第2話 黄昏の校舎で(AD2004)

第一章・少女・虹美


 四階の窓に、黒い蛇を見たのは気のせいらしい。


 しんとした静寂。自分の血流が聞こえる気がする。


 女子中学生。田村虹美はスケッチの手を止め、教室の窓を見た。


 黄昏た空。紫の雲はくすんだ黄金色でふちどられている。


 耳をすまし、遠くに下校する生徒のざわめきをかすかに聞く。


 下校の流れに逆らって、この教室に来た。


 新しいナイフで長く削りだした3Bの黒芯。喉が乾くが、高等部の自販機で買ってきたコーヒーはすでに空だ。


 肩に夕陽を浴びて、教室に一人残る孤独。


 眼の前、机の上には画用紙。


 ふと、寝つけなかった夜に見たTV画面を思いだす。


 タイトルの解らない深夜のモノクロ映画。


 主人公は日本人ではない。窓もドアも何もない部屋で男がうずくまり、何かを怖れ、白い壁を見つめる。


 男に影はない。それが孤独感を増している。


 画面に切りとられた人生。孤独な男は自分の存在する密室という概念自体を疑っている様に見えた。翳りのない密室は一様に白い。彼は完璧な白が、空白と同一に思える様だ。白い壁は彼にとって少しも強固でなく、異世界へ無制限開放された戸口に等しい。周囲は地平線のない風景なのだ。


 追いつめられた精神で、白い彼方からやってくる何かを恐れている。


 男の手にはペンキを塗る刷毛があった。たっぷりと黒い塗料を含んで、重そうに濡れていた。


 やにわ男は立ちあがる。腕を振って部屋を塗る。


 艶のない、闇の黒色。どう届かせたのか、天井まで塗り潰されていく。息づまる熱心さでまばたきのない作業が続く。


 やがて密室の色は、完全に反転した。


 黒一色の部屋。男は唯一の輪郭を備えて立ち、笑う。


 しかし興奮が冷めた時に、満足げな顔が絶望する。


 黒い四方の壁、頭上と足元を見つめ、唖然とする泣き顔。


 今、彼が立つのは、果てのない暗黒空間の孤独だった。


 黒で塗り潰して、闇が現れただけ。周囲は依然、空虚な門である事に変わりなかった。


 彼は白い塗料をたっぷり含む刷毛を手にした。


 刷毛の幅一杯に白線を引く。白色の復活。かすれのない曲線が天井や壁、床を渡り、黒地を削る道が走る。


 和様式の唐草模様に似た、おおらかなカーブが壁に描かれる。すでにある線と合流しない様、可能な限り、長くのばされる。


 余分な黒地を食いつくそうと白線は進む。迂遠な曲折を繰り返した末、自分に囲まれ、行き場をなくす。行き場をなくした線は渦となり、巻いた中心に行きついて初めて止まる。


 幾つもの分岐を繰り返し、部屋はやがて黒白の混迷に埋め尽くされた。陰と陽の陣取りゲーム。白は全ての黒地を塗り潰さずに、自分の幅と同じ幅の黒地を残した。白線を刻むのは、黒線を浮き彫りにするの同じ仕事。白地と黒地が噛みあった。


 一方の色に注目すれば、もう一方が意識から消える。


 二色同時に意識するのは不可能。


 支脈と渦。どちらが地でどちらが図かの区分さえ消失した迷路は、密に入り組んだ騙し絵の様。複雑な流線を内装にした部屋は、単純な奥行きも平坦さもなく、全体質感を柔らかくした幻視空間として完成した。


 大狂笑。ようやく満足に至った男を中心に、カメラは部屋全体を回りこんで映す。


 モアレの虹が生じるほどに濃密な縞が画面を流れ、ひどい目眩を虹美は覚えている。それが、なんともいえないこの深夜映画の記憶の最後。今までタイトルを知ろうとも思わず、ただ、このシーンが心の片隅にこびりついていた。


 それを思い出す今の自分はどの様な心境か。


 机に置かれた鏡に映る、矩形に切りとられた十二歳の肖像。


 校則違反のオレンジ色の、毛先が尖ったショートヘア。


 伏し眼がちの瞳は大きく、肉厚の朱唇、耳に自分であけたピアスの穴。ピアスはつけていない。


 放課後の教室。一人きりの自画像スケッチ。


 寂しさにふと、この初等部校舎に伝わる怪談を思いだす。放課後の吸血鬼。


 創立五年の学園に伝わる吸血鬼話などに何も感じない虹美はその心をすぐしまった。画用紙に眼を近づける。背景まで描くべき課題は、まだ自画像の周囲を描きこんでいない。


 我ながら画才はあると思う。


 画用紙の縁は鏡面の端と一致している。写実的なスケッチは、鏡に映りこんだ自分の無色再現。


 鉛筆の長い芯を寝かせ、肖像の輪郭に置く。


 手を滑らせる。黒と見紛う濃灰色の帯を描いた。背景の余白に長く波打つ黒線。のびた線は他と合流せず、行き場をなくすと中心に行きつくまで渦を描いた。


 それを幾度も描く。当然、実際の背景ではない。


 虹美が自画像の背景に描いたのは、あの映画の男が部屋全体を埋め尽くしたのと同じ線だ。


 病的だ、と自分で思う。


 精神を病んだ者はこういう絵を描いてしまうのではないだろうか。


 肖像は、黒い蛇を連想させる波を周囲に放射し、雰囲気が暗い。浮き彫りにされた余白が白蛇となり黒蛇ともつれる、そんな抽象図にも背景は思える。


 肖像が、頭髪が毒蛇だというメデューサに見えた。


 メデューサ。


 ギリシャ神話の怪物で、顔を見たものを石に変えるというゴーゴン三姉妹の末の妹。


 戦神アテナの守護を受けた英雄ペルセウスに首を落とされ、退治された。王の婚礼に捧げられたのだ。


 虹美の手が止まり、思いつめた息を飲む。


 四歳までの彼女の世界で、鏡というものは不気味なものだった。


 古い記憶の中、母親が化粧に使っていた鏡台は、幼い彼女にとって、違う世界との硝子張りの境界に思えてしかたなかった。


 幼い虹美にとって、鏡は窓だった。その景色は反射ではなく自分のいる世界と寸分たがわぬ別の世界で、その窓に入りきらない、自分からは見えない部分の外にも実感ある世界が広がっているはずなのだ。誰に教えられたわけでなく、そう感じた。


 そして鏡とはいつも、自分のふりをする何かが現れるところだった。


 それを出しぬく事は出来なかった。虹美が持っている服や玩具も全く同じ物を持っていて、どんなに奇抜なポーズや表情も瞬間的に真似されてしまう。とっさの思いつきもすぐに真似されるのは、自分の考えが全て伝わっているからに違いなく、それでいて相手が自分の事を真似する意図が理解出来ない。


 その不気味な感覚は、幼い虹美がはじめて覚えた未知に対する心からの恐怖。逃げる事がかなわない、絶対的な被支配感覚だった。


 幾度かその感覚に押し潰された虹美は鏡の前で泣き叫んで親を呼び、それでいて鏡を覗く一人遊びをやめる事はなかった。好奇心は恐怖と一体だった。


 虹美に、現実と仮想との区別が生じたのは四歳のある日だった。


 虹美の世界は広がると同時に閉じた。


 少女は虚像という知識を得た。そして鏡の向こうにあるはずの世界が現実から消えた。


 鏡に映る虹美にそっくりなものとは虹美の虚像だった。冷たい鏡の向こうから凝視する黒瞳は虹美自身のものだったのだ。


 そう気づいた瞬間、左眼が渦を巻いた。


 現象は鏡の中だけの虚像ではなかった。驚いて叫んだ虹美の声を聞いた母親と祖母と、店先から駆けつけてきた父親が抱きしめて見守る中、瞳の不気味な運動は続いた。


 ただ左の瞳が滑らかな渦を巻き続ける。


 記憶はそこまでだ。


 幼い頃のはかない記憶を思い出す。


 声がしたのはその時だ。


「意外と上手ね」


 顔を向けると、開いた窓に猫がいた。


 何処から入ったのか。


 四階の窓辺に不似合いな生き物は、黄昏の逆光から床に下り、初めて色が解る。


 青みがかった銀の毛並み。琥珀の様な金の瞳。


 長い尾を振るスマートな肢体が、一跳びで机の上に乗る。


「でも、そんな線を描きこむから陰気な印象だわ」


 虹美の画を覗く青猫は、若い女の声で意見する。


 虹美はそんな意見を聞き流す。


「言葉を喋る猫に驚かないの?」不満げな声。


「私、現実というものは受け入れる事にしてるの」


 動揺せずにそっけなく課題の仕上げを再開する少女に、猫はつまらなさそうな顔をする。


「話しかける猫を、現実として受け入れるわけ?」


「貴方は自分の実在を否定したいの?」


「もっと面白く考えない? ワタシは、アナタの深層意識が作りだす幻で、アナタは幻を通して自分自身の内面と対話してるとか」


「嘘っぽい話は嫌いよ」


「可愛くない娘ね。アナタにとって、喋る猫が実在する方が都合のいい現実なのね」


「そういう問題じゃないわ。嫌いよ、そういう言い方」


「普通は非常識なものを幻だと思う方が合理的でしょ? ……そういう心構えで相手にされると思ってたから調子が狂うわ」青猫は人間くさい溜め息をついた。「でもやっぱり、そういう考え方してる娘なんだって解って、ワタシはほっとしたわ」


 何かを求め得た様な青猫の言葉で、虹美は振り向く。


 金の瞳。虹美は傷の様な刻印に気づく。機械的な傷。十字形が照準の様に自分を捉えている。


「この背景は、アナタが世界を〈感じてる〉そのままを描いているのね」猫は鏡に映る世界と、画用紙に描かれた黒白の混迷をやさしく見比べた。「鏡に投影された描者の不安という感性表現としての云云……なんて言葉より、そういう言い方の方が気持ちをよく表してるんじゃない?」


「……貴方、何なの?」


「アナタが信じてる通りのもの。他の人よりはアナタの心が解るのよ」


「嘘だわ」


「嘘じゃないって〈感じ〉るでしょ?」


 言葉に呪縛された様、虹美は眼をそらせない。


「もっと素直に現実を認めなさい」青猫の裂けた様な口が赤く開いた。「田村虹美、アナタはこれから担任教師を殺すつもりで教室に一人残り、内心は不安でいっぱいなのよ」


 虹美は凍りつく。息を一つ、のんだ。


 猫は続けた。「放課後の教室、一人きりでいた中等部の女生徒の何人かがその教師から性的暴行を受けている。その事実は本人達以外、誰も知らない。……教師は暴行されたという弱みにつけこんで、被害者の口を巧みに塞いでる」


 赤い口が饒舌に語るのを、虹美は見つめる。


「今週、被害者の一人が自殺した。彼女は遺書にさえ打ち明けなかった。原因不明の自殺。葬儀に出席したその教師は涙を流したわ。……しかし、アナタは真相に気づいてしまってる」


「……証拠はないわ」


「そう、全ては葬儀の場での直感にすぎない。直感から紡ぎだされた物語。……でも、アナタは直感が昔からよく当たる娘だった。そして今も胸の内で、それが絶対に正しいと〈感じ〉てる。直感が語りかけてるのよ」


 悪魔の誘惑、と虹美の心に言葉が浮かぶ。


 青猫は少女の戸惑いを観察する様、歩く。窓からの斜めの光に長い影。5時12分。


「アナタは課題を仕上げる為、人気がなくなる校舎に一人残った。あの教師がそういう隙は見逃さないと解ってて」


 息づまるものを感じつつ、虹美は眼を閉じない。


 猫は掛け時計を見た。


「……もうすぐ、ソイツはこの教室に来る。……アナタは襲われかけるわ。準備してたナイフで手首に重傷を負わせたものの、駆けつけた他の教師達にとりおさえられる。いきなり切りつけられたとアイツは証言し、アナタは何も語れない。……情緒面に問題あり、として以前からマークされてたアナタは犯罪児童処罰として児童自立支援施設に収容。結局、アイツの罪は裁かれない。仇討ちにもならないのよ」


 冷えていく空気の中で、教室の秒針は時を刻む。


 下校生徒のざわめきは遠い。黄昏と薄闇の境界が溶ける。


「今なら間にあうわ。やめるなら今のうちよ。自殺した同級生は、別に親友なんかじゃない。むしろ感情を表に出せないアナタにつらくしてた。何処にアナタがそうする理由があるというの?」


「私の心が解るというなら、貴方は答を知ってるはずよ」


 鏡の縁が、黄昏を反射した。


 口をつぐむ猫の、体毛が音もなく逆立つ。


 廊下を近づいてくる足音。


 教室の戸の、硝子の窓に人影が映る。大人の身長だ。


 田村虹美は、担任教師の身長を知っている。ナイフを握った手を、机の中に隠した。


 足音が止まる。戸は開かない。


 硝子窓に陽の反射があふれ、まばゆい。


 虹美は奇妙な現象に気づいた。


 何故、光を受けてまぶしいほどの窓に影が映る?


 答が出る前に、影の声が聞こえた。


「田村くん、そこにいるんだろ?」あの教師の声だった。「入ってもいいかい?」


 戸が揺れた。手をかけている。しかし開けようとはしない。


「開けてくれ」


 虹美は唾を飲む。苛立つ肌に奇妙な気流を感じる。


「様子が変よ」青猫は戸惑っていた。「迂闊に応じちゃ駄目」


 奇妙と感じつつ、少女は決意を曲げなかった。「入りたいなら、入ってくれば」ナイフのある手を握りしめる。


 返答に応じ、揺れる戸が隙間を開けた。


 担任教師は入ってきた。背広の肩で、隙間をこじ開ける。


 揃えた細い指より先に、長い爪が侵入する。


 瞳がない眼の形いっぱいに広がる、虹色の光。


 禿頭。虹美が知るよりも肌は白く、耳が尖っていた。いやらしい微笑に、唇のない口が赤い牙列が覗かせた。


 吸血鬼だ。


 この学校に伝わる噂話としての。



第二章


 悪夢。しかし現実と少女は感じる。


 吸血鬼の姿の教師は薄闇を歩きだす。濃密な乳白色の霧が羽ばたくマントの様。渦を巻きつつ広がる。


 都市伝説の世界。


 教師のはずの怪物がそこにいて、虹美に近づいてくる。


 現実は受け入れる虹美。


 悲鳴を挙げるという選択肢はなかった。


 椅子を倒しながら立ちあがり、ナイフを投げる。


 飛んだ切っ先は首に届かない。奇妙な現象だった。投げられたナイフは、教師がまとうフラクタルな輪郭を持つ霧を突きぬけられず、速度そのままに渦の中へと小さく消える。


 消失。観客が投げたナイフが上映スクリーンに刺さらず、映画の風景の彼方へと消えた、まさにその様子。


 非常識に相対していると察し、虹美は唾を飲んだ。


 禍禍しい霧は明らかに吸血鬼の一部。すでに教室いっぱいに霧が広がり、逃げ場所は窓しかない。


 四階の窓。この校舎にベランダはない。


 追いつめられた。


 臆する少女をさらに圧倒して、いっそうの霧が教室に広がる。


 窓から身を乗りだせば、校庭や他の校舎にいる人間に声が届くだろう。しかし、他人に助けを求める気は起きない。


 この奇妙な状況で心静かな自分が不思議だ。


 敵が近づく。


 負けるのは嫌と思いつつ、視線に力をこめる。


 迫る霧が後退した様に見えた。


 椅子を投げつけようとした瞬間に猫の声がした。


「生半可な信念じゃ、ソイツの〈境界〉を越えられないわ!」


 吸血鬼の足が止まる。


 虹美は足もとの青猫を見た。宝石の様な眼で怪物をひるませている。十字形の威力とは思わないが、視線の効果はある様だった。


「生半可じゃあないわ」この猫を味方と信じ、虹美は叫ぶ。


「強がりじゃ駄目! 相手を打ち破れる、具体的な意志じゃなきゃ! 確実に暴き、征服するほどの!」


 猫の言葉に、虹美は手にした椅子が無力に思え、放り捨てる。


「いったい、これは何なのよ? これは貴方のせいなの?」説明を求めずにはいられない。「貴方は何者?」


「こんな事は予想外だわ! ……多分、敵が先手を打って、アナタを殺そうとしてるのよ」


「敵? 敵って……!?」


 肝心のものがない青猫の言葉をさらに問いただそうとした矢先、吸血鬼の眼からあふれる輝きが強まる。


 眼力が拮抗し、双方の動きが止まったのは一瞬きり。


 吸血鬼は死の翼の様な霧をともない、虹美へ歩をつめる。


 私を殺そうとしてる……。


 猫の口から出た言葉が、実体あるものの様に胸を押し潰す。鼓動が早くなる。膝に力をこめる。


 実感が来た。


 魔の霧の濃い部分が速い渦を巻く。ほどけた渦の太い触手が、虹美に向かって大きくしなった。


 腰に巻きつく冷たさ。


 バランスを崩した虹美は、虹色の眼を正面から見つめ、呪縛される。萎縮。骨が凍え、力が抜ける。


 死の翼が広がる。


 生命力が吸われているという自覚。


 直感する。生命力とは可能性なのだ。


 怪物の霧は、眼に見える形になったあいつの一部。世界を〈自分〉で浸食し、他人の可能性を奪って存在領域を広げていく生き物だ。


 他を糧として生きる。


 可能性の枯渇は、死滅。


 触手が自分の可能性を飲み干そうとしている。虹美の心底に湧いた暗い恐怖が、瞬く間に内臓一杯に満ちた。


 白い霧表面の渦が、幾人もの少女の苦悶する顔に見えた。


 死んだ同級生を思いだす。


「負けちゃ駄目よ!」


 青猫が叫び、とびついて触手に爪をかけた。


 銀の爪に切り裂かれ、触手が力を緩める。金の瞳の凝視に、霧は様子をうかがう様、動きにひるみを見せた。


 虹美の心に新たなものが湧く。


 腹の底に力をこめると、薄闇と霧がかき乱れた。


 反撃の隙をうかがう吸血鬼の、霧の一部が氾濫した。


 鬼女。


 大きな渦が女の形で起きあがり、吸血鬼を襲う。半透明の腕が虹美につながる触手を引きちぎり、上半身だけで牙と爪を武器とし、さらに襲う。


 自殺した同級生の顔だ。幽霊、と虹美は思う。そうならば、哀しいほどの怨念をむきだしにした怨霊だ。


「それがアナタの力よ」窓辺で逆光を背負う猫が、虹美に告げる。「〈渦眼〉よ。その幽霊はアナタが創った様なものよ」


「幽霊を創る!? どういう意味!?」虹美はその窓辺に寄る。「『うずめ』って?!?」


 首を締める鬼女の手を吸血鬼は力任せでふりはらう。引き剥がされた少女霊は霧散して、薄闇の宙に消えた。


 虹美の質問に答えないまま、青猫は窓の外に呼びかける。


「メデューサ! 見物してないで助けなさい! メデューサ!」


 虹美は、猫が呼ぶメデューサという名に少し驚く。


 青猫は夕陽に向かって呼び続けた。


 虹美が振りかえると、吸血鬼がすぐそこにいた。身を守る壁の如きな霧に埋もれ、虹色の眼が輝く。


 吸血鬼は、一跳躍で少女と猫を捕らえられる。


「私のその力ならあいつを倒せるの!?」


「アナタだけじゃ無理よ! 彼女の助けが要るわ!」


 青猫が叫び終わる前に、霧の太い触手が鞭の様にしなる。


 その触手をひきちぎったのは、黒い蛇の群。


 外から数十条もの黒蛇の群が、閉じた窓ガラスまで破って、一斉に教室に雪崩れこんだ。吸血鬼の視界を遮り、動く風圧で教室の霧をかき乱す。


 黒蛇は生き物ではない。チューブの様な胴体の、蛇をシンプルに模したフレキシブルな人工物。桃色の舌だけが本物と変わらない肉感を持つ。


 赤い眼でくねる威嚇が、霧をひるませる。


 吸血鬼は赤い口を全開し、甲高い男の声で吠えた。


 虹美が振り向いた窓の外。空の黄昏に覆い被さる様、いつのまにか巨大な黒い影が浮いている。


 全く照りがない黒一色で、細部が判別出来ず質感を把握出来なかった。風を割く音で三次元体と解るが、そうでなければ黄昏の空中に投影された黒い平面にしか見えない。まるで影絵だ。


 流線型のシルエット。いつかTVで観た、ダイバーとナガスクジラのランデブー映像を思いだし、脳裡で比較して虹美は圧倒される。全長100メートルはある。


「〈メデューサ〉!」


 青猫は空中に浮かぶ巨大な影に呼びかけた。その名にふさわしく、鯨の影の様なそれは無数の触手を全体から伸ばしている。その一本ずつが黒くて長い蛇。巨影の一部なのだ.


「一体、何なのよ!? これは?」


「この船が〈メデューサ〉よ」


「船!? 宇宙船!?」


「そう。彼女は宇宙船よ」


 変転し続ける現実感にとまどう虹美の言葉を、青猫は肯定する。


 SFチック。虹美は毒蛇の頭部をのばした様な黒い流線型のシルエットをそう感じた。


 この長くのっぺりとしたシルエットを宇宙船と呼ぶのは現代の常識感覚ではない。もっと空想的に科学技術が進歩した未来の感覚、SF感覚だ。


 では、今のこの現実はSFか? 空想の世界なのか?


 自分を囲んで守っている黒い流線の中、虹美は混乱する。


 吸血鬼が黒蛇の何本かを爪で引き裂いた。黒い傷から銀の体液を流し、傷ついた蛇が窓の外へ退きさがる。


 虹美は余分な考えを追いだし、吸血鬼を見すえた。


 少なくとも猫と宇宙船は自分の味方で、吸血鬼は敵だという事には間違いない。リアルタイムの対応を迫られている。


 校庭から大勢が騒ぐ声。外に浮かんだ鯨影を見つけた者達が驚いている。その驚きは虹美と彼らが共有するものだ。


「ねえ!」猫を呼ぼうとし、名を知らない事に気づく。「〈メデューサ〉は私達を助けてくれるの?!?」


「助かりたい意思があるならば」猫の返答には微笑めいている。


 黒蛇の群と吸血鬼の霧は牽制しあっていたが、まるでフェイントをかけた様、白い鞭が黒いディフェンスの隙を抜けた。


「跳んでっ!!」


 一気に躍りかかる白い触手群より早く青猫が叫び、虹美はその指示に身を預けていた。


 四階。空へ飛びだす制服の裾が風をはらむ。


 窓枠を蹴った跳躍は、影の様な巨艦表面に衝突する勢い。


 距離が足りない、と思った瞬間、幾本もの黒い蛇に身体を巻かれた。十数本がまとまって腰を支え、手足それぞれに数本ずつの補助がつく。優しい保持で艦へ運ばれる。


 近くで見て、なおさら震撼する。世界最大の巨獣、シロナガスクジラの倍以上の巨艦。


 間近の〈メデューサ〉も一面の影にしか見えなかった。


 光が届かない大穴に呑まれる恐怖を覚えた瞬間、眼前に銀の一点がともる。銀点は波紋の様に輪郭を拡大し、黒い艦の内殻を露出して、虹美の背より大きい真円の入り口となった。


 絞り状ハッチを開放した内殻は、虹美の知識にある現代宇宙船の趣き。虹美はそこに運ばれ、遅れて青猫も別の蛇に乗って運ばれてくる。絞り状ハッチが背後で閉まる。ラバーソールに、金属の床の感触。


「早く中枢へ。危険はないわ」


 青猫の先導で、小さなガイドライトが並ぶチューブ状通路を進む。床は平坦なので、速歩きでも転ぶ心配はない。


 一切の揺れ、振動を感じない。ドアも分岐もなく、すぐ艦体中央と思える空間に出た。


 ほのかな照明に浮かびあがる玄室。卵殻を縦分割して伏せた様な灰色のシェル空間は、天井中央まで2メートルほどしかない。


 中央には小さめのシートが前列二席、後列三席。各シートはさまざまな大きさの柔らかな六角型パーツで構成され、ヘッドレスト上にある大きな輪が最も奇妙だ。縁を天井に向けて起きあがったクロームシルバーの輪は、どんな頭も楽にくぐれるほど大きい。


「好きなのに座って。早く」


 青猫にうながされ、虹美は前列左に座る。自動で部位調整が始まり、シートが完璧にフィットする。ベルトの類はなく、バックレストが背と腰に吸着して、固定された。


「この船自体が〈メデューサ〉なのね?」


 隣席のアームレストに跳び乗った青猫に、虹美は訊ねる。この船を統制するAIが〈メデューサ〉という人格を持っているはず。SF知識だ。


「そうよ」青猫はそっけなく答えた。「けど、紹介は後よ。〈メデューサ〉! すぐ、ここから離脱してちょうだい!」


「話が違うわ!」虹美は驚く。「逃げるつもりはないわ。この船なら倒せるって……!」


 虹美の叫びは、ヘッドレスト内からの女の声に断ち切られる。


「敵からの〈邪視攻撃〉。離脱出来ないわ」


 ヘッドレスト内スピーカーから聞こえる声は、落ちついている割に幼い印象。この声が〈メデューサ〉だと認識する。


「妨害って?」呟く様に青猫が訊ねる。


「〈グレムリン効果・攻撃〉と〈マーフィー効果〉よ。外の怪物と地上の沢山の見物人のせいで大不調。ただでさえ大気圏って嫌なのに、演算効率がいちじるしく低下してる。このままだと落ちそうよ、わたし」


「どうにか逃げられない?」


「不調演算のせいで熱ノイズも増えて、排熱が追いつかない。気流計算もおぼつかなくなりそう」


「一旦、身を隠しなさいよ」


「〈キビシス・フィールド〉展開、エラー」


「成功するまでやりなさい」


「あの……」強い姉が指導する様、きびきびと続く会話。虹美は会話の隙をようやくとらえて口をはさむ。「邪視攻撃って?」


「その怪物や地上の目撃者の眼が〈メデューサ〉の性能に悪影響を及ぼしてるのよ」青猫は吐き捨てる様に言う。「特にあの怪物がもたらす〈グレムリン効果〉は深刻よ。ありとあらゆる物の調子が悪くなるのよ」


「……可能性を奪ってるという事?」


「そう、成功の可能性を奪うと言っていいわ。つまり失敗の可能性を拡大する。人は不幸にされるし、機械は不調を起こしやすくなる。複雑なほど、精緻なほどね」


「どうしてもフィールド展開しません」〈メデューサ〉の声がした。「演算効率ますます低下。状況改善されるまで復調の見込みなしよ」


「怪物を倒せば復調する?」いらだちを隠さない青猫。


「きっと。でも今の攻撃手段じゃ……」


「外殻反射率を上げて〈邪視攻撃〉を跳ね返しなさい」


「その手があったわね」


「気づきなさいよ。耳年増」


 虹美は、猫と船の会話に入れない。状況は雰囲気で知れる。しかし意味不明な単語が混じる会話には、完全に世界観になじめない自分を思いしらされる。


「反射、ほとんど効果なし」〈メデューサ〉の神妙な声。「通常のエネルギー攻撃ならともかく、〈虹眼〉の邪視は鏡効果だけでは跳ね返せないわ」


「……奥の手ね。邪視には邪視よ。もうそれしか方法がない」


「遅すぎるわ。もう浮いてるだけで手一杯。〈邪視攻撃〉に手を割いたら即時墜落。さようなら、わたし。短い人生だったわ」


「負荷最小で〈邪視攻撃〉出来るわ」青猫は、世界観の縁にかろうじてぶら下がる虹美へ眼を向けた。「この娘は〈渦眼〉よ」


「まだ卵でしょ」


「実戦で開花させる。どうせ、このままじゃ後はないわ」


「OK。あなたを信用するわ。〈邪視攻撃〉スタンバイ。全マニピュレータ、情報戦展開スタンバイ」


 疎外感を味わうままだった虹美はいきなりスポットライトを当てられたのに驚く。「ちょっと、どういう事!?」


「アナタがあの怪物教師を倒すのよ」猫は琥珀の瞳でさとす。「そのつもりでいたんでしょ?」


「そうだけど、どうやって……」


「〈メデューサ〉と合体するのよ。彼女の機能と一体になるの」



第三章


 合体という言葉のニュアンスにとまどった時、シートのヘッドレスト上にあったリングが、額の辺りにかぶさる様下がってきた。額中央の一点に温かみがともる。何か光を照射されているらしく首を振っても温度がついてくる。


『あなたが田村虹美ね。わたしはこの船、〈メデューサ・ゴーゴン〉よ』


 頭に直接聞こえた自己紹介はスピーカーからと同じ〈メデューサ〉の声。距離感はないが明瞭に聞こえる。


『ちゃんと同調出来てるでしょ? 言葉解るよね? シートについてるリングが助けてくれるけど、すぐにそれがなくても同調出来る様になるわ。思ってた通り、あなたとわたしはよく似てるし』


「えっと、何よ、これ?」脳に直接聞こえる言葉へ、虹美は声に出して答えた。「これが合体なの!?」


「違うわ。これはただのテレパシーよ」と青猫。


『もっとダイレクトに知りあえるやり方があるのよ』


「覚悟した方がいいわよ。〈メデューサ〉は覗きたがりだから」


 その声と同時、突然、虹美の頭の内側を誰かが覗きこんできた。


 本当に頭蓋を開けて覗きこまれたわけではないが、もっと生生しく脳をさらされ、その中にある自分自身という実質を舐めあげられて吟味される様な、そんな不快を味わう。


 景色が乱れる。準備のないそれは異物感をともなう精神的苦痛だった。しかしすぐなじみを覚え、親和が始まる。自分の意識もその浸透を伝って広い外へにじむ、そんな交感。


 感覚が自分を覗きこむ〈メデューサ〉の中に染みこむ。鏡面に触れて鏡像と融けあう。


 意識の爆発的拡張。裸で空中に放り投げられた感覚。


 互いの尾をくわえ、融けあう二匹の蛇。


 好奇心に似た、昂奮。


 もはや不快はない。今、虹美は少女であると同時に、流線型の宇宙船でもあった。その知識、機能も一部共有する。


「刺激が強すぎるかと思ったけど、順応性早いのね」


「さすが、わたし達とよく似てる」


 意地の悪そうな二人の笑いが、自分の何処かで聞こえる。


 視界が黄昏の光であふれている。


 国連宇宙軍所属の情報戦闘実験艦〈メデューサ・ゴーゴン〉は、艦表装全面が受動センサー群だ。性能は現代技術レベルとは比べ物にならず、神懸り的といっていい。リアルタイムで得る高密度情報は全方位に死角なく、あたかも身体全てが眼になったと同じで、音や匂いはないものの気流さえ見極められる臨場感がある。


 全方角を〈同時〉に見る、という初体験にめまいを覚え、すぐ気をもちなおす。〈メデューサ〉という機能拡張のおかげで自信とプライドに満ちあふれている。艦のほとんどを占める高性能推測コンピュータも虹美の世界観を広げていた。


 〈邪視攻撃〉の意味も理解出来ていた。


 風景に敵を捜す。


 オレンジの斜光に映える夕景の校舎、校庭。


 窓硝子がまばゆく反射する。


 初等部校舎。四階の窓辺で睨む虹色の輝きが禍禍しい。


 黄白んだ霧を厚くまとった吸血鬼は、その巨大な翼を教室から外へあふれださせていた。校舎を呑みこむ様、風に逆らって広がり続ける。


 とりまく霧は彼の身体であり、彼が世界を浸食している領域だ。


 艦を睨めつける邪視。虹色の眼の影響を、虹美は艦不調としてひしひし感じる。〈グレムリン効果〉だ。


 虹美は、自分が脱出したその教室の中に、駆けつけてきた教師三人が倒れているのを見つけた。霧に呑まれている。


 吸血鬼が笑い、霧の翼で羽ばたく。飛翔。層をなすほど濃い霧を両翼とし、怪物が艦に接近する。この艦ごと自分にとどめを刺すつもりでいる。


 怪物の為のステージの様な校庭。反射照明である窓が濃密に渦巻く霧に隠されて、空間は黄白む。


 空中に吸血鬼。


 眼下の校庭で、霧に呑まれた生徒達も次次倒れる。


 虹美の心に戦闘意欲が満ちた。


 外殻の反射率をゼロへ。〈メデューサ〉の鏡面状態だった表装を真の黒にする。来る情報は逃さない。


 邪視戦闘。渦巻く暗黒星雲の様に〈メデューサ〉が髪を振り乱す。装備された全ての蛇状マニピュレータがのび、届く限りの空間に広がる。


 宙の吸血鬼は即応し、〈メデューサ〉に対抗する量の霧触手をのばした。全てに黒蛇を迎え撃つ速度がある。


 邪視戦闘は一種の情報戦。


 情報収集自体が戦闘なのだ。


 黒蛇と霧触手は、周辺空間の占有域を奪いあう。


 勝つ為には、敵の理解を自分の理解が上回らなければならない。〈虹美=メデューサ〉はメタ演算に残エネルギーをつぎこんだ。


 黒蛇頭部の赤い眼はやはり受動センサー、本体のみならず無数の視覚器を持つ〈メデューサ〉は、それらが届くかぎりの視野を備える。同じ様に吸血鬼の霧触手も、本体に感覚を伝えるだろう。


 夕暮れの空で、黒と白の軌跡がなめらかな高速でもつれる。


 知的ゲームだ。マニピュレータは各自に知性を備えた高機動ミサイルの様、フォーメーションを組んで迫る。霧の触手も独自が生き物の様に敵側の動きを読んで迎え撃ち、互いに相手の動きを封じこめようとする。


 一見でたらめに見えるもつれあいは、先読みと即時対応とフェイントに満ちた高レベルのフォーメーションプレイ。超高速の戦術戦闘だった。


 〈虹美=メデューサ〉にとり、黒蛇という情報収集端末群は長い指先の様なもの。その指先にそれぞれ、眼がついている。


 今、虹美の状況認識能力は飛躍的に向上していた。


 敵の触手の動きが予想出来る。現在という視界からはみ出して過去と未来が同時に見えている。そんな感じだ。


 確固たる直感。虹美の無意識部分は〈メデューサ〉の機能によって強化されている。


 邪視戦闘。


 虹美が理解した邪視戦闘とは、撮影者とそれを避ける被写体の攻防、暴くものと隠すものとの陣取り合戦に似ていた。


 可能性を奪う戦い。未来を相手から奪いあう戦いだ。


 霧の吸血鬼。得体の知れないこの怪物は、得体の知れなさこそが武器であり、防御手段だった。


 吸血鬼は現実と非現実の狭間に、実体といえるものを備えていた。霧そのものこそを実体として襲ってくる。


 吸血鬼の周囲をたゆたう霧は、彼を都市伝説の怪物としている一つの世界であり、主人の吸血鬼に許認されないものはその境界を越える事は出来ない。


 狭間を強引に越えるにはそれをねじ伏せる確固たる意志が必要。


 相手を倒す、という意志。意思のある視線。


 それが邪視戦闘の要だ。


 無数の蛇が霧を見通そうとする。


 吸血鬼の本体は見えている。視線はあいまいな境界を越える力だ。蛇の赤い視線は物理的威力として吸血鬼の濃霧を切り裂く。敵が〈メデューサ〉に確実な不調をもたらしたのと同じに。


 眼に見えるものの理解。それこそが未知を武器とする怪物から力を奪い、自分の世界を切りひらく戦い。邪視戦闘。高性能推測コンピュータと情報収集を駆使した演算戦。


 視線同士の戦い。相手の自由度を奪う戦い。


 吸血鬼の虹色の眼の輝きと霧の蝕手が、こちらに襲いかかり、状況の占有優位を奪おうとする、マニピュレータを切りとろうとかかる。



 しかし黒蛇の視線は見る見る内に、膨大な霧を切り削っていく。


 切り削られる度、虹色の眼の輝きは鈍っていく。


 黄昏の空中にある吸血鬼の黄白んだ翼が削られ、分断された部分が世界の圧力に負け、蒸発する様に消滅する。


 虹美の優勢。


 虹美は己が手足に等しき黒蛇群の力を借り、敵の実態を物凄い速さで分析し、確定している。理解している。得体の知れなさを奪っている。


 メタ演算に排熱限界のタイムリミットがあっても、明らかに虹美の攻勢に分があった。


 ちぎられた触手が、蒸発していく。


 守勢にまわるしかない、その教師の性格は知っている。


 小心者なのに権威を保つのに躍起になり、自分を寛大だと信じ、それを誉める事を暗に要求する。


 弱い相手を狙い、弱みにつけこむ。その性格は嗜好癖にも顕れていた。


 虹美はどんどん敵を〈理解〉し、現場の情報を食う。食うほどに好調をおぼえ、歯止めが利かなくなるくらい好奇心は加速する。


 黒い蛇で斬撃の様に切り刻む。


 赤眼が霧を裂き、触手を分断する度、演算負荷が軽減される。心も充実する。快感だ。


 広がった視野と巨人化した意識。昂奮。


 妨害しようとする霧を巧みに回りこみ、黒蛇があらゆる方向から敵を切り刻む。スキャナは敵情報を集め、不確定域、プライバシーを削りとる。視界を補いあう蛇に死角はない。一瞬ごとに知識が増える。不明を突破して核心に近づく度、昂奮も増す。


 暴露が力を奪う。逃げ場所を失い続ける怪物は小さくなる。


 吸血鬼はついに翼をもがれた。


 音のない風景に断末魔もない。


 枯れた男は、無力な教師という形で四階の高さから墜落した。


 校庭に落ちて折れる。墜死。死滅したのだ。


 風景の霧はあとかたもなく晴れている。


 校庭で、余力のある生徒達が起きあがる。


 教師は動かない。一切を不明にする霧はもう彼の表面になく、姿も怪物でなく、虹美が知った限りの姑息な大人だ。彼が教師の死体以外の何かであるという潜在性は、全て虹美に奪われた。勝者に食われたのだ。


 校庭には下校という日常の途中で、吸血鬼と宇宙船の戦いという異常現実の衝突に巻きこまれた者達が大勢いた。見物人は教師の死体に群がり、畏れの顔で、頭上に浮かぶ黒い巨影と見くらべる。


 〈虹美=メデューサ〉は眼下を眺めた。


 征服感。勝者の愉悦もふくむ、猥雑な感情に支配されるのを自覚する。その危険な蜜にひたっていたいと願う自分も。


 黒蛇の群で黄昏の宙をかき乱す、暗黒の神像。


 今、自分は決闘に勝ったチャンピオンなのだ。


「戦闘終了よ」


 何処かで青猫の声が聞こえたのを、勝利の余韻と昂奮を感じながら虹美はぼんやりと意識する。


 黒い艦体は水平のまま、ゆっくりと少しだけ上昇する。


 学園校舎より高く、屋上で自分達に驚いている顔よりも高く。


「どう、〈メデューサ〉? これで転移出来る?」と青猫の声。


「OKよ」〈メデューサ〉の声は自分の意識と重なる。「状態復帰。ただちにこの世界を離れるわ」


 艦〈メデューサ〉は虹美には断りなく、いきなり新しい演算を開始。全て意のままだと思っていた虹美は、艦が突然、不随意動作をしたのに面食らう。


 〈メタ演算機動〉。〈メデューサ〉は蛇型マニピュレータを艦内に収納し、今いる〈世界〉の因果律の演算空間から〈自分〉を外した。シンクロナイズを解除したのだ。


 風景が全静止した。


 人も空気も、フィルムを止めた様に動きを凍りつかせる。


 瞬間、虹美の世界観がまた変容した。


 静止した光景は立体感を失い、印象がのっぺりとする。質量消失。情報戦闘実験艦である〈虹美=メデューサ〉が感じている世界からリアリティが失われる。外部の現実が現実に思えなくなり、メモリ空間の仮想情報と区別がつかない。


 夢が覚める様に、生きていた風景が壊れる。


 一瞬間以前が、虚構に思える。


 見下ろす夕景の町並み。凍りついたオレンジの光。時間流から切りはなされた浮き島となった艦周囲の風景が、光の砂絵の様に崩れ始めた。


 世界の溶変。


 空気もろとも色彩が分解し、これまで生きていた世界がキャンバス平面の騙し絵であったかの様、近景や遠景の印象と混じる。


 見慣れた校舎も街も、校庭の生徒も教師の死体も、巨大な夕陽も、金と紫の群雲も、見えない空気までも概念や要素を崩して、質感のない色のにじみへと変転し、剥きだしの色彩になる。


 色彩は全て、大小さまざまの渦を巻いた。


 輪郭のない虹色の渦を全方位に敷きつめた印象空間。


 大きな渦同士の隙間に小さな渦が無数にある。その隙間にもさらに小さな渦。律動は一様ではなく、独自回転するものや他からの影響だけで回るらしいものもある。


 今、〈虹美=メデューサ〉はどの渦にも同調しない、一つきりの完結した異世界。


 視点が遠ざかる様、無数の渦を敷きつめた世界はさらに微分化する。色彩はさらにきめこまかく多彩を顕わし、にじみ混ざりあって相殺が始まった。


 色彩の複雑は、むらのみが波うつ無彩色へと近づく。


 濁るともなくにじむ、白とも黒ともつかない灰色が、豊かな中間色の渦流として絡みあう世界。


 風景という情報は全て無彩の縞模様となった。止まず波うつ干渉縞の様なその隙間にはモアレの虹が幻想的色彩をちらつかせる。


 空も街も太陽も、全て灰色の渦流となった。


 虹美は深夜映画に観た、黒白の個室を思いだす。

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