6.その微笑みを忘れないで

 食事を終えて彼がマンションへ、岳人パパと拓人は近所のマンションへと別れて帰宅。

 寿々花は、週末になるので彼宅で過ごすために、一緒に実家を出てきた。


 三日留守だった彼の自宅の窓を開けると、ここでもライラックの香りがかすかに風に乗って入ってくる。

 もう少ししたら……。あのアカシアの季節になる。あれからもう一年経とうとしている。


 制服を脱いだ彼がそのままシャワーを浴びに行った。

 寿々花はリビングのソファーで、入ってくる初夏の風を感じながらくつろいだ。


 目の前のシェルフに飾られている写真が増えている。

 初めてだっこをした時の写真、制服姿で手を繋いでいる写真。岳人パパと寿々花と一緒にトマムへスキー旅行に行った時の写真。将馬の実家がある静岡でご両親と初めて撮った親子三代の写真。どんどん増えていく。


 本州で桜が咲き始めた春先に、将馬の実家がある静岡へと結婚のご挨拶へと出向いた。

 その時に、拓人も連れて行った。


 岳人パパも付き添いで来たが、将馬の両親にとってはまだ許されぬ男かもしれないから訪問は遠慮すると、拓人だけ同伴させた。

 拓人は不思議そうだったが、パパはお仕事で用事があり少しだけ別行動だよと諭して、将馬と寿々花が手を繋いで連れて行く。

 館野の両親も緊張して待っていることだろう。一度も会えなかった初孫、二度と会えないと覚悟していた孫を、息子が連れて帰ってくるのだから。


 寿々花との婚約についてはすんなりと歓迎されたが、ご両親は初めて会った孫を一目見て泣き崩れていた。

 特に将馬の母親が『小さいころのあなたにそっくりじゃない』と――。


 わけがわからない拓人がおかまいなしにメロンを頬張っている姿を、ずっと愛おしそうに見つめているご両親。別れるころには、もうメロメロになっていて『近いうちに、陸将補にご挨拶もあるから札幌に会いに行く!』と張り切っていたほどだった。


 その時には岳人にも挨拶をしたいと、ご両親も受け入れる気持ちを見せてくれた。


 アカシアの香りがする自衛隊記念日。その時には、拓人のために集う新しいファミリー勢揃いの写真が増えるはずだ。


 彼が浴室から出てきた音がした。キッチンで水分補給をして、リビングに戻ってくる。

 汗ばんでいる上半身だけ素肌のままで現れ、バスタオルを肩にかけた姿で、ソファーにいる寿々花の隣に座り込んだ。片手には冷えたミネラルウォーターのペットボトルを持っている。

 短めにしている黒髪が濡れて艶やかになっている。そんな彼が寿々花の視線の先に気がつく。


「寿々花が言ったとおりに、増えてきたな」

「うん。あともう少ししたら、静岡のお父さんとお母さんと、札幌で暮らしている将馬さんと私たち皆が揃った写真が増えるんだろうなって」


 彼の眼差しがやさしく伏せられる。


「一年前の俺を覚えているか」

「うん。キリキリしていて怖かった」

「考えられないよ。一年後にこんなに変わっているだなんて――」


 私だってそうだよ。結婚できるなんて思っていなかった。寿々花もそう言いたい。


「陸将補のお嬢様として出会ったのではなくて。公園で犬を逃がしちゃっているお嬢さんとして出会って良かった。あれがなくては、寿々花のことを上官のお嬢様として拒絶していただろうし、伊藤家の手助けがなければ、拓人は引き取れなかったよ。寿々花に出会ったあの時がすべて……」


 感慨深そうに呟く彼の言葉に、寿々花もおなじ気持ちで頷いていたのだが。また彼がいきなり『クスッ』と笑い出す。


「違った。よっ君が逃げたからだ」

「ん? もしかして。お母さんが怪我をしてリードを換えなかったからかも?」

「となると? お母さんが凍結した道で転んで怪我をしたことから始まっているのか?」

「私と将馬さんが偶然、真駒内に転属になったこともだよ」

「だったら、すべてが運命だ。うん、もうそうしよう」

「そうだね。ほんと、すべて必要だったね」

「あの時から、よっ君を捕まえた時から始まっていたんだな。諦めていたんだ全部。夫になることも父親になることも。なのに、どうして一年後、俺の手元に来たのだろう……」


 そんなの決まっている。


「あなたが、人を愛せる人だったからだよ」

「寿々花……」


 感極まって潤んでいる男の目が寿々花を熱く見つめている。

 風呂上がりの男の匂いが、寿々花の心を捉える。彼の男らしい指先が寿々花の頬に触れる。

 夜風が静かに入ってくる中、お互いにそっと目を閉じて唇を重ねた。


 会えないとわかっている息子を、ただ血が繋がっているということだけで守ろうとしていたから。

 あなたは自衛官として向いている男なのだろう。心の底に誰にも負けない慈愛を秘めて、崇高な精神で人を守ろうと生きていける人。そんな人が愛を持っていないはずがない。


 薄い夏のワンピースを脱がされて、部屋の灯りを消して。奥にある彼のベッドで素肌を重ねる。

 きつく結ばれる互いの指先と、唇の奥で絡み合う舌先、夜が更けるごとにしっとりと汗ばんでいく肌を熱くして。何時間も冷めない交わりを彼と貪る。

 重ねるごとに、寿々花の気持ちも高まる。彼の妻になって、彼の大事なものを守っていくことを。甘く貪るだけで終わらせない。ずっと繋がっていられるように守るのは寿々花の役目にすると――。





 熱く貪った翌日は遅い朝を迎えるのも恒例。

 寿々花よりも気怠い様子で遅く起きるのも将馬のほうだった。


 それでも寿々花が揃えた休日の朝食の食卓へとぼうっとした様子でついてくれる。

 そんな気を抜きっぱなしの一尉を見られるのも私だけだなあと、寿々花は密かににやついてしまいそうになるが、毎週必死に堪えていた。


 寿々花が淹れたコーヒーを飲み始めると、徐々に彼が大人の彼に戻っていく。


「明日は拓人君と滝野すずらん公園に行くんだよね」

「うん。気候もよくなってきたからな。あそこならめいっぱい遊べるだろう」

「また陸自レンジャー根性でムキになって遊具を制覇しないように。たっ君ペースでお願いしますね。秘密のお父さん」

「はい。つい、頑張ってしまいます。気をつけます」


 ドライブもレジャーも、いまは岳人パパと一緒におでかけが当たり前になっている。

 岳人パパも初めての北海道生活で張り切っているので、男二人が張り切りすぎたら、寿々花がブレーキをかけるようになっていた。


「ところで。そろそろ寿々花と結婚式の準備をしようかと思っているから、式場とか希望があったら決めておいてくれな」

「ひとつ。もう決めていることがあります。一尉」

「……階級言うようなことなのか?」

「一尉のご子息に、リングボーイをしてほしいなって」


 リングボーイ。ピンとこない様子の彼に、寿々花はスマートフォンで『リングボーイ』の説明記事と画像を見せた。


「挙式の時に拓人にリングを持ってこさせるってこと!?」

「うん。お父さんと義理のお母さんが結婚する時、誓いの指輪を持ってきてくれたのよ――と。いつか教えてあげたいなって。私たちの天使ちゃんでしょ。また新しい写真にして飾りたいの」


 私たちの天使ちゃん。その言葉に将馬が微笑む。

 ずっとずっと。その微笑みを忘れないで。ここでは。寿々花は祈る。



 さらに一年後。

 紫紺の制服姿の冬季遊撃レンジャー教官の三等陸佐。

 ウェディングドレスの音楽隊三等陸曹。

 生意気スーツ姿の息子がリングピローを持った写真が増える。


 自衛官の制服を着たあなたは孤高で冷たいけれど。

 笑むあなたのそばにいる。ずっと。




◆笑みあなたのそばに *親権編*(終)◆



⇒ 次回より 第三部(最終章)ダブルファーザー編

父親が二人いる子育てが始まります

将馬はまだ父親とは名乗れず……

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