終章:序

第43話


「闘争の最中だぞ!?」


 とは、闇より出でし神のまがい物、ハデスの言葉である。


 浅いグレーのローブを羽織る頭蓋骨は、やや人間のそれとは違った様相をしている。額には角の骨が二つ、こめかみからヤギのような形状のものが生えていた。何らかの亜人種の骨であることは間違いないが、イコの知識にない種族だった。彼から暴風雨のように立ち上る黒い魔素は、平地を支配するハリケーンのように、その絶対的な力を示していた。


 ここは、名も無き迷宮の最終階層。アデルの住居の裏山にあたる場所の地下深くだ。灰色の大理石の床に、濃淡のある金色の小さなタイルを敷き詰めるように貼った天井と壁面は、ここの製作者の趣味の悪さを惜しげもなく解説していた。ハデスの背後には、大きな扉がもう一つあり、あれをくぐるとダンジョンコアに辿り着くことができる。最も、この場所に訪れたイコは、最奥には興味が無かった。


 もはやハデスにすら興味がないのか、今も大理石の床を机代わりに、バヘイラ魔導学院に提出する論文を執筆していた。タイトルには「立体駆動魔導陣における術式容量の削減方法とその複雑化」と書かれている。胡坐でレポートを見つめる様は、新聞の一面に載る野球の結果に納得していないどこかのオヤジのようだった。ストレスから、カツカツと床を羽ペンで叩き、モールス信号のような音を奏で続けている。


「片手間に論文を書いて何が悪いんだ?退屈なんだよ」


 世界を恐怖に陥れることも出来たであろう領域にいる魔生物に対して、適当にあしらうように手を振りながら答えた。イコの顔には、集中できないから黙れ!と、大きく書いてあるかのようだった。


「私を舐めるなぁぁぁ「槌槌雷撃弾幕(ツイツイ・サンダー・バラージ)」!!!」


 ハデスの右手から、幾重にも及ぶ雷が放射――されかけた瞬間、彼の右手にバチッと光が見えた段階で、魔術は発動せずにその幕を閉じた。完全無詠唱の魔術は、その

役割を果たさずに、日の目を浴びる前に帰宅してしまった。


「ありえない…こんなぁ…馬鹿げている…」


 ハデスの声は、苦しみや憎しみ以外の色を、何重にも重ねた塗料の下に隠しているかのようだった。


「…もう少し増殖力を抑えてもよさそうだ」


 と、イコは淡々と呟いた。論文8割、ハデス2割の割合で視線を交換しつつ、冷静に現状を分析している。


 イコの「魔喰増倍廻華プロトタイプ」には、大きな欠点があった。それは、余りに大きすぎる術式容量だった。通常であれば、マイクロスクロール一つにつき、36個の魔導陣を記憶することができる。しかし、この細菌魔導は36個全てのスロットを消費するに飽き足らず、二つ目のマイクロスクロールの全容量を消費しているのだ。元より、魔素の少ないイコが扱うには、消費魔素量軽減を最大限発揮できるような術式構造になる為、術式容量の増加傾向は否めないものの、マイクロスクロール二つという消費量は、イコの脳裏に怠惰による肥満体系のような感覚を与えていた。それに何より、両腕にマイクロスクロールを付けていると、変に注目を集めてしまうことも多かった。


「やめろぉぉぉぉぉぉおおおおお!!!」


 新たな構想にふけっていると、ハデスの叫び声がイコの意識を現実に戻した。視線をやれば、どうにもハデスの肉体までもが、細菌魔導により捕食され始めているようだった。どうやら、悪戯に発動し続けたハデスの魔術は、魔導細菌を増やす結果だけを招き、やがて彼の体すらも蝕み始めてしまったようだった。無論、イコが魔導を解除することはなかった。ここに来るまでに、使用用途不明瞭な人骨がいくつも転がっており、ハデスが人間を害する厄介な魔物であるという証明書の代わりになっていたからだ。


「まぁ、実験道具にしてきた人々に謝罪しながら死ぬんだな」


 と、イコは聞く耳すらも捨てた。そうして論文に視線を戻すも、ハデスの言葉が止まることはなかった。


「惜しいぃ…惜しいぃ…」


 その妙な呟きは、イコの論文に対する集中力を奪った。


「何を言ってるんだ?欲しい?何を?」

「これほど素晴らしい魔導を作れる生命に、終わりあることが…惜しいぃ」

「…あぁ、その「惜しい」…ね。くだらんな。命に限りが無ければ、人間は怠惰になるだけだ。…遠い未来を体験できるって利点は…あるかもしれんが」


 不意に、イコの心に影が落ちた。どんなに現世で魔導を極めても、未来にはその技術を凌駕する時代が来る。限りある生命には、可能性の「蓋」という側面もあった。


「私も、生命の終わりには敵わなかった。しかし、生命から離れることにより、ようやく生命を理解したのだ」


 と、ハデスは訳の分からないことを話し始めてしまった。イコは、間近に迫る死を恐れたハデスが、不死を取引材料に釈放を要求しているのかと思った。…見苦しいな、と心からハデスを見くびっていた。


「呪いをかけよう。私が呪うは、キサマではなく、キサマの生命である」


 ハデスは、何らかの黒いエネルギー体により、大気に文字を描き始めた。魔素が気体のような外見をしているのに対して、それは液体のように濃いものだった。


 …細菌魔導が吸収しない?あれは…魔素ではないのか?冷静に分析しつつも、魔素のない自分には、対抗手段が他にないことを理解していた。


「呪いは、念の強さによって可能性を広げる。私の生命に対する執着を全て込めよう」


 そうして呪紋を書き進める内に、ハデスの体は右手だけになってしまった。霧散していく体は、内包する魔素によって星のような輝きを放っていた。元々声帯のないウィッチ種の魔物は、首から上が無くなろうとも言葉を紡ぎ続けた。


「不死者は、死者とは対照的に、死を求めるようになるという。しかし、お前の行き先に死はない。不壊の生命を地上に縛りつけたのだからな。お前の形状は、もはや子供の絵程の価値しかなく、それを維持しようとすれば、地獄の苦しみを味わうことになるだろう。瞬間的な破壊よりも、瞬間的な再生の方が、肉体に甚大な被害をもたらすのだ」


 ハデスの指先がピクリと動くと、彼から呪紋は離れ、イコの胸元へと沈んでいった。鈍痛が走り、直ぐに服をめくるも、胸元には何の形跡もない。問いただそうとハデスに視線を戻すも、既にその場には光の粉しか残っていなかった。

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