第8話

 震える指でアイコンをスライドするとようやくバイブが止まり、静寂が戻った。

 代わりに、他に誰もいないはずの布団の中に、人の気配がふわりと漂う。


「何だよ、こんな夜中に」


 応対する小声が、ついとがってしまう。

 ほのかはそんな棘を花に変えるような、のんびりとした口調で答える。


「誰のせいで眠れなくなったと思ってるの」


「あんなの3杯も飲むヤツがおかしい」


「真凜もいっしょに飲んで眠れなくなってるくせに」


「今眠れそうなとこだったんだよ」


「それにしては声が眠そうじゃないけど」


 ほのかも家族が寝ているのを気にしているのだろう。

 いつものはきはきした声ではなく、吐息のような囁き声だ。耳をふーっと吹かれる感覚はないのに、ゾワゾワと鳥肌が立ってしまう。


 これと言った用事はないみたいだ。

 眠れない夜を眠れない者同士、どうにかやり過ごそうというだけだろう。

 電話で沈黙を共有するのは、思いのほか嫌じゃなかった。


 ほのかは「ねー、真凛」と、沈黙をかき消すのではなく、静寂に染みこんでいくような声で呼びかけてきた。

 んー、とこたえるわたしの声も、コーヒーから立ち上る湯気のように空気へと溶けこんだ。


「そう言えばさ、カフェの名前どうする?」


「それすら決めてなかったのか」


「だって書類には店名までは書くところなかったんだもん」


「だからって……ほんとに無計画だな」


 ほのかが有していたのは、わたしとカフェをやりたいという気持ちだけで、それ以降はすべてわたしが動かしてきた。

 だけど、ほのかのその初期衝動がなければ、わたしはコーヒーを練習したりメニューを開発したりしなかった。


 やっぱり、このカフェはほのかが作ったものだ。


「ほのかが決めなよ。わたしはコーヒー担当だし」


 ほのかはええー、とやわらかい声で言った。


「でもさ、ふたりでやるお店じゃん? せっかくだから、いっしょに考えようよ」


「決まってるものだと思ってたから、急にそう言われても……カフェの名前思いつくようなセンスなんてないし」


 ほのかはふむ、とつぶやき、少し黙りこんだ。


「まりんカフェ」


「海辺にありそう」


「ほのかカフェ」


「言いにいよね、それ」


「丹治珈琲。三保珈琲」


 丹治はわたし、三保はほのかの苗字だ。


「老舗感すごくて中途半端なもの出せないよ」


「えー、じゃあ何ならいいんだよー。文句ばっか言うなら真凛も考えろよー」


 ほのかの抗議の声とともに、がさごそと衣擦れの音も聞こえてくる。


「そんなこと言われても――」


 コーヒーのおかげで冴えた頭を、光が駆け抜けた。そんな気がした。


「丹治……三保、ほのか……」


 つぶやき、光のしっぽを追いかける。

 身を乗り出してくるように、ほのかの声が大きくなる。


「なになに、何か出てきそう?」


「たん、じ……みほ、ほ――」


「たんぽぽ!」


 ほのかにひらめきを奪い取られる。

 光の進む方向に先回りしていたかのように、あざやかな手口だった。


 ほのかはふふふ、と得意げに笑った。

 ほのかが顔をのぞきこんでくるときの、いたずらっぽい笑顔とセミロングの揺れ方が目に浮かぶ。


「たんぽぽ珈琲。たんぽぽはひらがな、珈琲は漢字……ね、真凛、よくない?」


「うん。可愛くて、そんなに本格的じゃなくても許されそうなゆるさがある」


 ほのかは「だめだめ」とぱきっとした声に戻って言った。


「目標は高く。本格淹れたて絶品コーヒーを出す三ツ星カフェなんだからね」


「おい、ハードル増やすな」


 ほのかはくすくすと、ほとんど吐息のような笑い声を上げた。



 わたしたちはいつしか眠りに就いていたみたいだ。

 気づいたときには朝になっており、布団の中にはまだほのかの気配があった。


 スマホを見ると、通話がつながった状態だった。かすかにほのかの寝息が聞こえてくる気がする。

 充電がもう少しで切れそうだ。まるで、わたしが起きるまで待っていてくれていたみたいだ。


 そっと通話を切る。

 画面に触れた指に伝わった熱が、機械的ではなく生きているように感じたのは気のせいだろうか。

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