第56話 ユーリル③

 ──パタン、と本を閉じた音に、私の意識は現実へ引き戻された。


「ねぇ、ユーリルも刺繍、してみない?」


 奥様の貴婦人講座を終えて昼食を済ませ次第、ライシャ様は庭の木陰で刺繍の図案決めに励んでいる。何でも、オルバート様にハンカチを贈りたいらしい。今は植物図鑑を開き、オルバート様に似合う花を探していたところだ。なお、進捗は芳しくない。ページをめくる度、あれもいい、これもいいと選択肢を増殖させている。


 ライシャ様の隣に腰を下ろして小説を読んでいた私は、本を閉じて悩む素振りをした。


「やってもいいですけど、処分に困るので」

「捨てるなんてもったいないよ!ユーリルもハンカチは使うでしょ?刺繍したら、自分の好きなハンカチになるよ」


 そう言われても、と私は思う。私物に目印を付けたら、いざというときに証拠品になってしまうかもしれない。ハンカチを落とすなどという能天気なミスはしないつもりだが、誰かに盗まれて小道具に使われる危険性もある。以前そういう仕事をしたことがあるので、これは実体験だ。


 先輩と異なり、私は界隈から完全に足を洗ったわけではない。縁を切るには、私は色々なところと繋がりを持ちすぎている。尤も、おかげで今もお世話になることができているわけだが。ジャウラット教授を救出する際も、その伝手から代わりの死体を買い取った。つくづく、先輩は私にもっと感謝するべきだと思う。


 私の反応が良くないことを察したのか、ライシャ様は思案げにその右手を顎に添えた。


「うーん……じゃあ、クッションカバーはどうかな?」

「勝手に変えていいんですか?」

「うん、伝えれば大丈夫だと思う。お義母様も、季節によってご自分で刺繍なさったものにされてるんだって」


 ライシャ様は奥様と親しい。嫁と姑は衝突が当たり前だと聞くが、幼い頃から親子として接していれば上手くいくものなのだろうか。今日の午前中も、奥様は公爵夫人の務めをライシャ様に指導しつつ、意地悪やいじめは一切しなかった。どうやら、奥様にとってはライシャ様がかわいくて仕方無いらしい。己が後妻の身であることもあり、微妙な立場であるライシャ様に庇護欲を抱いているのかもしれない。また、ライシャ様がウィスティア様のいい姉であることも好印象なのだろう。そろそろ結婚式の準備を始めるべきだという話になり、ウェディングドレスをどうするかについても花を咲かせていた。ライシャ様も奥様を母として慕っており、家族仲はすこぶる良好だ。


 それならいいかもしれないですね、と私は当たり障りない相槌を打った。どちらにせよライシャ様が刺繍に没頭している間はやることがないのだ、私も同じ作業をしてみるというのは悪くない。ただの暇潰しだから結果が今後に影響するわけでもなく、怪我の縫合の要領でやればさほど難しくもないだろう。どうにもつまづいたら、向いていなかったという結論にしてやめてしまえばいい。それに、ライシャ様と友人同士の真似事をするのは楽しい。


「リュードも、ハンカチじゃないほうがいいのかな?」

「いえ、先輩は大丈夫だと思います。先輩にも渡すんですか?」

「うん。リュードにもプレゼントしたいし、オルバートはリュードと一緒のほうが喜ぶから」


 にっこりと笑うその表情に、嫌味や嫉妬は見られない。先輩はとても愛されている。そのくせ命を投げ捨てようとしていたのだから、侍従長にみっちりと説教を受けたのも当然だ。

 ジャウラット教授の事件から、少し経って落ち着いた頃。先輩がクビにされるのではと心配した私は、説教の様子をドアの隙間から覗き見ていたわけだが、侍従長はわずかにその声を震わせていた。すっかりと見た目が変わってしまった部下に、少なからず衝撃を受けたのだろう。あの人は、先輩を息子のようにかわいがっている。奥様がライシャ様にするような甘やかすそれではないが、先輩のことを信頼しているし、心配している。説教の最後には主人を守りきったことを褒め、先輩の頭を撫でていた。私はそこで立ち去ったのでその後の展開は知らないものの、先輩も泣いていたように思う。


 庭の入り口から、オルバート様が姿を現した。その後ろにはもちろん先輩が付いており、二人でゆっくりとこちらに向かってくる。私は立ち上がり、図鑑と小説を回収してバスケットに入れた。ライシャ様が立ち上がったところで敷布も片づけ、邸内へ戻る準備を済ませる。

 真っ白な髪をしているので、先輩は目立つ。草原に舞い降りた雪のごとく、内に秘めたその特異性をいっそう際立たせている。


 ジャウラット教授の一件から距離を置くようにギアシュヴィール公爵邸に帰ってきて数日間、先輩は昼も夜も寝ている生活を送っていた。ジャウラット教授を頼るわけにはいかないので、ツーヴィア公爵を頼って魔族の医者を派遣してもらったところ、急激な魔力の吸収に体が追いつけていないのだと診断された。起きているかと思えば眠たげにあくびをし、食事を届けに来れば眠っている日々。オルバート様は言わずもがな、ライシャ様も私も不安で心が押し潰されそうな毎日を過ごした。大袈裟な成長期だと言われても、それが二度死にかけた人であれば笑って待つことなどできない。いや、先輩は子供の頃に燃えさかる炎の中へ飛び込んだそうだから、それを含めれば三度目か。そう考えると、先輩は死にたがっているとしか思えない。先輩が起きていると聞いた瞬間に勉強を放り投げて会いに行っていた、オルバート様の気持ちは私にも分かる。


「何をしてたんだ?」

「植物図鑑を読んでたよ、新しい刺繍は何にしようかと思って。オルバートは、好きな花はある?」

「そうだな……。花にはあまり詳しくないが、紫の花が好きだな」

「そうなの?……わ、私も、青色の花が好き」


 最初はただ意外そうな声を出したライシャ様であるものの、一拍置いてオルバート様の言葉の意味に気づいたのか、照れたように顔を俯かせた。返事を聞いたオルバート様は、満足げにライシャ様を見詰めている。私が目を向けた先の先輩の表情は、やはり柔らかい。

 はたと目が合い、私の心臓は音を立てた。


「何?」


 思わず、といったところなのだろうが、先輩は和やかな表情のまま私に尋ねた。無論、常人には判別できないほどの違いだ。普段通りの無表情と言われればそう見えるし、笑っているのだと訴えられたら嘘だと思う。しかし悲しいかな、私はその差異を認知できてしまう。観察眼には自信があるうえ、伊達にこの人と五年以上一緒にいない。そして、今の時期にその顔を向けられるのは良くなかった。


「……いえ、何でもないです」


 兄さん、と言いかけた私は、己の愚かさに内心で自嘲した。

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