深夜0時の司書見習い

近江泉美/メディアワークス文庫

『深夜0時の司書見習い』特別書き下ろしエピソード

『深夜0時の司書見習い』特別書き下ろしエピソード/『走れメロス』 編(1)

※※本エピソードは、発売中の『深夜0時の司書見習い』(メディアワークス文庫)とあわせて読むとより一層楽しめます。※※


          1



 歩調に合わせ、ゆるく編んだ三つ編みが弾む。


 廊下を行く少女は腕いっぱいに書籍を抱え、覗き込むようにして背表紙のシールを確認した。



「えっと、9は文学、4は自然科学……だっけ?」



 返却手続きを終えた本を棚に戻す作業は骨が折れる。図書の分類方法や所定位置を把握していなければなおさらだ。


 美原みはらアンは高校一年生、生まれも育ちも東京で書籍と無縁の生活を送ってきた。ところが十日ほど前、その暮らしは一変した。父の勧めで夏休みを利用して札幌のとある家に二週間ほどホームステイすることになったのだが、肝心のホームステイの話が伝わっていなかったのだ。どうにか説得して泊めてもらったものの……。


 そこからは驚きと衝撃の連続だ。目が回るような慌ただしい日々を過ごし少しだけ成長したアンだが、初めてここを訪れたときの驚きと感動は変わらず眼前にある。


 目線を上げると、白亜の廊下に深紅の絨毯がまっすぐ延びていた。


 アーチ状の仕切りに支えられた高い天井には卵形のペンダントライトが煌めき、廊下の左右にずらりと大扉が並ぶ。圧巻なのは二階へ続く大階段だ。絨毯の敷き詰められたそれは末広がりの優美な曲線を持ち、踊り場を挟んで左右に分岐する。


 いまにも豪奢なドレスを纏ったお姫様が下りてきそうな風情だ。

 

 うっとりして吐息を漏らし、アンは我に返る。



「本、戻さなくちゃ」


 書籍を抱え直し、廊下を急いだ。



 ここは〈図書屋敷〉。


 北海道は札幌、山鼻と呼ばれる歴史ある地区に立つ日本最北の私立図書館だ。

正式名称を〈モミの木文庫〉というが、百年以上前に建てられた擬西洋建築の外観から図書屋敷の愛称で親しまれている。


 どの部屋にも大きく重厚な本棚が並び、書籍がぎっしり詰まっている。歩くとギシギシと鳴る床。レトロな調度品。どこもかしこも古ぼけて時代に忘れられたかのようだ。


 利用者がいない、おんぼろ図書館。屋敷に来たばかりの頃はそんなふうに感じ、一秒でも早く東京に帰りたくてしかたなかった。そのはずが、いつの間にか図書屋敷とここに暮らす人のことが大好きになっている自分がいる。


 古い紙とインクの匂いにアンの頬が緩んだ。ここにあるどの本もかつて誰かが手にし、読書を楽しんだのだと思うと心が温かくなる。



「キャー! 出たああ!」



 アンが返却された最後の一冊を棚に戻したとき、廊下から悲鳴が響いた。何事かとドア口を見ると、中年の女性が大慌てで逃げていくところだった。まもなく、ぽてぽてと足音がして廊下にぽっちゃりしたペルシャ猫が現れた。


 ジンジャーオレンジの長い毛に短い脚。潰れた鼻に眠そうな目つきは体型とあいまってなんともいえない愛嬌がある。



「なんだ、〈ワガハイ〉か」



 屋敷ではネズミから書籍を守るため七匹の猫が飼われている。ワガハイもその一匹で館内を自由に歩き回っている。先程の女性は猫アレルギーか動物嫌いだったのだろう。


 アンは戸口にかがみ、ワガハイに手を伸ばした。



「追いかけちゃだめだよ、お客さんなんだか――」



 そのとき、巨大な影がぬうっとアンに落ちた。


 顔を上げてぎょっとした。


 見上げるほど背の高い青年が廊下の壁にはりつくようにして立っている。


 きつめに整った顔立ちは精悍さよりも厳めしさが先に立つ。鋭い三白眼と細身で骨っぽい体格は痩せた狼を思わせた。



「セージさん! もう、おどかさないでください!」


「……………………悪い」



 地の底から響くような暗い声で青年が謝る。


 もみ青爾せいじはアンがホームステイする家の家主であり、図書屋敷の館長だ。二十代半ばの強面の青年は口下手なために怖がられがちだ。



「…………さっきも、来館者に逃げられた」


「あー。笑顔であいさつしたらそんなにびっくりされないかも?」



 提案してみてすぐに後悔した。


 セージが薄く笑うと三白眼が底光りしてますます悪人面になる。


 ワガハイが「ケッ」と小ばかにしたように喉を鳴らし、その場を離れていく。セージは真顔に戻り、少ししゅんとした様子で呟いた。



「もとが怖いと、笑っても怖い」


「……すみません」


「いいんだ。それより、君を探してた」



 アンは目を瞬いた。


 考えてみれば日中に青年が館内にいるのは珍しい。セージは海外市場で株取引をしており、昼夜逆転した生活を送っている。アンに会うためにわざわざ出てきたのだろう。



「なんでしょう?」


「じつは――」


「うるさいな、いつまでくっちゃべってんだよ」



 不意の声は室内からだ。


 しかし図書室には誰もいない。そのとき、六人掛けの大きな学習テーブルの陰から若い男性が顔を覗かせた。会社員風でワイシャツにネクタイを締めている。椅子を一列に並べてベッド代わりにしていたようだ。


 物陰で気づかなかった。そもそも平日の日中に勤め人が寝ているとは思わない。


 アンと目が合うとスーツの男性はすっと眼差しを険しくした。



「いま仕事サボってるって思っただろ」


「そ、そんなことは」


「まあ、サボりだけどな」



 あっさりと認め、男性は頭の後ろで手を組んでごろんと横になった。


 あれ、この人?


 どこかで見た顔だ。愛想の良さそうな狐目と皮肉まじりの話し方。



「あっ、不動産の!」



 記憶が繋がった瞬間、思わず声が出た。


 図書屋敷に立ち退きを迫っていた不動産会社の社員だ。セージだけでなく従業員に詰め寄って高圧的に接する姿は忘れようにも忘れられない。


 狐目の男性は椅子に寝そべったまま答えた。



「そーだよ、その不動産のお兄さんだよ。ぴーぴーうるさいな」


「図書屋敷になんのご用ですか? 立ち退きの話は解決してますよね」


「ただのサボりだって。だるいから外回りって言って抜けてきたの」



 そう言って、はあーあ、と聞こえよがしのため息が続く。



「最近モチベ上がらないんだよな。あと一歩で大口の契約取れたのにどっかのアホが急に意見変えて。俺の努力も商業施設誘致の計画もパー。全部むだにしといて、ここはあいかわらずしょっぱい商売してんなあ。しかもちんちくりんの子どもが増えてるし」


「ちんちくりん!?」


「お前のことな。いいよなあ、子どもには夏休みがあって。ワンマン社長も話のわからない客もいない。鼻水たらして走ってりゃいいもんな」



 鼻水たらして走ったりしない!


 信じられない大人の態度に怒りを覚えたとき、アンの隣から静かな声が響いた。



高見たかみ



 セージは窘めるように男性に言い、視線をアンに向けた。



「やさぐれた大人の相手はしなくていい」


「おい聞こえてるぞ」



 高見と呼ばれた男が批難するがセージは相手にしなかった。



「さっきの話だが、気をつけてほしいことがある。――本が騒がしい」



 その一言でアンははっとした。


 セージが無言でうなずく。答えはそれで充分だ。


 アンは会釈をしてその場を離れ、急いで館内を見回った。整然と並ぶ書籍の群れ。すっきりと片付いたテーブル席。屋敷は穏やかな空気に包まれ、これといって変わった様子はない。しかし。


 本が騒がしい。



「セージさんが言うなら間違いない。あちら側でなにかあったんだ」


 時代と共に忘れ去られた古ぼけた私立図書館。だが、図書屋敷には秘密がある。


 とても不思議で、危険な秘密だ。


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