(6)

 鳥居を抜け、外に飛び出した。


 進はそこが『神社前の道路』だと認識する余裕すらもなかった。

 かぶっていたバケットハットが落ちる。

 右にも左にも曲がらず、体を前傾させ、とにかく子供から逃げようと足を動かした。


 ほとんど車も通らない、片側一車線の、さほど大きくない道。

 その先は――


 大きく、深い水路。


 激しい降雨による視界不良のなか、目の前にあらわれた深淵。

 後戻りするにはもう手遅れだった。

 前に出した足はどこにも着地せず、闇へと沈んでいく、はずだった。


 しかしそこで、腹部をきつく締められた感覚がした。

 強く後ろに引き戻された、進の体。

 水路の脇を覆っていたシロツメクサの上に、尻餅をついた。


 何が起きたのかはわからない。

 起き上がりながら水路から離れ、後ろを見た。


「……!」


 そこで進は初めて気づいた。自分の腹部に巻かれていたのは、髪の毛だったのだ。

 男の子の頭から異様に長く伸びていたそれが、進の体から離れる。

 地面に着くことなく、ゆっくり戻っていった。


「きみは――」


 なぜか、彼の姿は雨に埋もれていない。

 すでにずぶ濡れの進とは対照的に、男の子は髪も、Tシャツも、ハーフパンツも、まったく濡れていないように見えた。

 もう間違いない。人間ではない。


「このタイミングなら、大丈夫そうですか」


 男の子はそう言って、少し笑ったように見えた。

 目がまた赤く光る。今度は、かなり強めに。しかし不思議なほどまぶしくなかった。


 そして彼の姿が変化していく。

 褐色の肌は白くなり、真っ黒だった髪はやや淡くなっていった。


「お久しぶりです」

「う、うわああっ!!」


 その顔、その姿。

 記憶のものよりも少し小さく、線がより細いようにも感じたが、間違いなく進が十二年前にここで会った子供のものだった。


 声も、記憶の中にあるものより落ち着いていて静かだった。しかしやはり、まぎれもなくあのときの子供のものだ。まるで豪雨の音を無視して通ってきているように、明瞭に聞こえた。


「あっ、まだ大丈夫じゃなかったですね。すみません」


 叫び声を上げながらまた後方に逃げようとしてしまった進に、ふたたび髪が伸びてくる。

 今度は腹部だけでなく、腰や胸までぐるぐる巻きとなった。


 そのまま、上方向に持ち上げられた。

 空中で半回転されて男の子のほうを向く形となった進は、逃れようと足をバタバタさせる。


「た、たっ、たすけて!」

「お兄さん、落ち着いてください」

「こ、ここに出る幽霊って、や、やっぱりき、きみのことだったのか! あのときのことをずっと恨んでいて! ぼ、僕を殺そうと!」

「……」

「も、申し訳なかった! あのときせっかくあいさつしてくれたのに、無視してしまって! ずっと気にはしてたんだ! 悪かったな、って!」


 ああ、やっぱりね。

 そんな言葉が、男の子の口から出た。


「恨んでいるなら、いまそのまま水路に落としていたはずです。そう思いませんか?」

「……。た、たしかに」


 進の肩から、少し力が抜けた。

 足のバタバタも止まる。


 すると、男の子は進を地面へ降ろした。

 巻かれていた髪もほどかれ、縮みながら男の子の頭へと引き上げていく。やがて進の記憶に近い長さにおさまった。


「あれから、十年以上は経ってますよね」

「じゅ、十二年、だね」

「お、そうでしたか。十二年間も恨み続けて復讐するためにここで待ち続けるって、お兄さんの中でオレはどれだけ執念深くて暇な設定になってたんです?」


 無視されたこと自体なんて、とっくの昔にどうでもよくなってますって。

 男の子はそう言って、笑った。


「じゃあどうして、今まで幽霊として、ここに」

「ずっと、気になっていたもので」

「えっ?」


 進が垂れかかっていた頭を上げる。

 目が合うと、男の子は一つうなずいた。


「あのあと、親に聞いたら『いきなり知らない人にあいさつされたら、普通はびっくりするよ』って。ああ、そういうものなのか、と思ったんです。でも、あのときはそれを知らなくて。無視されて悲しかったので、思いっきり顔に出てしまっていたはずです。

 お兄さんが平気で、すぐ忘れてくれていたらいいなと思いましたが……ずっと気に病んでいるんじゃないか? とも思ったんです。だから、もう一度会いたくて。会って、オレのほうは大丈夫ですからって伝えたくて」


 その様子だとやっぱり悪い予想のほうが当たっていたみたいですね、と男の子が苦笑いして頭をく。


「あ、そうそう。お兄さんオレが死んだのは知っていたみたいですけれども、死因までは聞いていないかもしれないですから、念のため言っておきます。熱中症でふらついてそこの水路に落ちて溺れたってだけの話ですよ。ちょっと体が弱かったもので」


 できれば柵をつけたほうがいいと思うんですけど、と彼は進の後方を指さした。

 振り返ると、問題の水路がくっきり見えている。

 進は気づいていなかったが、いつのまにか雨がやんでおり、明るくなっていた。ほんの数分の通り雨だったようだ。


 そして進が再度男の子を見ると、彼は深々と頭を下げてきた。


「長いあいだ不安にさせてしまって、すみませんでした」

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