し、再生した塩原の声なき声なのだ。


(カルトの連中ではない様だが……?)


 手と足を十字架に繋いでいる枷が金属音を立てた。


「塩原猛志だな?」


 声に出して訊いた。


(……そうだ)


 塩原は意識だけで声に出さず答えた。意識が読まれている事実を受け入れている。


「何をされた。大丈夫か?」


(小説を書かされているのだ)


 塩原は言った。


 彼は行方不明の小説家だった。


 この連続する大量殺人を起こしているカルト組織に誘拐されていると見込まれていた。


 小説家は未来に希望を繋ぐ為に未来小説を書いた。しかしどうしても明るいものにはならない。アンハッピーなインスピレーションばかりが湧く。


 それは宗教集団へのささやかな抵抗なのだが、感知され、教団に拉致監禁された。思想始祖へのささやかな信奉として殺されてはいない。自らの有るべき道を思い出す様に、と洗脳されかかっている。


 塩原と〈特殊刑事223〉が会話している間にも周囲の機器が会話や思考を拾う様にディスプレイの文字を蓄積していく。


 塩原は痩せていた。今こうしている間にも周囲の機械に身の何もかも吸い尽くされている様に痩せていた。


 〈監視体17〉がセンサーの機能を使って周囲や機器をチェック。


 全部が作動状態にある。


(気が狂いそうだ。いや既に狂っているかもしれない。私は薬物が投与され、周りの機械が夢うつつ状態の私の脳裡に浮かぶ意識を電子的に読み、それを翻訳して言葉に置きかえる。その情報は蓄積され、文章作成エンジンが意味の通った文章に置き換え、小説を構成するのだ。文章作成エンジンは私の文章データを元にした人工知能でもある。ワタシならぬ私が書いた小説だ)



 塩原の意識がそう説明した。その言葉はリアルタイムでディスプレイに描写されている。


(早く拘束を解いてくれ。もう無理矢理、小説を書かされるのはご免だ。……いや、こんな物は小説と呼べん。思考野の閃きですらない、羅列だ。幻覚から生まれた、構文の屑の寄せ集めだ)


「しかしお前を捕らえたカルトの奴らは、お前が名作を書いていると思っているのではないか?」


 〈特殊刑事223〉は彼も顔を横目に会話した。


(頭の中で考えている内は皆、名作だよ。文章にして現実に固定させるという事は、思いつきを劣化させるという事だ)


「しかし作品を受け取った読者がそれを感想として、元元を越える想像を膨らませる事もあるのでは?」


(……それはあるかもしれない。小説は読まれる事で完成するのだ。優れた創作物は、読んだ、観た者の時間を支配する。だが、私は読者を選べない。……早く助けてくれ。他人に自分の頭の中身を読まれて、喜ぶ人間はいない)


 塩原の弱々しい、声なき声。


(生きている内から絶対神聖視された人間ほどみじめなものはないね。自分が裸だと気づいても誰も玉座からおろしてくれない。師匠を越えようとしない弟子に囲まれた安楽なぞ、地獄だ)疲れきっている。(私は宗教を作りたかったわけではなかった。だがコミュニケーションギャップで一部暴走した様だ)


「塩原猛志、お前を助ける」〈特殊刑事223〉は言った。塩原の顔は〈監視体17〉の事件データベースと照合してある。間違いない。「捜索願が出ている。お前はこのカルトに拘束されていたんだな」


 〈特殊刑事223〉はディスプレイの幾つかを見比べ、表示された文字を読む。小説というより論文調のセンテンスの寄せ集めの様だ。


 スタンガンを腰のベルトにはさみ、携帯していた大型ナイフをとりだしながら、塩原の手と足を拘束している枷を外す方法を探した。周囲の機器を物理的に壊す事も考えたが、超思念的直感が彼女の指を拘束装置のメインスイッチへと導く。セキュリティの四桁のパスコード。〈監視体17〉の視覚センサーでキーボードの数字入力キーでもっとも使用頻度が高いものを見つけ、組み合わせを直感で解除した。


 スイッチ・オフ。〈特殊刑事223〉は塩原を拘束の十字架から解き放った。


 ゴホリ、と塩原は喉の奥から流動食用チューブを自由になった右手で引き抜く。


 その時だった。拘束からほどかれた塩原の眼が〈特殊刑事223〉に向かって、見開かれた。



 正確には彼女の肩越し、背後を見つめ、恐怖と驚きの表情を作った。


 〈監視体17〉が鋭く鳴いて威嚇する。


 青猫が凝視する、ディスプレイ群の一つを〈特殊刑事223〉も思わず見つめた。


 その大型ディスプレイの画面から一切の文字が消え去っていた。


 暗黒の画面が銀に縁取られたウィンドウと共に右に傾きながら音もなく縮小していく。その矩形の四隅の角の対角にある二つの角がディスプレイの縁に触れると、停止した矩形の内側に一回り小さな銀のウィンドウが離れ、


傾きながら中央へ落ちこんでいく。そして、その小さな傾いたウィンドウが外側の縁に触れると更に小さな矩形が。そして、また銀色に縁取られた矩形。


 その繰り返し。幾つも、幾つも、無限小に小さく分割していく矩形の螺旋は、まるで合わせ鏡にも似て、遠近法によって中央へ向かって深く落ちこんでいくトンネルの様に思えた。


 そして、その画面の螺旋の奥からそれがやってきた。


 無限分割された画面の奥の擬似トンネルの彼方から段段とそれは大きく、歩く速度で近づく。


 擬似三次元の彼方。二次元の画面の奥の世界から、質感のある不気味な人型の闇。


 それは画面いっぱいにズームアップになった時、人間と同じ背の丈で、黒い両手を突き出して画面からとびだしてきた。


 覆いかぶさってくる。動く姿に音はなかった。非人間的な登場手段だが、人間の様だ。夜のごとく深い黒のゆったりとしたローブ。フードが深く頭部に影を落としている。フードの内側でギラギラと虹色に輝く眼。身長2メートルを超える、黒いローブをかぶった男だ。黒いゴム製の手袋をはめた手でつかみかかる。


 至近距離。敵だ。不気味な超現実的な登場方法に恐ろしさと驚愕をおぼえたものの〈特殊刑事223〉は手に持つ大型ナイフで水平に相手の胸の高さを斬りつけた。


 ナイフに途中で相手のローブが巻きついた。黒い厚手の布が大きくはだけ、全てが足元の通路に落ちて、わだかまった。そばにあった作動中のディスプレイが倒れる。


 艶のない、闇色のウェットスーツの全身があらわになった。


 スーツに傷はない。ナイフは通っていない。防刃か。


 なまぐさい濃密な腐臭。


 塩原が耳を痛くする恐怖の絶叫をあげる。


 〈特殊刑事223〉は戦慄した。その男の顔の上半分は見覚えのあるものだった。



★第三章


 一瞬で〈監視体17〉が内蔵のデータと照合。死んだと思われていた、先任の特殊刑事。それが男の正体だ。


 そのデータとリンクして〈特殊刑事223〉は直観した。


 彼はこのカルトに潜入操作している最中に捕らえられ、洗脳され、寝返ったのだ。いや、洗脳されるまでもなく、元元、同調していたのかもしれない。


 今まで警察の捜査が後手後手に回っていたのは、彼の超能力の仕業だ。


 超直感力を持つ者同士が競い合った時、先手をとれるのは自分がいる世界の理解力が高い方だ。


 〈特殊刑事223〉は先任の特殊刑事は死んだものだと信じていた。だから、予知の外にあり、今も奇襲されたのだ。


 彼はすでに幹部級だと直観。彼についていた監視体は破壊され、毒入り首輪はカルトの手によって外されたのだろう。念入りな準備と素早い処理があれば、不可能ではない。


 ローブともつれたナイフを捨て、スタンガンを連射。一発。撃鉄をすばやく起こして、もう一発。十字型に展開した弾体がウェットスーツの胸部を痛打する。よろめいたところをついて、更に二発。距離が離れた。壁に貼られたホラー映画のポスターが男の背を受け止める。


 しかし相手はもちこたえた。


 再び、怪人の疾走。素足の形の黒いラバーブーツで、床に貼り固められた猟奇な新聞記事群を踏みしめ、床に落ちたままのローブを蹴散らしながら猛然と力強く走りこんでくる。


 スタンガンを射撃。今度は走る威力も殺せない。


 黒い両の手で首につかみかかってくる。


 〈特殊刑事223〉はその時、まざまざと彼の顔の全体を間近で見つめる事になった。


 縮れ髪の腐った蛸の印象。


 顔の上半分、眼鼻立ちはどんよりとした雰囲気に彩られた、先任の特殊刑事。データにあるそのものだった。ただし同じ日本人であるはずの眼が虹色に輝き、面持ちの下半分のぐじゅぐじゅにうじゃけた触手の群が長いひげの様にのび、胸元で独自に身じろぎし、絡みあっている。テヅルモヅルという深海生物を思いだす。


 〈クトゥルフの落とし子〉。


 〈特殊刑事223〉は、近代アメリカの怪奇作家、H・P・ラブクラフトのカルト的小説に描かれる宇宙的恐怖の産物である怪物を思い出していた。昔、その神話体系である小説を幾つか読んだ事がある。主人公達が抗えない神秘な法則と絶対恐怖の中で最終的に発狂していく物語だ。


 その物語では自分たちの住む宇宙など怪物の観る夢にすぎない。


 この〈クトゥルフの落とし子〉に変形した顔は特殊メイクだろうか。整形だろうか。


 いや、違う。これは信仰の力だ。肉体変容。狂信が自らの身体にホラー・クリーチャーを具現化させたのだ。


 頬や鼻孔の辺りから唇や顎を覆うように無数に枝分かれした肉色の触手群はそれぞれが蠕虫の如くうごめき、なんともいえない腐臭とともに〈特殊刑事223〉の顔になだれかかってきた。


 粘液。汚水の様な重たい触手を浴び、黒い手で細い首を首輪ごと締めあげられる。


 虹色にぎらつく眼の下に生えた触手は超三次元的でカオスな渦を巻く擬似実体。


 超三次元。超現実。膨らんだ活発的な触手だと思った部分が次の瞬間、それにつきそう触手の影になる。陰影が狂っている。地と図の絶え間ない逆転。ユークリッド幾何学の破綻。


 エネルギー・ドレイン。顔にのって巻きついた触手の群や首に絡みつく両手から、活力が吸い取られているのが解る。血や水分ではない。エネルギー。生命力。自分の存在、情報だ。


 自分の存在可能性そのものが吸い尽くされる。存在情報が枯渇していく。実態が干からびていく。


 白兵距離。顔面の触手に押しつけて、スタンガンを発射する。最後の一発。


 しかし、弾体は触手の群の中に消えた。絶対命中と思ったそれは、渦を巻く触手の中でまるで貫通するかの様に遠ざかる。触手の螺旋が作りあげた擬似三次元のフラクタルなトンネルの彼方へ無限縮小して、消えた。


 それを見た〈特殊刑事223〉に現実力が通用しない相手に対する宇宙的的絶対恐怖が湧きあがる。


 超自然。


 焦燥。


 恐怖。


 狂気。


 〈特殊刑事223〉の精神は一瞬で枯れ枝の様に痩せ細った。


 〈特殊刑事223〉の限界を超えた発狂の絶叫が、すぐそばにいる塩原のそれと重なった、


 黒い両手で一気に喉をしぼりあげられ、ポテンシャルが吸い尽くされる。


 〈特殊刑事223〉は狂死した。肉体が空気に溶ける様に一瞬で消滅し、服と首輪と武器、そして脳に埋めこまれていた情報リンクの部品が床に落ちた。意味消失。情報体としての彼女は先任特殊刑事である怪物に殺されたのだ。


 物理的に消失したがエネルギーへの転換は起こらない。触手がエネルギーを吸収した。あれはその様に時空ポテンシャルを食うのだ。


 その瞬間、彼女は猫になった。


 〈特殊刑事223〉の視界は、彼女が死んだ途端、スイッチング。中空の十字を視界の中央におさめた、それまで〈特殊刑事223〉がいた場所から少し離れた、同じ車両内の、黒衣の怪物を床すれすれの右から見つめる視点に切り替わった。


 青猫、それまで機械的にデータリンクしていた〈監視体17〉の脳に、主体を含めた〈特殊刑事223〉の思考そのものが転移した。情報体である〈特殊刑事223〉の意識は彼女が死に〈監視体17〉に移った。〈監視体17〉と常時リンクしていた彼女は、猫の中にある自分の思考コピーデータの方がオリジナルに切り替わったのだ。


 幽霊がアニマロイドにとりついたと表現出来るかもしれない。


 彼女は青猫になった。〈特殊刑事223〉の記憶を持つ。


 狂死した塩原の隣で〈特殊刑事223〉=〈監視体17〉はそれを理解し、躊躇なく受け入れた。


 普段は光通信用に使っている左眼の精密レーザーの出力を上げて、撃つ。


 だが、それはウェットスーツの表面を撫で、化学的な焦げ臭さを与える事しか出来ない。


 彼女の次の判断は、怪物がそれに気づかない内にこの神殿からの逃走だった。青猫になった自分がこれからどうするか、どう生きていくのかなどと考えている場合ではない。今はとにかく、このカルト寺院からの脱出が優先だ。


 なりふりかまわず、四足で踵を返して走る。軽やかに。


 脳裏が薄ら痛い。不快だ。この青猫である自分のAIも怪物による狂気を理解し、狂いかけているのだ。


 怪物が追ってきた。カルト・ホラーな空間を黒い〈クトゥルフの落とし子〉が走ってくる。


 ここへ入ってきた車両連結口までたどりついて、アニマロイドにはこのドアを開ける手段がない事に気がついた。跳躍。ドアにはめられた厚い窓ガラスを体当たりで割るのだ、


 その時。


 ドアがスライドして開いた。


 人ひとり分の通路空間に幾十もの青白い手があふれ出てくる。その隙間隙間に整形した異形の笑顔。黒や白や青灰色の襤褸の様なローブを身にまとった、ホラー・キャラクターの男女たちが腕を引きつらせて、なだれこん出来た。カルトの信者集団。狂気の感染者だ。


 青猫の存在する空間へ、背後から〈クトゥルフの落とし子〉の触手群。前方から総怪物、異形の繊手群。


 空中で青猫の時間は止まった。


 光学センサーを見開いて〈クトゥルフの落とし子〉の悶える触手を凝視する。全ての受動センサーを最大限に。本能的に現在感知出来る全ての情報を思考エンジンに放りこみ、アルゴリズムをフル回転。青猫は通常機能を遥かにオーバードライブさせた思考情報体となり、身体が熱くなるほどのフローで分析と推測を開始する。


 だが、それでも青猫は〈クトゥルフの落とし子〉の触手一本の動きさえ完全理解出来なかった。


 電磁暗室で〈ブラックマザー〉とのリンクが切り離されている彼女は〈特殊刑事223〉と〈監視体17〉としての記憶しかない。


 不気味に渦を巻く触手。それを理解しようとしたAIはその一本に自然と意識を集中させた。先端を見極めようとして、そこに分析能力を展開。しかし、触手の先端はフラクタルな渦を巻いて、さらなる先端へと視線をい

ざなう。触手の渦、渦、渦。部分は全体の相似形。無限につらなる個の分割。不完全定理の領域。いくら計算しても解析への手続きが終わらない、無限縮小の渦。


 無限の具現。


 理解不可能。


 宇宙的恐怖。


(混乱混乱混乱混乱混乱混乱混乱混乱混乱混乱…………)


 青猫の理解能力は触手一本を理解しようとするだけで手一杯になる。ましてや、それが何百と。複雑に。


 無限に限りなく近い情報量に思考が混乱し、狂気する。


 青猫の左眼が渦を巻いた。


 思考の座がメタ視点になる。


 彼女は一瞬〈悟り〉を得たと思った。


 それと裏腹の狂気。


 青猫はさらに発狂するぎりぎりの精神状態から自己防衛手段を本能で発動させた。


 青猫のAIは再度の人格崩壊を防ぐために能動的に宇宙的恐怖の神話知識を曖昧にする。思考をブロックし、センサーの解像度と処理速度を低下させた。敵の意味性をぼかしたのだ、


 脅威たる〈無限〉の視界を〈渦眼〉が包括した。


 感覚器がもたらす世界観の実感からAIの思考を切り離す。思考クロックが時間を数える事すら停止させる。客観的な時間経過さえも静止。時間の連続性が失われた世界は、時系列の関連付けが出来なくなる。


  全ての〈縁〉を自分から遠くする。


 自分を縛っていた因縁が消えた。


 世界が石と化した様に凍りつく。


 どろり、と世界が溶けた。〈渦眼〉の力が世界の境界、風景の輪郭を溶かす。


 車両内のあちこちにあって窓をふさぐホラームービーのポスターが、塩原猛志と彼をつないでいた機械群が、脱ぎ捨てられた様な〈特殊刑事223〉の残骸痕跡が、照明が、〈クトゥルフの落とし子〉が、クリーチャーの姿をしたカルトの信者達が、礼拝堂の遠近感が、一斉に色をにじませ、不思議に溶解した。


 前後上下左右、世界が無限の色彩として渦を巻き、数多の灰色の奔流となり、現実感を失って抽象画の様になる。


 黒に近い灰色。白に近い灰色。無限の溶解。


 青猫は〈渦眼〉を使い、ホラーカルトの世界から脱出した。


 世界から跳躍し、どこにも平行世界にも所属しない、量子場と時空を超えた、全ての狭間へ逃げこんだのだ。


 客観的視座のない、唯主観的な無彩色世界。


 こんな事が出来るとは今の今まで知らなかった。


 〈スーパーバイザー〉である自分さえ知らなかった左眼の力。


 静かな流れ。無音の激流。互いに影響しあう、幾たびもの分岐と絡み合い。立体交叉。いばら。長虫。やわらかい迷路。


 濃度の違う液流がすれちがって生じる様な大小さまざまの渦。


 ここにいるのは自分ひとり。


 カオスな孤独。


 もう、元の世界には帰れない。


 私という個体は今、他のどの平行宇宙にも所属しない。浮遊するひとつきりの宇宙なのだ。


 究極の孤独。


 青猫は恐怖の心は空恐ろしい恐怖に支配されながら、思考を停止し、スリープモードに入った。


 完全なる待機。


 彼女にとって、眼醒めるあては永久になかった。

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