第6話 老女の忘れ物

グレイスがとめどなく涙を流すのを、勇太はなんと言葉を掛けたらいいのかわからず、黙って見ていることしか出来なかった。

やがてシャッターが開ききりキヨが戻ってきた。グレイスのただならぬ様子に息を呑んだあと、深く溜め息を吐いた。

おそらく、一番の古株だと言う彼女はこういった場面も何度も目にしていたのだろう。

「一緒に駅長のところに行きましょう」とグレイスに声を掛ける。


初めて足を踏み入れたそこは、思っていたよりずっと広かった。

勇太の背ほど高さのある棚が、ずらりと陳列にしている。

傘、新聞、書類や本、そして帽子や手袋にマフラー。何が入っているかわからない紙袋もある。

そこには、ここへ流れ着いたものの数だけ"誰かに忘れられたもの"が収納されていた。

キヨは奥へ進んでいき「駅長」と声を掛けた。

小さなぬいぐるみのキーホルダーを手に見つめていた駅長はゆっくりと振り返る。

「勇太が膝掛けを見つけた」と報告し、「あとグレイスの様子が何やらおかしい」と付け足す。

涙ぐんで膝掛けを握りしめるグレイスを一目見て何かを察したのか、駅長は「ふたりはもう上がっていい」と冷淡な声で言った。

そして打ってって変わった穏やかな口調でグレイスに語り掛ける。

「──それで、なんの用だ?」


◆ ◆ ◆


その晩、食堂車に集まった一同にグレイスはゆっくりとした口調で告げた。目の端には、まだ涙の赤い跡がある。

「キヨ、ユウタ。見つけてくれて本当にありがとう」

宝物のように、膝掛けを抱きしめる。

「どうやら、私は思い出せたみたい」と遠慮がちに微笑む。

ちぃは目を輝かせて身を乗り出し耳を傾けている。

「どうして忘れていたのかしらね。これは、私が夫に贈った膝掛けなの。彼の好きな色の端切れを集めて、丁寧に手縫いをして……。見て? こんなにボロボロになるまで使ってくれていたのね」

勇太は無意識に「旦那、さん」と呟いていた。

「ずっと病に伏せていて、私のことも忘れて『お手伝いさん』なんて呼んでいたの。きっとこの膝掛けがここに辿り着いたのも、本当に彼が私を忘れてしまった証だと思う」

目を伏せた後、グレイスは言葉を続けた。

「彼は私のことを忘れてしまった……けれど、これを見て私は私を思い出せたの」

キヨは、小さく溜め息を吐いた。

「もしかしたら、やっぱり夫は私のことなんてわからないかもしれない。それでもね、彼の側に帰りたいと思ったの。忘れられててもいい。きっと残り少ない命だろうけど、最期まで寄り添いたいの」

──沈黙を破ったのは、ちぃだった。

「グレイス、いなくなっちゃうの?」と、悲しげな声を上げる。

グレイスはちぃの頬を、皺だらけの手で包み、真っ直ぐな瞳で言った。

「貴方にもきっと、待ってくれている人がいる。だから、決して諦めないで?」

ちぃは彼女の言葉をわかっているのかいないのか怪しかったが「うん、約束する!」と無邪気に小指を差しだしていた。

「キヨ、貴女を残していくのが一番の気掛かりなの……。ユウタ、どうか力になってあげて?」

話の矛先を向けられた勇太は、首を縦に降った。その間も、キヨは唇を噛んで天井を見つめていた。

──改めてグレイスは全員に告げる。

「明日ね、駅長が『終わりの橋』に連れていってくれることになったの。

終わりの橋。すなわちそれはこことの別れを意味する。

「どうか皆の未来に祝福があるよう、願っているわ」

そしてグレイスは順に皆にハグをした。

「ありがとう。彼がもし死んでいたとしても、そして私の命が尽きていたとしても同じお墓に入れるだけで幸せなの」

グレイスの声が微かに震えているのは、別れを惜しむ気持ちと元の世界に戻れる幸せの両方だろう。

「今日、いっしょに寝てもいい?」

グレイスの袖を掴むちぃに、彼女は「もちろんよ」と頭を撫でる。


──翌朝、空には虹が架かっていた。

優しい笑みを浮かべてグレイスは去っていた。


◆ ◆ ◆


グレイスが去って、明らかに落ち込んでいたのはちぃだった。

無理もない。見た目は大学生だが、心は5歳ほどなのだ。

グレイスはちぃのことを孫のように可愛がっていたし、ちぃも彼女への信愛を露わにしていた。

冷たい言葉を吐きつつもキヨはその手を振りほどくことはしなかったし、賢い犬であるモモはこれまで以上にちぃの隣にいるようになった。

忘れ物の見回りは3人と一匹で巡っていたが、あれから特に何も届いていない。

毎日しょんぼりと全身で落胆を表して帰るちぃの姿は胸が痛む。

勇太に出来るのは、毎晩同じベッドで手を握って眠ることだけだった。

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