第21話

 肉を派手に焼いて満足したのか、ベロベロに酔った佐野さんは柏原さんの足を枕にしてソファで熟睡。


 自分の足から大きな寝息が聞こえ始めると、柏原さんはテレビを切ったので、佐野さんの寝息だけが広いリビングに響く空間が出来上がった。


 柏原さんは俺の肩をツンツンと突いて注目を集める。


 俺が柏原さんの方を向いたことを確認すると、いきなり手を伸ばして佐野さんの胸を鷲掴みにした。


「ちょ……何してるんですか!」


「おっほ……こりゃすげぇぞ!」


「やめてくださいって!」


 佐野さんは熟睡しているのか自分の置かれた状況にも気づかずに声一つ出さず寝入っている。


「人の足使って寝るやつが悪ぃんだよ。足貸してやってんだからこんくらい良いだろ」


「柏原さんをフランベしましょうか?」


 ブランデーの方に視線をやって柏原さんを脅すと、やっと佐野さんの胸から手を放した。


「わ、悪かったよ。放火殺人予告だぞ、それ」


「いくら寝てるからってやっていいことと悪いことがあるじゃないですか……」


「チェックだよ。こんだけ寝てりゃな。私達がここで何を話しても聞いちゃいねぇだろうな」


「何の話ですか?」


「大学、どうすんだ? 来年度に復学しなかったら強制退学なんだろ?」


 柏原さんはグラスに浮いた氷を指でツンツンと押しては浮かせを繰り返しながら尋ねる。乗り気ではない話をしているときの癖だ。


「もう一年は余裕ありますよ」


 俺が大学に行かなくなって一年半と少しが経っている。最初の半年は休学ではなく単にサボっていただけ。休学はマックスで2年まで出来るのであと一年は猶予がある。


「そりゃそうだけど……じゃあもう一年休んだらいけんのか?」


 大学に行かなくなった理由はよく覚えていない。ただただ行きたくなかった。それが徐々にカビのようにジワジワと心のなかで広がっていた。


 それでも無理矢理キャンパスに足を運んでいたが、ある日、出席が必須の科目をサボってしまった。その科目に出ることが自分の中での最後の防衛ラインだったようで、俺は翌日から大学に行かなくなってしまった。


 それからダラダラと過ごして現在に至る。


「どうでしょうね……どうしたんですか? 普段はそんな話をしないじゃないですか」


「いやぁ……よくよく考えたらさ、私って今年でいなくなんだわ。論文もあるしこうやってケツ叩けるタイミングもあんまないからさ」


「あ……そうでしたね。就職先って博物館でしたっけ?」


「美術館だけど、ま、概ね合ってるよ」


「絵の紹介とかするんですか?」


「それがさぁ、年明けから施設の改修工事が始まんだとよ。新人研修の場所もねぇから私の勤務先は倉庫みたいなとこらしいんだわ」


「それは大変ですね……」


「ま、有期雇用じゃない正規の職員になれる枠って貴重だからな。そんなに選べる立場じゃないんだわ。文化芸術の保全にゃ金がかかるけど、肝心の金はない、と」


「へぇ……」


 そこで柏原さんは氷で薄まった酒につけていた指を引き抜く。


「いやまぁ……そんな話がしたいわけじゃねぇんだよ。叔父さんが気まぐれでここを貸してくれてっけど、それだって永久じゃないだろ? 事業に失敗して金が必要になったらここを売るかもしれないし、そうじゃなくても一生このままは無理だろ」


「それはそうですけど……」


「ま、お節介だってのは分かってるよ。けど心配でさ」


「あ……ありがとうございます」


「まぁ……その、なんだ。佐野ちゃんも訳ありなんだろ?」


「なんで……なんでそう思うんですか?」


 柏原さんは親切で、俺のことを心配しているからこの話を始めたのだとわかる。


 でも、佐野さんは関係ないじゃないか。単に仕事に疲れてここにいるだけ。ゆっくりしたらまたたくさんの人を笑顔にするために仕事へ戻っていくのだから。


 まるで傷のなめ合いをしているとでも言いたげに思えてしまった。つい目に力が入って目つきが鋭くなったし、声も強めに出てしまう。


「いや……悪かったよ。でも佐野ちゃんって何してる人なのか分かんないだろ? 家の場所はいいとこ住んでんなーって感じだったけど、仕事もはぐらかされたしよぉ」


 全力で酔っ払っていた佐野さんは自宅マンションがある場所の緯度と経度、メインバンクの口座番号と暗証番号まで教えてくれるくらいに何でもあけすけに話していたが、それでも仕事の話だけはのらりくらりとかわしていた。


 それを柏原さんは不審に思っていたらしい。


 俺にしか聞こえない時は炎上がどうとか言っていたのに不思議な人だとは思う。何を隠したくて何を隠したくないのか良く分からない人だ。


 それでも、佐野さんが変な人だとは微塵も思わない。単に身バレをしたくないから仕事のことを隠しているだけの人だ。


「この人は……大丈夫です。このマンション、そんな変な人は入ってこられないですよ」


「そりゃそうだけど……」


「柏原さんが俺のことを心配してくれてるのは分かります。だけど大丈夫です。大学だってやめてもなんとかなりますって」


 柏原さんはじっと俺の目を見てくる。最初に出会った時、この人と話した話題がなんだったのか、それがどこだったのかは忘れてしまった。


 気づけば学校で見かけるたびに絡んでくるようになったし、気づけば俺の部屋でサシ飲みをするようになったし、気づけば合鍵を作って俺の部屋に出入りするようになってたし、気づけば一人にならないよう側にいてくれた。


 だから、この人が悪意を持ってこんなことを言っている訳じゃないと分かる。だけど、どうしても素直に、これから復学するための具体的なプランもその気もないのだと言い出せない。


 柏原さんは小さく頷くと佐野さんを起こさないように自分の足から退かせる。


 もう一度俺の方を向くと柏原さんは俺を正面から抱きしめてきた。


 それは友愛を表現するためのハグというより、蛇が獲物を締め上げるような力強さがある。


「いっ……痛いですよっ……」


「重たいよなぁ……人間ってさ」


「なっ……何ですか、急に」


「人を支えるってさ、簡単に言うけど結構重たいんだよ。でさ、軽い気持ちでちょっとでも持ち上げたら今度は落とせなくなるんだ。それも重たいほど気を使う。雑に落とすとダメージが大きいだろ? だから、一度持ち上げたら軟着陸するにも力がいる。大変だよなぁ……」


 柏原さんはボソボソと俺の耳元で囁く。


「なっ……何の話ですか?」


「何でも。ベッド借りるわ」


 柏原さんはそう言うと俺から離れて寝室の方へ行ってしまう。そこが塞がれると俺の寝る場所が無くなるんだけど。


「佐藤くーん。なんて顔をしてるんだい?」


 佐野さんが起きたようだ。いつから起きていたのか分からないが、目をこすっているのでそんなに時間は経っていないのだろう。


「あ……起きてたんですか?」


「今しがたね」


 そう言うと佐野さんはソファに寝そべったまま這って俺の方へ近寄ってくる。


 そのまま俺の膝に頭を載せて天井を向いた。髪の毛が乱れているが、それでも可愛いと思えてしまう。


「佐藤君、キミは重たくなんかないよ。むしろ羽毛のように軽いんじゃないかな」


「聞いてたんですね……」


「そこだけだよ」


 佐野さんはそう言って俺の手を取ると自分の頭に載せる。


「ふぅ……落ち着くなぁ……あ、佐藤君、ボクの仕事はね――むぐっ!」


 咄嗟に佐野さんの頭を撫でさせられていた手を動かして佐野さんの口を塞ぐ。


 この人、意外と前から起きていたんじゃないだろうか。


「聞いてたんじゃないですか……でも言わなくていいですよ。佐野さんは佐野さんですから。余計なことを考えずにゆっくり休んでください」


「そうかい? ボクはもう元気になって来た気がするよ。明日から仕事に復帰しても良いんじゃないかな、ってね」


「絶対に後悔しますよそれ……」


「冗談だよ。もうしばらくはここに居たいからね」


 佐野さんは俺の顔を見ながらウィンクをする。この人が居たいと思っている場所の分解能が気になってしまう。この街なのか、このマンションなのか、隣の部屋なのか、この部屋なのか。


 聞いたら教えてくれるかもしれないけど、聞くのは怖いので聞かない。代わりに別のことを尋ねる。


「あっ……明日は何をしますか?」


 佐野さんは俺から視線をそらして考える素振りを見せる。


「そうだねぇ……キミをダメ人間にしちゃおうかな?」


 佐野さんはニカッと笑ってそう言った。


 それが冗談だと分かる余裕があるからなのか、今の自分も駄目じゃないと肯定して貰えたような気分になったからなのか、佐野さんの事はまるでダメ人間とは思えず、とても頼もしく思えてしまうのだった。

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