005 一息と新たな問題

 おそらく鉄製であろう梯子を先に降りる俺。


 そこでふと思う。


 今上を見たら、夢香ちゃんの下着が見えるのではないかと。


 いや、そんな馬鹿なことをしている場合じゃない。


 そのまま上を見ること無く、俺は梯子を降りきった。


「まじかよ……」

「す、すごいですね……」


 梯子を降りた先には、潜水艦にあるような重厚な扉があり、その先に広々とした部屋が広がっている。


 観葉植物や、ソファーにテーブル。そして目を引くのは画面が六つもあるパソコンだった。


 他にも扉があり、部屋も複数あるみたいだ。


 秘密基地なのに、俺の住んでいるアパートより豪華じゃね?


 そんなことをつい思ってしまう。


「二人とも、そんなところでじっとしていないで、適当に寛いで?」

「あ、ああ」

「は、はい」


 俺と夢香ちゃんは、そう返事をして近くのソファーに対面で座る。


 鬱実って、実は金持ちの令嬢なのだろうか。


 そもそも俺は、鬱実がどこに住んでいるとか、両親はいったい何をしているかなど、何も知らない。


 逆に、俺の個人情報は筒抜けなんだが。


 ふと思い出すのは、鬱実と初めて会った時のこと。


 最初から、鬱実は俺のストーカーだった。


 三年前、まだ俺が中学二年生だった頃だ。


 ある日視線を感じて振り返ってみれば、十字路の角から顔を出して、こちらを覗いている少女がいた。


 俺はそれを何かの偶然だと思い、気にせずに日々を過ごす。


 だが何日経っても、その少女は俺の事をこっそり覗き込んでくる。


 それに対して、当時の俺は普通に恐怖した。


 鬱実の顔は昔から整っていたが、何かをするでもなく、無言でただこちらを見てくるというのは恐怖以外の何物でもない。


 だから俺は、勇気をふり絞って鬱実と接触することにした。


 しかし、何故か俺が近づくと逃げていく鬱実。


 それが何度も繰り返される。


 困った俺は、当時の友人に相談した。


 すると、「それ、普通にストーカーじゃね?」と言われ、ようやく俺はストーキングされていることを自覚し、改めて頭を悩ます。


 結局、その時は何も改善方法が思い浮かばず、時間だけが過ぎていく。


 そうして数週間ストーキングする鬱実と、接触しようと追いかける俺という構図が続いたある日、何の前触れもなく変化が訪れた。


「ねえ、あなた。あたしのこと好きなの?」

「は?」


 初めて向こうから俺の目の前まで近づいてきたかと思えば、第一声がそれだった。


 結局そこから会話をするようになり、紆余曲折あって、今の鬱実との関係になっている。


 ほんと、最初の出会いからどうしてこうなった?


 元々ストーカーだったが、そこから変態要素も加わり、酷い進化を遂げた存在こそ、今の鬱実だ。


 俺は過去を思い出し、どこか遠い目をした。


「凛也先輩、大丈夫ですか?」

「ん? ああ、大丈夫だ。少し疲れてな」

「そ、そうですよね。こんなことになっちゃって、疲れますよね」

「そうだな……」


 改めて落ち着ける場所に来たということもあり、本当に疲れが押し寄せてくる。


 一体これから、この世界はどうなるのだろうか……。


「凛也君。はい、お茶。夢香ちゃんもどうぞ?」

「ああ、助かる」

「ありがとうございます」


 急須きゅうす湯呑ゆのみをお盆に載せて現れた鬱実は、そう言ってお茶を入れてくれた。


 そして、当たり前のように俺の隣に座る。


 まあ、今更それくらいどうでもいいか。


 どこか感覚が麻痺しているのか、俺はそう思った。


 しかし、慣れていない夢香ちゃんは違う。


「う、鬱実先輩! こ、こっちに座ってはどうでしょうか!」

「ん? あたしはここでいいわ」


 鬱実はニヤリと口角を上げると、何かを察して俺の腕に自身の腕を絡めた。鬱実の豊かな胸の感触が伝わってくる。


「なっ!? 鬱実先輩! ふしだらですよ! り、凛也先輩も! どうしてそんな平然何ですか!」

「そう言われてもなぁ……鬱実だし?」


 この手のセクハラは、数年間で慣れてしまった。


 更に言うと、これくらいはまだ軽い。


 酷い時には……思い出すのは止めておこう。


「そうね。あたしと凛也くんはラブラブなの。ごめんね?」

「ら、ラブッ!? ううぅぅ……」

「いや、勘違いしないでくれ。これは単に俺が一方的にセクハラを受けているだけだ」

「へ?」


 俺の言葉に、夢香ちゃんは目を白黒させる。


「これにラブラブ要素は皆無だ。OLが中年上司にセクハラを受けているのと似たようなものだ」

「り、凛也君があたしに辛辣ぅ!」

「という訳で離れろ!」

「ぶべっ!?」


 俺は腕に貼りついた鬱実を引きはがす。


「え、えっと……」

「ここではっきりさせておくけど、鬱実とはただのストーカー痴女とその被害者の関係だ。ちなみに当然、俺が被害者になる」

「そ、そうなんですか?」

「ああ、恋人でもなければ、恋愛感情もない。いいとこ友人ってとこだな」


 夢香ちゃんは、俺の回答に鳩が豆鉄砲を食ったような表情になる。


「あ、あたしは凛也君のこと愛しているよ? こんなに愛しているのに、あたしのこと好きじゃないの? 照れ隠しだよね? そうだよね?」


 まずい。これ以上は鬱実が面倒くさいことになる。


 以前スルーしたら、本当に面倒くさかった。


 場合によっては、命に係わる。


 しかしこうした場合の対処法を心得ているので、俺は即座に実行へと移す。


「あー、はいはい、照れ隠しだ。オレモアイシテイルゾ」

「も、もう。凛也君ったら、夢香ちゃんがいる前で大胆。あたしも愛してるわ」


 嘘とはいえ、それなりの抵抗感があった俺は、言葉が少しカタコトになる。


 だが鬱実は、それに満足していつも通りに戻った。


 はあ、これでしばらくは大丈夫だろう。


「……へ?」


 対して最早ついていけなくなった夢香ちゃんは、とうとうフリーズした。


 それから少しして、再び落ち着いた俺たち。


 夢香ちゃんもフリーズが解けて再起動している。


「あの、か、家族が心配なので、連絡してもいいですか?」

「ん? 俺はいいけど、鬱実、問題ないか?」

「問題ない。基地内からでもスマホは使えるから、連絡とっていいよ?」

「あ、ありがとうございます!」


 嬉しそうにお礼を言った夢香ちゃんは、スマホを取り出して家族の安否を確認し始めた。


 家族の安否か……俺の家族は、おそらく手遅れかもな……親戚との関係はそもそも皆無で、安否を確認するまでもない。


 だが一応、後で両親に連絡をするべきだろうか……。


 俺と両親の関係は少し特殊であり、兄妹はいない。


 それにどちらも人の多い場所で働いているので、助かる可能性は低いと考えていた。


 多少は心が動くが、夢香ちゃん程ではない。


「へっ? あ、あなた誰ですか!?」

『お姉ちゃんこそだぁれ? それはそうと、今暇かしら? 一緒に遊びましょ?』

「な、何を言って――ッ!?」


 夢香ちゃんが声を荒げようとした時だった。


 鬱実が夢香ちゃんからスマホを取り上げて、通話を切る。


「夢香ちゃん。残念だけど……」

「そ、そんな……」


 どうやら、今の通話相手は父親だったようだ。


 それが、幼い少女の声で返ってきた。


 つまり、夢香ちゃんの父親は噛まれた可能性が高い。


「な、なら、お母さんは……」


 鬱実からスマホを返してもらった夢香ちゃんは、続けて母親にも連絡を取る。


 しかし、結果は残酷にも同様だった。


「ひっく……お、お母さんまで……る、瑠璃香るりか、妹は……」


 最後に夢香ちゃんは、半分諦めた表情で妹に電話をかける。


 そして……。


『お、お姉ちゃん?』


 これは……その声に、一瞬嫌な考えが頭を過った。


「る、瑠璃香なの?」

『う、うん……るりだよ。お姉ちゃんは、お姉ちゃんだよね?』

「そ、そうだよ! 私は私のままだよ!」


 良かった。どうやら夢香ちゃんの妹はまだ噛まれていないらしい。


『うぅ……お、お姉ちゃん、た、助けて!』

「る、瑠理香! どうしたの! 今どこにいるの!」

『学校の、音楽準備室。み、皆女の子になっちゃって、る、るりはどうすれば……』

「待ってて、今お姉ちゃんが助けに行くから!」


 しかし、現状は窮地のようだった。


 夢香ちゃんは、妹の瑠理香ちゃんを助けに行くらしい。


 気持ちは理解できるが、実行するのは難しかった。


「待って、夢香ちゃんが行っても噛まれるだけだよ?」

「で、でも!」


 夢香ちゃん自身も、助けることが難しいことを理解している。


 だが、瑠理香ちゃんを助けないという選択肢は、無いようだ。


 これは……そういうことだろうな……。


 夢香ちゃんに瑠理香ちゃんを諦めさせるのは、難しい。


 かといって、夢香ちゃんを行かせるのは無謀だ。


 なら、答えは一つしかない。


 問答を繰り広げている二人に、俺は割って入る。


「俺が助けに行くよ」


 覚悟を決めて、そう口にした。

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