僕は拙い恋の始まりを紐解く

百門一新

第1話

 ここ数日、ずっと強い雨が降り続けている。


 それは、ほんの僅かな窪地や路肩にも水溜まりをつくるほどの大雨だった。大地を激しく叩く雨粒が、流れていく傘の上で弾けて、無数の雑音を作り上げている。


 彼はそれを耳にしながら、目的のカフェ店を目指した。


 先日と同じその店に行くと、自動ドアから中へと入った。予定がある訳でもなく、窓際の席に落ち着くと、珈琲を飲みながら退屈な長雨の光景を眺める。


 日差しの遮られた灰色の空の下、雨は多くの人々の悲しみを語るように降り続けている。通る人々は喪に服する参列者の如く、色彩を欠いた傘を広げて淡々と店の前を通り過ぎて行くかのようだった。ズボンの裾を濡らしながら歩く会社員達の傘の下の顔を想像しても、持て余した時間が早く過ぎてくれる事はない。


 平日のこの時間、いつもなら彼も、その多数の会社員の中の一人のはずだった。


 時刻は、既に午後の四時。取引先との慌ただしいやりとりや上司への報告書など、残業しないために頭をフル回転させて、苛々としながら時間と睨み合っている頃だ。


 ――だから、今の時間は彼にとって『非日常的』だった。


 こんなにゆっくりとした時間を過ごすのは、実に学生時代以来だと、彼は遅れながら気付いた。


 今年で二十八歳になった。先日、唐突に「休みが欲しい」と上司に相談した。嫌な反応をされるだろうなと構えていたものの、あっさりと許可をもらえた。しかも、有給休暇として消化してくれるらしい。


『君は、何かと働き詰めだからね。他の社員のように、きちんと長期休暇を取って欲しいとは思っていたんだよ。適当に一回ずつ休みを入れてもね、休めないものだよ。せっかくだから、溜まっている分の有給を少しは消化したほうがいい』


 簡単に休める立場ではなかったが、意外にも上司や先輩が協力を名乗り出てくれた。年齢の割に人生に若さや潤いがない、という一致団結した妙な同情の眼差しを寄越された。


 それは、彼には理解が出来ない事だった。


 けれど正直、休暇が取れた事は有り難かった。最近はぼんやりする事が増え、珍しく仕事に集中できない日が続いていた。これまで気にした事もなかったというのに、突如出てきた自分と繋がる出来事に、少なからず動揺もあったのかもしれない。


 癖のない髪。彫りある顔立ちながら、男性の平均身長を超える背丈。他の者に言わせるとやや明るいらしい目。陽に焼けても白いままの肌と、左目の下にある小さな二連のボクロ。


 そんな彼の容姿は、どれも母親とは似つかない特徴だった。


 彼の家は母子家庭で、母が言うには彼は父親似であるらしい。彼女が気に入っていたという目の下のホクロが、その男とは瓜二つだというのは何度か聞いた。


 ――名前しか知らなかったが、確かに自分には血を分け与えた『父親』がいる。


 詳細は知らないし、認知だってされていない。ただ子だけが欲しかった母の戯れに付き合うかのように、それを約束して丁寧に妊娠させてくれた男、と彼は認識している。


 幼少期の頃は、彼も父親の存在がない事に対して少なからず気にした事もあった。しかし、大人になってからは忘れていた。


 だからこそ、つい最近、新聞でその名を見つけて動揺した。


 何故、こんなにも動揺させられたのか分からない。同性同名かもしれないと思いながらも、彼は気付いた時には、すぐ実家にいる母親に連絡を取っていたのだ。


 あの日、母は訝しげに彼の話を聞いた後、手元の新聞を探って、まるで天気予報でも見たかのような口調でこう言った。


『ああ、確かに彼ね』


 たったそれだけだった。二、三度、顔を合わせた事のある古い知人の名前でも、そのような薄い反応をする人は少ないだろうと思われた。


 好きではなかったんですか? 本当に、ただの好奇心で……?


 よく分からない女性でもあった。昔から一緒にいる母親ではあるけれど、彼の知る限り、どこもかしこも美しく機械みたいに隙のない完璧な女性だった。


 だから、彼女らしい反応と解答であるとも思えた。彼女は、関心のある物事の優先順位に必ず自分を中心に据え、どことなく喜怒哀楽の着眼点がずれている感じもあった。母親として、美容会社の社長としても完璧であるけれど、息子の彼にさえ真意が見えず理解できない部分も多い。


『ねぇ、そんな事より、今度の食事だけれど紹介したいお店があるのよ。私の会社で働いていた増田君って人、いたでしょう? 料理の修業に出て、ようやくこっちでレストランをオープンさせたのですって。日程は追って連絡するから、ちゃんと空けておいてね。じゃあね、可愛い私の子』


 彼の父親に関する話題は、たったその一言だけで終わってしまった。


 ――だが、おかげで確証は得られた。


 彼の父親は死んだのである。新聞に乗っていた葬式の案内は、彼本人であった。


 一人の人間がいなくなっても、こうして世界は何事もなかったかのように進み続ける。彼自身に関わる生活にも、なんの変化もない。眼前に広がる光景も、自身に関わる物事にも変化さえない日常が続いていく。


 たった一人、名前だけしか知らなかった男が、この世から永遠に失われてしまった。それだけだ。あの男は、自分のことさえ知らないまま死んでいったのだろう。


「……僕だけが知っているばかりで、彼は僕の事など知りもしない」


 彼の口の中に、ぽつりと落ちた呟きが、雨を凌ぐために来店してきた多くの客の喧騒に埋もれた。


 昔、母がその男に出した条件は、たった一つだった。子が欲しいから、あなたの遺伝子だけをちょうだい、と勘で選んだ見知らぬ大人に声を掛けたらしい。


 当時、母は大学の卒業を控えていた身だった。そして、卒業後に子を産んだ。母から父親に関する情報はほとんどなく、そのせいもあって唯一教えられた名前だけが、頭にこびりついたというか。


 いつしか、心が大人びてくるに従って父親という存在に興味を失っていった。頭に刻まれていた男の名を、偶然にも新聞で見付けてしまったというだけだ。ただ、それだけの話なのだ。

 けれど彼は、じわじわと胸の底に積もっていくような、言いようのない喪失感の答えを探せずにいた。

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