3 本祭をもりあげよう(1)

 明くる早朝。瑞上神社例祭は昨晩の渾沌とした乱痴気騒ぎとは打って変わって、厳かな行列から幕を開けた。

 目覚めは酷いものだった。割れるように痛む頭、焼かれたようにひりつく喉、異様な空腹と、辺りに漂う酸っぱい生臭さ。気分の悪さが体中にまとわりついていた。

 ぼくを含めた参列者の村人たちは、代わる代わる水路の水を盥で組み上げて、頭からぶちまけシャワーの代用にする。あらかた綺麗になった身体に、渡された白装束を身に着ける。これから滝行でもするかのような、あるいは死人になって棺桶に入る準備でも整えて居るかのような格好。

 来馬も白井も、だれも。何の説明もなく、無言のままに列をつくる。その先頭には神輿にのったウケ様が、村の青年団の前後左右四人ずつ、計十六人によって持ち上げられる。細かな彫刻に漆の塗装、四本のながえの上に屋形がのった形式で、屋根の頂上には金色の鳳凰の像が拵えてあった。誰も口を開かないので、ぼくと美折は顔を見合わせて列に加わる。口が開かれないことによって、かえってぼくたちは選択肢を失ったようにもおもえた。

 仏具の鈴のような、渋みのある響きを残す鉦の音を合図として、一歩また一歩と前進する。神輿を担いだ白い行列は、一路、山を目指して舗装された一本道を登って行く。

 差し込んできた日差しのなか、鉦と足音のほかには交わされない。りぃん、とも、こぉん、とも擬音化できる鉦の旋律に、重たく引き摺る足音がベースとなって追従する。白装束が並んでいるだけで陰鬱な雰囲気を醸し、死者の行列のようだった。これから三途の川を渡り、地獄へと連行される亡者の群れ。この行列からは、祭りの場らしいハレの印象を受けなかった。

 昨晩の記憶はぼんやりとして曖昧だ。思い出そうとしても頭痛が邪魔して上手くいかない。アルコールが尾を引いて、ぼくの頭を鈍くしていることだけはわかった。二日酔いの気分の悪さに加えて、空腹感で吐き気がぶり返しそうだった。ひどく吐いていた記憶だけはあって、そのせいで胃が空っぽなのだ。場の空気もさることながら、疲労困憊の体ではとても何かを考えたり、喋ったりする余裕を持てなかった。ただひたすら、村人たちに従って、足を運んでいくだけ。

 押し黙った行列はどれぐらい歩いただろうか。体感では一、二時間といった所で、山の入り口に到着する。ぼくはてっきり瑞上神社に向かうものだと思っていたが、途中で道から外れ、異なる方角へと向かいだした。

 一見すると道は藪によって遮られ、途切れているようだった。

 その仕掛けには強い既視感を覚える。それもそのはず、昨日村境にて、奥の院へと至る道を隠していた藪と同様のものだった。しかし、こちらはより巧妙に隠されてあり、周囲の風景と一体化してどこが入り口なのか見分けがつかない。一行はそこで足を止め、無言のときを過ごす。ぼくと美折は不安げな視線を交わし合う。

 だれも口を利かない。合図も出さない。

 人々が静まり返っても山々には気配が溢れている。鳥の羽ばたき。梢が揺れ、枝が弾け、水蒸気を吐き出す木々のざわめき。地を這う虫の、落ち葉の咀嚼。あらゆる生命が一体となって山の気配を醸成している。山は音に満ちて、静寂でなどいられない。

 村人たちは立ち止まって、山に耳を澄ませて、聴いているようであった。

 ぼくもそれに倣い、山の気配に耳を傾けていると、そのなかにかすかな流れを感じた。川というほどに太くなく、岩の割れ目から出るか細い湧き水が、空気に触れ、再び山肌に染みこんでいく。そんなわずかばかりの気配だ。

 先頭にいた村人が、水音を聴いて道をみつけたようだった。

 鉦が二回鳴らされ、神輿が地面へと降ろされる。

 村人たちの前に降り立ったウケ様が一同を見回して、唇を湿らせる。

「許す」

 彼女の号令で村人たちは歓喜に包まれた。老若男女区別なく、昨晩枯らした喉でしゃがれた歓声をあげ、なかには涙を流してむせぶ者すらいた。そして我先に、と山のなかへ、藪へと飛び込んで行く。おそらく聴こえた微かな水音を追い掛けて、山のなかへ分け入っていった。

 ぼくと美折は呆然とそれを見送るしかなかった。突然のことで事情も分からず、反応することができなかったのだ。外の人間が置いてきぼりなのは、この村にきた日常茶飯事となりつつあった。

 山には獣の鳴き声が木霊している。すっかり猿へと退化してしまった、人でなくなってしまった獣の鳴き声だ。

「飢饉が瑞尾村を襲ったとき、村人たちを飢えから救ったのは、瑞上神社の管理する山だったのさ。古くは山自体が御神体として信仰の対象とされていて、神職でさえも儀式以外での入山を禁じられるほど神聖視された山だった。でも、飢えに苦しむ人々を見かねて、当時ウケ様の依代として選ばれたひとが入山の禁を解くことを決断した」

 ウケ様のお付きとして残っていた来馬が、ぼくらにもわかるように祭祀の歴史を解説する。

「飢饉を経験した瑞上神社は、この山に隠し沢をつくって、非常時のための備えとすることにしたんだ。湧き水をせき止めて、人工的に小さな沢をいくつも作って岩魚を放流した。ほかにも食べられる実をつける木を植林したり。でも、時代が下るにつれて、社会や技術が発展すると沢に頼らなくてもやっていけるようになった。むしろ、管理する手間の方が厄介になるほどさ。適度に実を採らないとかえって山が荒れる。竹藪なんかもあるから収穫は必須。そこで例祭の日には入山を解禁して、山の恵みにあずかるという風に祭りの内容も変化していったんだ。ウケ様の恵みに対する感謝を忘れないように」

「ぼくたちが入っても?」

 食べ物がある。そう考えただけで、胃から酸が絞り出されてきたのがわかった。カラカラに乾いていたはずの臓物に、胃酸が満ちて内壁を溶かそうとする。糖分不足の頭は締め付けられる。空っぽで食べ物を要求する胃は刺すような痛みで主張する。

「勿論さ。恵みを受けて、感謝を返す。そういうお祭りなんだ」

 微かな水音を標にして藪をかき分ける。来馬が先導し、ウケ様が山に入る。ぼくと美折はそのあとをついていく。

 美折の顔色は悪い。旅の疲れと昨晩の騒ぎで、だいぶ消耗しているようだ。山の斜面で何度も足を取られている。ぼくは彼女に手を貸しつつ、なんとかおいて行かれないように道なき道を進んでいく。ただでさえ登りにくい山道を、白装束と草履という格好がさらに難儀なものにしていた。

 三十分ほど登っただろうか。往く手を阻むシダ植物や蔦がなくなり、急に目の前が開ける。自分の呼吸で聞こえなくなっていたけれど、いつの間にか水音が大きくなっている。閉め忘れた蛇口程度だった水勢が、飛び越える必要がある小川へと変化していた。小川を辿ると堰があり、澄んだ水溜りには白い影が横切っていた。

「遅かったやんか。あんたらも好きに食べてええんやで」

 ひと足先に楽しんでいた天王寺が、唇を濡らしてぼくらを歓迎する。辺りにいる村人たちは一心不乱に、樹や沢に向かって何かを貪っている。魚を捕まえて焼くだとか、切って下ごしらえするだとか、調理する様子は一切みられない。彼らは生のまま、新鮮な捕りたての肉にかぶりついていた。文化的なやり方をすっかり忘れてしまっているようだ。ぼくの空腹も、作法やら味やら好き嫌いに拘ることを忘れそうになるぐらいには限界が来ていた。

「食べるっていっても、野生のものを採って食べたことなんてないから。なにから手を付ければいいか。毒とか見分けつきませんし」

「ほな、これやるわ。食べてみぃ」

 天王寺から手渡されたのは掌大の果実に似たなにか。肌色の外皮に包まれ、膨らみを持った紡錘形。真ん中がぱっくりと割れて、赤い中身の果肉が覗いている。果肉はひだが層状に重なっており、割れ目からは白濁した液がとろりと零れていた。人肌に生暖かく、しっとりと湿っている。

「これはなにかの冗談?」

 ぼくは思わず、口元で笑ってしまった。いや、笑いを出すしかなかった。

 ぼくの手に載せられたのは、いわゆるアダルトグッズにしかみえなかったからだ。間違いなく食べ物なんかではない。奇妙なことに、『それ』は生きているかのように小さく蠕動していた。網焼きしている最中のアワビやホタテの貝ヒモが、熱で収縮していく様を思い浮かべてしまう。

「冗談って、なにがやねん? 見ての通りやんか、それは女陰や。隠し沢の食いモンゆうたら、ウケ様の体から生まれたもんしかあらへん。人体の見た目しとるんは当然やで」

「ジョイン……」

 言葉が入って来ず、頭の中でぐるぐると回っている。

 天王寺は食べ方をレクチャするべく、もうひとつのジョインを枝からもいだ。彼女のいうところのジョインは、木の実のように樹木の枝先に生っているものらしかった。

 彼女はジョインの割れ目に手を添えて、袋を裏返す要領で中身を押し出した。

 あぁ、確か、切れ目をいれたマンゴーの実がこんな形で飛び出すところを見たことがある。裏返された桃色の肉ひだは、外気に触れてびくりと収縮する。つつかれたイソギンチャクのように縮んで、徐々に元に戻ったら蠕動を再開する。彼女はその肉ひだを思いっきり口に含むと、ぶちぶちという小気味のいい音を漏らしながら歯で引き千切った。鮮度がいい証だ。

 くちゃり、くちゃり。行儀の悪い音の端から、泡立った赤い果汁が滴り落ちる。

 彼女は恍惚として、その味を噛み締める。目を瞑り、二度三度と体を震わせ、熱っぽい吐息を吐き出した。

「おいしぃ」

 関西弁のイントネーションも忘れて、美食に対する感嘆の声を漏らす。傍から見ていても、『それ』がどれほど美味しいのかが伝わってきた。言葉で飾った食レポなんかなくても、直感で理解できた。生物的に『それ』がどうしようもなく食い物であることをわからされた。

 唾をのむ。喉が鳴る。唾液が溢れる。

「食ったのか、それを?」

「うまいでぇ。食わず嫌いはアカンなぁ」

 ぼくは手のなかで震えるジョインに気圧された。今すぐにでも放り投げたい気持ちと、むしゃぶりつきたい空腹感がせめぎ合っていた。

 食うのか、これを。

 食いたいのか、ぼくは。

 握り締めた手のうちで『それ』は脈打っていた。

「大丈夫か? 食べたことないか、アケビ。確かにちょっと見た目はグロテスクだけど、味は普通に果物だぞ。歩きっぱなしで疲れただろうから、甘さが身に染みると思うけど」

 来馬が平気だぞと肩を叩く。彼も枝から『それ』をひとつもぐと、実を割って摘まんで口に放り込む。

「アケビ? いや、そんなはずは……」

 馬鹿にするなよ、アケビぐらいみたことある。これはどう見たって、そんなものじゃないだろう。そう思い再び手元に視線を落とすと、手にはアケビの実が握られていた。褪せた紫色の皮に、白いゼリー状の果肉が詰まった、どこからどうみてもアケビの実だ。

 自分の目と耳を疑った。眼を擦って再確認するなんて仕草、生まれて初めてした。

 ぼくは揶揄われたのか? 狐にでも摘ままれたのか? 幻覚でもみていたとしか思えない。

 『それ』ははじめからアケビだったとでもいうように、物静かに掌に収まっていた。蠕動もしなければ、赤い肉ひだもない。まして、女陰なんて人間の肉体の一部であるはずがない。

「そうだよな。アケビだよなぁ、どうみたって」

 腹が減った。

 ぼくはその実を剥いて、思いっきりむしゃぶりついた。行儀なんか気にせず、汁を垂らして。なにより空腹で余裕がなかった。

 口に含んだ瞬間に、干からびた体にじんわりと甘みが染みこんでいく。果汁がひりついた喉にしみることさえもありがたかった。味や歯ごたえで食べ物を感じるよりも、体が満ちていく実感として食べ物を感じたことははじめてだった。空腹は最高のエッセンスだというが、飢えることもない現代では体が乾くことなどない。芯から生き返える感覚なんて味わう機会もない。それも贅沢故の乏しさともいえるのだろうか。

 目を閉じて感じ入っていると、美折もまた果実の甘みで蕩けながら話して聞かせた。

「瑞上神社の祭神はオオゲツヒメ、あるいはウケモチノカミだそうね。かの神は食物の起源となった神話をもつ神様。ハイヌウェレ型の食物起源神話。お話のなかでは、殺された女神の体から食物が生まれる。オオゲツヒメは古事記のなかで、スサノオに殺されて。ウケモチノカミは日本書紀のなかで、ツクヨミに殺されて、その屍から食物を生み落とした。ウケ様はその化身なのでしょう?」

 目を開けると、果汁でべたつく手が視界に映った。

 ぼくの両手は、真っ赤に染まっていた。

 生臭く、甘い匂いがした。食い物の匂いだ。

「おいしいね」

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