第34話 セカンド・メルト ヘクセンシュスを添えて

 時が止まったかと思った。


 だが、唇をやわやわと押す柔らく温かい感触が、時の流れを教えてくれる。

 五分にも、十分にも……それこそ無限にも思える時間が経ち、比良さんの顔がゆっくりと目の前から離れていく。


 桃色に頬を上気させて、とろけた眼で彼女は言った。


「作っちゃったね、既成事実」


 その台詞にオレはハッとして夢心地に砕けかけた腰を浮かし、


「私も、やるね」


 下から現れた七海さんに押さえつけられ、避ける間もなく再び口づけを受けた。


 かつて感じたこと無い感覚に脳みそがゆだっている。


 二連続のキスで意識に霞がかかっていく。

 ……と、隙間を割って口内に侵入してきた舌にパニックで意識が覚醒した。


 奇跡的な動きで七海さんから口を離す。


「な、な、なにを……ッ!?」


 受けた衝撃を言語で表現したいところであったが、何にも言葉にならなかった。かすれた音がこぼれ出る。

 オレの様子に対し、七海さんは小首を傾げるのみ。


「違った? 昔に観たドラマだと、キスの時には舌を入れてたんだけど」

「なぎさ、それはディープなやつだよ。えっちな気分の時にするやつ、たぶん」

「そっか……場所が悪かったみたいだね。今度はちゃんと考えよ」

「そっか……ではなく! どっ、どう、どぅえっ!?」


 ようやく口から言葉が発声されるようになった。


 オレの鳴き声から意味を読み取った比良さんがうっとりと告げる。


「これでさ、あたしが本気だってこと、信じてもらえた? はるかが自分のことをどう思っていようが、そんなのあたしの気持ちに関係ないもんね」


「私にしても、遙くんがしてくれたことが無くなるわけじゃないし。何を問題だと考えてるのか、未だによく分からないんだけど……既成事実? があれば、私の言葉にも少しくらいは真実味が出た、かな?」


 七海さんもまた声音の裏に「真実味が出るまで何度でもやる」という圧を忍ばせている。


 つ、強い……!

 押しが強い!


 散々感情を揺さぶられた後に来た快感を伴う初めての行為。

 そしてダメ押し。


 すでに限界ギリギリだった精神はついに閾値を迎え、オレは心の芯がポッキリと折れる音を聞いた。

 はぁ、と息を漏らし、くたりと力の抜けた身体で言う。


「分かった……オレが何を言っても意味ないことは分かったよ」


 因果応報。

 七海さんのお父さんもこんな気持ちだったのだろうか。負けた感に打ちのめされながら思う。


「はるかがほんとーに、心の底から嫌なら、そういうことはしないってば」

「……嫌じゃないから困ってるんだろ」


 嫌いな相手だったら、こんなに悩まないって!


 どちらかと言えば好きな方の相手だから分かられたくないのに。

 心の内を白状させられて、今度は別の意味でも恥ずかしくなってくる。


 オレはごまかすように、大きな声を上げた。


「ええい! それで!? オレに二人は何を求めてるんだ?! ありがたいことに二人はオレを好きだって言ってくれるけど、二人と同時に付き合うなんてことは出来ないからな!」


 二股をかけて平気でいられるほどオレは器用な性格をしていないし、そう、それに何よりスキャンダルの大元になる。

 モデルという仕事はアイドルほど恋人の有無にうるさくないが、それでも二股は醜聞になりかねない。


 かと言って、ここでどちらかを選べと言われても難しい。この難題を解ける男は、少なくとも個室の中にいない。


 七海さんはオレの問いにさらりと答えた。


「今は特にそこまでは求めないよ。昨日もお願いしたけれど、とりあえずは名前で呼んでほしいかな」

「あたしの名前も呼んで呼んで! それとねえ、あたしはも一個お願いしてもいい?」

「内容による」


 比良さんはゆっくりと手をオレの目元……眼鏡のフレームに触れる。


「これさ、伊達メガネだよね? これをあたしにくれないかなあ。もちろん代わりにはるかには新しいの、あたしが買うから!」


 それぐらいなら別に……。

 そんなに高価なものではないし、結構長いこと使っていて傷もある。新しいのを買ってくれるなら、譲ってしまってもいい。


「でも伊達メガネが欲しいだけなら、オレが買ったとこ教えてあげるから新しいのは自分で使ったら?」

「はるかが使ってたやつがほしいの!」


 フレームは太く、レンズも分厚くて比良さんには合わない気がするけど。


「そこまで言うなら……」


 外した伊達メガネを渡すと、早速比良さんは弦の感触を確かめてからスチャリと装着した。

 丸みのあるフレームだったおかげか、思ったよりも知的に似合っている。本を積み重ねて廊下を歩いていそう。


「どう? どうかな?」

「えーっと、似合ってると思うよ」

「やたっ!」


 比良さんが喜んで小躍りしている姿を見ていると、横から肩を叩かれる。

 振り向くと、七海さんの真顔がすぐにあった。


「私は、遙くんが使ってるペティナイフを交換したい」

「そんなの使ってないけど!?」


 そのナイフ何!?


「んん……じゃあ、制服なら交換できる?」

「出来んわ!」

「わがままな……それならワイシャツを」

「なぎさ、なぎさ。服の交換はまた今度に取っておいて」


 服の交換なんてしないって!

 ……いや、家に溢れかえってる古着を譲ることはあるか……?


 七海さんは至極残念そうに肩を落とす。


「私も奏ちゃんみたいに遙くんと交換したい」

「はるかの伊達メガネはあたしが選ぶし、その時にはるかがなぎさに伊達メガネを選んであげるのはどう? それをなぎさが気に入ったら自分のお金で買ってもらって」

「七海さんのメガネを選ぶくらいならいくらでも……ってオレのは比良さんが選ぶの?」


 言葉を発した瞬間、二人からじとりとした視線が飛んだ。


「凪沙」

「かなで」


 自身の名前を告げて、はいどうぞと促される。七海さんを指差す比良さん。


「……凪沙、さん」


 次いで、七海さんが揃えた指先で比良さんを示す。


「奏……、さん」


 オレの呼び掛けに二人は満足げに頷き、それから言った。


「練習が必要だね」

「マイクもあるからちょうどいいよ」


 マイクを持たされたオレはカラオケのフリータイムが終わるまで監視のもと、「奏ッ!」「凪沙ッ!」とシャウトの練習をさせられた。


 名前を呼ぶ恥ずかしさこそなくなったが……、これは普通のことなのか?

 浮かんだ疑問が消えることはなかった。

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