第7話「束の間とご近所さん」

第7章



(母さん久しぶり。連絡できなくてごめん)


「送信っと………。ふう。」

 8月下旬の月曜日。

 時刻は午前9時を過ぎようとしている中、僕はベッドから起き上がることもせずに、スマホの画面をじっと見つめていた。

 数分間チャットアプリを開いたままにしていたが、返信が来ないことを確認してスマホをベッドサイドに置いた。

「実の母親なのに…。何なんだこの緊張感は。」

 先ほど未来に、「これから母さんに連絡する。」って言ったら、「焦らないでくださいね。」と、とても心配された。

 「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。」なんて大口をたたいていた自分は、きっとただの格好つけでしかなかったんだろう。


(メッセージ送ったー。)


(お疲れ様です。大丈夫ですか?)


(やっぱりドキドキしてる。)


(…そちらにお伺いしましょうか?)


(ううん、大丈夫だよ。ありがとう。)


(いえいえ、お礼を言われるようなことはしていませんよ。)


(いや、マジで助かったよ。メッセージ送った途端、すごい不安になったから。)


(そうですか…。私が言っていいことではないかもしれませんが、少し考えすぎではないでしょうか。今までお母様のほうからご連絡いただいていたのであれば、祥太郎さんからお返事が来れば嬉しいと思いますよ。)


(サンキュ。ベッドから起き上がる気力を、この会話でもらった気がする。)


(どれくらい横になっていたのですか?)


(記憶が正しければ2時間くらいかな。)


(うーん…。なんか凄く心配になっちゃいます。やっぱりご自宅に伺いたいです。)


(そうだなあ…。)


 少し心配をかけすぎてしまった。

 まあ、未来が来てくれるなら万々歳なのだが。


(あ、そういえば…。)


(どうしたの?)


(今日、私のマンションの消防設備の点検があるのを忘れていました。)


(それなら自宅にいないとだね。)


(すみません…。業者さん早く来てくれないかなー。)


(はははっ。たまにはチャットもいいんじゃない?)


(それもそうですね。なんか新鮮です。)


「よいしょっと。」


 ベッドから勢いよく起き上がって、顔を洗おうと洗面所へ行く。


(ねーねー、未来。)


(なんですか?)


(事件だと思わない?この形相。)


 そう言って鏡に映った自分の顔写真を、メッセージに添付して送った。

 昨晩から母さんにメッセージを送ろうと思っていたら殆ど寝付けなくて、その結果寝不足となり何とも酷い顔つきになってしまっている。


(すみません、とても不謹慎なんですけど…、可愛いですね。)


(ええ、本当に?なんで?)


(分からないですけど…、なんか心をくすぐられます。)


(…そういうもんか。)


(はいっ。)


 自分としては寝不足でだらしない顔にしか見えなかったのだが、どうやらこのような写真にも、需要はあったようだ。


(もっと見せて下さい。)


(嫌です。)


(むー、あ、それだったら…。)


 とても嫌な予感がした。


(今度ご自宅に伺ったときに、寝顔とってもいいですか?)


(それやったら出禁ね。)


(ええ、それは困ります…。すみませんでした。)


(冗談だよ。いつでも来ていいから。今度合鍵作っておくよ。)


(…いいんですか?)


(もちろん。)


(嬉しいです、ありがとうございますっ!)


 少しだけ緊張がほぐれたので、朝ごはんを食べようと台所に行ったが、あったのは食パンとカップ麺だけ…。

「うーん…。」

 朝食だから軽めに済ませるのもいいが、なんか今の気持ち的には味気なかった。


(ご飯買ってくるわ。)


(いってらっしゃい。お気をつけてくださいね。)


 そう言って適当なスニーカーを履いて外に出ると、空はあいにくの曇天で数時間後に雨が降ってもおかしくないような状態だった。


 一人暮らしをしていると、近所にコンビニがあるのはとてもありがたい。

 夜遅くにお腹が空いた時にもよく利用させてもらっている。

「ん、なんだこれ?」

 道中の歩道上に何か落ちていた。

「…学生証か。」

 これもまた近所の話になるが、自宅からコンビニよりも近い位置に中学校がある。

「仕方ない。」

 そこの中学校の生徒証だったので、どうせ近所だからと思って中学校まで届けにこうと思った。

 しかしよくよく見てみると、

「ん、あれ?この住所って…。」

 偶然というかなんというか、僕と同じアパートに住んでいる人のものだった。

 それならば夏休み期間中ということも考えると、学校に届けるよりも自宅の郵便受けにでも入れたほうがいいだろうと思い、その学生証をポケットに入れてコンビニへと向かった。

 

 冷気たっぷりの店内のレイアウトは知り尽くしているので、慣れた足取りで総菜コーナーへと向かう。

 何を買うか決めてなかったので、とりあえず目についた商品…、油淋鶏とハンバーグ、それにイタリアンサラダという謎の組み合わせをチョイスして、ついでにご飯を炊くのをサボりたいと考え、パックご飯も手に取って会計を済ませた。


 外に出ると、曇天とはいっても8月の暑さは健在で、とても蒸し暑い。

 涼んだ後だから尚更そう感じるのだろうが、とりあえず早く帰ろうと自宅へ急いだ。

「あ、そうだ学生証。忘れないようにしないと。」

 それにしても、学校まで徒歩数分とはなんとも羨ましい。

 僕の中学校は、自宅から徒歩で1時間くらいかかった。

 それでも住んでいた地域を考えると、そんなに遠すぎる距離ではないのかもしれないが、季節によってはかなりきつかった。

「公共交通機関万歳だわ、本当に。」

 またくだらないことを考えてしまったと少し後悔しながらアパートに戻ると、学生証を落としたであろう家の前に行って、表札を確認する。

「えっと…、坂本さん。うん、合ってるから大丈夫だ。」

 メモを添えようかと思ったが、行き過ぎた配慮は気持ちが悪いだろうと思って、学生証のみ新聞受けに入れることにした。

 集合住宅だから当然1階に郵便受けがあるので、初めはそっちに入れようとしたのだが、名前が書いていなかったので、玄関前まで来て確かめたというわけだ。

 とりあえず用事は済んだので、同じ階にある自分の家に入ろうと鍵を開けたその時、

「あっ。」

 横方向からの声に少し驚いて振り向くと、扉から女の子が顔をのぞかせて僕のことを見ていた。

「あー、えっと…。すぐそこの歩道に落ちてたよ、学生証。」

「ありがとうございます。お手数をおかけして申し訳ございませんでした。」

「いやいやいや、気にしないで。」

 まだ中学生なのに…、少なくとも僕よりは何倍もしっかりとした口調だった。

「それじゃあね。」

 特にこれ以上話すこともないだろうと思って、鍵を開けて入ろうとすると、

「あ、そうだ!少しだけ待ってください。」

 そう言って僕の返答を待たずに、何かを思いついたのか急いで部屋の中へと戻っていた。

「なんだ…?」

 理由がわからず立ち尽くしていると、エコバッグを持って玄関先に出てきた

「えっと、浦瀬さんですよね。昨日の夕ご飯少し作りすぎちゃって…。もしよろしければ…

 。」

「へ?」

 差し出されたエコバッグを受け取って中身を確認すると、小分けにされたタッパーが4つほど入っていた。

「料理が趣味なんですけど、ちょっと作りすぎちゃって…。和食なんですが、食べていただけませんか?」

「う、うん。ありがとう。気の利いた感想言えないかもしれなけど…。」

「全然大丈夫です。食べていただけるだけで嬉しいのでっ。」

「そっか…。分かった、ありがたくいただくね。」

「はいっ。よろしくお願いします。」

 「それじゃあまた後日。」と約束をして自分の部屋に戻った僕は、とりあえず自分で買ってきた食品を冷蔵庫に放り込んで、受け取ったエコバッグの中身を見てみた。

「うおっ、凄いな…。」

 タッパーに入っていたのは、豆腐ハンバーグ、筑前煮、ほうれん草の胡麻和え、アサリの炊き込みご飯だった。

 初対面の人にここまで立派な料理をいただくのは、嬉しいことは嬉しいのだが、「これ…、本当にいただいてよかったのか…?」と呟かずにいられなかった。

 しかしハンバーグだけで4つも入っていたので、少々別の疑問が生じてくるが…。


(未来ー。帰ってきた。)


(おかえりなさい。道中大丈夫でしたか?)


(もちろん。近くのコンビニ行っただけだから。)


(そうですか…。)


(どうかした?)


(いえ、少し帰宅が遅かったように感じたので、何かあったのかなって…。)


(ああー。ちょっと落とし物を拾って、届けに行ったからかな。)


(そうだったんですね。お疲れ様です。)


(ありがとう。)


 チャットで会話をしながら、ご飯一式を電子レンジで順番に温めていく。

「坂本さんのことはー、今後も話す機会があったらその時にでも言ってみるか。」

 ただのご近所さんを、わざわざ紹介するのも変な話だろうと思ったからだ。


「よし、できた。」

 部屋中に良い香りが広がっている。

「い、いただきます。」

 こっちに引っ越してきてから、未来以外の人が作った料理を初めて食べるからだろうか。

 自分の家で、さらに自分しかいない状況なのに、変な緊張感を解くことができない。

 とりあえず一番の主菜であろう豆腐ハンバーグを豆腐ハンバーグを食べてみた。

「…へえ。美味しいな。」

 率直な意見としては、美味しいの一言だった。

 他の人の料理と比較した考えは失礼だと思うので、簡潔にまとめると、未来の料理とは対局の美味しさというのが、適した表現な気がする。

 しっかりとした味付けで、家庭の味というよりはレストランなどの味付けに近いのかなと思った。

「…他の料理も美味しいな。」

 僕は薄味で舌が慣れているので、好みの味付けかと聞かれたら少し考えてしまうが、ご飯も含め他の料理も、とても美味しいと思う。


「ごちそうさまでした。」

 やはり…、というのは失礼かもしれないが、コンビニの総菜とは比べ物にならないくらいの満足感で満たされている。

「これはもう感想は決まったかな。」


(祥太郎さん。)


(ああ、ごめん。返信遅れた。)


(いえいえ、大丈夫です。今さっきまで業者さんが来ていたので。)


(てことは、用事は済んだのか。)


(はいっ。)


(お疲れ様。)


(えへへ。先ほどコンビニへ行かれたということは、今日のご飯は足りていますか?)


「うーん………。」

 これは言ったほうがいいのだろうかと、割と本気で悩んでしまう。

 ご近所さんといっても女の子で、しかも初対面なのにご飯をおすそ分けしてもらっている状況を、恋人に言わないでおくのはどうなのだろうか。

 ほんの少し考えたが、言うに越したことはないと思った。


(さっき学生証を届けたって言ったでしょ?その人が僕と同じ階の人で、多分そのお礼だと思うんだけど、ご飯をおすそ分けしてもらったんだ。)


(そうですか。それならよかったです。)


「あれ?」

 もう少し深く聞かれると思ったのだが、あっさりと受け入れてくれたようだ。

「なんだ。伝えるのが正解だったんだ。」

 そう思ったのだが…。


(とりあえず今からご自宅へ伺いますね。)


(え、なんで?)


(問答無用ですっ。すぐに伺います。)


 それからチャットは途切れてしまった。


「いやー、これは…地雷だったか?」

 話してしまったことを後悔したが、逆に考えると今言っておいてよかったともとれる。

「とりあえず片づけるか。」

 昼食の分は一通り食べ終えたので、夕食用に残したものを冷蔵庫にしまった。

「まあ、やることといったらこれだけだよな。」

 コーヒーでも淹れて待とうと思って、台所に置いてあるコーヒー豆をブレンドしているとき、チャイムが鳴った。

「え、はやっ!」

 少しびっくりして急いでドアを開けると、息を切らしながら立っている未来がいた。

「失礼しますっ。」

 僕のことなんてお構いなしに靴を脱いで部屋に入った未来は、開口一番…、

「知らない匂いがします。」

 そう言って、冷蔵庫の中を確認した。

「ごれですか…。」

 タッパーを凝視して、何やらブツブツと呟いている。

「ちょっと落ち着いて。どうしたの?」

 正直なところ未来の気持ちは察しているが、ここまでとは思わなかったので、今の未来は少し怖い。

 先の一件のせいで思い出しづらくなってしまったが、上京する前はこういうことは日常茶飯事だった。

 「これ、昨日の余り物だけどよかったら…。」とか、そういう交流は家族ぐるみであったから、てっきり未来の地元でもこういうことがあったと思っていたのだが、違ったのだろうか…。

「料理だったら私が作るのに…。」

「いや、これは僕が作ってって頼んだものじゃないから。未来が嫌な気分になるんだった

 ら、これからは受け取らないようにするよ。」

 すると未来は首を横に振って、無言で僕の言ったことを否定した。

「別にいいんです。ただ、祥太郎さんのお部屋がいつもと違う匂いになっていたので、ちょっとびっくりしちゃって。」

「なるほど…。」

「味見してみてもいいですか?」

「うん、それはもちろんいいけど…。」

 一番味が分かる主菜を、小さく切り分けて一口食べた未来の発した一言は、「美味しい。」という肯定的な感想だった。

「でも、味が濃い目ですね。」

 どうやら僕と同じ考えを持ったらしく、「他のお料理も食べてみていいですか?」と聞いてきたので、残りのタッパーを差し出した。

 上品な手つきで食べている未来を見ていると、とても緊張してしまう。

「未来の料理とは正反対の味付けだな、とは感じたよ。」

「そうですね。」

 一通り食べ終えた未来は、静かに箸をおいて僕の考えに同感した。

「お料理屋さんで出てくるような味付けですね。」

 どうやら全く同じ感想を持ったようだ。

「でも、美味しいですね。このタッパーは後日お返しするんですか?」

「明日返そうかなって思ってる。感想聞きたそうだったし、早めのほうがいいかなって。」

「私も同席してもいいですか?」

「いい、けど…。」

 何となくこのような展開になることは予測していた。

 別に異論はないのだが…、違う議論が生まれそうな気がする。

 しかし未来だってそこは配慮してくれると思うし、深く考えることはやめた。


 てっきり今日も泊まっていくのかと思っていたのだが、「突然押しかけてしまったので…。」と言って帰っていった。

 付き合っている仲なんだからそんなこと気にしなくてもいいのにと思ったが、今日は強く引き留めることはやめた。


「ふうっ。」

 早めに風呂に入ってベッドに横になった僕は、深く息を吐いた。

 初めて…、というのは大げさかもしれないが、今までで一番未来の女性的な一面を垣間見た気がする。

 女性的という感覚をはき違えていたら非常に申し訳ないが、今日の未来の感情は嫉妬に起因するものだと思う。

 経験がある人だったら分かると思うが、男性の嫉妬ほど見苦しいものはないし、女性の嫉妬ほど難解なものはない、と僕は思っている。

 あくまで主観だが。

 今まで未来のことを俯瞰してみていた僕だけど、先のみなみの一件もあって、今だったら確信を持って言える。

 紛れもなく、僕も当事者なのだ。


 これ以上考えるのはドツボにはまると思って、夕食を食べることにした。

「…やっぱり美味しいよなぁ。」

 未来も同意してくれていたので、少なくとも僕の舌がバカだということは無いと思う。

「あー、せめて和食以外だったらなー…。」

 何度も言うが本当に美味しくて、これはこれで好きな味なのだ。

 ただこれを未来がいる前でどのように伝えたらいいのか、ここが一番難しい。

 美味しかった、という表現だけでは坂本さんに失礼だと思うが…

「ははは…、なんか今年は色々初めてなことが続くな。」

 嫌だというわけではないけれど、もう少しお手柔らかにしてほしいと思ってしまう。

「ごちそうさまでした。」・・

 それでも未来と出会えたことはよかったと思っているし、僕自身のことも含めて知らないことを知れたり、本来ならば関わることのできない世界にも関わることが出来たりと、楽しいと思っている自分がいるのも、また事実。

「人生って、本当に何が起こるかわからないんだな。」

 空になったタッパーを見つめながら、無意識にこんなことを呟いていた。


 そして今日の日付が変わるまで、母さんから返事が来ることはなかった。

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