2.父の副官さん


 母に報告すると案の定、悲鳴に近い声を上げられ驚かれた。

 寿々花は怒られなかった。だが母は、そろそろリードを買い換えようと思っていたのに、足の怪我で先送りにしてた自分の管理の甘さを責めに責め、気落ちしたようだった。

 助けてくれたランニングの彼に会いたいとまで言いだした。でも通りがかりの人だったし、でも公園でランニングをしているぐらいだから、また会えるかもしれない。会えたら必ず母のお礼も伝えるし、できれば連絡先をきいておくと言って、寿々花は母をなだめた。


 朝食の時間。それを聞いた父も仰天していた。


「それはいかん! わかった、今日、仕事が終わったら父さんがリードを買ってくるからな」


 ダイニングテーブルで娘と妻と一緒に食事を始めた父が意気込む。

 父がそう言ってくれたので、母もやっと心が落ち着いたようだった。


「しかし、ヨキ。そんなに足が速かったのか」


 よっ君の本名は『ヨキ』。ただ単に母が『ヨーキー(ヨークシャーテリア)だから、よい子よき子のヨキ君ね』と名付けた。そのまま愛称が『よっ君』になってしまったのだ。


 父の足下そばにあるワンコお食事処で、ヨキもドッグフードをもぐもぐ食べている。父もヨキを可愛がっているので目を細めている。子供のころから強面な人だなと思っていたのに、最近は歳を取って丸くなったように寿々花には思えた。久しぶりの同居だから、余計にそう見える。


 兄が一人いるが、末子の寿々花が独り立ちをして母の子育ては終わった。そのあとの寂しさを埋めるかのように、数年前に迎え入れたのがヨキだった。夫婦ふたりだけになって、可愛がってきたこともわかっている。まあ、父も数年で定年だからねと心の中で呟き、様子が変わったことをそう納得させた。


「お母さんの散歩だとゆっくり歩くだけだから、若い寿々花が一緒に走ってくれて張り切っちゃったのかしら」

「うーむ、走る寿々花を追い抜き、ヨキに追いつくほどに走れる男か。うん、会ってみたいな」

「じゃあ、明日、お父さんも一緒に散歩に行くの?」

「いや、平日はやめておく。今度の休日だな」

「わかった」


 父もランニングの彼にお礼を言いたいそうだ。


「ふたりともそろそろ時間よ」


 母に促され、父とともに寿々花も急いで食事を終える。

 やはり、整った母の朝食を食べられるのは至福だった。実家住まいの利点、しばらくはご厄介になろうと寿々花はほくほくと朝食を終える。


 与えてくれた自室で寿々花は制服に着替える。

 白いシャツ、紫紺スラックスをはいて、紫紺のジャケットを羽織る。

 自室の姿見で寿々花は身なりを確認する。


 寿々花の仕事は、陸上自衛隊の音楽隊隊員。クラリネットを担当している。

 近所にある『陸上自衛隊真駒内駐屯地』にある『北部方面ほうめん隊音楽隊』への転属となった。

 前勤務地は香川県にある『陸上自衛隊善通寺ぜんつうじ駐屯地』。部隊内にある『第14音楽隊』の所属だった。


 温暖な瀬戸内の穏やかな気候につつまれて、二十代前半はそこでがむしゃらに自衛官として音楽演奏者として精進してきた。

 次はどこの勤務地かなと思ったら、生まれ故郷の札幌だった。


 父と母もいまそこに、母方祖父母が住んでいた一軒家で過ごしている。


 今日も紺の制服にきっりちと身なりを整え、楽譜を確認して鞄にしまう。

 部屋を出てリビングに入ると、父も支度を終えてドアそばにある姿見で身だしなみを確認中。

 父も同様、身なりには重々気をつけている。毎朝、そうしている父を見て寿々花も育ってきた。


「ふふ、お揃いの制服ね。こんな日が来るなんてね」


 父も同様に紫紺制服の装い、親子共々、陸上自衛官だった。


「寿々花は新しい勤務地で頑張ってください。お父さんも二年目の旅団長職務、新年度で頑張ってください」


「うむ、心得た。いってくる」

「いってまいります、お母さん」


 母へ向けて、父と一緒に敬礼をした。

 ヨキをだっこしている母が『やだ二人揃って真剣すぎ』と笑い出した。まるで母が隊長のようだと父とも笑った。

 だが、笑い話のようであって、笑い話でもない『威厳』を母が醸し出す。


「でも寿々花。父親とおなじ勤務地になったからこそ、気を引き締めて務めるのよ」

「わかっています」

「陸将補、旅団長の娘だからとて甘えてはいけません。わかっていますね」

「はい」


 陸将補を夫に持つ自衛官の妻である心得で、母は娘を諭す。そんな母と娘のやりとりに、父はちょっと困った顔をしていた。


「そこまで気負わなくてもな。気負いすぎて失敗されても困る」

「なんですか、お父さん。お父さんも娘だからと甘くしてはいけませんよ。隊員は見ていますからね!」


 目をつり上げて説く母に、父がおののいている。陸将補の父をたじだじにすることができる母は凄いなと、おなじ自衛官になったからこそ寿々花もおののく。

 自衛官となったいまでは、父であっても、駐屯地で遠くに見かければそこは強面の陸将補、旅団長、やすやす話しかけたり近づいたりなんてできるはずもない。

 父が当惑しているそこで、チャイムが鳴った。

 お迎えが来たようだった。


 寿々花も一緒に玄関へ向かう。

 新年度ということで、旅団長である父に属する副官と運転手を家族に紹介しておく名目で、今日は公務車で迎えに来てもらうことになっていた。


 母がインターホンに出る。


『おはようございます。お迎えにまいりました。館野です』

「おはようございます。ご苦労様です。少々おまちくださいね」


 父がリビングを出て玄関で靴を履き始める。

 寿々花も父の次に靴を履いて、玄関先で母とともに並んで父から紹介をしてもらう手はずになっていた。

 家族がみな玄関に集まったので、ヨキもついてきて、父が靴を履くそばでふんふん尻尾を振って見送ろうとしている。


 父が玄関を開けると、一歩下がった位置で敬礼をした男性がいた。


「おはようございます。伊藤陸将補」

「おはよう、館野一尉」


 制帽をかぶり紫紺の制服を着込んだ男性がビシッとした動作で、父が進むはずの道をあけるようにして右脇横へと向きを変え控えた。その時の姿勢、背筋がビシッと伸びてまっすぐ。さすが自衛官のたたずまいだった。


 制帽を目深にかぶっていたその人の前へと、母と寿々花も促され玄関先へと出た。


「今日から副官として着任した館野一尉だ」

館野たての将馬しょうまです。よろしくお願いいたします」


 きっちりとしたお辞儀も素晴らしいものだった。

 彼が頭をあげる前に、父が続けて妻と娘を紹介する。


「妻のはるかと、先日知らせた方面音楽隊へと転属となった娘の寿々花だ」


 彼が頭を上げ、制帽のひさしから上官のそばに控えている妻と娘へと視線を向ける。

 ほのかにとどめただけの笑みが口元にわずかに現れただけ。影になっていた目元に朝の陽射しが当たった。


「妻の遥です」

「娘の寿々花……」


 彼と目が合った。副官らしく生真面目に固めた表情だったが、彼の目も見開き、驚きがひろがったのがわかった。寿々花もだった。制服と制帽の出で立ちですぐに気がつかなかったが、その顔全体を見てやっと認識する。


「あ、今朝の――」

 ランニングの男性!

「え、ワンちゃんの――」


 父と母も館野一尉が心を乱したことを見抜いて顔を見合わせた。

 玄関で待っていても母が帰ってこないし、知らぬ客が来ていることでワンワンとヨキが吠えはじめる。

 彼がその玄関をそっと覗いた。


「まさか、よっ君……」


 新しい副官の彼から思わぬ言葉が出てきて、父と母もギョッとしていた。

 今朝、ヨキを捕まえてくれた恩人だとすぐにわかったようだ。

 犬好きの新しい上司とは。つまり、陸将補で旅団長の父のことだったらしい。

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