8.君は母親
父の日のサプライズは『手作りケーキ』だけではなく、パパたちのための『セッション』も。しかも、いつもは唄い手である拓人が、今回は『ピアノ演奏』もすると言いだし、パパたちはまた仰天している。
ピアノを弾きたいと言いだしてから一ヶ月も経っていないので、初心者の拓人が完璧に弾けるわけもない。
そこで音大出身の母に相談したところ、拓人と母とふたりで『連弾』することとなった。
拓人がピアノの前に座る。
「た、拓人がピアノを弾くって、どういうこと?」
「どうしてピアノ……? いつのまにそんなことに?」
岳人パパと将馬のお父さんふたりが、贈られる側で楽しみであるはずなのに、息子が弾いたこともないピアノに向かって不安そうな顔を揃えている。
それがちょっとおかしくて。仕事を完璧にこなすエリート幹部さんなのに、息子のことになると心を乱してしまう館野三佐がおかしくて。寿々花もクラリネットを手に準備をしながら笑いを堪えていた。
アップライトピアノに、母の遥と拓人が並んで座る。
寿々花もピアノの傍らに立ち、クラリネットを構える。
拓人がダイニングにいるパパとおじちゃんへと声をかける。
「今日は唄えないけれど、三人でセッションします」
訳がわからないお父さんふたりが、とりあえずの拍手をしてくれ、でも固唾を飲んだ真顔でいる。
もう演奏する前から、そんなパパたちの顔に寿々花は真面目にクラリネットを吹けなくなりそうで、もう一度笑いをかみ殺し、なんとか息を整えた。
拓人が担当する音は伴奏の1音~3音のみ。指一本か二本で弾ける。遥ママのメロディーに合わせて、簡単にぽんぽんぽんとリズムを合わせて、狭い範囲の鍵盤を押すだけで済むように母が調整してくれた。
小学校から下校したら伊藤家へ向かい、そこで『遥ママとヨキの散歩に行く約束をしている』を名目に、在宅ワークをしている岳人パパの目を逸らしながら、練習をした。
寿々花も将馬も仕事をしているが、寿々花の音楽隊は土曜日曜にイベントで勤務になることが多いので、平日の代休日に三人で一緒に音合わせ。
拓人は割となんでも器用にこなせる子なので、すぐに覚えて形になったのだ。
出だしは母の単独イントロから。いままでは拓人が唄っていたメインメロディーは今回は寿々花が担当。母がメインメロディーを彩る伴奏を、同時に拓人がベース音となる伴奏を始める。
いつもの母の巧みなピアノ演奏に、かわいらしい拙い音が綺麗に重なる。音楽隊隊員である寿々花のクラリネット演奏で、伊藤家のリビングダイニングに、今日はなめらかなメロディーが奏でられる。
やがてメロディックなサビの部分で、ピアノもクラリネットも情感たっぷりな音調で盛り上がってくる中、拓人のベース音も乱れることなく美しい調和でついてきている。
パパたちはもう感動の笑顔を揃え、『拓人、すごい』と既に拍手をしてくれていた。これまたもう、ふたりそろって涙目なのか、交互に目元を拭っている。今日はもう、涙ぼろぼろなパパとお父さんコンビになっている。
演奏が終わると、ダイニングテーブルからは拍手喝采。
「凄い、拓人!! 音大卒のふたりの間で、拓人もプロみたいだったよ!!」
岳人パパの歓喜の声に、神経集中させて真顔ばっかりだった拓人も笑顔に戻る。椅子からひょいっと降りて、またテーブルに駆けていく。またパパと将馬おじちゃんの間へと戻っていった。
将馬も拓人が戻ってきて、感激の眼差しを注ぎ、男の子の黒髪を撫でた。
「唄もいいけれど、拓人がピアノを弾けるだなんて驚いた。ほんとうに遥ママと寿々花の音大卒親子の間にいても、ぜんぜん違和感なかったし、ピアノの連弾が出来るなんて凄いな!! またこの曲を聴くたびに、拓人からの気持ちを思い出せるよ。ありがとうな」
おじちゃんにも喜んでもらえて、拓人も満面の笑み。
これにてミッション終了、拓人のプレゼントがお父さんふたりに届いて、喜んでもらえて、手伝った寿々花も感無量だった。
拓人もパパをみて、おじちゃんをみて、二人の嬉しそうな笑顔に満足そうだった。
だがここでまた拓人が思わぬことを言いだした。
「パパ、あのね……。ぼく、ピアノ習いたい。遥ママみたいにピアノ弾けるようになりたい」
またもや、お父さんふたりが『え』と驚きの顔を揃えた。
いや。寿々花も『え!?』だった。
「唄で喜んでもらえたりするの、ぼくもすごく嬉しかった。楽しかった。結婚式の拍手、凄かった。将馬おじちゃんが、唄った曲を好きになってくれて嬉しかった。きっとすずちゃんのお仕事ってそういうことだよね。ぼくも、音楽でよろこばせたい」
え、えええ? パパでもなく、秘密のお父さんでもなく……。本来はまったく血の繋がりもない伊藤家の影響を受けちゃった!?
父の一憲も、母の遥も仰天していた。
---♬-♪--♫--
楽しい時間はあっという間。実家での父の日パーティーも終わり、寿々花は将馬と一緒に自宅マンションに帰宅する。
初夏の風が入るリビング、ソファーに座った将馬は笑みを湛えたまま、じっと外を見つめていた。今日の思わぬ感激を繰り返し噛みしめている姿なのだろうなと、寿々花にはそう見える。
スマートフォンを取り出すと、今日撮った動画に、ケーキの画像を何度も見ていた。その中には、神楽・小柳家でケーキ作りに奮闘している拓人の画像もある。寿々花がふたりのお父さんに送信してあげたものだった。
寿々花がかわいいと思って見守っていたクッキー作り。ほっぺに小麦粉を付けてふんふんと小さな身体で生地をこねている姿を何度も見ている。
寿々花もソファーの後ろから、嬉しい余韻にずっと浸っている夫の手元を覗いて、拓人が頑張っている動画を一緒に見つめる。
「よかったですね、三佐」
「ああ、こんな日が来るなんて思わなかったよ。これ、実家の父と母にも見せたいから送信していいかな」
「そうしてあげて。将馬さんがお父さんと知らなくても『お父さんと一緒。ありがとう。一緒にいて』と拓人君から伝えてくれたことを知ったら、お祖父ちゃんお祖母ちゃんとしても嬉しいと思うから。お義父さんもお義母さんも、本当の祖父母だとまだ名乗れなくて、かわいくてたまらないのにもどかしいでしょうしね」
やっと手元にやってきた初孫なのに『お祖父ちゃんだよ。お祖母ちゃんだよ』と名乗れなくて、札幌に会いに来てもたまにもどかしそうにしているお姿を何度も見ていた。『三佐のお父さんお母さんだから、同じように親切にしてくれている』と拓人は思っている。なにを受け取るにも、まずは岳人パパの様子を窺って許可を得てからお土産にプレゼントをいただく。きちんとしている拓人だからこそ、まだ素直に甘えられる存在ではないのだ。
それでもいい。会えないと思った孫、不憫な育ちになりそうだった孫を、なんとか取り返したと思っている義父母だったから、いまはそんな状態でも、会えれば楽しくすごそうと努めてくれている。
そのうちに、将馬が父とわかる時がくれば、親切にしてくれていた将馬おじちゃんのお父さんお母さんは、ぼくのお祖父ちゃんお祖母ちゃんだったと受け止めてくれる日も来るだろう。
ソファーの後ろ側で立って覗いている寿々花へと、将馬が見上げた。
「寿々花もありがとうな。秘密にするのは大変だっただろう」
「うん、ヒヤヒヤしていた。だって、怖い館野三佐を騙せるかどうか自信がなくて。すぐに様子がいつもと違うことを見抜かれちゃうんだもの」
「怖いって。まあ、部隊ではそうあるべきと思ってるけど。でもプライベートで神経質にしているのは、寿々花にも拓人にも、なにかあったら心配だからだよ」
「わかっています。すぐに気がついてくれて、大事にしてくれていること伝わっているから。私も……、たっくんも……。だから、一生懸命にケーキを作って、セッションの音合わせもしたのよ。たっくん、上手だったでしょう」
また嬉しそうな笑みを見せてくれると予想していた寿々花だったが、将馬が静かに眼差しを伏せ、またスマートフォンへと視線を落とした。
そこには、寿々花と母と拓人が映っていて、『赤いスイートピー』のメロディがかすかに流れてくる。
夫の眼差しがとても澄んでいて、なにかを深く包み込むように優しくなっている。それは駐屯地で勤務している館野三佐であるときは決して見せないものだった。
そんな彼の隣へと、寿々花もそっとソファーへと腰をかける。彼のそばに寄り添った。そのとたん、将馬も寿々花の腰へと腕を回して抱き寄せてくれる。そうしてくれると彼の身体の熱がすぐそばに感じられて、寿々花も彼の肩先に頭をもたげて寄りかかる。
ふたりでピアノを弾く拓人を一緒に眺める。
「ピアノを習いたいって言いだしてびっくりしたよ」
「そうだね。岳人パパも驚いていたね。でも、たっくんがやりたいならやらせたいと言っていたよね。将馬さんもそれでいいんでしょう」
「もちろん。息子がやりたいと自分から言いだしたんだ。岳人君が反対しないなら、俺も習わせていいと思っている。ピアノなら遥お義母さんの伝手で教室を紹介してくれそうだしね」
拓人が突然言い出して驚いていたお父さんふたりだったが、あの後真剣に『どうします』『拓人がそういうなら習わせよう』と話し合っていた。その気なら母が知り合いの教室に問い合わせてみるというところまで話が進んだのも本当のことだった。
「なんか。もっと先かなと思っていたんだ」
「もっと先?」
「拓人と寿々花が本当の意味で繋がることが」
それは『息子と義理の母として』ということを言っているのだとわかり、寿々花は驚き黙り込む。
確かに先のことだと寿々花も思っている。そして、それはとても丁寧に向き合わねばならぬデリケートな問題だから、急に持ち出されると寿々花は戸惑う。それでも将馬は続ける。
「思ったんだ。こうして家族になっていくのかもしれない。拓人は伊藤の家に包まれて初めて幸せを感じたんだと思う。勝手な価値観を押し付けていた鳴沢の生家じゃない。窮屈な価値観のあの家から岳人君と逃げ出して、伊藤家にやってきて、そこで初めて寿々花と遥ママに包まれて母性を知って。なによりも、寿々花……。君が育った音楽がいっぱいの部屋で拓人は自分を見つけたんじゃないかな。初めて自分からドキドキすることを知ったんじゃないかな。楽しい食事会の後に、遥お義母さんのピアノと、寿々花のクラリネットの演奏。よく考えたら音大卒の母子の生演奏なんて凄く贅沢だ。音の楽しさを知って、結婚式で大勢の人に喜んでもらえたこと、拓人にとっては自分を認めてもらえたいちばんの出来事だったんじゃないかな……。そこに、俺は、拓人と寿々花は血の繋がりはないけれど、音で強く結びついたと思えたんだよ」
「そうかな……。でもこれからピアノ以外にも興味を持つかもしれない。パパがしているデザインだって、お父さんの自衛隊の仕事だって」
「いや。俺は自分の仕事に誇りを持っているけれど、次世代の子供たちには背負わせたくないと思っている。もちろん、この仕事は警察や消防のようになくならないとは思う。それでもなりたいというなら、俺も応援をする。でも……自分で使命を負っていてなんだけれど、親心となると、心配になる仕事だよ。これから拓人がなにを選ぶかわからない。でも、自分がすることで人を幸せにしたい。それが拓人にはいまは音楽。そう思える感覚を与えてくれた寿々花と遥お義母さんに、俺は感謝をしたい」
目を瞑って淡々と語る夫は、ずっと笑みを絶やさなかった。
そして目を開けた彼が、寿々花をまっすぐに見つめて言い切ってくれる。
「寿々花も。まだ名乗れないけれど、拓人の母親だ。よろしく頼む」
「将馬さん……」
涙が溢れてきて、寿々花から彼に抱きついていた。
将馬も優しく抱き寄せてくれ、寿々花の黒髪にキスをしてくれる。
「君と結婚して良かった。俺も毎日が幸せだよ。君が拓人のそばにいてくれて感謝している」
寿々花の黒髪から額に新しいキスが押され、そこから鼻先に。最後にくちびるに重ねられた。いつものようにもっとその奥へと彼の唇を許しながら身体の力が抜けていく――。
彼の口の中、甘いクリームの味が残っていた。
父の日ミッションを終えてしばらくすると、拓人はピアノ教室に通い始めた。練習のために、母のピアノを触りに伊藤家を訪ねてくることも増えた。
短い蝦夷梅雨、リラ冷えの季節を抜けると、北国の空はさわやかな夏空になる。
とある日の昼休み。寿々花は司令部にいる夫へとスマートフォンからメッセージを送っておいた。
【重大なことが起きたので伝えたいことがあります。コンビニのそばで待っています】
【わかった。緊急の事態がなければ、行く。拓人のこと? なにかあった?】
【たっくんにも大変なことです】
【わかった】
拓人にも大変と言えば、余程のことがない限りすっ飛んでくると予測できた。部隊で勤務中にプライベートなことで呼び出しても滅多なことでは出てきてくれない副官さんだとわかっていたが、息子のことはいちばんに気にすることを利用してしまい、寿々花はちょっと気が咎めた。
でも。黙っていられない……。
駐屯地内コンビニの入り口で待っていると、いつもの冷たい表情に固めている夫が制服姿で現れた。
夫と妻だから見られてもなんら遠慮はいらない関係だけれど、夫が目の前まで辿り着く前に寿々花から先に移動をする。離れた距離を保って、夫が後を追ってくるのを肩越しに確認をして、寿々花は何食わぬ顔で先に進む。
いつか将馬に腕を掴まれて『なんのために司令部まで出向いてきたのか。お嬢様だからこそ注意をしてほしい』ときつく釘をさされたあの場所へと向かう。
人気のないそこで、冷たい顔の男に『噂など気にしない。悪く言われても敵わない。放っておいてほしい』とあしらわれた懐かしいあの場所だ。
人目を避けたその場に、寿々花が先に到着する。
あの日はうす暗い春の夕だったが、今日は夏の燦々とした陽射しが降り注いでいる。
人気のない通路で待っていると、後を追ってきた将馬が到着した。
「寿々花、どうかしたのか。拓人にも大変なこととはいったいなにがあったんだ」
息子のためならどんなことでも守り抜くという顔は、館野三佐が精神を研ぎ澄ましているときとおなじ。そんな強ばった気構えをしている。
夏の白いシャツに紺の肩章、紺のスラックス。爽やかな夏服になった夫だったが、部隊での眼差しは冷ややかで、寿々花は懐かし想いで彼を見上げた。
寿々花も白いシャツに紫紺のタイトスカートの制服。そのスカートの上に手を置いた。
「たっくんの、弟か妹がここにいるんだって」
将馬が目を瞠る。
「寿々花……それって……」
「あなたの、ふたりめの子です」
父の日ミッションを無事に終えて気が抜けたのか。
それからしばらくして寿々花は体調を崩し、気怠い日が続いた。母親代わりだからと根を詰めたせいだと思っていた。
最初に気がついたのは堂島陸曹だった。『自衛隊病院に行ってきなさい』と強く言われ送り出された。その結果がさきほどわかったところだった。
すぐに伝えたくて帰宅を待てずに、司令部にいる夫を呼び出してしまった。
『微笑まない男』の横顔はそのまま、いつもどおり冷たく固まってる。でも目元が一気に優しく緩んだ。
「拓人、また大騒ぎしそうだな。いや、陸将補もだな。……いや、俺の心が大騒ぎしてるよ」
今度は兄と次子で仲良い幸せを。
この子たちの幸せを、私たちが守っていくんですよ。お父さん。
寿々花も誓う。私から生まれるこの子と、この子の兄の母となって守っていく――。
いつか冷たく突き放されたここで。寿々花は『微笑まない男』と言われていた夫に抱きしめられていた。明るく陽射しの中、夏の緑の匂いがする風が入るそこで。
今度は『あなたたちの微笑み』を守っていくよ。
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