002 挑まれた勝負

「お姉ちゃんも往生際が悪いよ! でも、これでもうおしまい!」

「ひっ!?」


 一階に降りてくると、褐色の肌をした少女に馬乗りにされている女生徒が視界に入ってくる。


 あれは!?


岸辺きしべさん!」

「ひぅ!? ひょ、氷帝ひょうてい先輩!」


 俺をその忌まわしきあだ名で呼ぶのは、料理部で作ったクッキーなどを度々くれる後輩、岸辺夢香きしべゆめかだった。


 まずい。このままだと岸辺さんが噛まれる!


 馬乗りをしている褐色の少女は、先ほど俺を襲った少女とはまた違う見た目をしている。


 黒髪のショートヘアに、褐色肌。青い半ズボンと茶いズボンの組み合わせは、まるで元気いっぱいの少年のようにも見えた。


 しかし、中性的な見た目から女性へと変わる絶妙な年齢であり、少年ではなく少女だと確信を持って言える。


「あ! そこにいるのはお兄ちゃん!」

「えっ!?」

「な!?」


 どうやって岸辺さんから引き離そうかと考えていた直後、少女はあっさりとその場から離れた。


 更に瞬く間に俺の目の前に迫り、無邪気な笑みを浮かべる。その口元からは、鋭い八重歯がちらりと見えた。


 やられる。


 俺は再び死の恐怖を感じて、嫌な汗が頬からしたたり落ちた。


 だが、少女は微笑むだけで、一行に襲ってくる気配がない。


 なんだ? 噛みついてこないのか?


 俺がそう思った瞬間だった。


「ねえお兄ちゃん、僕と勝負しよう?」

「……勝負?」

「そう、勝負! 手押し相撲しようよ!」

「は?」


 唐突とうとつな物言いに、俺は戸惑いを隠せない。


 だが、少女は真剣そのものだ。断った場合、それこそ襲われそうだった。


 これは、受けるしかないのか?


 俺がそう悩んでいると、近くから声がかけられる。


「凛也君、その勝負受けた方がいいよ? 多分、逃げられないと思う」

「え? それはどういう……」


 勝負をするようにうながしてきたのは、後からやってきた鬱実だった。


 その傍らには、鬱実に手を借りて立ち上がった岸辺さんもいる。


 さっき馬乗りにされていたが、どうやら無事だったようだ。


「それでお兄ちゃん、僕と勝負してくれるの?」

「……わ、わかった。勝負しよう!」

「やった! 負けたら罰ゲームだからね!」

「へ!?」


 罰ゲーム? もしかして、負けたら噛まれるのか?


 勝負を引き受けたのは、早まったかもしれない。


 だが勝負すると言った以上、やっぱり止めるとは言えなかった。


「それじゃあ、先に足が動いた方が負けの三本勝負だよ!」

「あ、ああ」


 そう言って俺の目の前に立つ褐色の少女は、身長172cmの俺より小柄で、おそらく身長155cm前後だろう。


 普通に考えれば、男で身体能力の高い俺の方が有利なはずだ。


 しかし、何故か嫌な予感が拭えない。


 勝てるはずだ。いや、勝つ。勝たなければ、やられる。


 お互いに両手を前に出して、準備が完了した。


「それじゃあ、いくよ?」

「――ッ!?」


 褐色の少女はニヤリと笑うと、両手を前に突き出す。


 それはまるで、正拳突きのような一撃だった。


「お兄ちゃん、よわ~い」

「……え?」


 気が付けば尻もちをついている自分に、俺は唖然あぜんとする。


 全く動きが見えなかった。

 

「これで僕の一勝だね! 次勝ったら、お兄ちゃんの負けだよ?」

「くっ!」


 三本勝負は先に二勝されてしまうと、三回目を行わずにそこで終了だ。


 つまり、もう後がなかった。


 俺はゆっくりと立ち上がると、褐色の少女の前に立つ。


 負けるわけにはいかない。


「あ、あたしの凛也君が負けちゃう。負けたら、あの女にいやらしいことを……はぁ、はぁ」

「ふぇ!? な、何を言っているんですか!? と、といいますか、何で氷帝先輩はあんなに真剣なのでしょうか……?」


 負けたら実質死ぬかもしれないというのに、鬱実は相変わらずだった。


 そしてもしかしたら岸辺さんは、噛まれると少女になってしまうことを知らないのかもしれない。


「お兄ちゃん大丈夫? そろそろ始めようよ!」

「あ、ああ」


 思考が脱線した。勝負に集中しろ。


 速さでは勝てそうにない。なら……。


「行くよ!」

「こいッ!」


 勝負が始まると、案の定褐色の少女は速さを生かした先制攻撃を仕掛けてきた。


 なので俺は、手押し相撲では手の平以外に触れてはならない。このルールを逆手に取り、両手を頭上へと掲げた。


 背の低い褐色の少女は、当然届かない。 


「あれっ? ――」

 

 だがこれは一時的な避難にしかならず、このままでは勝つことはできなかった。


 隙をついて何とか……。


 そう思った時だった。


「――わわっ!?」

「な!?」


 褐色の少女が先制攻撃の勢いのまま前のめりになり、俺の腰あたりを抱きつくようにして体勢を崩す。


「ま、負けちゃったなぁ……スンスン……はぁはぁ」

「は?」


 勝ったのか? いや、それよりもこの距離はいろんな意味で不味い。


「あ、あの女! 凛也君の大事なところに顔をこすりつけて! く、くやしいぃ!!」

「えっ? もしかして匂いを嗅いでいるの? そ、そこって、氷帝先輩のおち……」


 案の定、近くで見ていた二人に気づかれてしまう。


「は、離れろ!」

「も、もうちょっと!」

「駄目だ! 離れてくれ!」

「ちぇ……」


 褐色の少女は不承不承といった感じで、俺の腰から離れていく。


 な、何はともあれ、これで一勝一敗だ。


 ここまで来たら、負けるわけにはいかない。


 俺と褐色の少女は、再び向かい合って両手を前に出す。


「それじゃあ、最後の勝負、行くよ?」

「こい!」


 そして勝負開始と共に、俺は先ほどと同じように両手を掲げた。


 だが当然、褐色の少女はそれにつられない。


「お兄ちゃん、それじゃあ勝負がつかないよ?」

「わ、わかっている」

「ほらほら、僕の手はここだよ~」

「くっ」


 煽るように、褐色の少女が小さな手を俺の前で振る。


 だがそれは、明らかな誘いだ。


 安易に手を出せば、返り討ちに遭うかもしれない。


 しかし、このままの状態も不味かった。


 忘れがちだが、この付近には褐色の少女以外にも、危険な少女がいる可能性が高い。


 時間をかければかけるほど、この場所にやってくる可能性が高まる。


 勝負に出なければ、結果的に負けたも同然だった。


 やるしかない。


 俺は、安易に出されている褐色の少女の手に向けて、突きを放つ。


「わわっ!?」


 俺の攻撃に慌てたように焦る褐色の少女。


 これは行ける! 


 そう思い勝ちを確信した俺だが、不意に嫌な予感がした。

 

「――ッ!?」

「なんちゃって?」


 小さな赤い舌をチロリと出すと、突き返すように褐色の少女の両手が繰り出される。


「うそ……だろ!?」


 まるで突風に下から煽られたように、俺は背後へと倒れた。


 それ以外、言葉が出ない。


 俺の負けだった。


 なんだよ……これ。


 まるで映画や小説のような世界になった。


 なら、もしかして自分は主人公なのではないか?


 どこかで、そう思っていたのかもしれない。


 高校に上がると共に捨ててきた中二病。それが再び顔を出していたのだろう。


 俺は、ただの一般人。主人公ではない。


 あっけない、最後だった……。


 尻もちをついて放心している俺に、褐色の少女が近づいてきて俺の膝の上に座る。


「僕の勝ちだね? それじゃあ、これは罰ゲームだからね!」


 そう言って俺の両肩を掴むと、褐色の少女の顔が迫ってくる。


 ああ、噛まれるのか……。


「り、凛也君!」

「氷帝先輩!!」


 二人の声が聞こえてくるが、どうしようもない。


 そして、褐色の少女の顔が頬まで近づくと、何か、温かくて柔らかい感触がした。


「え?」


 キス、された……のか?


 一瞬理解が及ばなかった。


「は、はい! 罰ゲームおしまい! つ、次はもっと過激なことしちゃうからね! バイバイ!」


 褐色の少女は顔を真っ赤にすると、飛び上がってそのままどこかに走っていく。


 その後ろ姿をボケっと見ていると、褐色の少女は光の粒子となって消えていった。


「た、助かった……」


 俺は場所をはばからず、背中を床につけて息を吐きだす。


「あ、あたしの凛也君がぁ……はぁはぁはぁ」

「う、うらやましい……」


 近くから何か聞こえてきたが、それを聞き取る余裕は俺にはなかった。

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