【閑話】アニオタの初恋《上》

 それは、まさしく「運命の出会い」だった。






 四年前。民族同士の紛争が絶えず繰り返されているアフリカの某国へ、師のえん封祈ふうきに連れて来られていた頃だった。


 常春とこはるは一人の女性とすれ違った。


 とても美しい女性だった。


 白っぽい金髪……プラチナの糸束のような美しい髪。

 深い海を思わせる紺碧色の瞳。未踏の雪原のような白皙はくせきの肌。人間離れした整い方をしたその美貌は、神々しく絢爛けんらんでありつつも、強い意思の気迫、清らかな気高さを強く感じさせた。

 無骨なコンバットパンツと黒いTシャツが描き出す、しなやかな腰つき。常春より頭ひとつ分近く高い背丈を誇る肢体は、細いようでいてどこかぎっしり筋肉が凝縮されているような感じがして、弱々しさがない。それでいて女性らしい曲線美。

 編み上げのブーツがしっかりと地を踏みしめて歩いており、重心に危なげが一切無い。その華やかな容姿も相まって、荒地に強く根を張って凜然と咲く一輪花を想起させた。


 ——胸が、甘く高鳴った。


 それは、伊勢志摩いせしま常春とこはるという「男」が抱いた、初めての恋心であった。


 一目惚れというやつだ。


 生まれて初めて抱く感情の扱いに、常春は戸惑った。


 しかし、今何もせずに去れば、二度と彼女に会えなくなる。


 戸惑いと焦りが、常春の背中を押した。


「——あのっ!」


 近づいて、声をかけた。


 振り向いた彼女の碧眼がこちらを捉えた瞬間、心音が早鐘を打ち、体が暑気以外の理由で暑くなった。喉が乾き、口の動きが悪くなった。


 しかし、常春は上ずった声で、告白した。


「——突然ですけど、あなたの事が好きになってしまいました! どうか僕と、お付き合いしてくれませんかっ!?」


 で、その意味の言葉を言った。


 彼女がピクリと反応を示したのは、そのうちのロシア語だった。


 ポカンと沈黙したが、しばらくして彼女が浮かべたのは——挑戦的な微笑だった。


「いいわよ。ただし——お坊っちゃんマルチク









 彼女は「エレーナ・ロゴフスカヤ」と名乗った。祖国……すなわちロシアでの愛称は「レーナ」。年齢は二十歳。常春の七歳上だ。


 驚くべきことに、彼女は『戈牙かがもの』だった。


 おそらく、彼女の遠縁または近縁に、戈牙者の遺伝子を持った日本人がいたのだろう。日露関係史を振り返れば、日本人がロシアへ入り込むことのできる余地はいくつか存在する。


 その「最強の血筋」に加え、武術の鍛錬もそれなりに積んでいるらしい彼女の腕前は、やはり普通ではなかった。


 わずか十三歳で、すでに師と肩を並べんばかりの実力を身につけつつあった常春は、久しく苦戦を強いられた。


 いや、むしろ「落とす手段」が武の腕前であったことは、初めて恋を知った常春にとっては幸運だったのかもしれなかった。もしも普通の恋愛なら、どうしていいか分からず傍観しているだけの時間を、別の男とくっつくのを見るまで続けていただろうから。


 二人とも、普通ではなかったから。似た者同士だったから。


 だからこそ、この運命は、掴み取らなければならぬと思った。


 そして、決死の思いで、


 レーナがうつ伏せに倒れ、常春がその背筋に膝を乗せて地面に縫い止めた状態。いつでも止めを刺せる体勢であった。——文句無しに常春の勝利である。


 けれども、常春の顔にはいくつも汗の滴が浮かんでいた。息も絶え絶えだ。


「これでっ……いいですかっ……? 僕のっ、勝ちで……!」


「…………ええ。あなたの勝ちよ。だからそろそろ……起こしてくれないかしら」


「あ、はいっ。今退きます」


 思わず飛び退くと、拘束から解放されたレーナはガバッと勢いよく立ち上がり、常春に急迫。


 常春の頭を両側から挟むように両手で押さえ、ぶつけるように唇を重ね合わせた。


 突然のキスに、頭の中が真っ白になる。レーナは唇をねちっこくねじ込み続ける。その舌は常春の口内を荒らすようにこねくり回す。互いの舌を絡み合わせる。


 しばらくして、唾液の糸を引きながら互いの唇が離れた。


 あまりの羞恥で脳が処理落ちした常春の目の前には、初めて恋を知った少女のようにはにかんだレーナの赤い顔。色白だから、その頬の紅潮はすぐに分かった。


「すごいじゃない! あたしを真っ向から組み伏せた男なんて、師匠ウチーテリ以外で初めてよ! 素敵!」


「あ、ありがとうございます……それで、僕と——」


「恋人になってあげる! ていうか、あたしからお願いしたいくらい! あなたに組み伏せられた時、その……ときめいちゃったの。でもこんな気持ち生まれて初めてで、それで……ああもう! とにかく好きよ!」


 最後の方をやけくそ気味に言い募ると、再び常春の唇へ自身の唇をぶつけた。……初恋が実ったことは嬉しく思うが、それ以上にレーナの勢いに押され、戸惑いが勝っていた。


 だが何か思い出したようで、レーナはキスを中断し、顔を離す。


「あ、そういえばあなたの名前はっ?」


「い、伊勢志摩常春、です。エレーナ、さん」


「トコハル! 常春ね! ちなみにあたしのことは「レーナ」って呼んで! 今日からあたし達、恋人同士よ!」


 そう言ったかと思うと、レーナはもう一回だけ頬にキスをしてから、常春の手を握った。


「それじゃ、早速デートに行きましょ!」 


「ええっ? いきなりですかっ? 僕、この辺詳しくないんですけど」


「あたしもよ! でもいいじゃない! 恋人同士楽しく遊べるなら無計画でも立派なデートよ! ……あ、ちなみに常春って歳いくつ?」


「十三ですけど」


「あたしは二十よ! よっしゃ、エレーナお姉さんが優しくエスコートしてあげる! さ、ついていらっしゃい!」


「ああっ、ちょっとっ?」


 繋いだ手に引っ張られるまま、常春は走らされた。






 ——こうして常春は、レーナと恋人同士となった。


 それはもう怒涛の勢いでだったが、それでも常春は天にも昇る心地だった。


 これから、このひとの隣で、自分はいろんな経験をする。


 どんな経験や艱難辛苦かんなんしんくでも、繋いだ手から伝わる彼女の温もりがあれば、なんだって乗り切れる。空だって飛べちゃいそうだった。


 レーナとの日々は、常春が生きてきた中で、最も輝かしい『日常』だった。




 ……それと同時に、生涯忘れられぬであろう、最も強烈な痛みをともなう『非日常』だった。

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