3 本祭をもりあげよう(3)

 女の裸をみたのは数週間ぶりだった。

 彼女と体を重ねるのは、あまりいい記憶ではない。それは一年前、彼女の自室に誘われたときから変らない。

 きちんと、そういう目的で女の裸をみたのは、彼女のものが最初だった。はじめてみた美折の体はお世辞にも綺麗とは言い難いものだった。アトピーで痒みが収まらないかのように、うなじや肘を掻きむしった爪痕がひどく残り、黄色い組織液の染み出した肉は化膿しかけていた。痛みに鈍い体質らしく、無意識に強く掻きすぎてしまうらしかった。

 体質の説明をしながらも、彼女は爪でかさぶたを引き千切った。皮膚が裂けても痒みは収まらないようで、血のにじんだ肉をネイルでほじくっていた。

「薬をつけた方がいい」と、ぼくは言う。

「私につける薬はない」と、彼女は言った。

 自傷行為を絶望的な気分で行っているわけじゃない。体の内側から押し上げるようで、窮屈なんだ。美折は自分の感覚をそう表現した。自分の体が狭苦しいから、皮を剥くことで少しでも開放感を得ようとしているのだとか。肉体の束縛から解き放たれたいのだと。

 彼女の身の上についてはある程度知っていた。家やお役目の重責が、彼女の閉塞感に繋がっていることは想像に難くない。実際に何度か家出の手助けをしたこともあった。だから、彼女がぼくに望んでいることもわかっていた。寄り添って心を満たすことでも、体を重ねて性欲を解消することでも、まして自傷の手伝いをして気分を慰めることでもない。

 ほんのちょっとの身近な破壊衝動。いろんなものを壊してしまいたくなる気持ちを手助けすること。ピアスもその延長で、その小さな満足感のために、体に開ける孔は増えていった。

「体は好きにしてもいいよ。壊したっていい。ちゃんと痛くしてね」

 鈍い彼女の体はいつだって傷だらけだった。

 ぼくの痕跡でいっぱいだった。

 だから、その首筋についたぼくの歯形をみたとき、我に返ったのだ。

 水垢離をする裸体からは性的な興奮よりも、懐かしさや愛着が匂う。彼女はウケ様なんかじゃない。妙な儀式で暗示をかけられているだけで、その体は美折のものだし、彼女の自我や記憶が消えてなくなってしまったわけじゃない。そう、役を演じさせられているだけなのだ。ウケ様という役を、この因習村という箱のなかで。

 だって、彼女の体は、ぼくのものじゃないか?

 ウケ様の役に入り込んだ美折は、煽情的に四肢を揺らす。

 泉の底まで潜り体をくねらせて泳ぐ。水中で体の曲線を撫で、自らを昂らせる。皮下脂肪の薄い肉体は、筋肉の伸縮をつぶさに教えてくれる。呼吸に合わせて浮き出るあばら。贅肉のないやせ形であるのに、女性的な胸や臀部にはしっかりと丸い肉付きがある。彼女の体は視る者に肉の味を想像させる。

「メインディッシュって、彼女を捌いて、村人たちで食べるってこと?」

 来馬に問いかけるために振り向くと、すでに幾人かの村人たちが集まり始めていた。

「飢饉で山を開いたはいいけれど、足りるはずがなかったんだ。干ばつと長雨で被害を受けていたのは、この山も例外じゃなかった。人間ってのは貪欲な生き物でさ、一時だけ飢えをしのげばいいってものじゃない。次の日になれば、また腹がすく。一度膨らんだ胃は一握りの食べ物じゃ満足できなくなってしまったんだ。なまじ食べ物を与えてしまったら、人々は飢えに耐えられなくなった。昨日飢えて死ぬはずだった人間が、一口の食糧で生き延びたせいで、次の日に必要な食べ物の量が増えてしまった。悲劇的な悪循環。だから、ウケ様はその身を呈して人々を救った。そして、村人たちは深い感謝と、彼女の味を忘れられずにいる」

 これまで常識的でいたはずの来馬が、はっきりと人間を食べると言葉にした。比喩でなく、人間の肉を食べるのだと。

 役だ。来馬もまた、因習村の設定に呑まれている。ロールプレイに溺れているのだ。このままだと本当に美折が食べられてしまいかねない。そんなこと許してたまるか。

 だって、美折はぼくだけのものだ!

「まさか、そのまま直にかぶりつくわけにはいかないだろ? どうするんだよ、こんな何もない所で」

 ぼくは話を合わせる振りで時間を稼ごうとする。彼女を連れて逃げなければ。しかし、周りは村人に囲まれているし、ここは不案内な見知らぬ山中だ。どうにか山を抜けて、置き去りにした車まで戻ることができれば、こんな村ともさよならできる。

 彼女をぼくだけのものにできる!

「大丈夫、ここでは禊をして、清めて捌くまで。精肉したら神輿に載せて公民館に戻るから。今頃公民館では調理と会食の準備をしているはずさ。神人供食ってこと。今日味わうのは本当の御馳走だよ」

 偽弐座と白井が大仰な解体道具をもって現れる。マグロを捌くのに使うような、刃渡りが50センチを越える包丁。一抱えある盃に、束にされた荒縄。

「神様の卸し切りにはやり方があって、地面につけちゃいけない。あそこの御神木に引っ掛けて、アンコウみたいに吊るし切りにする。血の一滴まで無駄にしないために大盃で受ける。刃を入れる回数が少ないほどいい捌き方だとされているんだ。あちこち切り刻むと味が落ちる、ってのは先祖代々の教え。まあ、料理にするときは、結局細切れにしちゃうんだけどな」

 何人かの村人が泉の水で包丁や盃を清めて、和紙で拭う。

 ウケ様こと美折は、泉からあがり濡れた髪を掻き上げる。

 村人たちから感嘆のため息が漏れた。なかには口をあけっぱなしに呆けたまま、涎を垂らす者もある。無数の視線にさらされても、美折は体を隠さず、裸体を惜しげもなくさらす。むしろ乳房や腹を撫であげて、彼らの欲望を煽りさえした。彼女は上手く演じているのだ。おいしそうな、活きのいい神の姿を。

 村人たちは飢餓に苦しんでいるわけではない。けれども、彼らは間違いなく飢えている。ぼくはそこにつけ入る隙をみつけた。

「調理されてしまったら、ひとり一口もあるか怪しいものだよな。皿によそう係のさじ加減だろ? 自分の皿にどのぐらいの肉片が入るかわからないんじゃ不公平だ。村人は全部で何人だ? 分ける肉はひとりしかないのに。今、ここにいる人間だけで食べてしまえば、ひとり二口……三口は肉を口いっぱいに頬張れる。満足とはいかないまでも、十分な量が食べられるじゃないかッ」

「岳人、急になにを――」

 一か八かの賭けだ。場が混乱すれば、美折を連れ出せるかもしれない。下卑た目線で、舐め回すように見つめるだけの連中から美折を助け出すことができる。いや、そうしなければならない。彼らはとても正気じゃない。現実とお芝居の区別もつかなくなっている。彼らはもう本気で人間を食べる気でいるにちがいない。そんなことはさせない。

 そうだ、美折を食べていいのは俺だけだ!

「お、おなかすいたッ……おなかがすいたぁ!」

 誰かの叫びが山に木霊した。その声は待ちわびていた村人たちに浸透していき、ざわめきとなって広がった。互いに目線を交わし合い、出方を伺っている。誰か一人でも抜け駆けしようとしたら。俺も腹いっぱい食べたいのに。一口じゃ足りるはずない。そんな感情が渦巻いているのが、手に取るようにわかる。

 そう、村人たちは我慢できない。限界ぎりぎりのおあずけ状態なのだ。彼らはこれから解体を見届け、神輿を運んで、料理が仕上がるまで待たねばならない。その末に回される配分は、肉一切れがあるかないか。今ここで裏切れば、伝統の儀式をないがしろにするかわりに、自分の欲望が満たされる。満足感だけは約束されているのだ。

 我慢と欲望のせめぎ合い。そこへ美折の体は挑発する。

 右の乳房を、その先端を摘み上げて持ち上げ、重力のままに落として跳ねさせる。おもちゃを弄ぶように、自分の体で手遊びする。体の若さ、瑞々しさ。視線を一点に集め、村人たちは喉を上下させた。

「て、てをあわせてッ、イ、イタダキマぁス!」

 最初の村人が飛び出した。するとすぐに、堰を切って村人たちが次々と飛び出していく。

 イタダキマス! イタダキマぁス!

 彼らは気もそぞろに手を合わせ、我先にと美折に迫る。来馬たち統率役の静止の声も聞かず、飢えを満たすため、一番うまい部位に噛みつくため、欲望に溺れるため、獣の群れが殺到する。秩序の枷を失った獣たちは、自分より先んじる者を掴み、蹴落とし、殴り倒す。爪で目を抉り、首筋に歯を立て、髪を引き千切る。男も女も関係なく、奇声と暴力と欲望が飛び交う。制御する者のいない、興奮し殺気だった猿の群れ。人語を失い、理性を落とし、ただ貪ることのみに狂う。

 いぃただきぃまぁす!

 いただぁきまぁあす!

 ぼくは怒号と混乱の最中を縫って美折に近づく。追いすがる村人を石で殴り、足を払って彼女の手首を掴んだ。

「逃げるよッ」

 ウケ様としてではなく、美折と呼びかけたことで、彼女の意識が一瞬だけ揺らいだ気がした。どうにか役から引き戻さないといけない。

 素っ裸の彼女を連れて駆けだす。幸いにも村人たちは互いに邪魔し合っている。

 木々の間をすり抜ける。頬を枝に引っかかれ、草履はすっぽ抜ける。足裏は突き出した岩に貫かれる。興奮が体を突き動かし、アドレナリンが痛みを掻き消した。足を止めるな。背後では村人たちの狂った奇声が追い掛けてくる。美折はどこか上の空で、締まりのない笑みのままぼくに手を引かれる。

 彼女の意識は定かでなく、夢現に正気と狂気の狭間を漂っている。彼女はどこまでも無防備だ。

 今なら、ぼくの好きにできる。

 斜面を転がるように下り、坂を上り、山を彷徨う。

 背後から聞こえる村人たちの声が遠くなり、ついには聞こえなくなった。

 偶然にも岩肌が削れてできた天然の洞穴をみつける。身を隠すには絶好の場所だ。ぼくたちの足は血まみれで、流石に一時の興奮だけで走り続けることができなくなった。

 ふたりの体を穴の中に押し込む。荒い息が岩壁に反響して耳を塞いだ。

「み、美折さん……平気ですか?」

 枯葉と土埃を払った彼女の体は傷だらけだった。裸で山を走り回ったのだ、無理もない。素足はぱっくりと裂け、転がった拍子に刺さった植物の棘が肌の至る所に刺さっている。ぼくはそれを、一本ずつ甲斐甲斐しく抜いていく。その間も彼女は一言も漏らさず、痛みに顔をしかめることもしない。

「よかった。足の怪我はひどいけど、血は止まっているみたいだ」

 よかった。二人っきりになれた。

 ここにはぼくらのほかには誰もいない。

 ここなら君を好きにできる。俺だけの君でいてくれる。

「……いいよ」

 彼女は血濡れた掌でぼくの頬をなでた。べったりと血が肌を濡らす。汗と混ざり合った彼女の血が唇に滴り、舌の上に染みこんでいった。

 俺だけの美折。

 俺だけの体。

 俺だけの肉。

「ごめんねぇ」

 ぼくの口から謝罪の言葉がこぼれた。

「独り占めして、ごめんねぇ」

 いただきまぁす。

 ぼくは誠心誠意、手を合わせて食べ物を拝んだ。

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