2.雨の境界

 環は辺りを見回した。状況を把握する必要がある。

 様々な世界は重複して存在する。平行宇宙のようなもので、薄いオブラートが何枚も重なるように世界を分けて隔てている。その隙間には濃淡あるいは距離の隔たりが存在し、あまりに近すぎれば世界を越えたことに気がつかない。それがいわゆるデジャヴとかジャメヴといったものだと環は認識している。そしてあまりに世界が離れ過ぎると世界の様相は全く異なり、時には物理法則すらもずれが生じる。それがいわゆるあの世に紛れ込んだとかいったものだと認識している。

 とはいえこの中庭はそこまで離れてはいない。せいぜい数枚程度の世界差だろう。

 ここは環たちの住む現世の位相では廃校となっている。こんな山中にただぽつりと残されていることからも、既にこの廃校自体が現世から1つ2つは隔てた異界の先にあるのだろう。

 そしてこの青い人間のいる位相は座標上は同じ位置に存在しても、現世とは既にかなり隔たずれが生じていて、そのためここから現世を認識することはできない。

 その証拠に、昇降口に振り向いてもそこに校舎は存在せず、青々とした森がただぼんやりと広がっている、ように環には見えた。

「おい智樹。お前に校舎は見えるのか?」

「もちろん? 見えなきゃ帰れないじゃん」

「よかった。俺は見えない」

「えー? じゃあはぐれたら困るね」

 環はやはり自分が見えているものと智樹が見えているものにズレがあると認識した。

「戻るには戻れる。じゃあ認識をすり合わせるか」

「うん」


 環は懐からメモ用紙を取り出し、ペンですらすら文字を描く。

 9枚作り、それを木の周りの地面に等間隔に8枚置いた。

「木はこの範囲内でいい?」

「うん。だいたいそんな感じ」

「じゃぁお前が見えるその子の額に1枚貼って」

「う、うん。怒られたりしないかな」

「知らん」

 その紙は環の認識と少しずれた位置に、中空に浮いて止まった。そして木の拍動は早くなり、雨脚が急に強くなり、まるで嫌がるように眼の前の木にバラバラと雨粒が打ち付けられた。環の体に打ち付ける雨量も増加し、なんだかそれは環をこの世界に止めようとするようにベトベトと鬱陶しい。

「わ、わ、雨の音強くなった」

「智樹が見ているのは幽霊じゃなくて人なんだよな? 妖怪の類でもなくて」

「うん。青いけど人間、だと思う」

「俺にとっては青い時点で人じゃないんだけど」

「えっと、魂が人間、ぽい空気?」

「その紙は現世の紙で、現世のペンで字を書いたから、現世に繋がっている。だからこの人間には現世は苦しいのかもしれない。それでもいいのか?」

「う、うん。帰りたい、ぽい?」

 環は智樹の言葉に頷いて更に辺りを観察する。雨は降っているものの、地面に水たまりは発生していない。環に降る雨も膝程度までには達するが、それより下に至る前に乾いて消滅しているようだ。

「奇妙な雨だ。雨は幽霊、なのか」

 環は独りごち、懐から3センチ四方の容量の小瓶を2つ取り出し、その1つに土をわずかに採取する。


「何やってるの?」

「試料採取だよ。見分けをつけるのに必要なんだ」

 環はもう1つの小瓶を中空にかざして雨粒を集める。現世から持ってきた瓶だから、異界の雨を集められるだろうかと思いながら。

「よし、じゃあ校舎に戻るぞ」

「なんで?」

「この人間は世界の隙間に引っかかっているんだよ。俺たちの世界に居たこの人間と、この世界のこの木は性質が似ている、多分。それでたまたま同じ地点に同時に存在したからくっついたんじゃないかな」

「全然似てない。わけわかんない」

「外見はな。けれどもようは、これが神隠しだ。この人間と木と切り離す」

「りょ」

 環は智樹に説明することを無意味だと認識している。それに智樹も理解することを諦めている。

 こういうことは基礎知識がなければ話したってわからない。それに智樹も理屈を知りたいわけじゃない。ただ、その人間を何とかしたいだけなのだ。

 中庭と昇降口の間に存在する世界の境界を超えると環の視界は急に暗くなり、廃校の踊り場が現れた。その境目を確かめて、環は落ちていた木切れをその境界線上に置き、目印に文字を書き付けた。


「智樹。言っておくが、うまく行っても必ずしもお前の思い通りになるとは限らないぞ」

「わかってる」

「それならいい。このラインから昇降口側はほとんど現世だ。音の境界を探せ」

「音?」

「お前さっき、ここは音がしすぎてわからないって言ってただろ? 今もか」

「うん」

 環は耳をすましたが、境界を越えた以上、環の耳に雨音は既に聞こえなかった。

 けれども智樹の認識する青い人間の魂は、智樹の聞こえる雨音にこそ連動しているのだろう。おそらくこの大きくズレた位相の隙間に雨を降らし、その音が雨音として智樹の耳に届いているのだ。

 この世界を越える実態を伴わない雨、青い人間の涙こそが、智樹にとって幽霊なのかもしれない。

「音が途切れるところが境界だ。だからその境界に沿って世界を切断する。俺はここでは雨音は聞こえない。だから智樹が聞き分けて、俺がそこを切っていく」

「面倒くさそう」

 智樹は口をへの字に曲げた。

「本当に面倒くさいんだよ。嫌なら帰るぞ」

「ごめんごめん。でもそこかしこから聴こえてくるんだよ、本当に」

「じゃあ聞こえない車近くまで戻れば良い」

「そこまで遠くはないような?」

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