第2話 呪いを受けた者

「ありがとうございましたー」

 兵庫県神戸市の小さなスーパーで店員がレジを打ち、おつりを渡した客に頭を下げる。見た目50前後に見えるその店員は、実は今年で97歳を迎えるなど誰に言っても信じないだろう。


 神ノ山 登紀かみのやま とき


 今から20年前、77歳だった彼女はその誕生日から、その肉体が時を遡って若返っていくという”呪い”を受けていた。当時、診断を受けた大学病院の医師に渡された封筒には、診断カルテと共に彼の手紙がしたためられていた。


 登紀の細胞は、まるでTVのスポーツ中継のコマ送りスローを巻き戻すように、1秒ごとに若返った姿に”置き換えられて”いた。いわば登紀は1秒ごとに、1秒前の若さの体に作り替えられていた・・・・・・・・・のだ。

 だから包丁で体を切っても、ペンチで指を潰しても、それは1秒で消え失せていた。彼女の体の1秒前には、そんな傷も痛みも存在しなかったのだから。針を体に差し込んでも、1秒前にはその体内に針など入っていないのだから、当然のようにその針先は彼女の体の中で消失していた。


 だが彼女は食事も排泄も普通に出来ていたし、記憶は途切れずに蓄積され続けていた。それを見透かすように、その疑問に対するカルテもちゃんと同封されていた。

 カルテによると口から肛門まではいわゆる”体の外側”扱いされる個所らしい。例えとして山を貫くトンネルを例に出されていた、山の外気に触れる部分を外側、土の中を山の内側とするならトンネルは確かに外側に分類されるだろう。そのトンネルに当たるのが、口内から食道~胃腸~肛門だということだ。

 脳の方は元々記憶の容量が並外れて多く、一度の人生では使い切れないほどに記録する事が出来る。彼女が脳の思考を積み重ね続けることが出来るのはおそらくそのせいだろうと、意志や記憶だけは時を遡る呪いを受けていないのだろうと・・・・・・


 そこから先は黒いマジックで大きく、乱雑に塗りつぶされていた。優秀な医師である彼があろうことか”呪い”などという非科学的な事柄をカルテに書かねばならないという苦悩がありありと見て取れた。


 同封されていた手紙には”私には、否、現代医学では手に負えない、どうかもう二度と来ないで欲しい”という内容の文書が強い筆圧で記されていた。無理も無い事だった、彼は日本有数の優れた医師である。その彼が”呪い”などというものを認めたなどと知られれば、その地位は一気に失墜するだろうから。


 彼女が地元の坂野町で居られたのは10年だった。87歳を迎えて67歳の風貌に若返った人物を不気味がらない者などいるはずも無いのだから。

 事情を知る唯一の身内、次男の孝道に協力してもらい、彼女は転々と住む場所や仕事を変えていった。孝道が役場勤務なので無理を言って戸籍を改ざん、偽装してもらって別人に成り代わりつつ各地を転々とする事で、自分の呪いを隠して生き続け、若返り続けていた。



 そして20年。この地神戸で、彼女は裏部今日子という偽名で日々を過ごしていた。己の体が日一日と若さを取り戻しているのは幸運なはずなのだが、とてもそんな気分にはなれない。


 誰も、自分と同じ時間の流れを歩めない。自分だけが全ての人々と逆の方向に歩いている。


 登紀の同年代の友人たちはもうみんな天に召された。息子達が自分の肉体年齢を追い抜き、自分より年寄りになってしまった、腕白だった孫も、生まれたばかりだったひ孫も、もう立派な大人になっただろう。

 そう、人は成長し、そしてやがては老いる。それこそが正しい人生であり、それを遡る登紀は明らかに異端であり、そしてそれを誰にも理解して貰えない。


 ――孤独――


 それが時を遡る呪いを受けた自分の、何よりつらい負債。



「お先に失礼します」

「裏部さんお先にー」

 勤務を終え、事務所の片づけをしている登紀の横で、アルバイトの少年と少女がタイムカードを押した後、笑顔で彼女に挨拶して出て行った。あの二人はこの職場で知り合って恋仲になり、今はアツアツのカップルだ。この後もおそらくデートなのだろう。

 ええねぇ、と息をつく。登紀にもかつて青春時代はあった、だかその時代は恋愛結婚など望むべくもなく、ましてや一家の末娘であった彼女はやや雑に見合い結婚させられていた。夫となった神ノ山晴樹はるきは気性こそ荒かったが、それでも登紀に愛情も与えてはくれていた。でもそれは今の時代に比べると淡い恋心、今風に言うトキメキというものとは縁遠いものでしか無かった、そういう時代だったのだ。


 勤務を終えアパートに向かう。徳島に比べて遥かに都会のこの地で、人と人との付き合いは逆に希薄な物であったため、一人暮らしの初老の女を気に止める物など誰も居ない、そういう意味でもこの地が居心地が良かった。誰も自分の呪いに気付かない、自分を気味悪がらないのだから。


 町並みにはネオンが灯り、流行りの不良なめ猫のグッズが並んだ店先にツッパリソングが流れている。妙なモンが流行るんやねぇ、とため息をつきながら登紀は思う。男子も女子も真面目で誠実が一番と思う自分はやっぱり古い人間なのだろうか・・・・・・いやいや、そんな事はないだろう。あのアルバイトのカップル、三木誠二君と掛川理子ちゃんはどっちも真面目で身だしなみもキチンとしていて微笑ましい。そこらの不良のカップルなんかではあの初々しさは絶対に出ないだろう。


 そんな事をぼんやり考えながら歩いていたからだろうか、気のせいか向こうの路地から理子ちゃんの声が聞こえた気がした。あんな人気のない所から?と気になってそこに足を向けてみる。


 そこに着いた時、私は目を見張った。


 理子ちゃんが不良ご用達の学ランを着た連中に囲まれて、両手を後ろからバンザイ状態に押さえつけられている。叩かれた痕だろうか、両頬が赤く熱を持って、その目からは涙がにじんでいる。そして向かいのゴミ箱の際で一人の少年が横倒しにされて別の不良に頭を踏まれていた、倒れているのは・・・・・・誠二君!


「なんしょんな!あんたらぁっ!!」

 手に持ったバッグを壁にバン!とぶつけて怒鳴りいがりすえる。どういう状況でこうなったのかはもう明らかだ、このヤンキー共がふたりに因縁をつけて誠二君をリンチして、理子ちゃんを手籠めにしようとしているのだろう。


 ああもう!これだから不良を称賛するような歌や文化なんて流行らすもんじゃない!!

 

「ンだぁ、るっせーよダボババア」

 誠二君の頭を踏んでいた不良、リーゼントにグラサンにタバコの馬鹿3点セットを備えた長身の男がこちらを見てそう吐く。

「う、裏部さん・・・・・・逃げて下さい!この人たち、このへんじゃ有名な不良で・・・・・・」

 自分に気付いた理子ちゃんが涙声でそう叫ぶ。確かに何人かは高校生離れした体格で、腕っぷしの強さが見て取れる。そんな連中を相手に誠二君は――


「よう頑張ったねぇ、かっこええわ」

 あからさまに不良共を無視して誠二君を助け起こす。目の周りには青あざが浮き、頬は腫れ上がって鼻血が見える。華奢なこの子が彼女を守るためにどれだけ頑張ったか、ホンマ偉いわ。


「無視すんなや、このダボ!」

 腹部に強烈な衝撃が走る!際にいたこの不良バカは何のためらいもなく私のお腹をまともに蹴りつけたのだ。吹き飛んだ私に聞こえたのは不良共の下品な笑い声・・・・・・本当にもう!


「裏部さぁんっ!」

「あああ・・・・・・っ!」

 理子ちゃんが悲鳴を、誠二君が絶望の声を上げる。大丈夫、心配せんでええけん。


 私を蹴っ飛ばした不良、多分リーダーであろう男が理子ちゃんの前に立つと、そのアゴをくいっ、と撫で上げる。なかなかのマブじゃねぇか、などと言ってタバコを吐き捨てると、その口を理子ちゃんの口に近づけ・・・・・・


「汚い顔を・・・・・・」

 不良のリーゼントを鷲掴みにして。

「その子に近づけんっ!」

 そのまま全体重をかけ、髪の毛を引っ張ってバカを背中から地面に引き倒し、叩きつけた!


「・・・・・え?」

 理子ちゃんや誠二君を含む全員が目を丸くして固まっていた。無理もない、さっき私はこの体格のいい不良にまともに蹴りを食らって吹き飛んだ。その直後にまさかこうも平然と、しかも不良にお返しをするなど誰も想像していなかっただろう。


「こんの・・・・・・ババァがぁっ!」

 血管を浮かび上がらせて立ち上がったバカが一歩、私の方に踏み出してそう叫ぶと、ふと躊躇った後に胸ポケットに手を突っ込み、中から小さな木の鞘に収まった小刀を取り出す。それをすらっ、と抜いて銀色の刃をこちらに向けると、その顔をにやぁっ、と歪める。

「出た、ショウさん必殺のドス!」

「あーあ、ばあさん死んだな」

「まぁハクが付くし、やったらええんちゃう?」


 取り巻き共の言う「ドス」という言葉で理解した。ああ、これはヤクザ者が使う小刀だ、という事はこの男はどこかの組のボンボンか、あるいはそちらにスカウトされているのだろう。道理でこんなひどい事を平然とやってのけるわけだ。


「ムカつくなぁババー、おどれは死刑確定やけんど、この二人も知り合いやろ?へへっ、こいつらもこれからもっとひどい目に合うぜぇ、おどれのせいでなぁ!」

 刃先を向けたまま、非道の極みな言葉を吐く不良。ああ、こいつは他人を困らせる術をよく理解している、芯から腐った、まさにヤクザや!


 無言で歩いて間を詰める、向けられた刃先が喉元に迫り、触れる。

「脅しやと思っとるんか?ほなハスったるわ・・・・・・」

「やったらええよ!」

 そのまま一歩進み、顔をこのバカの目の前に持っていく。喉元の刃がずぶりと首に突き刺さり、お返しとばかりに怒りの眼光をバカの目に叩き付ける!


 空気が固まった。


 自分から喉元の刃を首に突き刺した。そして次の瞬間、ドスは根元から先の刃をまるごと失った。


「え・・・・・・何、が?」

 眼光に押されるように男が一歩後ずさる。手にしたドス”だった”物を見て顔を強張らせる。

「どないしたん!わたしを死刑にするんやろ!!」

 さらに詰め寄る。狭い路地にて男はたちまち壁に追い詰められる、それが男の精神を逆に追い詰める。


「おっどれがぁっ!」

 老婆を殴り飛ばしたその男は、そのまま倒れた相手を踏みつける。固い靴のカカトで思い切り、容赦なく地面に叩き付ける。背中を、後頭部を、尻を、肩を、殺さんばかりの勢いで!


 だが相手の女性は止まらない。蹴られながらも気にする風でもなくゆっくりと上半身を起こすと、路地の傍らにあったレンガを手にして立ち上がる。

「な、なんだ・・・・・・コイツ?」

 ダメージが無い。殴った顔面も踏みつけた背中も、ドスを刺した喉元にさえ一滴の血、わずかなアザすら残っていない、この場に現れた時のキレイな体そのままで。


 ゴッ!ゴツゥッ!と音が響く。レンガを男の肩に、顔面に、脳天に叩き付ける音が。


 血しぶきが舞い、鎖骨がへし折れ、レンガがかすめた頬がぱっくりと斬れ、ガードする腕がひしゃげて嫌な音を立てる。そしてそれは元に戻ることなく不良の体にダメージとして刻まれ続けていく――


 2分の後、その場にいたのは血を浴びた服を纏った初老の女性と、体を折り畳んで悶絶する、この地域では名の通った不良だった・・・負け犬の姿。


 彼女はゆっくりと振り向き、理子とその周りにいた不良共の方に体を向け、べったりと血の付いたレンガを手にしたまま歩いていく。

「ひ、ひぃっ!」

「化け物だぁ!」

「ショウさんが、ウッソやろ!?」


 とたんに蜘蛛の子を散らすように路地に消えていく不良バカ共。


 私は残された理子ちゃんの肩を支えて優しく声をかける。

「えらい目に合うたなぁ、もういけるけんな、頑張ったなぁ」

「裏部、さん・・・・・・?」

 惨劇から目を伏せていたのだろう。彼女は全く無傷の自分を見て不思議そうな顔を向けていた。

「さ、誠二君を介抱したらんと」

 その言葉にあ、と反応して誠二の元に駆け寄る。倒れている彼を抱き起して、そのケガの惨状に思わず嗚咽を漏らす。


「誠二君、誠二君っ、誠二くんっ!!」

「大丈夫・・・・・・大丈夫やけん、泣かんといてや、可愛い顔が、台無しやけん」

 非力ながらも勇敢に戦った男の子、その彼を涙を流して心配する女の子、そして彼女を心配させまいと強がって笑顔を見せる男の子。


「えーねぇ、やっぱ男の子も女の子も、真面目なんが一番や」

 ふっと息をついて、この綺麗なカップルを心から称賛する。まるで心が洗われるかのように二人を見守る。この二人は絶対、幸せになる――


「裏部さん、裏部さんは・・・・・・大丈夫なんですか、その、確か、刺されて・・・・・・」

 ああ、誠二君は見ていたんやな。顔を青あざだらけにして、まだこんなおばさんを心配してくれとるわ。ここはひとつ気の利いた言葉でも言わんと。


「あれはな、手品や。凄いやろ?」






 徳島県坂野町。登紀の次男、彼女の秘密を唯一知る人物である神ノ山孝道が今、まさに臨終の際にあった。彼は息も絶え絶えの状態で、寄り添う息子、壮一に遺言を残す。


「壮一、その封筒をお前に預ける。いつかわしの母、登紀ばあちゃんか、その知り合いが訪ねて来たら、それを渡して――」

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