第18話


「さてと、私はさっきの営業の報告書を作成するから、イコは…これを配ってから大口発注を手伝ってあげてね」


 営業の際、ハムサン社員から受け取った紙袋をラナはイコに託した。イコは紙袋から中身を取り出し、分配しやすいように包装を剥がすと、中には綺麗に区分けされ整列したクッキーが入っていた。クッキーには、それぞれチョコで文字が描かれている。共通言語ではなく、少なくともイコには読むことができなかった。


「これ、営業先の方から貰った」


 対面の席へ向かい、イコはミームとチェリアにクッキーを配った。


「あ、ありがとうございますです」

「どうも」


 二人は何枚かクッキーを受け取り、ティッシュの上にそれを並べた。配給が終わると、イコも自席へ戻りクッキーを一枚手に取った。


「あら、私にも頂戴な」


 一枚を確保したところで、箱ごとラナに奪われてしまった。これは上司と部下の間に発生した小さな搾取――ではなく、男女間で発生した搾取だろう。甘いものをこよなく愛するのは、決して女性だけではない。一人ぼっちになってしまった右手のクッキーを、イコは残念そうに眺めた。最後の一人だからとって容赦をする気もなく、優しく咥えてから、力強く咀嚼し始める。上品な甘みが口内を支配するのと同時に小麦の結合が解けた。


「あっ…美味い」


 自然に出た言葉だった。手に残る半欠けを見つめていめると、最後の別れが必然であるように思えた。イコがそう予感するのと同時に、デスクに居座るスタークと何故か目が合ってしまった。あれ?お前…飯は食わないって…と問いただしたくとも、人語を扱う魔物の希少さを、彼は十二分に理解していた。物言わぬ置物と化すスタークの持つ視線の意味合いは、イコの中で徐々に成長し始めていた。生前のアレイスター・クロウリーは、どれほどの食事をしてきたのだろう。果たしてクッキーの味は、太古より成長しているのか。会社員としてではなく、研究者としての彼の本能が追及を求めてしまった。そっと、スタークの体の近くにクッキーを置く。完璧に均衡のとれた二人の視線の噛み合いは、ここにきてようやく崩れた。スタークは、そっとクッキーの上に乗った。彼がどんな感想を口にするのか、イコは期待を込めて見つめていた。しかし、何故かイコの視界の中で、彼の解像度が著しく下がる。やがて、自分の顔面に机がどんどん近づいていることに気付く。更に数分後、意識が途切れる寸前にて、ようやく近づいているのが自分だと気づいた。



 明晰夢、そんな言葉がある。夢の中をまるで庭のように自意識のままに動き回る。それも、夢の中であることを理解しながら。イコは、普段通りの地下一階オフィスを観察しながらも、これが夢であることを明確に理解していた。あるはずのものがなく、ないはずのものがあり、いるべき人がおらず、いないべき人がいる。対となる四つの検証のもと、イコはこれが夢だと確信していた。眼前の机には、一人の女性が座っていた。そんな彼女に違和感を覚えるべきの、オフィスを支配する会社員たちは、この空間に存在しなかった。


「私が欲しい?」


 陶器のような質感の、ほどよく赤みがかった白い肌、ほんのりと肉を残したボディラインには、必要なところにだけ重点を置いて装飾が施されていた。そんなスーツ姿の、この世のものとは思えないほどに美しい女性は、胸元を大胆にはだけさせている。それこそ、あと数センチずらせば、誰もが真実を知りたがる迷宮入り事件の真相ですら、裸足で逃げ出しそうな景色を覗けそうだった。女性は、スーツスカートに手を伸ばすと、それをゆっくりと摘まみ上げて、太ももをあらわにしながら口を開いた。


「…私が欲しい?」

「別に」


 イコは即答した。彼女をしっかりとフレームに収めつつも、河原に落ちる一つの石が、他のどれとも差が無いように、何も感じず景色の一つとして彼女を観察していた。その視線が持つ意味を、女性も十二分に理解していた。唖然としながらイコを見返すも、そんな彼女を無視してイコは静かに立ち上がった。女性は目で彼を追いかけているだけだった。地下一階のオフィスには、一つだけ大きなホワイトボードがあり、そこには常にマイクロスクロール社の社訓や方針が書かれている。彼はそこに書かれた全てを無言で消すと、満足気に一つ頷いて笑みを零した。


「…可哀そうに、会社に不満があったのね。おいで、私が癒してあげる」


 女性は手を伸ばしてイコを招くように動かしていた。だがイコは見向きもせずに、文字通り完全なる白となったホワイトボードだけを一心に見つめていた。それこそ、まるで最愛の女性に向けるような眼だった。マーカーを一つ取り、それから白を黒により侵食し始める。暫く動き続けるペンを見つめていると、ようやく彼女はイコの目的を理解した。


「それは…魔導陣?」

「正解。…お前はサキュバスなんだろ?」

「…ッ!?」

「無言ってのは、時に優秀な回答者になりえる」


 イコは、描き終わった魔導陣に手を触れると、そこから紫がかった半透明の立方体を取り出した。普段のイコならば、この魔導を起動するのにも魔石を媒介にする必要がある。ここはサキュバスの造りだした淫夢内であり、彼女の作成したルールが全てに適用されてしまう。しかし、イコにとってそれが好天的に作用しており、彼女が作成したルールの中に魔素の制限はなかった。但し、摂理を超越できぬよう調律されているようで、根本的な理論を違えば魔導すら発動できない。そんななか、イコは完璧にミスなく魔導陣を構築している。これはイコが開発した魔導「探求者の遊技場(シーカー・ブース)」である。とある魔導陣を構築するのに、平面では情報量が足りず、立体にすることにより不足分を補完している。


「…それは、何をしているの?いいえ、一体何を作っているの?」

「立体駆動魔導陣。情報量を増やす為に、魔導陣を平面から立体にしているんだ」

「そんなの…聞いたことないわ」


 彼女が聞いたこともないのは当然で、最上級の「神級魔導」ですら平面で情報量を完結する。それは神よりも高次の段階に踏み入る禁断の魔導陣だった。紫色のブース内では、イコのイメージが次々と具現化されていた。線を描き、結び、繋ぎを繰り返し続けるその光景は、虫篭の中で蚕が繭を作り上げていくのに酷似していた。凄まじい情報量が、立体の中に内包されていく。線が停止した時、複雑な立体の情報は、女性の理解の外側からこちらを見ていた。その未知には、蚕の繭のような美しさがある。人の手の中で、人外の領域へと踏み入った球体は、不思議な魅力を纏っていた。羽化という進化を獲て、蚕が新たな姿をさらすように、今までの全ての魔導陣を過去にしようとしているようだった。


「…なに…それ」


 純粋な恐怖だった。彼の手が紡いだ魔導を見た瞬間、女性の全てを恐怖が支配してしまった。おおよそ、魔導により到達できる限界点、神級の越境、女性はその魔導を形容する言葉を持たなかった。すぐにでも逃げだすべきだと思った。この空間にいてはならない、これを見てはいけない。女性の精神状態が不安定になっていくのを追いかけるように、イコから見える世界の解像度が落ちていった。


「…あなたの相手をするべきじゃなかった。どうして誘惑(テンプテーション)が効かなかったのかだけが気がかりだけれど、この夢の世界はもう直ぐ崩壊してしまうわね」

「誘惑は、魔法の中でも呪術に近い。呪術は、より強い呪いに干渉され妨害される」

「…え?じゃぁ、既にあなたは呪わているってこと?」


 女性に質問されると、イコはとても神妙な顔つきになった。


「まぁな。少なくとも、お前のちんけな誘惑よりも上位の呪いみたいだな」

「くッ…呪い付きだったのね。猶更あなたはお断りよ」


 もはや近くの景色すら正確に捉えられなくなり、イコは両ひざを地面についた。


「じゃぁね、魔導開発に性的興奮を感じる変態さん」


 イコが淫夢から断絶される寸前、女性が手を振っていたように思えた。

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